「詐欺師と少女と、小説と。」 第3話
チョウソガベは狼狽した。
これでは完全に後手である。何事も準備万端、五分前行動を常としてきたチョウソガベにとってこれは、あまりに不測の事態であった。
そもそも家内がよくない。夜中に何度も手洗いなんぞに立つものだから、こちらもいちいち目が覚めてしっかり眠れなかったのだ。
かくいう家内は夜半、手洗いとの往復を繰り返したせいである。いまだもって憎たらしいほど深い眠りについていた。起こす手間ももったいない。急ぎ手洗いを済ませ、歯を磨き、顔を洗って、チョウソガベはずいぶん薄くなった髪へクシを……。
いや、それでいいのか。
過ったところで手を止める。
何しろこの状況はどう考えても、寝坊の果ての遅刻ではないか。言い逃れできぬ失態である。だというのに余裕綽々、身支度整え、盤石の態勢で現れるなど、あってよいものかと考える。むしろそれを失態と心得るなら慌てふためき、一刻も早くと取るものも取りあえず馳せ参じるのが人情というものではなかろうか。思えば唸り声は漏れていた。
だがかねてよりチョウソガベは己が身なりにうるさい。「ファッション」などとメリケンにかぶれておるのではなく、どこから見ても老人の身上ゆえだ。小汚いなどと思われては沽券にかかわる。ゆえに貫く日々の身だしなみこそがファッション。チョウソガベの美学であった。
しかも今日は。
思えば、むむむむむ、と己が姿を映す鏡と睨み合う。
やがて愛用のクシを手に取っていた。
そしていつも通りと丁寧に、チョウソガベはヒゲもまた剃り落してゆく。
「おはよう!」
赤いランドセルから生えたような手が振られている。
「ダメだよ。今日はおかあさん、いないんだよ」
朝からなかなか手厳しい。
「遅れた、遅れた。いやはや、ごめんな」
それでもどこか挟んだりしやしないか。謝りながら助手席へ乗り込むまでを、しっかり見届ける。
「忘れ物はないのか? 小夜子」
「おじいちゃん、早く出発!」
朝日がちょうどと目にまぶしい。避けるように背を丸め、チョウソガベはアクセルを踏み込んだ。
ここから先は安全運転を肝に銘じつつ、少しばかり飛ばすつもりだ。何しろ孫を遅刻させるわけには、行くまいて。
お題・・・寝坊 ファッション 老人




