act09
何が面白くて、あんなに盛り上がれるんだろう。
たった一人の人間のために。
act09.女の子は難しい
舞が部活を休んだのはあの日の放課後だけで、それ以降は毎日練習に参加している。同じ走る競技でもあたしとは少し種目が違うから、練習中にあまり言葉を交わすことはないけれど、なんとなく元気がなくなったような気がする。
相変わらず校庭の隅からは女の子の黄色い声援が送られてきていて、この間の三年生たちも当たり前のように居る。三年生に比べたら数は少ないけれど、二年生や一年生らしい姿も見える。
「ただ走ったり飛んだりしてるだけなのに、見てて面白いんでしょうかね?」
「面白いんだろうねぇ、あの人たちには。篠田先輩が何かしてるってだけでね」
ぼんやりとフェンスを見ながら独り言のつもりで言ったら、いつの間にかちなみ先輩(苗字で呼ばれるのは嫌だと言われてしまった)が傍に来ていて呆れたようにため息をついた。トラックを走り終えたら軽い休憩時間だ。
先輩と一緒に水飲み場に向かう。日に日に日差しが厳しくなってきて、少し走るとすぐに汗が出て喉が渇く。
「あそこまで人を集めるほど、篠田先輩ってかっこいいかなぁ」
「なんで? かっこいいじゃない。それに優しいし、勉強もできるし、しっかりしてて頼れる男って感じ」
「えー? そうですか? あたしにはただの怖い人にしか見えませんよ」
「どこが怖いのよ、篠田先輩の!」
「篠田先輩が、というか、お取り巻きの皆さんが」
「あははは! それはわかるわ。確かに怖い」
冗談ぽく笑っていたちなみ先輩に、あたしも冗談ぽく返した。本気でそう思っているけど。
確かに篠田先輩は怖くはないのだ。たぶん。部活の時の様子しかほとんど知らないけれど、高圧的にならない言葉遣いでうまくあたしたちを纏めていると思う。この人の言うことなら聞こう、と思えるような。
自分を律することをよく知っている感じで、練習や競技に対してすごくストイックな印象を受けることもある。納得できる結果が出るまではやめない、とか。時々、部活が終わった後も一人で残って自主練をしているのを見たことがある。
その意気込みや姿勢が、あのお姉さんたちの目にはたまらなくセクシーに映っているのだ、と悠美が言っていた。
男の人にセクシーってどうなのかな。一ヶ月以上部活で先輩を見ているけれど、あたしにはよくわからない。
そりゃ、ちょっとはかっこいいと思わなくもないのだ。
スタートラインから高飛びのバーをひたと見据える瞬間の視線とか、静かに息を整えている間に彼の周りに発生する緊張感とか。観ている方もつい緊張しちゃう。そんな空気を当たり前のように作れるところとか、ちょっと尊敬している。
でもまあ、結局はファンのお姉さんたちが怖い、というより関わりあいになりたくないから、自然と先輩のことを避けるようになってしまうのだけど。
運動と日差しで温まりすぎた手と顔を冷たい水で洗うと、気持ちまですっきりした。
あんまり時間をかけてウダウダ悩むのは好きじゃない。
何も考えずに走っているのがあたしにはお似合いだ。
特別棟の一階に図書室がある。
毎週火曜日の放課後、あたしはこの図書室のカウンターで一人ぼんやり座って過ごす。
溜まっている返却本を書架に戻し、貸し出しカードを少し整理したら、今日の仕事はほとんど終わり。お客さんが来ない限り、一人静かに頬杖をついて窓の外の校庭をじっと眺めるだけだ。
まだ五月だというのに、今日もよく晴れていて外は暑いぐらいだ。けれど、陽の当たらない図書室はひんやりとしていた。古い本の独特の匂いも慣れてくれば悪くない。
ああ、でもいいなぁ。あたしも走りたい。図書室は涼しくて快適だけど、走れるならちょっとぐらい暑くてもいい。どうせ走れば熱くなるんだから。
「暇だなぁ」
「そんなこと言って、ちゃんと仕事してるのか? 図書委員」
「わ! 出た!」
びっくりした! すっごいびっくりした!
いつの間にこの人はここに居たんだろう。カウンターの正面に出入り口があるはずなのに全然気づかなかった。……あたしが余所見してたから、だけど。
「先輩に向かって『出た!』はないだろ、お前……」
あはは、すみません。思わず本音が。
呆れたというか馬鹿にしているような顔で、先輩はカウンターに座っているあたしを見下ろしていた。その手には本が数冊。
あたしが知っている限り、篠田先輩は毎週本を借りに来ている。もちろん返却にも。いつもいつも違う本を持って、こうやってカウンターに来る。本当に読書好きなんだな、この人。
「すみませんー。ちゃんと仕事してますよ! ほら、返却本もきれいに片付けたし!」
「ふうん、少しは成長してるんだな」
おお、褒め言葉を頂きましたよ。
でもその顔は褒めている顔じゃない。相変わらずあたしのことを馬鹿にしているような、見下しているような、なんだか嫌な感じ。
部活とかで、他の人がいい記録を出したときなんかはもっと手放しに嬉しそうな顔で声を掛けていたりするのに。あたしにそういう笑顔を向けてくれたことは一度もない。
まあ部活のときはギャラリーの目が怖いから、あたしもできる限り篠田先輩には近づかないようにしているというのもあるんだけど、でも、この人がこんな顔を他の人に見せているのを見たことがない。
どうしてあたしにばっかり嫌な顔を見せるんだろう。これでも少しは努力してるんだから、少しぐらいいい顔を見せてくれたっていいじゃない。
「そういえば、一回聞いてみたかったんですけど」
差し出された本から貸し出しカードを抜き取って、返却日の書かれたハンコを押していると思い出した。
「どうした?」
篠田先輩はあたしの作業を待っている間、手持ち無沙汰そうに腕を組んでいる。長袖をきっちり着るには暑いこの時期、軽く腕まくりされた袖口から出ている腕は、やっぱりしなやかで綺麗だ。こんなの部活でいくらでも見慣れているけれど、服が違うとやっぱり雰囲気も変わる。
「先輩のファン? の人たちのことです」
「あー。あのうるさい奴ら」
ファン、という言葉を出したとたん、先輩の表情が一気に険しくなった。
やっぱりあんまりいい思いはしてないんだろうな。あれだけ毎日毎日キャーキャー騒がれてたら、集中したくてもできないし。
言おうかな、やめておこうかな。でも言っておくべきだよね。
「……あんまりこういうこと、言いたくないんですけど。この間、舞ちゃんがあの人たちに呼び出されてました」
思い出すだけでまた腹が立ってくるから、ゆっくり息を吸って、できるだけ冷静になろうとした。先輩の手元に戻さなきゃいけないはずの本を握り締める手に力が入る。震えるな。落ち着け、落ち着けあたし。
「舞ちゃん? ああ、一年の菅原さんだっけ」
「はい。たまたまあたし、昼休みに通りがかって……」
顔を上げられない。言いたいことがあるのに言葉も続かない。
何の恨みもないのに、握り締めた本の表紙を睨みつけてしまう。そうでないと、涙が出てきてしまいそうで。
「……もういい。わかった」
「でも、まだ続きが」
はあ、というため息とともに面倒くさそうな声が頭の上に響いた。きっとこの人も「一年のくせに生意気な口をききやがって」なんて思っているのだろう。
目の前に先輩の手が伸びてきた。あたしが握り締めている本を持っていくつもりだ。
でもこの本を取られたら、話を全部聞いてもらう前に先輩は行ってしまう。
結局ほとんど力ずくで本を奪い取られて、あたしはばっと顔を上げた。目に涙が滲んでいるのが自分でもわかって、少しでも誤魔化そうとしたら先輩を睨むような目つきになってしまっているけれど、気にするものか。
「わかってるから、手離せよ。どうせ三年の奴らだろ」
また面倒くさそうな声だった。顔も同じ。うんざりしているというか、少し不機嫌そうな色が混じっている。
わかってるなんて言いながら、きっとあたしの話を聞く気もないし、わかるつもりもないんだ。面倒だから早くここから逃げ出したいんだ。
「い、嫌ですっ。最後まで話させてください」
ここで引くわけにはいかない。だってこの人は、間接的だけど、舞に嫌な思いをさせた張本人なんだから。
「だから、わかってるから! 三年の女が菅原さんに嫌がらせでもしたんだろ」
「わかってるなら先輩、あの人たちに注意とかしてくださいよ! でないと、きっとこれからも舞が……」
先輩の言い方に無性に腹が立った。
かっとなって椅子から立ち上がった拍子に、握り締めていた本が取られたことなんてもうどうでもよかった。
「俺が言っても解決にならないんだよ」
あの人たちが舞にどんなことをしたのかわかっているなら、どうして先輩は何の解決もしようとしないんだろう。たぶん、ああやって呼び出されて嫌がらせを受けているのは舞だけじゃない。たまたま今回が舞だっただけで、彼女たちのターゲットになる女の子は他にもいるはずだ。
もともと篠田先輩のファンが起こしている問題なのだ。あの人たちを黙らせられるのは篠田先輩本人しかいないはずなのに。今までもこんなこと何度もあっただろうに、どうしてそれを放置しているの。
もしかして先輩は、ああやってファンの人たちにちやほやされるのが好きなのだろうか。部活中に校庭に響く黄色い声援にも、なんでもない顔をして実は喜んでいたりして。
だから、ファンを減らしたくないから、彼女たちが他の子に嫌がらせをするのを黙って見過ごしているというの? 女の子にもてる自分が可愛いから?
「……見損ないました、先輩」
「何?」
「結局先輩は、自分が可愛いんですね。だから、あの女の先輩たちのやってることも黙認してるんだ」
眉をしかめた先輩をあたしはなおも睨む。
カウンターの上にぱたぱたと水滴が落ちた。これは涙だ。
こんな人の前で泣くなんて、最悪だ。でも目を逸らしてやるもんか。
「だから、なんでそうなるんだよ。ちょっと落ち着け」
先輩は心底疲れたような顔をしていた。片手に持った本で肩のあたりをトントンと叩いている。
まだ考えながら喋ろうとしていたが、これ以上先輩の話を聞きたくなかったから遮った。
「もういいです、先輩に話したあたしが悪かったです! 先輩早く部活に言ったらどうですか。皆待ってますよ」
こんなに酷い人だったなんて知らなかった。尊敬していた部分もあったのに、一気に幻滅した。
所詮、他人に見せていた顔なんて人気取りのために猫をかぶった偽者で、本当はこんなに適当でだらしない人だったんだ。
こんな外面に騙されてこの人を慕ってる女の子たちが、いっそ可哀相になってきた。
「あっそ。じゃあな」
まだ言いたいことがありそうだったけれど、げんなりした様子でため息をつくと篠田先輩はクルリとあたしに背を向けた。そのままスタスタと出入り口のほうへ歩いてゆく。
しばらくこの顔は見たくない。
校庭を思いっきり走りたいけれど、この人の顔を見るぐらいならいっそ明日の部活は休んでしまおうかとこっそり考えた。
「明日、ちゃんと部活に来いよ」
図書室のドアから体を半分覗かせてそれだけ言って、篠田先輩は図書室から姿を消した。
なんだか全部見透かされていたみたいで、また腹が立った。