俺は主人公?
薮良幸司視点
「遅刻だっ!!!」
澄み渡る青空の下、すずめの囀りが住宅街の路地に心地よく響き、新鮮な空気が肺いっぱいに広がる朝。
しかし、今の俺にはのんびりと上を向いて歩く余裕なんてないし、小鳥の鳴き声に意識を集中させるなんて時間もないし、新鮮な空気に至ってはさっきからの全力疾走で喉が焼き切れるくらいの勢いで呼吸を続けているので舌の根が痛いくらいに腫れあがっているみたいなので空気のおいしい味なんて全く感じない。
一分一秒を争う今の俺はいつもと変わらない朝の光景なんてどうでもいい事だった。
寿限無高校への通学路はいたって平坦な道なので急な坂道がないのは徒歩で通学する生徒にとって非常に助かる地形だし、近隣が住宅街なので道も碁盤のマス目状のような感じで道が真っすぐになっており迷うような事も少ないと思う。
ただし、十字路が多いのでその分信号や横断歩道も多いことになり、全て青信号でタイムロスなく行けた場合と、全て赤信号で立ち止まりながら進んだ場合の通学時間は、十分以上にもなってしまう。
今日のパターンはその最悪のタイミングが重なるパターンで、今朝だけで何度も道の向こうの赤信号を憎らし気に睨みつけつつ二の足を踏んだ。
そして青信号になった瞬間、アスファルトを蹴りだし全力疾走を再開させた。
「頑張れ俺、ふんばれ俺!」
自分で自分を鼓舞しつつ横断歩道を渡り切り、寿限無高校に向かってひたすらダッシュ。
直線の道路の遥か向こうにゴールの寿限無高校が見えて、この全力登校マラソンにラストスパートをかける。
「ハリーアップ!ハリー!ハリー!」
自分に対して応援するように独り言をもらしながら、脇目も振らずに走り続ける。
ズダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ・・・!
全力疾走しながら、ふと、走馬灯のように昨日の先生のありがたい御言葉が頭に浮かぶ。
『また遅刻か、藪良幸司。これで四日連続じゃないか。明日も小凝りもなく遅刻しやがったら、
保護者呼び出して、停学だと思え!』
保護者呼び出しは危険過ぎる!あの人をこの高校に連れて来られたら、この藪良幸司の学校生活、あらゆる面で終わる。
ダメだ。今日も遅刻したら最悪、退学を選ばざるを得ないんだ。良くても不登校だ。
「走れ、走るんだオレ」
今朝の俺はとことん運の悪い日らしく、赤信号の横断歩道の手前で足踏みしながら、右腕に着けた安物の腕時計をチラリとみる。
《残り1分12秒。》
え、間に合わない!遅刻者の判定は寿限無高校の正門を八時三十分までに通過できなかった生徒に対してで、それより一秒でも遅ければ構内中に響き渡る朝のチャイムを聞きながら校門前で遅刻届を書かされる羽目になる。
ここからゴールの正門までの距離、およそ300メートル。間に十字路があるけれどほとんど直線道路で見晴らしは良好だ。
陸上競技の世界ならギリギリセーフなのかも知れないが、あいにく俺は帰宅部のエースだ。
はたしてここまでの時点ですでに全力疾走でスタミナを大幅に消費していて、それにより減速した俺のスピードで間に合うのか?
いや、最後まで諦めない。わずかな躊躇いでさえロスだ。
「俺ならやれる!」
目の前の信号が青に変わるやいなや俺の身体に残るありったけの力を振り絞って、スタートダッシュを決める!
もはや俺の目には向こうにそびえる正門以外何一つ映っていなかった。
しかし、遅刻を免れようと醜く足掻く俺の脚が、スピードを緩めないままに学校までの最後の十字路に差し掛かったその瞬間に、俺の全力疾走は唐突に中断されてしまう事になる。
「死に晒せゴルァアアアアッ!!」
曲がり角から突然、女の子が叫びながら飛び出してきて全力で走る俺の身体にぶつかってきた!
パキンと小さな金属音が聞こえたかと思った瞬間、少女の身体は俺を突き飛ばすかのような体当たりで衝突し、俺は少女の走っていた力のベクトル通りの方向になすすべもなくぶっとばされてしまい転倒した。
突然の出来事に訳がわからず、俺はアスファルトに転がりながらぶつかってきた少女の方を見た。
その少女は地面に横たわる俺と違ってふらつきながらもちゃんと二本の脚で立っており、俺と衝突した場所からもそんなにずれているようにも思わなかった。
その少女の服装は、俺が日常的に見る学校の制服、つまり寿限無高校の女子生徒の服装で、肩に掛かったカバンも学校指定の物である。
しかし、そんな事はどうでもよくなる程の物体がその少女の頭部にあった。
『穴の開いた紙袋』である。
制服の首から上が紙袋にすっぽりと覆われていて顔が隠されていたのである。
さらによく見ると、肩で息をするようにふーふーと鼻息荒く紙袋を震わすその少女の胸の辺りでは、両手で大事そうに小さな棒状の物を強く握りしめていた。
『カッターナイフ』である。
どうやらこの少女は俺と曲がり角でぶつかる前の時点で既に顔を隠すように紙袋を頭に被っており、両手に力いっぱいカッターナイフを握りしめながら、全力で走る俺と同じくらいのスピードで突進して、曲り角で俺と衝突したようだ。
憎しみのこもった叫び声を上げながら。紙袋の少女曰く、「死に晒せ」と。
あまりにも突然の出来事でその言葉がいったいどういう意味なのかを理解する前に、いきなり全身を震わすほどの轟音が俺のすぐ隣で鳴り響く!
俺はその音に反応してアスファルトに横たわりながら身をよじり、本能的なまでの動きで鳴り響く音の方向に首を向ける。
目の前で鳴り響く物体、それは、
『高速で接近する大型トラック』である。
こちらに向かって高速で距離を詰めるその鉄の塊からは、けたたましくクラクションが鳴り響き、止まる事ができない距離とスピードである事を瞬間的に警告として俺に知らせる。
ぐんぐん迫るその大型トラックを正面から目撃した事でようやく俺は自分の身体が車道のど真ん中のアスファルトに突き飛ばされていた事を理解した。
緊急事態!緊急事態!!
自らの命の危機に直面したというのに俺の身体は鉛のように動かせず、あるいはとっさにできたであろう様々な回避行動などの猶予すらも、そのタイミングを完全に失ってしまっていた。
手を伸ばせば届く距離まで迫った大型トラックを見て、俺は自分の死を覚悟して身をすくませた。
しかし、結果として俺は死ななかった。
奇跡的な事に、俺は車道のど真ん中で寝転んでいた事により、大型トラックの正面にぶつかる事もなくその車体の下を偶然にも潜り抜けて、さらに道の真ん中である事が幸いしてタイヤに踏み潰される事もなかったのである。
不幸中の幸いでこんな目に遭いながらも無傷で命の危機を脱した俺は、死んでいたかもしれない恐怖が身体を震わせ、まだ自分が生きている事の安堵でじんわりと涙が溢れてくる。
そうして少しだけ冷静になった思考回路が、さっきの出来事の真意を嫌というほど思い知らせてくる。
あの紙袋の少女は俺を本気で殺そうとしていたのだ。
殺す気で突進してカッターナイフという凶器を俺に刺し、そのまま車のよく通る車道に突き飛ばして通りがかった適当な車を使って轢き殺そうとしてきたのだろう。
俺がいったい何をしたっていうのだろう?
何故殺されなければならないのか?
様々な疑問と抑えきれない感情の渦に飲まれながら、俺はただただ混乱するしかなかった。。
急停止したトラックが寝転ぶ俺の真上にまるで覆いかぶさるように止まり、薄暗くせまい車体の下とアスファルトに挟まれながら、涙目で俺は呟いた。
「……あーあ、遅刻確定だ。」