第四話 異世界へ
ガラスのポットには既にお湯が入っていて、蓋が曇っている。ミラが瓶を一つ空け、馥郁たる香りが辺りを立ち込める。瓶の中身の茶葉を計量スプーンで計りポットに入れると、中には紅茶という割には黄色や緑に近い色が広がって行った。
「あ、この香りってカモミールですか?」
「はい。あたりです。お二人には訳の分からない事が起こっていると思ったので、リラックスできる香りのカモミールティーにしました」
舞は香りだけで茶葉の種類を当てると、その香りを堪能する為に早速席に着いた。一方理はカモミールはどんな花だったかを思い出そうとしていたが、結局は思い出せず、舞につられるように席に着いた。
「少し蒸らすので待っていてくださいね。それじゃあ早速お話を始めましょうか」
ミラはそう言うと席に着き、先程とは別の瓶を開けるとその中にあったチョコチップ入りのクッキーを一つ取り、二人に勧めた。
「まず、舞さん、理さん。すみませんでした。私が代表となり謝罪させてもらいます」
舞は既にクッキーに噛り付きおいしいと呟いた後で止まり、理は瓶に手を伸ばしたところで止まる。二人には仮にも神であるミラが頭を下げることなど、考えられなかった。
「まず舞さん。あなたは魔法陣によって選ばれたのです」
「魔法陣……ですか?」
舞がおうむ返しに聞く。その非現実的な代物の実態がどうしてもわからなかった。
「ここに来る前に足元に光の輪のようなものを見ませんでしたか? それはあなたを選んだ魔法陣の一部です」
舞はクッキーを両手に握りしめたまま眉を寄せる。必死になって思い出そうとしているのか、しばらくそうした後に理の方を見た。
「そうですか。覚えていませんか。……そこのアホの所為で、ですか」
ミラの言葉に今度は理が首をかしげる。彼には今ミラが言ったアホがどうにも自分の事を指している気がしてならなかった。しかし、そんなことをまだ舞は言っていない。
「私、こいつのことをアホと口に出して言いましたか?」
少なくとも舞は心の中では理のことをアホと呼んでいたが、口からこぼしてしまってはいない。しかし、既にこいつと呼んでいるのが心象の悪さを物語っている。
「あ、すみません。今の私は事を確実に、かつ慎重に運ぶためにお二人の心の中が分かるようになっています。事後承諾になってしまって本当にすみません。けれど必要な事だったんです」
ミラは何度も頭を下げた後に、思い出したのかポットに手を伸ばし網で茶葉を防ぎながら、それぞれのカップに配り始めた。その瞬間、さっきほどよりもはっきりとカモミールの華やかで、少しスッとした香りが広がった。
「そうですか。理解はできませんけど、わかりました。私は駅の階段でこのアホが突っ込んできたせいで、後ろから落ちて気が付いたらここに。なので足元は見れていないんです」
ミラに対して敬語は使っているが、目はカモミールティーに釘付けだった。おまけに理のことを心の中でアホと呼んでいたのを隠すのはやめてしまった。理は砂糖をカップに入れようとしていたが、ミラに蓋を抑えて止められてしまう。ミラはせめて一口目はそのままの味と香りを楽しんでもらいたかった。
「それはしかたないですね。舞さんはその魔法陣に選ばれたんです。どんな基準で選んでいるのか具体的には私には知らされていませんが、勇者としての素質を見咎められたのです」
「勇者ってなんですか?」
舞は自分の事だから、クッキーを齧りつつも、積極的に質問して行った。
「人々の願いを一身に受け止めることが出来る存在。でしょうか。舞さんを呼んだ魔法陣は、人々が願いを込めて起動したものです。舞さんにはその人々がいる世界に赴いてもらい、願いを叶えて来てもらいたいのです」
その言葉に舞は目を見開く。紅茶に手を伸ばすことも忘れ、口に手を当てて。彼女の頭はそれを理解するのを突っぱねようとしたが、口の中に残る甘さも、鼻腔をつく香りも確かに本物だった。
「私、そんなことできません。だって、自分の小さな願いもかなえられないようなただの女子高生ですよ。それなのに、違う世界の、たくさんの人々の願いを叶えるだなんて……今からやめられないんですか?」
舞は俯きカップから上がる湯気を眺め、指先でつまむように持ち上げると、少し口をつけた。
「残念ですが、それは私にはできません。もう魔法は発動してしまいました。それを途中で無理やり止めてしまった時、二人は空間の狭間に閉じ込められてしまいます。そうなってしまえば最後。死んでしまえばまだいい方で、何もない無の空間で永遠に二人っきりで漂うことになります。時間も老いも生も死も存在しないので二人がそこへ行ったとき、ただ存在するだけになってしまいますね」
ミラはそこで一旦言葉を切って、これから大切な事を言わんとばかりに唇を湿らせる。
「私達、神の仕事はそもそも万理の書に記された内容の遂行しか出来ないのです。例外は世界がその内容から逸れようとした時のみ。その本は世界の法則の全てが載っているだけあって、とても大きな本なのですよ。貴方達の想像を遥かに凌ぐくらいに。つまり、私の力ではこの召喚をなかったことに出来ません。本当に申し訳ありません」
ミラの現実味の無い説明は、ただ舞の心を沈み込ませるだけだった。舞の瞳から流れ出た雫は頬を流れ、カップの中に波紋を描いた。
「帰れない……んですか?」
小さな声で舞が呟く。ミラは立ち上がり舞の背に手を当ててさすりだす。
「帰ることは出来ます。人々の願いを叶えたとき、私達神があなたの願いを一つ叶える契約になっているんです。途中で悲しい思いをするかもしれません。目を背けたいものに遭遇するかもしれません。ですが最後まで挫けないでください。きっとあなたの願いも叶います。その為に勇者であるあなたには力が与えられるんです。あなたにふさわしくて、あなたがあなたである理由であり、あなただけの力が」
ミラが必死に励ましているのを理は静かに紅茶を飲みながら眺めていた。彼には何をすればいいのか思い浮かばなかったから、ただ静観していた。
しばらくは舞がすすり泣く音が響き、ポットからは湯気が上らなくなっていた。やがて舞は涙が止まると、顔を上げた。瞳は今も赤いままだけれど、今だけだ。じきにそれは消える。その奥には確かに強い光が宿っていた。覚めてしまった紅茶を温めなおし、涙が入ってしまった舞の紅茶は入れなおされた。
「私、とりあえず。出来る事をやってみようと思います。泣くのは出来る事が無くなって、何をすればいいのか分からなくなって、道が閉ざさ手たときにします」
「その意気ですよ。舞さん。さてと。それじゃあ次は今回ここで話をするきっかけの方に移りますか」
ミラは紅茶を一口飲むと、音を立てずにソーサーに置いた。そして、理を見る。
「僕は、舞と同じ勇者ではないんですか?」
二枚目のクッキーを食べ終えた理が聞く。舞は既に自分には関係ないと言わんばかりに紅茶とクッキーを楽しみだしている。
「ええ。本来は魔法陣によって呼ばれるのは舞さんただ一人なんです。ですがそこに紛れ込んでしまったのが、あなたです」
「私を押し倒しながらね」
舞からの非難がましい視線が理を貫く。まだ赤い瞳が余計に理には怖く感じられた。そして、さっきまでのしおらしい舞の方がよかったと後悔しだしたが、あの状況ではとても話なんてできなかった。
「これはあの魔法陣の設定と、不幸な事故が重なっただけなんです。あれは多少の誤差が出てもいい様に上に乗っているものをすべて転移させるものだったのですが、その結果が理さんという異物を含むことになってしまったんです。なので今回私たちが一番謝らないといけないのが理さんなんです。本当にすみませんでした」
ミラはまた深々と頭を下げた。今まで何度も頭を下げてきたのか様になっている。長い髪の毛がカップに入るという失態も犯さない。
「異物ですか……そうですか。あの異物ならリコールなんてことは?」
理にはその謝罪よりも、異物と呼ばれた方に傷ついていた。確かに異物という表現はあまりにも的確過ぎた。しかし丁度先程見たニュースを思い出して、あまり期待せずに尋ねる。
「残念ですが、先程の舞さんの質問と答えは同じです。可能性として一番大きいのは、舞さんと一緒に帰ることです」
ミラヴェールは砂糖の瓶を開けて、理の前に滑らせる
「そして今回一番の問題になっているのは、理さんには力が無いという事なんです。勇者である舞さんは当然、魔法陣から勇者たらしめる力が与えられます。しかし理さんは別なんです」
理のジョークにまじめに返したミラが続ける。もちろん、話を無理矢理に主軸に戻して。
「力が無い事に、何か問題があるんですか?」
「これから二人が向かう世界には魔法、ステータスなどのあなたたちにとっては馴染みのない理論と法則が存在しています。それはとっても有益なものです。人であるのなら持っているのが当たり前なのですが、このまま理さんを送り出した場合、それらを持っていなくて異端になってしまうんです。なので、その力を与えるために呼び出したのです」
ミラはそう言うと肩のあたりで掌を上に向けた。するとそこに周囲から光が集まって行き、形成し一つの光を放つガラス球になった。
「これが理さんに与える力を目に見える形にしたものです。正直強いものとは言えません。はっきり言ってしまうと弱すぎます。しかしこれ以上の物を与えることも出来ませんし、与えないという選択肢はありません。少し目を瞑ってもらえますか?」
その有無を言わせなさに、理が言われたとおりに目を瞑ると、ミラは理に向かって手首だけでガラス球を投げる。舞は小さな悲鳴を上げたが、ガラス玉は割れることなく、溶ける様に理に吸い込まれていった。が、これと言って理には変化は訪れなかった。
「ねえ。なにか全能感とか力を感じたりしてない? もしそうなら、帰った後に散々いじってあげるから」
「残念だけど特にそんなものは感じてないな。帰れればいいけどね」
「便利なものや、持っていて普通の物を与えただけなので、そんな感覚は訪れないと思いますね。ただ、数だけはありますよ」
「そっか。残念。あ、安心して。帰る時は理も連れて行ってもらうから」
「ありがと」
理は短い返事を返したが、その心中はそんなに穏やかではなかった。不安だらけだった。全く知らない事と、先行きの見えないもの。本当に帰れるのか不確かなもの。上げて行ったら切が無かった。しかし、故郷である地球に帰りたいという意思は確かにあった。
「それじゃあ、そろそろお別れね。向こうに行った後も時々会いに行くけど、気を付けてくださいね」
ミラがそういうと二人の視界から見える光が次第に強くなってくる。
「お茶とお菓子おいしかったです。また、会えるといいですね」
「ミラさんが淹れる紅茶をカモミール以外にも飲んでみたいです」
「ふふ、あなたたちが願うのならかなうかもしれないわね。あ、そうそう。向こうは文字や固有名詞が違うことはあっても、言葉は同じだから通じるわ。それじゃあ、あなたたちの願いの行く道に栄光の光があらんことを」
ミラが微笑みながらそう言うと一気に光が強くなり理と舞は思わず目を閉じた。