モンスターナイトスクールへようこそ!
もしかすると、あなたの知らない、見たことのない世界がすぐ隣にあるのかもしれません。
「えー、皆さんおはようございます。人間界転移の途中で怪我のあった生徒はいますか? ……いませんね。それでは出席をとります。先生に聞こえる程度の小さな声で挨拶をしましょう」
ーー学校のHR。
担任の先生がいつも通りの挨拶を終えると同時に、それは始まった。
教室が物静かなのは普段と変わらず、そこにいる三十人の生徒たちが姿勢良く着席している様子もまた変わらない。ピシッと背筋を伸ばし、先生に自分の名前が呼ばれるのを今か今かと待っていた。
「えー、出席番号一番『アリゲート=リザード』君」
「は、はい」
一番左端の列の一番前に座っている、全身緑色の刺々しい鱗で覆われたトカゲ。
熱意とやる気に満ちた彼は、率先してクラスの事業などに取り組み、みんなからも慕われている存在だ。
先生の言う通り、か細い声を出しながら挙手する。
「次に出席番号二番『ゴッド=イシュタル』さん」
「はいっ! はいっ!」
「こら、静かに」
「は、はい……」
ここで一気に名前が飛ぶ。が、彼女の席はアリゲート君の一つ後ろだ。
派手な衣装に華美な装飾物。誰の目から見ても高貴なお嬢様という感じだが、そういう類とは別に一線を超えている気もする。次元的な意味で。
しかし、見た目に反してとても活発な彼女はクラス委員長を務めている。
人を動かすのが上手いのか、クラスの中心となってみんなを引っ張れる良きリーダーだ。
「ゴホンゴホン! えーっと……次は出席番号三番『サヌレ=ナカヌレ=ヘストリア=マーキュリー=ホベット=エンカルチャー=ドワンゴーー」
出席番号三番の全身包帯人間『サヌレ』君。
存在感の薄い彼だが、毎回名前を読むのに三十秒かかるのが唯一の特徴だ。
と、こんな風に次々と名前が呼ばれていくこと約五分。
「コホン、では最後に出席番号さnーーゴホンゴホン! う……ウォエッ、ウォエェェェェ!!」
先生が最後の一人を呼ぶ直前、まさかの唐突ゲロリンタイム。教卓に紫色の嘔吐物をぶち撒けた。
教室は一瞬騒めくが、先生が「大丈夫だ」と言うように手をパタパタと振る。
「す、すみません。先生実は体調不良の期間でして……。少しお手洗いに行ってきます……うっぷ」
それだけを言い残すと、先生は手で口と腹を押さえながら足早に教室を退出した。
バタン、と教室のドアが閉まると、室内は再び騒々しくなる。
「はぁ……」
そんな中、ただ一人だけ沈痛な面持ちをしている者がいた。
最後に呼ばれるはずだった生徒ーー出席番号三十番の渡辺だ。
“黒縁眼鏡のチビ”。彼の特徴を掴むだけなら、この言葉だけでも容易に足りるのではないだろうか。決して全身が鱗で覆われていたりはしない、至って普通の少年だ。
そんな渡辺は、アリゲート君とは正反対の位置に当たる一番後ろの席で頭を抱えている。
深いため息もご一緒に。
俺は、こんな所で一体何をしているんだ?
渡辺にとって、何度自分に問いかけたか分からない疑問だった。
それも一週間。渡辺はこの疑問と一週間向き合い、未だに己との葛藤を繰り返している。
が、依然解消されないことで苦悶の日々が続く今日この頃。
「ああ、そっかそっか。満月が近いんだったっけ? 『オオカミ男』は大変よねー」
その時、渡辺の真横から呑気な声が飛んでくる。
声に反応して渡辺が隣を見やると、そこに座っていたのは出席番号二十五番ーー『パパイア=パーパイヤ』。
薄っすらと紫がかった銀の長髪に真紅の瞳。白いメイド服に赤いベレー帽を被っていて、頭と背中とお尻からそれぞれ黒々しい角と翼とフォーク型の尻尾が生えている。
容姿端麗。成績優秀。クラスではヒロイン的立ち位置にいる人物だ。
……そうだった。全てはこいつから始まったんだった。
指先で髪の毛をくるくると弄ぶパパイア。
その美麗な横顔を拝めば、どんな男でも虜にされる(クラス内男子曰く)と言われているが、渡辺だけは例外である。
寧ろ逆だ。彼女の横顔を見る度に、渡辺の中では怒りがふつふつと湧き上がっていた。
それは、思い出すのも嫌な記憶がありありと思い出されるからに他ならない。
一週間前の出来事、そしてここまでに至った経緯を。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「おめでとうございます! この度、あなた様は『モンスターナイトスクール』実現のための実践投入期間において、人間界代表を務める『人間大使』に選ばれました!」
時刻は真夜中。午前一時。
ーー空から、女の子が降ってきた。
いや、降ってきたというのは些か語弊がある。
白いメイド服に赤いベレー帽を被った女の子が、渡辺の自室の天井をすり抜けて舞い降りてきたという表現が正しい。
渡辺がベットで仰向けになりながら「今宵のエクスカリバーは血に飢えておる」と三度目の快感に浸っていた時だった。
「あれ、幻覚か? いつの間に部屋の天井にリアルな縞パンがーー」
と、エクスカリバーを鞘に収めようとした直後。
パチパチという拍手が部屋中に鳴り渡ったかと思うと、その縞パンから徐々に彼女の全身像が現れ始めーー
「痛っ!」
最終的には床にストンと落っこちた。
「いててて……」
打ち付けた腰を摩りながら、渡辺にお尻を向ける少女。危うく渡辺のエクスカリバーが切っ先を向けるところだった。
「ハッ!」
何かに気付いたのか、少女は慌てて立ち上がると服装や髪型の乱れを急いで整え始める。
十秒ほどの沈黙。少女のお尻から生えているフォーク型の尻尾が左右にピョコピョコ揺れていた。
「よし、っと」
最後にずり落ちかけていたベレー帽を被り直すと、少女はくるりと渡辺の方へターンする。
見た目は十七、八くらいで渡辺と大差はない。突っ込み要素は幾つかあるが、それを除けば普通の可愛い女の子に違いなかった。
「コホンコホンと……」
一拍間を空ける。
そしてーー
「おめでとうございます! この度、あなた様は『モンスターナイトスクール』実現のための実践投入期間において、人間界代表を務める『人間大使』に選ばれました!」
「……………………」
そう言われた。
渡辺は、まだ完全に鞘へ収まっていなかったエクスカリバーをそそくさと収め直す。
先程までの威力はとうに失われていた。
「そうだ。クラッカークラッカー……」
パン!
少女はゴソゴソとメイド服のポケットからミニクラッカーを取り出し、満面の笑みでそれを鳴らした。
渡辺の頭に、色とりどりの紙テープと紙吹雪が降り積もる。
「あ、申し遅れました。私は『人外大使』、パパイア=パーパイヤ。見ての通り悪魔です。今日から一週間、『人間大使』のサポート役を務めることになりました! 共に名誉ある役職なので頑張りましょう!」
「……………………」
言い終えると、パパイアはメイド服の裾の両端を軽くつまんで丁寧にお辞儀。
腕を組みながら瞼を閉じ、静かにパパイアの話に耳を傾けていた渡辺は天を仰ぐ。
「あ、あの……『人間大使』様?」
その様子に違和感を覚えたのか、パパイアが相手の気色を窺うような仕草を見せる。
渡辺はゆっくりと口を開いた。
「『人間大使』じゃなくて、渡辺でいいよ」
「えっ? ーーああ、はい、渡辺さんですね。分かりました」
「それとさ、幾つか質問してもいい?」
「はい! 答えられる範囲でなら何なりと」
質問の許可が出たので、渡辺は質問内容を頭で整理する。
取り敢えず、教えてもらいたいことから順番に。
「まず一つ目。『モンスターナイトスクール』って何?」
「はい。『モンスターナイトスクール』とは、人間界とは別の世界ーーつまり、天界や魔界や人外界から“人間と親睦を深めたい人外”を集め、真夜中に人間界の学校を拝借して、人間界の勉強をするという画期的な計画のことです」
パパイアは人差し指を立てながら得意げに語る。少し胸を張っている気もした。
「ほーん。じゃ、二つ目。『人間大使』って何?」
「はい。それは読んで字の如くというやつですね。要するに、人間と人外の親睦を深めるための架け橋みたいな感じです。ちなみに『人外大使』も同様です」
「俺は人間界代表、君は人外界代表ってこと?」
「その通りです」
となると、腑に落ちない点がある。
「じゃあ、何でそんな大事な役目を担うのが俺なんだよ。この世界には俺よりも偉い奴はごまんといるし、いっそのこと首相とか大統領、外交官にでも頼めばいい」
「さっすが、渡辺さんは鋭いですね!」
ピロリン、と効果音が出てきそうなポーズで褒められた。別段、悪い気はしない。
「そもそも、我々の住む世界はあまり人間界に認知されていません。空想上の物語として一応語られてはいるようですが、あくまで空想上の世界とされていて、実際に存在するとは誰も思っていない……。渡辺さんも、私と出会うまではそう思ってたでしょう?」
コクリ、と渡辺は無言で頷く。
パパイアは首を横に振り、しかし納得したように微笑みながら話を続けた。
「だからこそなのですよ。仮に人間界のお偉いさんなどに『人間大使』を任命してしまうと、彼らは必ずや人類の進歩と発展のために人外を利用してくるでしょう。あるいは、人間界の軍事力を集結させて人外に一斉攻撃してくるーーいや、もしかすると鼻で笑うだけで終わるかもしれませんね」
人間は“異質”な存在を嫌うようですから、とパパイアは寂しそうに笑う。
それに、頼る相手の立場が大きすぎると悪知恵が働くのは人外界でも同じことですよ、とさらに付け加えた。
「そこで、人間界全市民ーーは少し多過ぎるので、日本に標準を絞ってこちらで抽選したところ、見事に渡辺さんが当選したということです! 一般市民なら人外接触においてのリスクも少ないですし、現役学生の方は特に勉強になるので大歓迎ですよ!」
ふむふむ、なるほどな。大体の内容は頭に入ったぞ。
……ていうか俺、もう学生って呼ばれる年齢じゃないんだけどな。今年卒論書いて大学卒業したら社会人だよ?
「最後にもう一つだけ質問」
「はい、何でしょうか?」
「その計画の実践投入期間は一週間って言ってたけど、何で一週間なの?」
「はい。それは、仮の期間だからですね。計画を実現させるための前段階なので」
「……ていうことは、一週間終わったら俺の役目はそこでお終いってこと?」
「うーん、出来れば継続していただく形がベストなんですけど、無理にとは言いません」
「ふーん、そっか」
優先事項として重要なトップスリーは聞けた渡辺。脳内でバラバラに拡散している膨大な情報を一つ一つ整理していく。
つまり、今までの話を大まかに要約するとこうだ。
1.『モンスターナイトスクール』とは、人外が真夜中に人間界の学校に忍び込んで勉強する勉強会みたいなもの。
2.『人間大使』とは、人間と人外の親睦を深める架け橋的存在。人間界代表からは渡辺、人外界からはパパイアが選出された。
3. 人外界のことが人間界にあまり知られていないために計画が思うように実現できず、今回初めて実践投入形式として一週間の期間を設けた。
4. 渡辺の『人間大使』としての役目は一週間で終わるが、個人の意思でそれからの継続も可能。
うん、さっぱり分からん。
「他に質問などはございませんか?」
「うん、ありがとう。何が何やら分からないけど、とにかく夢じゃなさそうってことは把握したよ」
「そうですか! いやぁ、思ったよりも乗り気でよかったです。もし断られでもしたら、魔界に帰れなくなるところでしたよ」
どう見たら乗り気に見えるんだよ、と渡辺は内心でツッコミを入れた。
そもそも、渡辺はこういった類の話は、ちょろちょろっとゲームなどの知識で仕入れているだけで、特別詳しいわけではないのだ。
が、先程もパパイアが言ったように、現にこうして角と翼と尻尾を生やした悪魔がいるのは紛れも無い事実で、自分の目に映っている現実なのだから信じるしかない。
ーーこれは運命だ。
俺は、この世に生まれ落ちたその瞬間からこうなる運命だったのだ。
そう考えると、自分が『人間大使』という役職に抜擢された以上、拒むのではなく、真摯に運命を受け入れるのが筋である。――というのは建前で、実は渡辺は人外とやらにめちゃくちゃ会ってみたいだけである。
未だ半分ぐらいは“リアルっぽい夢”の中だと思い込んでいる渡辺に、異論などあるはずがなかった。
……でも、興味本位で聞きたいことが一つ。
「ちなみに、『人間大使』を選出したやり方とかあるの?」
「いえ、特別な方法じゃないですよ。なんでも、人間界では有名な“だーつ”という遊びを今回の選出方法に起用されたとか」
「だ、ダーツ!?」
渡辺は思わず目を見開き、素っ頓狂な声を上げる。
「はい。天界の主神様が代表をなさって。一メートル離れた場所から“ニホンチズ”という的に針を投げられたんですが、人外界中大注目でしたねー」
「近っ……で、どうなったの?」
「三回投げられたんですよ。一回目は東の“カントーチホー”に当たりまして、二回目はその中の“トーキョー”という小さな場所に偶然にも当たりました。で、最後の三回目に投げられた矢が緑色をした屋根のアパートにーー」
「うん、そこまで聞けば大丈夫。間違いなく俺ん家だわ」
パパイアの肩に手を置いて言葉を遮る渡辺。予想だにしていなかった回答に眉間を押さえた。
「てことは、『人外大使』も……」
「はい! 大体同じようなものです!」
「はぁ……」
何がそんなに嬉しいのだろうか。
自信満々の表情で快活に振る舞う彼女を、渡辺は訝しむように見つめた。
一方のパパイアはどこ吹く風と言った感じで、「へぇー、ここが『人間大使』様のお部屋ですかー」と部屋の中を物色し始めようとしている。
おいやめろ。
「とにかく、俺はその『人間大使』とやらになってもいい。抽選で決められたのは癪だが、話を聞く限り面白そうだし、別に断る理由も無いしな」
「ホントですか!? ありがとうございます!」
「バイト代とか出るの?」
「バイ……ト? ……あ〜! お給与のことですか! 最初にはっきり申し上げておきます! ――出ませんッ!!」
「あっそ、ならいいや。さいならー」
「うわぁぁ〜ん! 待ってくださいよ渡辺さぁ〜ん!!」
「ってててて!! ちょ、ちょっと引っ張んなって!」
「わ、分かりましたからぁ〜。『人外マーケット』でお得に使える割引券を一年分差し上げますからぁ〜!」
「ンなもん人間界で使えるわけねーだろうがっ!! なんだよ『人外マーケット』って! 人外界主体で話進めてんじゃねぇよ! 大体よくできたご都合主義満載の夢の中で、なんで俺が無償でタダ働きしなきゃなんねぇんだよ! しかもこんな夜中に出張りやがって!」
その時――ドンッ!! と壁が振動し。
『るっせーぞンな時間に……ッ!! ッkろすぞタぁコが……ッ!!』とくぐもった怒鳴り声が、壁の向こう側から轟いた。
「ひょえっ……」
「…………」
コホン、と渡辺は咳払いを一つ挟む。
「で、明日から始めるの?」
「え……? あー、ええと……明日というか……忙しないのは重々承知しているのですが、実は今日からなんですよ。なんで、今から渡辺さんには『人間大使』の制服に着替えてもらいます。そして私と一緒に、会場である『愛熊高校』へ行きましょう!」
渡辺は耳を疑った。
「は? 今から? てか、その高校って俺の母校じゃ……」
「心配しなくても大丈夫ですよー。今回の一週間体験に参加する生徒は既に学校の方にいますので」
「いや、俺が言ってるのはそんなことじゃーー」
「ではでは、とっとと着替えちゃいましょー!」
やる気に満ち溢れたパパイアは腕をまくり、早速渡辺のズボンに手をかける。
「止めろぉおおおおおおおお!! 俺の聖剣が暴れでもしたらどうするつもりだ!?」
「ふふん。渡辺さん、見くびってもらっちゃ困りますよ。私こう見えても魔界で勇者と一戦交えた経験があるんです。聖剣の一本二本の処理などお茶の子ーーん? すんすん、何か変な匂いが……」
「のわああああああっ!! 俺は無実だああああああああああ!!」
――ドンッ!! 『るっせーぞ……ッ!! このタワケがァァ……ッ!!』
というやり取りがあった直後。
渡辺の視界が突如暗闇に支配された。
意識が急速に遠退いていく。
『渡辺さん! 現在、移動魔術が発動している最中ですので、少し眩暈がするのはご容赦ください!』
遠くの方からパパイアの声が聞こえる。
しかし、渡辺にはよく聞き取れない。
ただ、自分の腕にほんのりとした温もりがあることは理解できた。
ーー人外ねぇ。どんな奴がいるんだろ。てか、俺さっき選出方法に文句言ったけど、逆に適当だからこそ余計に責任感が増したんじゃ……。
未知との遭遇に期待する一方で渡辺が抱いたのは、そんな一抹の不安だった。
こうした経緯で、渡辺は人間界代表の『人間大使』となり、『モンスターナイトスクール』実現化に向けた政策協力を一週間手伝う羽目になるのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ーーで、一週間後の現在に至る。
「はぁ……マジでやらなきゃよかった」
結論から言うと、渡辺は全力で後悔していた。
一週間前にパパイアとの出会いを夢だと錯覚し、『人間大使』を易々と引き受けてしまった自分を殴りたいぐらいに。
理由は幾つかあるのだが、主な理由としては二つ。
まず、睡眠時間が圧倒的に少ないこと。
この『モンスターナイトスクール』は午後九時に始業し、午前三時に終業なのだが、そうしていると帰ってから寝る暇がないのだ。
しかも、“大使”の二人はその日一日の授業内容や計画の改善点などをレポート一枚に書かなければいけないらしく、それに一時間費やす。
パパイアの移動魔術で一瞬で帰宅できるのは唯一の救いだったものの、帰宅するのは毎回午前四時を回った。朝ぼらけだ。
それから寝たとしても、睡眠時間は二時間か三時間。
毎朝八時に起きて大学に通う渡辺には堪える睡眠時間だ。しかも悪夢ばかり見る。
渡辺は何とか根性だけで一週間耐えたが、想像を絶する一週間だったことは間違いない。
それが一つ目の理由だ。
そして、もう一つがーー
「そうそう。それに先生かなり年寄りだから、余計に堪えるんじゃない? ね、渡辺さんもそう思うでしょ?」
「……俺が万が一逃げないように、こいつが二十四時間監視してたからだ」
「あれ、渡辺さん誰と喋ってるんです?」
渡辺の顔の前で手を振るパパイア。
本気で殴ってやろうかと拳を固めるが、体力の限界なのか直ぐに気力が失われた。
「渡辺さん、随分とお疲れのようですね……」
渡辺は机に突っ伏した。
「そりゃこうもなるだろ。毎日四時間弱の睡眠で大学行って、しかもバイトしてんだぞ。それを一週間続けた俺は人外界から表彰されるべきだと思うけどな。俺はナポレオンじゃねぇっつの……」
「なぽ……?」
「分からなければよろしい」
と、あれこれ言っても、今日で一週間が経つ。渡辺が『人間大使』として職務を全うするのは今回で最後だ。
思えば長い一週間だった。約二十年生きてきた中で、これほどまでに疲労感に見舞われた一週間は無かったと渡辺は断言する。
こんな役割をまだ継続できるという輩がいれば、そいつはよもや人間ではない。
それこそ人外だ。
「あ、私分かりましたよ!」
「……何が?」
頭上の豆電球が光ったパパイアに、渡辺は首だけ横に向ける。
何やら同情しているような、それでいて意地悪そうな笑みを浮かべている。嫌な予感しかしない。
「にひひ。さては渡辺さん、低身長だから『人間大使』の制服が似合ってないとか思い悩んでいるんでしょう?」
「…………」
「大丈夫ですよ! 一応サマにはなってるので、問題にするほどじゃありません! 生徒にも人気あるんですし、自信持ってください!」
「おいぶっ殺すぞクソ悪魔。今からでもお前を十字架付きの樽の中で一週間塩漬けにしてから白飯のお供にすることだってできるんだぞオラ」
「ええー。物騒なことを言わないでくださいよ。渡辺さんってお下品なんですね、心外です」
「……もういいやお前」
興が醒めた渡辺は首を元に戻そうとするが、パパイアは満足したようにクスクス笑っている。
明らかに渡辺は揶揄われていた。
ここ一週間で何度かあったことだが、こういう本心でないパパイアの悪戯を見ると、「こいつ本当に悪魔なのか?」と渡辺はその都度疑念を抱いている。
「ところで、『人間大使』は継続されますか?」
「あん? どうしちゃったの改まって?」
「だって今日のレポートを書き終われば、仮の実践投入期間は終了するじゃないですか。今のうちに聞いておこうかと」
「なーる。そういうことね」
渡辺の答えは、既に決まっていた。
言うまでもない。
「まあ勿論、渡辺さんならば継続なさるかとーー」
「いや、俺やらないよ?」
「ーーーーーーーーえ?」
渡辺の返答から、随分と間を置いた一声だった。
鳩が豆鉄砲を食ったというのか、どうやらパパイアは、渡辺の言った言葉の意味をちゃんと理解していないようだ。
「……あ、あの、私の聞き間違いでなければ、先程『やらない』と仰いましたか?」
「うん、言ったよ。昼夜逆転して疲れるだけじゃん」
絶句。
首を縦に振った渡辺を見て、パパイアは絶句した。まるで、ガラスを割ってしまった幼子のような顔をしている。
「…………」
それからは、特に理由を聞いたわけでもなければ、渡辺を問い詰めたわけでもない。
ただーー
「そうですか。残念です。……でも、私は少なくともこの一週間、それなりに楽しかったと思ってました」
ぽつりと、誰にも聞き取れないような声で呟いただけだった。
「ーーーーえっ?」
渡辺が頭を持ち上げて隣を向くと、パパイアは既に体制を元に戻して机に向き直っていた。
そして、一時限目のチャイム(教卓の目覚まし時計)が鳴る。
「いやぁ、お待たせして申し訳ない。胃の中が空っぽになった気分ですが、そのおかげでスッキリしました。さて、早速授業を始めていきましょうか」
同時に、年老いたオオカミ男がハンカチで口元を拭いながら教室に戻ってきた。
ーーなんだってんだよ、アイツ。
釈然としないまま授業が始まる。
渡辺も一応姿勢を正し、授業を受ける準備に入った。
結局、その日の始業時間から終業時間まで、渡辺とパパイアは一度も口を利くことはなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「…………終わった」
午前三時。『モンスターナイトスクール』実践投入期間(仮)は無事に幕を閉じた。
渡辺は、パパイアと二人で教室に残って最後の報告書を書いていたのだが、たった今それが終わったところだ。
つまり、そこで渡辺は『人間大使』としての役目を終えたことになる。
「それにしても、あいつらも可愛げがあるじゃないか。まさか、こんな色紙をプレゼントしてくれるなんてな」
開放感に浸りながら、渡辺は机に放ったペンの代わりに色紙を手に取る。
ーーどこにでも売っていそうな色紙だ。
終礼後、体験者である生徒たちが渡辺とパパイアの所に集まり、寄せ書きをした色紙を二人にプレゼントしたのだ。
担任の先生によると、前々から二人のいない所でこっそり計画されていたとか。
「大使冥利に尽きますよね。あれだけ喜んでいただければ……」
すると、今の今まで黙りこくっていたパパイアが口を開いた。
パパイアの声を久々に聞いたからか、渡辺は少々驚いたような顔でパパイアに視線を向ける。
しかし、彼女は渡辺に視線をくれることなく、ただ黙々とレポートを書き続けていた。おそらく、渡辺を無視した独り言のつもりなのだろう。
その態度が、少し渡辺の癇に障った。
「おい、言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「……別に何もありませんけど」
席を一つ挟んだ状態でのやり取り。
パパイアが自分の席ではなく、左隣の『ヨーテル』さんの席を使っていたのだ。
バン!! と渡辺は勢いよく机を叩いた。
「何もないわけないだろうが! お前、明らかに俺を避けてるだろ! 今日のよそよそしい態度見てりゃ分かるんだよそれぐらい! いつまでも子供みたいに拗ねてんじゃねぇよ!」
「ーーだから、何でもないですってば!!」
バン!! とパパイアも両手で勢いよく机を叩いて立ち上がった。
その気迫に、渡辺は一瞬鼻白む。
「私は……私はてっきり、渡辺さんが『人間大使』を続けてくれるものだと思ってました!」
胸の奥から絞り出すような声。
そんなパパイアの声が、感情が、渡辺の鼓膜を通じて心を揺らした。
「初対面である人外に対しても優しく接することができたり、嫌々ながらも勉強の面倒を見てあげたり、私は……一週間しか一緒にいませんでしたが……そんなあなたを…………尊敬、していました」
ポタポタと、何かが落ちる音がする。
ーー涙だ。
パパイアの目尻から涙滴が無数に溢れ、頰を伝い、机に斑点模様を作っている。
教室の窓から差し込む月明かりで、渡辺にはそれが分かった。
「だから、この人とは上手くやっていけそうだなって……名誉ある大使として、これからも頑張っていけそうだなって……そう、思ってたのに……」
「パパイア……」
渡辺にはもう何も言えなかった。
煮え繰り返っていた怒りも、パパイアに対する嫌悪感も、全てが一瞬にして消失する。
そうして最後に残ったのは、やはり“後悔”という自責の塊でしかない。
喉の奥がむず痒くなってきた。
「いや、俺はそんなつもりじゃ……」
「知っていました。渡辺さんが迷惑してるだろうなってことは……」
「いや、別に迷惑じゃーー」
「そうですよね。適当に決められ、勝手に押し付けられた役目ですもんね。そりゃ誰だって、何で自分がってなりますよね……」
目を泳がせながら、渡辺の顔を見ようとはせず、パパイアは嗚咽を漏らした。
ーーこれは嫌味などではない。
一週間パパイアと一緒にいた渡辺なら、分かりきっていることだ。
なのに、思うように声が出ない。
かける言葉は見当たらず、頭の中は真っ白だった。
「……渡辺さん、一週間のお勤めご苦労様でした。本日をもって、あなた様の『人間大使』としての役目は終了します。後は今まで通り、自由に暮らしてください。人外と接触した記憶は消させていただきますが」
「お、おい……」
もう、何も分からなかった。
渡辺の視界が暗闇に支配される。
意識が急速に遠退いていく。
パパイアが渡辺に近付く。
渡辺の額に人差し指を当てる。
それを阻む者は誰もいない。
そして最後に、パパイアは告げた。
「ーーさようなら。渡辺さん」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
『…………さん』
遠くの方からパパイアの声が聞こえる。
しかし、渡辺にはよく聞き取れない。
『……べさん! 起きてくださいってば!』
ただ、自分の腕にほんのりとした温もりがあることは理解できた。
その温もりは次第に光となり、暗闇の奥底に沈んでいた渡辺に手を差し伸べるとーー
「ハッ……!」
「もう、やっと起きてくれましたね」
「こ、ここは……俺の部屋か。あれ、何でパパイアが俺の部屋にいるんだ?」
「え、忘れたんですか? 昨日『人間大使』を継続すると快諾されましたので、私がお迎えに来たんですよ」
「あ……っそ……」
「渡辺さん、どこか具合でも悪いんですか?」
「あ、いや別に大丈夫。……で、今まで何してたんだっけ?」
「それも忘れたんですか? 人外界に行くには少し時間があったので、渡辺さんと雑談することになったんですよ。そしたら、渡辺さんがいきなり寝始めたんじゃないですか」
「人外界に行く…………ああ、そうだったそうだった! 思い出したよ。“就任式”ね」
「はぁ……。今日から正式な大使になるのですから、少しは緊張感を持ってくださいよ。おかげで、私の魔界武勇伝が台無しです」
「じゃあ、あれは一体……」
「? どうかしたんですか?」
「……いや、気にすることないよ」
「そうですかーーって、あ! もうこんな時間! どうしましょう! 急いで人外界へ行かないと『大使就任式』に間に合わなくなりますよっ!」
「ふふっ」
「渡辺さん?」
「お前、やっぱ悪魔らしくねぇな」
「余計なお世話ですよ! そう言う渡辺さんこそ、こうして人外と臆せず話せてる時点で、既に人間らしくないじゃないですかっ!」
「おいおいパパイア、今更何を言ってるんだ? そんなの当たり前だろ」
「え?」
「だって、俺はーー」
部屋の窓が解放される。
渡辺は、そっとパパイアの手を取り、そして静かに握った。
最後に軽いウィンクを添えて。
「ーー世界で一番人外が大好きな人間、渡辺さんだぜ?」
どうも一色でございます。
初めましての方は初めまして。そして、SF大長編やファンタジー大長編を書いていた頃の一色を知っている方はお久しぶりです笑
まずは、読んでくださったことに感謝致します。それにしても、随分前に書いたものだったんですが、今回ちゃんと投稿することが出来て良かったです。と言うのも、これを書き終えた後、すぐに長編の方の執筆に取り掛かっていたので、いつ投稿しようかと悩んでいる間に時間が過ぎ去っしまいました……。申し訳なかったです。
さて、今回はこの辺にして、次回作のことなのですが、先述にもありました長編の方をいよいよ投稿しようかなと思っております。最近は慌ただしい毎日を送っているので、「いつ更新できるか?」などの保証はできませんが、それでも自分なりのペースで書いていけたらなと考えております。長編なんて久しく書いてなかったので、温かい目で見守っていただけると幸いです笑
これからも何卒よろしくお願いします!
ありがとうございました。