第三話 女神との際会
ぎゅっと目を閉じた理はふわふわと実態はない、暖かな感覚に包まれていた。さっきまではあんなに寒かったのに、今ではこの暖かさとても心地いい。うるさかった観光客たちの話し声も聞こえなくなり、耳鳴りにも似た音が二人を飲み込んだ。
訳のわからない未知のことが多すぎて、とても説明が出来ないこの感覚は、一体二人をどこへ連れて行くのか。二人をどうしたいのだろうか。理は知らないこの感覚に、いくら考えても僕には答えを出す事は出来なかった。
未知という恐怖。好奇心ではなく、理はただただ戦いた。そんな彼に出来たのは、目の前の名前も知らないけど、暖かい人に両腕でしっかりと、しがみつく事だけだった。
「目を、開けて下さい」
優しい声だった。肉親、恋人、友人、そんな関係を全て飛び越えて全ての人に対して優しい超然とした声だった。理の恐怖はこの声に溶かして癒やされて、さっきまでの感覚が嘘に思えてきた。その優しさに後押しされて理はゆっくりと目を開ける。
そこは光の空間、と言っても差支えがなかった。全てが真っ白な光で出来ていて、広がりに終わりがなく、神々しい空間だった。理は途方に暮れていると一人、立っている女性が居るのを見つけた。
腰まで流れるプラチナプロンドは彼女の僅かな動きにあわせて揺れ動く。周りの白い光に混ざってしまいそうなほど、輝いている。白いつやのある踝の丈のワンピースを身につけている。そして、その白さの中に落としたような、輝くサファイアの瞳がこちらを見つめている。
「ところで、二人は何時まで抱き合っているのですか? 私がいたたまれなくなるので、そろそろやめて貰えますか?」
とてもいい笑顔と一緒にそう言われたことで理ははっとする。この不思議な世界に来る時に前を歩いていた女子高校生に、思いっきり抱きついてしまったのをようやく思い出す。
そして、今も抱きしめていることを。理は正面を向いたとき、丁度向こうも少面を向いたのか、メガネのレンズ越しに黒曜石の様に透き通った瞳と目があった。少しの間そのまま止まっていたが、やがて一気に見開いて、まんまるになった。
「キャ!」
その女の子らしい叫び声と同時に、理はいとも簡単に突き飛ばされてしまった。その突き飛ばした力はとても女の子とは思えない、力強いものだった。だから地面を二転三転としてやっと止まった時には、元いた場所から十メートル程離れてしまった。
「痛った……。ごめんなさい。でも、僕にもどうしようもなかったんだ。無我夢中で、つい。いきなり突き飛ばすだなんて、あんまりだ……」
ぶつけた後頭部を擦りながら理が抗議をすると、向こうもさすがに悪く思ったのか自分の胸元を抱きしめて、しっぽを踏まれた猫のように理をを睨み付けたが、何も言わなかった。変なところを捻ったりしていないか確かめてから立ち上がり二人がいる場所へと戻る。
「こんな調子だと、先行きが不安になりますね……」
蒼い瞳をわずかに伏せさせて、そう呟いている。それも彼が黒髪の娘と仲が悪かったら不利益があるような。
けれど二人はさっきの出来事の為に心なしかぎくしゃくしてしまっている。過剰に相手の一挙一動に敏感になってしまっている。互いに挙動不審と言ってもいいかもしれない。
「あの、すみませんでした! 訳の分からないことだらけの中だったとは言え、見ず知らずの人に抱き着いてしまって」
理にはもう、謝る事しかできなかった。すると流石に頭が冷えたのか、はぁ~っと一息吐いて、自分自身を落ち着けた。
「別に、もういいわ。ただの事故だったんだし、あなたも謝ってくれたしね」
そういって立ち上がると、やっと今は訳の分からない真っ白な世界に居るのに気付いたのか、辺りを見回している。驚くどころかむしろ唖然としていて何度も瞳を瞬かせて、ようやくここにいた女性に気が付いたようだった。
「あの、すみません。ここはどこなんですか? 私達は階段から落っこちて死んでしまったんですか?」
さっきまでの狼狽ぶりからは一転して、女子高生が青い瞳の女性に尋ねた。女性はため息を一つ吐くと女子高生をと見据えた。
「まず一つ、あなたたちは死んではいません。これははっきりと言えます。ですがそれをあなたたちに証明することは出来ないので、今は私を信じてください」
静かに、凛とした声で言い放った。声音はやさしさに包まれてはいるが、決して相手を逆らわせない圧倒的な凄みがあった。
「ですが、いきなり信じてくださいと言っても、難しいですよね。なのでまずは自己紹介から始めましょうか。私はミラヴェール。これでも一応は神と呼ばれる存在です。まだ私は生まれてから百年経って間もない女神の新人なので、仕事は雑用と先輩方の尻拭いとパシリで、責任を理不尽に押し付けられるだけなのですが……。お休みが欲しいお金も欲しい彼氏も欲しいです」
語り始めの文字通りの神々しさはだんだんと薄れて、最後は語気が弱くなってしまった。頭をわさわさとかき、目に見えて落ち込んでしまう。
神様とは言っても職場は人間と大して変わらない現実を知った二人だった。そしてミラヴェールさんは俯いてしまい瞳が陰った。
「それは……大変ですね。それにしてもミラヴェールさんは神様という割には、俗世的なんですね。人間みたいです」
「ミラでいいですよ。それは当然ですよ。人が人という生き物であるのと同じように、言うなれば神も生き物ですから。決して、概念だったり偶像だったりはしません」
丁寧に、そして少し自慢げにミラさんは説明してくれた。感情が豊かな感じからしても人と神の違いは、所詮は種族の違いのようなものなのかもしれない。と理が勝手に推測すると、一瞬だけミラヴェールは理の方を見た。
「神が生き物だっていうのなら、そんなに働いて体は大丈夫なんですか?」
理に対しての話し方とは大違いの敬語を使って、女子高生がミラさんに尋ねた。その瞬間、ミラさんの笑顔はより一層深くなった。やはり第一印象が衝撃的だった理とは距離を測りかねていた。
「全然平気ですよ。曲がりなりにも神なので傷つけることはもちろん、病原菌だって私たちを侵すことは出来ません。生物として完璧な状態とでもいうのでしょうか? 生物のピラミッドの頂点を通り越して、ピラミッド内の生物とは一線を画しているんです。それが世界の摂理です」
理は種族が違うだけだなんて思っていた考えを改めた。さすが、神は人々に崇められることがあるだけの存在だった。ただ、理は一つだけ気が付いてしまった。
「病原菌に侵されないということは、病気にならないっという事なので、病気などを理由に仕事をサボることは出来ないんですね」
彼が気が付いたことを言うと、ミラさんも同じことに気が付いたのかはっとした表情になった。
「そうでした! 人は病気にかかれるのでしかたなしに休むことがあります。そう、それは仕方のない事です。心置きなく家でゴロゴロできます。けど私は女神なので絶対に病気にかかれないんですよね。こんな時は神であることを恨みたいです……」
横で女子高生が「サボらないでよ……」と呟いていた。やっぱり理に対しては少し辛辣だった。
「こほん。こんな不毛なことを考えるくらいなら、さっさと仕事をしてしまいしょうか。まずはあなたたち二人の名前を自分の意思で、自分の言葉で教えてください」
わざとらしく咳払いして後にそう言うとミラさんは女子高生の方を見た。
「私は、榊原舞です」
榊原さんは一回うなずいた後にゆっくり言った。ミラさんも小さくうなずくと静かに僕の方を見てくる。
「僕は衛藤理です。仕事と言うことは僕たちに何か用があるんですか? 正直、さっきまでは話の方が大事で流してしまっていたんですけど、何がどうなってこんな所にいるのか分からないんです」
「ですから……」
ミラさんは右にステップを踏むように歩いた。するとその背後についさっきまではなかったはずの、おしゃれなテーブルとイスが三脚、卓上にはポットとティーカップとソーサーとスプーンのセットが三組。後はいくつか蓋つきの瓶が置いてあった。
「お茶でも飲みながら、お話しませんか?」
ミラさんは出会ってから始めて見せる、物凄く眩しく美しい、その中にわずかに見える無邪気さが混ざった笑顔でそう言った。