恋愛巡礼
1
私には忘れられない人がいる。
どうしても忘れられない人が。
地方から都内へ単身やって来た大学時代。少しずつ友達も増えて、生活にも慣れてきた二回生の中頃、私は彼に出逢った。破天荒で自由な振る舞い、明るく子供のような彼は、名前をシンヤと言った。
皆がそれぞれ窮屈な大学生活を送る中、彼だけはいつも自由で、それでいて輝いていた。そんなシンヤの周りには、いつも自然と皆が集まり、私達は彼に癒され、週が明けると、決まってシンヤを中心に繰り広げられる冒険譚に私達は心踊った。
まるでシンヤは、無機質な大学生活に渇ききった私達へ、神様が贈ったオアシス、そんな存在であった。
新年が明ける頃、彼から突然の告白。恋愛とは無縁だった私は、叶わないと思っていた恋の成就に歓喜し、返事もせず、わんわんと泣いた。突然泣き出した私に彼は驚き、慌てながら、
「とりあえず、これ食べて落ち着け!」
手に持ったフライドポテトを差し出して言う彼の顔を見て、今度はお腹を抱えて笑った。
シンヤとの日々はこれまで以上に新鮮で、毎日が冒険に満ち溢れていた。お花見に行った時、彼は気持ちよく酔っ払い、隣の花見客と川へ飛び込み、また、海水浴へ皆で出かけた時は、いつの間にか見ず知らずの子供たちとスイカ割りに興じて、抱えきれないほどのスイカを私達に分けまわった。秋祭りでは、彼しか知らない秘密基地のような高台から、今まで見たことのない大きさの花火を眺め、クリスマスでは、サンタの格好をしてベランダからプレゼントを届けてくれた。シンヤと私だけの思い出は、時間の速さよりも早く、月よりも高くどんどん増えていった。
なのに。卒業式のあと、私は彼から突然別れを告げられた。涙も出なかった。周りの景色の色は突然無くなり、私だけ取り残されたようだった。
あれからもう四年が経った。
2
ヤスから久しぶりに連絡があった。こっちに帰ってきているらしい。ヤスは、シンヤと私の共通の大学時代からの友人で、卒業後はインテリアのデザイン会社へ就職していた。大学の頃、溜まり場になっていたヤスの部屋は、お洒落な小物や雑貨で溢れており、要らなくなったものを、私達はよくいただいたりしていた。現在では、仕事で海外へ行くことが多く、一年のほとんどを向こうで過ごしているらしい。
「アキ、こっちこっち!」
駅前にある小洒落たカフェのテラスから、私を呼ぶ声が聞こえた。短髪で小綺麗にひげを整え、メガネを掛けた清潔感のある男。学生時代とは少し雰囲気が違うけど、間違いない。ヤスだ。
「ヤス!久しぶりー!元気?」
「元気、元気ー!海外生活長いからさー、変な病気にかからないか心配なんだけどー…」
「えー!なんか嫌味に聞こえるー!」
ヤスはふざけて笑った。
他愛のない話に話題は尽きなかった。思い出話もたくさんした。そんな中、互いの近況を報告する流れで私はヤスに報告をすることにした。
「実は私、もうすぐ結婚するんだ。」
「え?結婚?…そっか。」
「うん…」
さっきまでの盛り上がりが嘘のように、私もヤスも沈黙した。ヤスはシンヤとも親しかった。私とシンヤが喧嘩した時も、別れた時も、親身に話を聞いてくれた。私達のことを誰よりも一番近くで見守り、一番応援してくれていたのが、ヤスだった。
聞きたい。シンヤのこと。今どうしているのか。
「ヤス、シンヤどうしてる?」
「え?」
「シンヤ、どうしてる?当然なんだけど、あれから連絡もとってないし、どうしてるのかなって…ずっと気になってて。」
「うん…。アイツのこと、忘れられないの?」
「…結婚の報告しといて、私、最低だよね。」
ヤスはタバコに火をつけて、遠くを見ている。
「いや、実は俺も知らないんだ。二年程前まではこまめに連絡とってたんだけど。その時は地元の小さい会社で働いてるって言ってたかな。でも、まぁ元気そうだったよ。」
「そっか…元気だったんだ。」
「おっと、やべ。もうこんな時間か!ごめん、アキ!俺、このあとも人と会う約束があるんだ!ごめん、もう行くわ!しばらくこっちにいるし、暇な時はまた連絡してよ!」
ヤスは伝票をサッと奪ってレジに向かい、もう会計を済ませようとしている。
「ヤス、悪いよ!」
「大丈夫!俺、今すげー稼いでるから!じゃ、またね!」
「ごめんね、ありがとう。」
「また今度、奢ってよ!」
ヤスはそう言うと足早に駅の方へ消えて行った。
3
その日の夜、私は婚約者のノブヒコと会った。
彼との出逢いは三年前。当時就職して間もない頃で、私はシンヤを忘れようと仕事に没頭していた。そんなある日、懇意にしていた取り引き先の彼に、突然食事に誘われた。シンヤとは違い、ノブヒコは勤勉で堅実、寡黙だけどどこか鈍臭くて、でも不器用だけど優しい、そんな人だった。食事している時も、他愛のない会話も、容姿も仕草も、すべてスマートで、シンヤとは違う大人の雰囲気に、私は惹かれていった。でも本当は、時折ノブヒコの向こうに私はシンヤを見ていた。シンヤと全くタイプの違うノブヒコを見て、シンヤならこんな時こうするんだろうなとか、シンヤならこんな事言うんだろうなとか、私は時々、ノブヒコの向こうにシンヤとの思い出を重ねてしまうことがあった。
「今週末休み?休みなら、式場見に行かない?」
「え?」
「どう?休み?」
「えっ…と、うん。休み!」
テーブルの向こうで、料理に舌鼓を打つノブヒコに慌てて私は返事した。先月、彼にプロポーズされたばかりだというのに、私はまたシンヤを思い出す。
本当に静かなお店だ。照明も必要以上なく、誰も大声で話したり騒いだりしていない。もくもくと皆、料理を楽しみながら、落ち着き払って会話をしている。あ!たった今、微かにクラシックがかかっているということに気が付いた。
シンヤじゃ、この空気は耐えられないだろうな。だいたいシンヤはクラシックに全く興味なかったし、いつもよくわからないロックを聴いていたから。
「じゃ、決まり!今週末の土曜日。家まで迎えに行くよ!」
「うん、楽しみにしてる。」
マリッジブルーとはこのことなのだろうか?ノブヒコはおそらく、世の女性が抱く理想に限りなく近い。それなのに、私はまだシンヤの思い出を引きずって生きてる。今日、ヤスに再会したからか、今夜はシンヤのことばかり思い出してしまう。
「式場、いくつか候補があるんだ!パンフレット渡しておくよ。アキも気になるところがあれば教えてよ!」
「うん…また調べとく。」
手渡されたパンフレットが、どれも同じに見えてしまう。シンヤならどうしていたのかな?パンフレットを揃えたり、事前準備や下調べなんてせず、とりあえず集合して、「一番重要なのは、フィーリングだっ!」とか言って、一日中気ままにいくつもの会場を、二人で訪ね歩いていたんだろうな。
4
土曜日。生憎の雨だ。颯爽と車で現れたノブヒコは、持っていた傘で、私を雨から守りながら助手席に案内してくれた。
「じゃ、早速行こっか。」
ノブヒコは最初の式場へと車を走らせた。車内の広さは丁度よく、ナビから流れる曲は私の好きなアーティストの歌だった。
シンヤの車は軽自動車だった。車内の音楽はいつもよくわからないロック。私の好きな曲を掛けると、「なんだこの甘っちょろい歌は!」とか言いながら、ブーブー文句を言っていた。そのくせ、シンヤはちゃんと最後まで聴いてくれて、必ず「たまにはこんなのもいいか。」と笑ってた。
「どうしたの?急に笑って。思い出し笑い?珍しいね!」
ノブヒコが突然そう言ったから、私は驚いた。
「え?今、私笑ってた?」
「うん、笑ってた。」
まっすぐ前を見て運転するノブヒコ。その横顔を見ると、胸の奥が辛くなってくる。
「そういえば、アキ、式には誰を呼ぶの?高校とか、大学の同級生とか呼ぶ?」
『大学』と聞いた時、ドキッとした。
「俺は、何人か紹介したい友達がいるから呼ぼうと思ってて…こういう場合って、人数合わせるべきなのかな?」
「うーん…どうなのかな…。私は、まだ誰を呼ぶか決めてないな…」
「そっか!また二人でおいおい相談しよう。」
それから式場に着くまでの会話は、あまり覚えていない。ノブヒコの言葉が耳を通り過ぎて、頭に上手く留まってくれなかった。
5
式場はまさに『豪華絢爛』といった出で立ちで、私達を出迎えた。式場スタッフが、「当式場のコンセプトは…」と、ノブヒコに詳しく説明している。私は少し離れて、式場の装飾や雰囲気をなんとなく眺めていた。
「アキ!ドレスも見せてくれるみたいだけど、ついでに見せてもらう?」
ノブヒコが遠慮しつつも大きな声で私を呼んだ。
返事をしようとしたその時だった。カバンの中でスマートフォンが震えている。ディスプレイには『事務所』と表示されている。会社からの電話だった。
「ちょっとごめん!先行ってて!会社から電話!」
「わかったー!」
とりあえず外に出よう。
「もしもし?お疲れ様です。どうしました?」
式場の入り口を抜けたと同時に私は電話に出た。内容は他愛のない仕事の確認の電話だ。休日の社員捕まえて確認するような内容じゃないじゃん。電話を切り、視線を上げた。
いつの間にか雨が止んでいる。式場は大通りに面しており、土曜日の賑わいを見せていた。式場の前の信号が変わる。人々が歩き出す。その中に。歩き出した人々の中に、彼がいた。
「シンヤ…?」
間違えるはずがない。少しパーマがかった髪。なで肩で少し頼りないシルエット。煙たそうにタバコを吸う仕草。間違いない、シンヤだ。
「シンヤ!シンヤ!」
私は叫ぶ。気付いて欲しくて。シンヤは声に気づいたのか、辺りをキョロキョロしている。
「シンヤ!こっち!ここ!ここ!私!アキ!」
シンヤは顔を上げてこちらに気付き、驚いた様子を一瞬だけ見せた。そして、私のもとへ駆け寄ってくる。
「シンヤ、何してんのよ…」
込み上げてくる涙が止まらない。折角のメイクが台無しだ。くしゃくしゃに涙を流す私を見て、
「久しぶりに会うのに、しけた面してるなー!」
と、あの頃と変わらない笑顔で笑った。
6
結局シンヤには結婚の報告はできなかった。私はその場を去ろうとするシンヤを強引に捕まえて、半ば無理矢理連絡先を交換した。ノブヒコには言えるはずのない再会だった。
その日は結局、三ヶ所の会場を回った。どの会場のスタッフも親切に会場の説明をしてくれたが、たったの一言も私の耳には残っていなかった。
シンヤ。何故、今になってまた会えたんだろう。嬉しい。嬉しいけど辛い。
自宅に着くまで、ノブヒコが今日の感想を語ってくれたけど、私は上の空で、シンヤのことばかり考えていた。
「じゃ、今度はまた次の日曜日!今日行けなかったもう一つの式場に行こう!あと、今日の会場で、何か気になることがあったら言ってよ。また調べておくからさ!」
「うん。じゃあ、また次の日曜日。ありがとう!私ももう一度パンフレット見ておくね!」
ノブヒコの車が遠ざかっていく。スマートフォンを取り出す。
「9時か…」
アドレス帳からシンヤの名前を出す。どうしよう。掛けたい。でも…やっぱり、掛けられない。と、カバンにスマートフォンをしまおうとしたその時。着信音が鳴った。『シンヤ』と表示されたディスプレイ。深く息を吸おう。そして、大きく吐き出して私は電話に出た。
「アキ、今何してる?」
懐かしい。忘れられない声だった。
「何してる?って、それはこっちのセリフ!シンヤこそ、あんなところで何してたのよ!」
「俺?俺は最近こっちに帰って来ててさ、ブラブラ週末を満喫してたんだよ。」
飄々としたシンヤの声。何もかもが懐かしい。
「アキこそ、何してたの?」
「わ、私?私は…」
言わなきゃ。言わなきゃ。シンヤに結婚すること、言わなきゃ。でも、出ない。言葉が出ない。
「…」
「ま、いいや!明日の日曜、暇?」
「え?明日?」
「そう、明日。時間があればでいいんだけど。忙しい?彼氏とデートとか?」
「バカ。なに言ってんの?明日はたまたま空いてるけど…」
「じゃ、決まり!明日8時に大学前の駅集合な!」
「8時?ちょっと!早くない?」
「早くないよ!気合い、気合い!今すぐ寝ろ。嫌でも起きるから。じゃ、明日ねー。」
シンヤはあの頃と何も変わっていない。あの頃のままのシンヤだった。シンヤとの電話を切った私は、まだその場に立ち尽くして余韻に浸っている。朝の雨が嘘のようだ。見上げれば、今にも星が降ってきそうな空だ。
7
気合いを入れてしまった。しかも、先週買ったばかりの服を卸してしまった。シンヤとの待ち合わせは8時。まだ7時半過ぎだ。あの頃のままだと、必ずシンヤは遅れてくる。とにかく早く来過ぎてしまった。
今日の待ち合わせ場所の大学前の駅は、大学時代の私達がいつも待ち合わせた場所だった。卒業して一度だけ、ノブヒコと駅前のカフェレストランで食事をした以来、私はこの駅に来たことがなかった。シンヤとよく行った喫茶店はコンビニになっている。あの喫茶店でかかる曲は、どれもこれもがシンヤ好みで、よく「マスターは曲のセンスが最高だ!」って言ってたっけ。
時計を見ると、8時10分前。なんとシンヤがやって来た。奇跡だ。
「おはよ。今日は随分と気合い入ってるねー!」
「シンヤこそ!いつも遅刻してたのに、10分前に来てるし!」
「あれ?そうだっけ?俺は常に10分前行動じゃなかった?」
あの頃のままの笑顔でまたシンヤは笑った。
「で?どこ行くの?」
「うーん。聖地巡礼。」
「は?」
「ま、黙って俺様に着いてこーい!」
私は言われるがまま、シンヤのあとをついていった。高鳴る鼓動が誰にもバレないように。
懐かしい風景ばかりだ。思えば卒業以来、こんな風にじっくりと通い慣れた道を通る機会なんてなかった。
「あ、あの店、ヤスが酔って暴れて出禁になった飲み屋だ。」
「ヤスだけじゃなくて、シンヤもでしょ!」
「そうだっけ?ハハハ!ってゆうか、もう着いたし!」
「え?」
ここは、初めて二人でお花見をした緑地公園。シンヤが酔って川に飛び込んだ、あの公園だ。
「アキ、見ろ!あのベンチ、ちょっとお洒落になってる!」
シンヤが指差す先に、少し小洒落たベンチが見える。あのベンチ、前はもっと年季の入ったベンチだったけど、あそこにベンチがあったことは覚えてる。シンヤが川に飛びこんだあと、泥酔して眠ってしまったベンチだ。私はシンヤが起きるまで何時間も膝枕させられてたっけ。
「行こうぜ、アキ!」
「うん!」
二人並んで座るベンチ。どこか小恥ずかしい。ドキドキしながら、周りの風景を眺める。ふと気付くと、あの頃のようにシンヤは頭を私の膝に乗せてきた。
「ちょっと!」
「そのまま、そのまま。」
さわさわと木々が揺れる。シンヤの横顔を眺める。さっきよりも近くで見るシンヤの顔。面影はそのままだけど、少し痩せたかな。でもあの頃と変わらない、少年のような振る舞い。そっと頭を撫でようと手をかざす。
「よしっ!」
急にシンヤが起き上がった。ビックリした。
「アキ、次行くぞ!」
「え?え?」
「次だ!次、次!」
ベンチから立ち上がって、シンヤはズンズン進んで行く。
「ちょっと、次はどこよ!」
「俺様に着いてこーい!」
シンヤは笑顔で言った。
8
「寒い…」
あの夏、みんなで来た海水浴場だ。
「懐かしいー!あの時のガキども、今頃でっかくなってんのかなー!」
シンヤは迫る波の瀬戸際まで走った。このまま入ってしまうんじゃないかとヒヤヒヤしたが、
「大丈夫、入んないよ。俺も大人になったんだ。」
と、言った。秋の潮風は、もう十分に冷たい。押し寄せる波に逃げては、はしゃぐシンヤに結婚を打ち明けようか迷う。
「こっち来いよー!」
シンヤが周りを気にせず大きな声で私を呼んだ。小走りで駆け寄る。
「みんなで来た時は、身動きできないほど人がいたよな。アキ、帰りに食ったアイス覚えてる?ほら、あそこら辺にあった売店で見つけた、なんか変なパッケージのアイス。買って食べたら意外に美味しくてさ。あれ、いろんなとこ探したけどないんだよ。マイナー過ぎてどこにも売ってなかったんだ。また食いたいなー。」
遠い目をしてそう話すシンヤに、私は見惚れた。何も言わずシンヤは空と海の境界線をずっと見つめている。今なら言えそうな気がする。
「シンヤ…実は私…」
そう呟いた瞬間、頰に冷たい何かが当たった。
「きゃっ!なに?」
「じゃじゃーん!」
イタズラなシンヤの笑顔。その手には、変なパッケージのアイスを二つぶら下げていた。
「さっき、アキがトイレ行ってる時に見つけた。食おうぜ!」
さっきシンヤが話したアイスだった。シンヤはもうパッケージ開け、アイスを頬張ろうとしている。
「もう!やめてよー!」
「やば!懐かしい!これこれ!この味!これを求めてたんだよー!俺は!」
シンヤは嬉しそうにアイスを頬張っている。
「食わないなら、くれ。」
「たーべーるー!」
「なんだそれ。よし!次行くぞ!」
「え?もう?」
「そうだ、俺は忙しいんだっ!」
あの頃と少し違った海水浴場を私達は足早に後にした。
9
足が棒みたい。確かずっと前にここへ来た時も、私は浴衣で辛い思いをしたな。前を行くシンヤはあと少し、あと少しって手をひいてくれたっけ。少し違っているのは、あの頃のようにシンヤは手を引いてはくれていないってことだけ。
「あと少し、あと少し!」
「ハァハァ…あと少しって…ここ、シンヤの…ハァハァ、ちょっと!シンヤ、早い!…ハァハァ。」
「足腰へばってんなぁー、俺を見ろ!」
前を行くシンヤが腰に両手を当て、こちらへ振り向いた。
「もう少しで例の場所だ!」
「はいはい…ハァハァ。」
一歩一歩前へ進む。こんなにこの坂長かっただろうか?もう足が限界に近い。
「仕方のない奴だなぁ。」
シンヤが駆け寄り、私の手を引いた。
「大サービスだっ!」
あの頃がフラッシュバックする。
シンヤと触れ合っているせいなのか、それともこの坂のせいなのか、胸の鼓動がドンドン高鳴って止まらない。不思議と足が自然に前へと進む。
「着いた!」
そこは、あの秋祭りで特大の花火を見た高台だった。シンヤの手はいつの間にか私の手から離れている。
私は高台から街を見下ろす。街は少しずつ赤く染まろうとしている。
「あそこ。」
「え?」
シンヤが指差した方向に高層マンションが見える。
「あそこにあんなのなかったよな。」
「そうだっけ?」
「そうだよ。なかったよ。」
「一緒に見た秋祭りの花火、二年前から無くなったんだ。」
「そうなの?」
「うん。」
あんなに直近で花火を見たのは、後にも先にもあの時だけだった。
「残念だね。」
私はポツリと呟いた。だがシンヤは黙ったままで、ただただジッと街を見下ろしている。シンヤは一体何を思っているのだろう。突然私を連れ出して、二人で行った場所を巡って、あの頃の思い出話をして。私は未だに今日のシンヤの行動が理解できていない。
「おしっ!そろそろ次、行くか!暗くなったらここ、熊出るらしいからな!チンタラしてたら置いてくぞっ!」
「ちょっと!待ってよ!次って?次はどこに行くのよ!」
「俺様に着いてこい!来ればわかるさ!ハハハ!」
シンヤは颯爽と、来た道を帰ろうと小走りで駆け出した。私はもう一度だけ振り返って、高台からの景色を見渡す。
「あの花火、もう見れないんだ。」
「なんか言ったか?ほんとに置いてくぞ!」
「ちょっと待ってよ!今行くから!」
街はもう赤く染まっていた。
10
「今日はここで最後!」
「ここ…私が大学生の時、住んでたマンション…」
「そうだ!懐かしいだろ。」
「懐かしい。私の部屋は…」
「あの部屋。」
シンヤが瞬時に指を差した。確かに私は、三階のあの角部屋に住んでいた。今は違う誰かが住んでいるのだろう。窓にはカーテンがかかっており、うっすら部屋の明かりが外に漏れている。
「部屋、よくわかったね!覚えてたんだ!」
「ベランダに侵入するの、すげぇ苦労したからなぁ。今だから言うけど俺、あそこ登ってる途中に警官に見つかっちゃって、職質されてるからね。あの時、ヤスと一緒にいたから助かったんだよ。あいつ口うまいだろ?警官に上手く説明してくれてさ、俺一人だとあやうく逮捕だったよ。」
「なにそれ!そんな裏話があったんだ!」
「そんだけ苦労したってこと!だから、忘れたくても忘れられないの!」
私も忘れられない。今日一日、シンヤと思い出の場所を巡って、ずっと胸の内に閉まっていたシンヤへの気持ちが蘇って止まらない。忘れるなんて、私にはできない。
それでもシンヤに言わなくちゃ。結婚するって。結婚するんだって。でも言えない。言葉に出せない。
駄目だ。駄目だ、溢れる。涙が溢れる。
「知ってるよ。」
突然シンヤが、真っ直ぐ私の目を見つめて言った。
「え?」
「知ってる。俺、知ってるよ。」
「…何を?」
「アキ、結婚するんだろ?ヤスに聞いた。」
「ヤスに…?知ってたの?」
「うん。」
どういうことだろう。結婚すると知っていて、何故わざわざシンヤは、私を思い出の場所へと連れ出したのだろう。
「俺とは正反対のスマートジェントルマンらしいじゃん!」
「う、うん。そうだね。」
わからない。シンヤの考えていることがわからない。
「もしかして昨日、偶然会った時って、式場選びの途中だった?だってあそこ、結婚式場だったろ?」
「うん。」
「やっぱり!俺って冴えてるなぁ。」
シンヤは笑いながらおどけてみせた。
私は何も言えず、涙が下へ流れないように、ただ必死で耐えている。そんな私に気付いたのだろうか。シンヤはタバコを取り出し、火をつけた。シンヤは目を合わさず、空を見上げて煙をゆっくり吐き出す。
「アキ、見ろよ。今日も星が綺麗だぞ。」
私は空を見上げた。涙が瞳を覆ってしまい、星がぼやけて見える。
「シンヤ、教えて。何故、今日私を連れ出したの?」
私は涙が溢れるのを覚悟して、顔を下ろした。頬を涙が伝っていく。シンヤはいつの間にか、私に背を向けてタバコを吸っていた。シンヤが吐き出す煙が、フワフワと空に消えていく。
「送るよ。」
シンヤはこちらを見ずにそう言った。
「ちょっと、待ってよ!答えてよ!シンヤ!」
スタスタと前を歩くシンヤ。涙が溢れて止まらない。高台の道を歩いた時と違い、シンヤは私を全くみようともせず、来た道を戻っていく。
「シンヤ!」
これでもかというくらいの大声で、私は叫んだ。シンヤの足が止まる。私はシンヤに駆け寄った。
「シンヤ、教えて…」
「金。」
「え?」
「金、欲しいんだ。」
「お金…?」
シンヤがこちらを振り返る。
「金借してくれよ。」
「どういうこと?」
「俺、卒業してからギャンブルにハマっちゃってさ。会社の金に手を出して、会社追い出されてんの。それでもギャンブルやめらんなくてさ。やっぱ求めちゃうんだよなー、スリル。病気みたいなもんだよ。ギャンブル中毒ってやつ?ハハハ。」
「嘘でしょ?」
「ほんとだって!こっち来たのも、借金かさんで、取り立てきつくって、みんなに金借りに来てたの。アキにもちょっと都合つけて欲しくて…でもアキ、そういうの嫌がるだろ?だから、付き合ってた時のこと思い出させたら、借してくれんじゃないかなって思って連れ出したわけ。俺も切羽詰まってるからさー。で、どう?借してくれる?」
あの頃のようなシンヤはいなかった。別に何かを期待していたわけじゃない。ただ再会の喜びを分け合って、思い出に浸って、あの頃の続きに、夢を見ていたかっだけだったのに。
「…いくら、」
「300万。」
私の質問を遮るようにシンヤが答えた。その表情は、まるで知らない人のようだ。
「馬鹿にしないでよ!」
「してねーよ!」
「ねぇ、嘘でしょ?今の話…ねぇ!ヤスに会ったって言ってたよね?ヤスにも借りたの?私が知ってるシンヤはそんな人じゃない!ギャンブルなんて俺はしない、ギャンブルで身を滅ぼなんてナンセンスだって、シンヤよく言ってたじゃん!お金の貸し借りだって、絶対しないって、しちゃいけないって言ってたのシンヤじゃん!」
「うるさいなー。近所迷惑。とにかく、借してくれんの?ヤスは20万しか借してくんなくてさ。あいつ羽振り良さそうだったのに、ここ何年かでケチ臭くなっちゃってほんと残念だよ。とりあえずこの際だから、10万そこらでいいから、ちょっと都合つけてくれよ。」
そこに私の知っているシンヤはいなかった。タバコを下に叩きつけるように捨てて、シンヤは吸い殻を踏み潰してる。さっきまでの時間が嘘のようだ。
「アキの彼氏?あ、婚約者か。そいつ稼いでそうじゃん。あんな会場、下見に行くくらいだし。そいつに言って、ちょっと面倒みてくれよ。」
私はシンヤの顔を見れなかった。見たくなかった。
「最低。あの頃のシンヤは…」
「あの頃、あの頃うるせーんだよ!…あの頃と違うんだよ。変わったんだよ、もう。」
シンヤは遮るように言った。
「帰る。もう二度と会いたくない。」
「駅まで送るよ。」
「もういい。」
涙を拭い、私はシンヤを追い越して駆け出した。シンヤはもういない。忘れる。こんな風に再会したくなかった。私とシンヤは今夜、本当に終わった。
11
自宅の玄関を抜けて、そのままベッドに飛び込んだ。シーツに顔を埋めて、そこに広がる暗闇の中、シンヤを変えたのは一体何だったのだろうと考えた。ヤス。そういえばヤスに会ったと言っていた。私はスマートフォンを取り、ヤスに電話を掛けた。
「もしもーし、アキ?どしたの?」
「…シンヤに会った。ヤス、シンヤがこっちに帰って来てたの知ってたんでしょ?」
「え?…うん。ごめん。アキ、結婚するって言ってたから、言い出せなくて。」
「で、お金借したんでしょ?」
「お金?あ、ああ…借した、かな。」
「…はぁ。」
溜め息を吐き、私は沈黙した。
「あいつ、元気そうだった?」
「元気どころか、最低な人になってた。」
「最低?」
「最低。」
今度はヤスが黙ったままだ。沈黙はしばらく続いた。
「アキ、次いつ会える?次の日曜日どう?」
「え?日曜日?ごめん、その日はまた別の会場に下見行く予定があって…」
「そっか…、どこ行くの?次は。」
「どこだっけ?えっ…と、あ、そうそう。大学の近くにできたあの新しい式場だったかな?」
「あー、最近できたあそこね。あそこ、かなりよさそうだよね。そっか。」
「うん。」
「アキ、聞いていい?アキ、今幸せ?」
「え?…うん。今は最低な気分だけど。」
「ハハハ。じゃあ、また近々時間空けれそうな日、連絡する。シンヤとの話、また聞かせてよ!」
「あまり話したくないけどね。」
「まぁまぁ、そう言わずに。じゃ、また。」
「またね。」
ヤスは昔からシンヤに甘い。大学の時もそうだった。けどまさか、お金まで借すなんて。それも20万円も。それにシンヤ、私に300万借してくれなんて言ってた。一体いくら借金があるのだろう。気になってしまう。あんなこと言われて、変わってしまったシンヤを見て、それでもふと心配してしまう自分が嫌だ。
ヤスはきっと、あんなに変わってしまったシンヤに私を会わせたくなかったのかもしれない。結婚が決まった私の中にある、シンヤとの思い出を綺麗なままとっておけるよう、きっと気を遣ってくれたのだ。でも、もう忘れてしまいたい。シンヤのこと。
私はベッドから体を起こし、キッチンへ向かった。ココアを作り、少しあったまる。昨日見学した式場のパンフレットを見よう。パラパラとページをめくるが、頭に浮かぶのは今日、シンヤと訪れた思い出の場所のことばかりだ。シンヤは言った。あの頃と違うって。
公園のベンチが変わるように、海水浴場に人がいなくなるように、秋祭りの花火がなくなって、以前住んでた部屋に違う誰かがまた住んでいるように、私の知ってるシンヤはもうどこかへ行ってしまったんだ。
そう思うようにしよう。思うしかないんだ。
12
日曜日が来た。シンヤや、ヤス、みんなと過ごした大学の側に新しくオープンした式場へと、私とノブヒコはやってきた。少し神聖さを帯びた小洒落た佇まい、確かにヤスが好みそうな雰囲気だ。敷地もそれほど広くなく、かといって窮屈さは全く感じない、アットホームな印象を受ける。
スタッフが私達を中へと案内してくれた。長く奥へとのびる赤い絨毯の上を、スタッフの人に連れられ二人で歩く。なんとなく、私、ノブヒコと結婚するんだなと、今更ながら初めて実感した。
先週訪れた、どの式場よりも素敵だ。私は、式場の中を興味深く散策した。
「気に入ってくれた?」
いつの間にか、ノブヒコが私の側にいた。満面の笑みで私を見ている。
「先週、一緒に式場を回った時は、アキ少しつまらなさそうに見えたから…ちょっと気にしてたんだよ。でも今日は楽しそう!良かった!」
「ごめん、そんなつもりじゃ…ここは本当に素敵!イメージにぴったり!」
「だと思った!なにせ、アキの思い出の大学の側だもんな!」
「え…?うん。そうだね。」
思い出の大学。その言葉にドキっとした。
「資料お持ちしましたー、こちらへどうぞ!」
両手にたくさんの資料を抱えて、会場スタッフがやって来た。私とノブヒコは、案内されるがままテーブルに腰をかけた。と、その時。鞄の中からスマートフォンが鳴った。鞄の隙間からディスプレイが見える。ヤスだ。シンヤかと思ってドキドキした。
「どうぞー。」
スタッフが笑顔で言った。
「いいよ、待ってるから。」
ノブヒコもそう言っている。私は少し悩んで首を横に振った。
「あとで掛け直すからいいよ。」
「大丈夫?」
「大丈夫!お願いします。資料見せてもらってもいいですかー?」
スタッフは私達に資料を手渡し、会場の説明を始めた。
13
「ぜひご検討の程、よろしくお願いします。」
ノブヒコはスタッフから名刺をもらい、私達は出口へと向かった。出口を抜けると、ヤスが立っていた。
「アキ、ごめん!あと、あのー、名前なんだっけ?思い出せないや、とりあえず、アキの旦那さん、突然すみません!俺、ヤスって言って、アキの大学の同級生で、その…急ぎの用があって…ほんとすいません!」
ヤスは柄にもなく、動揺して慌てている。
「ヤス、どうしたの?」
「いや、実はその…」
ヤスはノブヒコの方を見て、言いにくそうにモゴモゴしている。
「…シンヤが、大変なんだ。」
「え?」
ヤスの尋常ではない様子に、今度はノブヒコが慌てた。
「友達が大変なんだろ?今すぐ行ってあげないと!」
「でも、シンヤは…」
「ヤスくんって言ったっけ?俺も一緒にいいかな?アキも、俺となら気にせず友達のところへ行けるだろ?」
「…う、うん。」
ヤスは私の目を真っ直ぐ見ている。
「アキ、頼むよ…一緒に来てくれないか?」
「…わかった。ノブヒコ、ごめんね。」
ヤスは返事を待たずに駆け出し、駐車場の車に乗り込んだ。
「ノブヒコ、本当にごめん。」
「いいよ!さ、行こう。アキはヤスくんの車に乗せてもらいな。俺は自分の車で後を追うから!」
私達の目の前でヤスは車を停め、助手席の窓を開ける。
「ちょっと散らかってるけど、早く乗って!」
13
ヤスは、バックミラー越しにノブヒコの車が駐車場から出てきたことを確認し、車を発進させた。
「アキ、ごめんね。急に。ノブヒコさんって言ったっけ?ノブヒコさん、すごくいい人だね。」
「うん。すごくいい人だよ。」
心なしか胸の奥がズキズキ傷んだ。
「それより、シンヤが大変ってどういうこと?借金がどうのって言ってたんだけど…借金取りに追われてるとか、そういう危ない状況なの?」
「借金?そういえば、アキ、あの時電話でそんなこと言ってたよね。シンヤ、そういうことか。わかった。全部わかったよ。」
「全部わかった?それどういう意味?」
「全部を話す前に、ちょっと教えて欲しいんだけど…あいつ、アキになんて言ってたの?」
「ギャンブルにはまって、会社のお金に手を出したって。それで会社をクビになったのに、ギャンブルをやめれなくて、あちこちに借金があるから、300万借してくれって…。私に。」
「300万?アイツらしいね。そんな金、借してやりたくても、普通はすぐ用意できない。」
「でも、ヤスは借したんでしょ?20万。ヤスは羽振りよさそうにしているのに、それくらいしか借してくれない、ケチになったって、シンヤ、最低なこと言ってた。」
「それは最低なセリフだ。でも…」
「でも?」
「俺は借してない。シンヤには会ったけど、お金の話なんて微塵も出なかった。」
「どういうこと?」
私にはもう、何が本当か理解できない。車を運転しているヤスの横顔は、悲しいような嬉しいような、そんな変な表情をしている。
「シンヤと会った日、私とシンヤは二人で色んなところへ行ったの。シンヤとお花見した公園、ヤスやみんなと行った海水浴場、それから、秋祭りの花火を見た高台に、大学の時、私が住んでた部屋。」
「そっか。きっと、それはシンヤの聖地巡礼だったんだ。」
「聖地巡礼?」
「うん、聖地巡礼。アキ、シンヤはずっとあの頃のままのシンヤだよ。」
「え?」
と、その時。突然の工事渋滞で、車が前に進まなくなった。遠くの方で警備員が誘導をしている。運転しているヤスの表情が今度は明らかに曇った。
「アキ、シンヤの話を聞いてくれる?聞いて後悔するかもしれないけど…。」
「お願い!聞かせて欲しい。」
渋滞の先をジッと見つめながら、しばらく間を置いてヤスは話し始めた。
「シンヤ、大学の卒業式前に体調崩したの覚えてる?なかなか病院に行かなかっただろ?あの時。俺の方がなんか気になっちゃって、俺が無理矢理病院へ連れて行ったんだ。」
「…病院?」
「うん。そしたらシンヤ、末期ガンって宣告されて。」
「嘘。あの時、俺は気合いで体調治せるって息巻いてたのに?あんなに元気だったじゃん!末期?ガン?嘘でしょ?」
「シンヤ、施設育ちで身寄りがいないだろ?だから一緒に来た俺が立ち会って、病院の先生に聞いたんだ。間違いない。」
「もしかして、卒業式の日に別れようって言ってきたのって…」
「そうだよ。アキやみんなには絶対に言うなって俺、頼まれて…どうしても言えなかったんだ。アキ、隠しててごめん。」
「そんな…」
何も言えなかった。鳥が気ままに枝を選ぶように、自由なシンヤはただ、次の枝を見つけただけ。そんな風に私は思って、シンヤとの別れを割り切っていたのに。
「シンヤさ、宣告されて病院を出た時、なんて言ったと思う?一緒に来たのがアキじゃなくてよかったよって言ったんだ。ヤス、悪いけど最期まで付き合ってくれよなって。お前、共犯だからなって笑って言ったんだ。シンヤらしいだろ?アイツらし過ぎて、泣けてくるよ。」
ヤスの声が少し震えている。ヤスの顔を見れない私は、車のシートに包まるように下を向いて呆然としていた。
「シンヤとは、実はずっと連絡をとっていたんだ。会う度にアキのことを聞かれたよ。違う話をしていても、結局気が付けばアキの話ばかりしてるんだよ、アイツ。シンヤにとって、アキは忘れたくても忘れられない存在だったんだ。」
震えを押し殺して話すヤス。私の胸の奥から涙が溢れてくる。
「アキに彼氏ができたって話をした時、シンヤ、口では、そうか!嬉しいよ!って喜んでた。本当はすごく寂しそうだったけど。俺もアキから卒業かな、とかなんとか言ってたっけ。」
「そんなこと…言ってたんだ。」
「ちょうどその頃だったんだ。シンヤから調子が悪くなった、仕事を続けられなくなったって打ち明けられたのは。シンヤには当然言えなかったけど、俺はその時、シンヤには本当に時間がないって思って、それで俺…最期にアキに会いに行けって言ったんだ。シンヤ、絶対に会わないって言ってたんだよ。迷惑になるからって。それでも俺は連絡を取る度に、会いに行けって言い続けたんだ。」
「絶対に会わないってシンヤ言ってたんでしょ?なんで急に会いに来たの?」
「ある日、久しぶりに日本に帰るから会おうって、俺がシンヤを誘ったんだ。アキと会ったあの日。人と会う約束があるって言ってただろう?あれ、シンヤなんだ。シンヤ、相変わらずアキのことばかり聞くから、本当は会いたいんだなって俺思ってしまって、アキはまだシンヤのこと忘れられていないって言ってしまったんだ。そうすれば、会いにいくんじゃないかと思って。アイツさ、しばらく考え込んでたよ。そしたら急に会うって言い出したんだ。」
「急に?なんで?」
「俺も最初はわからなかった。でも、アキの話を聞いて全部繋がったよ。アイツ俺に、もしアキから連絡が来て変なこと言われても、全部話を合わせろって言ってたんだ。」
「借金…」
「そう、借金の話。あんなの全部嘘だ。仕事できなくなったって聞いた時、俺が金を工面してやるって言ったら、馬鹿な真似すんなって怒ってさ。こんな時のために蓄えくらいあるって。あと何年か分どうにでもなるって。すごい剣幕で怒ったんだ。」
「あれ、全部嘘…」
「嘘だよ。本当はシンヤ、アキに自分のことを忘れさせる為に会いに来たんだよ。」
頭が真っ白になる。そんな理由があったなんて。私、シンヤに酷い言葉をたくさん投げつけてしまった。最低だったのは、シンヤじゃなかった。何も知らず、何も見えていなかった私の方だ。
目の前の景色は、まるで別世界に迷い込んだかのように、ユラユラと大きく歪んでいく。何故あの頃のシンヤを信じることができなかったのだろう。何故シンヤの変わりように疑問を抱かなかったのだろう。
いつの間にか、車は渋滞を抜けていた。
「それで、シンヤは?シンヤはどこにいるの?」
「今朝、容態が悪化したんだ。シンヤは、この先の総合病院にいる。本当にもう、時間がないんだ。」
ヤスの横顔は真っ直ぐ、その先を見ている。
14
閑散とする病院内を私は慌ただしく走り抜け、シンヤの病室を目指す。
シンヤはどんな思いであの日を過ごしたのだろう。懐かしい景色を眺めて、何を思っていたのだろう。そして、私が投げつけた酷い言葉を、どんな風に受け止めていたのだろう。忘れたくない。忘れて欲しくない。そして私は、何故あの頃のシンヤのように思うがままに、素直にシンヤと向き合えなかったのだろうと後悔した。
シンヤの病室の前。手が震えて病室のドアノブに触れない。
「俺が開けるよ。」
ドアを開けることができない私を気遣って、ヤスがドアを開けてくれた。ドアを開けると、そこには大学で苦楽を共にしたみんなと、見覚えのないスーツの人達が、ベッドに横たわるシンヤを中心に、所狭しと並んでいた。
「アキ!」
大学時代、ずっと一緒にいたマユミだ。
「マユミ!」
「アキ、シンヤのこと知ってたの?」
泣きじゃくりながらマユミは私に聞いた。
「ううん、知らなかった…マユミは?」
「知らなかった!みんな、誰も知らなかった。今朝ヤスからみんなに連絡があって…みんなで急いで駆けつけたんだけど、もう意識ないって、お医者さんが…」
マユミの向こうで横たわるシンヤは、人工呼吸器を付けて険しい表情で寝ている。ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。無機質な機械音だけが、微かに病室に響いている。
「あなたがアキさん?」
スーツ姿の人達の中で、一番年配と思われる男性が話しかけて来た。
「はい、アキです。あのー…」
「はじめまして。私は、シンヤが勤めていた会社で社長を務める近藤です。そして、他の者達は皆、我が社の社員達です。アキさん、あなたの話は彼からよく聞いていました。あなたとの思い出はここにいる社員一同みんな、知っています。もちろん、アキさんのことだけではありません。彼は最終面接の時、私に、大学で過ごした時間が僕の人生のすべてですと、言っていました。そう広くないこの部屋に、これだけのご友人が訪ねて来られている。今になって思います。シンヤのあの言葉は本当に心からの言葉だったのだと。」
大学のみんなは、嗚咽を漏らし、静かに泣いている。
「こいつさ、先月…先輩、肉行きましょうよって誘ってきてさ、相変わらずまた、バカみたいな話して…こっちが体の心配してんのに、俺は死なねーっすとか言って、カラオケ付き合わされて…朝までマイク独占して、わけわかんない歌聞かされて…。あんな元気だったのに、こんな、こんなところに寝そべりやがって…」
社長の横に佇む男性がそう言うと、俺の時だって、俺の時なんかと、スーツ姿の男性が皆、口々にシンヤとの日々を語り出し、泣き出した。
シンヤは、ずっとシンヤだった。私と別れた後もずっと。あの頃のままのシンヤだったんだ。卒業して、就職しても、シンヤの周りにはまた違う誰かが集まっていて、どこにいても、どんな時でも、相変わらずシンヤは自由に生きてみんなを潤していたんだ。
「二年前、突然辞表を出してきてね。」
社長さんがポツリと呟く。
「病気のことは知っていたんだが、みんなに心配掛けたくないからと言われてね。私は彼に、最期まで面倒見ると言ったんだ。そしたら、最期に遊びまわりたいんですって辞表を置いて、笑って社長室を出て行ったんだよ。実は私も、彼が会社を辞めてから度々会う機会を作って会っていてね。いつ会っても、死の影なんて微塵も感じさせない、不思議な青年だったよ。ガンなんて嘘じゃないかとさえ思える程に。」
静けさを取り戻した病室。私は小さく肩で息をし、眠るシンヤの隣に立った。もう言葉を交わせない。そう頭に過ぎり、涙が溢れてくる。
「シンヤ、シンヤ…ほんとにほんとにごめん。」
シンヤの手を強く握った。
「皆さん、大変申し訳ありません。少し彼の容態を診せていただきたいので、一度ご退席願います。」
振り返ると、いつの間にか白衣を着た医師がそこに佇んでいた。みんな黙って部屋を後にして行く。私の肩に誰かが手を乗せた。
「アキ、一度出よう。」
ヤスは私の肩に手を当て、静かに言った。病室を出て、フロアーに向かおうと歩き出したその時、白衣の医師から呼び止められた。
「アキさんという方、どなたかわかりますか?」
「…アキは私です。」
「では、これを。アキさんという方にこれを渡してほしいと、頼まれまして。」
「え?誰に?」
「彼です。」
医師はそう言うと、シンヤを見つめた。手渡されたのは、『アキ』と書かれた封書だった。封を開ける。手紙だ。
14
アキ
これをアキが読んでいるということは、多分俺はもう話せない状態か、最悪死んでいるかのどっちかだろうな。
とりあえず、嘘ついて悪かった。ごめん。
本当はきっと、何も知らせないまま去ることが最善の選択だったんだろうけど…どうやら俺にはそういった器量がなかったみたいだ。本当にごめん。
ヤスにも迷惑掛けたんだ。多分あいつ、俺に余計なことを言ってしまったって自分を責めてると思うんだけど、そんなことはないって伝えておいて欲しい。いつも俺は自分の思うままに生きてきたから、今回だってヤスに言われなくても結局アキに会いに行ってたはずだから。
俺は性格悪いからさ、結婚するってのに、アキが俺のことを引きずってるって聞いた時、すげー嬉しかったんだ。あの瞬間だけは、本当に死んでしまうことを心底悔やんだよ。でも。
アキ、変わらないものなんてこの世にはないよ。みんな年老いていくし、街も世界もドンドン変わって行くんだ。それでいいんだ。それが美しいんだよ。
俺は羨ましかったんだ。あの公園のベンチも。人がいなくなった海水浴場も。あの高台からの景色や、もう別の人が生活している、あの頃に住んでいた部屋も。俺を置いてみんな変わっていく。
でもさ、どうか置いてくなら、せめて、アキと過ごした思い出の中に俺を置いていってほしいんだ。本当は、アキに忘れて欲しくて会いに行ったんだけど、そこまで俺は大人になれなかったみたいだ。
アキ。君と過ごした日々は、身寄りのない俺にとって、何よりも掛け換えのない日々だった。渇ききった俺にとって、まるで神様がくれたオアシスのような、そんな日々だった。ありがとう。
ひとつ名残惜しいのは、みんなよりも、ほんの少しだけ早く行かなきゃならないってことだけ。もっとみんなと、アキと一緒にいたかった。
まぁ、俺はアキのこと、忘れず行くよ。
本当にありがとうな。
アキの幸せ、誰よりも願ってる。
じゃあ、またね。
シンヤ
15
手紙にポツポツと涙を落としてしまった。シンヤの書いた字が滲んでいく。私は手紙を封書に閉まって泣いた。いろんな思い出が、いろんな気持ちが溢れて止まらない。
「意識、意識が戻りました!」
一人の看護師が駆け寄ってきた。急いで病室へ戻る。バタバタと慌ただしく、次々と病室へ入っていく。私が病室へ入ると、みんな私に道を開けてくれた。うっすらと目を開けたシンヤに寄り添う。
「シンヤ、ごめん!シンヤ!」
フルフルと震える手を上げ、シンヤは自ら人口呼吸器のマスクを取った。
「…アキ。嘘ついてごめん。許してくれ。ごめん。」
「何言ってんのよ!シンヤ!私の方こそ、私の方こそ…」
何を話せばいいのだろう。言葉が、感情が溢れて止まらない。
「アキ、今までありがとう。幸せになってよ…、ノブヒコさんだっけ?アキを、アキを連れてきてくれて、ありがとう…アキをお願いします。」
いつの間にか私の後ろにはノブヒコがいた。ノブヒコは涙を流して、シンヤを見つめる。
「シンヤさん、まかせてくれ!もし生まれ変わったら、今度は正々堂々アキを巡って、勝負しよう!」
シンヤは、またあの頃のように笑って呟く。
「正々堂々勝負か…ハハハ…でも、きっとまた俺は振られるさ。アキ、ヤス、ノブヒコさん、社長、先輩、そして…みんな。本当にありがとう。」
シンヤの瞳はもう閉じようとしている。
最期の言葉を。最期の言葉を。
「シンヤ、私も忘れない!本当に楽しかった、本当にありがとう!」
私は叫んだ。私の言葉はシンヤに届いたのだろうか。
「あーあ、もう少し生きたかったなぁ。」
そう呟いて、シンヤは静かに目を閉じた。
16
「ノブヒコ、ごめん。」
ノブヒコには全てを話した。全てを話しても、ノブヒコは何ひとつ怪訝な表情は見せない。
「正直に話してくれて、嬉しいよ。アキは俺の向こうにシンヤくんを見ていたんだね。」
「ごめん…」
「でも、こういう始まりもありだと思うんだ。俺も彼を見習うよ。改めてアキが好きだ。結婚を前提に付き合ってくれないか?」
「…私、本当に贅沢だね。」
ヤスが駆け寄ってくる。
「ノブヒコさん、本当にすいませんでした!」
ヤスは何かの手本のようなお辞儀をした。
「ヤスさん、やめてください。一緒にくると言い出したのは僕です。僕も彼と同じように、思ったまま行動したまでです。頭を上げてください。お願いします。」
フロアーにはみんなが、泣きながらもシンヤの思い出話をしている。きっとこれからもこの先も尽きないんだろうなと、私は思った。院内は、普段の静けさを取り戻した。
数日後、シンヤの葬儀を社長の近藤さんが催してくれた。出棺の時、みんな心からシンヤとの別れを惜しみ、また泣いた。私はというと、少しだけみんなと離れて空を見上げている。あの手紙はまだ持ったままだ。もう二度と戻らないシンヤはきっと、本当に自由になったのだろう。シンヤの手紙にこう書いてあった。
『街も世界もドンドン変わっていく。それでいいんだ。だから美しいんだよ。』
シンヤの過ごせなかった時間を、私はゆっくりと過ごそうと思う。変わっていく世界を、あの高台からこっそり覗くように。
さようなら。シンヤはもういない。その代わりにシンヤは、私の小さなこの世界で、唯一の変わらない永遠となった。
私は空を見上げて、そう思った。
了