act08
あぁもう、どうしてこういう人たちって皆面倒なのばっかりなのかなぁ!?
act08.災難は繰り返す
入学してから一ヶ月。学校にも部活にも慣れてきた。
クラスメイトは楽しい子ばっかりだし、部活の先輩たちは皆優しい。
篠田先輩以外は。
別に、篠田先輩が特別厳しいとか怖いわけじゃない。いじめられているわけでもない。ただ、あたしが彼に近寄りたくないと思っているだけだ。
才色兼備(という言葉を男に使うのはどうかと思うけど)の篠田先輩、女子に大人気の篠田先輩。たくさんの怖いお姉さんたちが目を光らせている中、少しで も先輩に近づこうものなら彼女たちはあたしに容赦なく攻撃してくるだろう。物知らずの一年生の癖に、生意気だとかなんとか言って。
そんな面倒ごとはごめんだ。
実際に何度かファンクラブらしい女の先輩たちに、廊下ですれ違いざまにものすごく睨まれたことがある。
浅ましいガキが、いっちょまえに私たちの篠田くんに近づいて。とでも言いたいのだろうか。
アホらしい。
あたしが陸上をやっているのは、単に走ることが好きなだけで、篠田先輩に近づくつもりなんて全然ないのに。むしろあの先輩が苦手だから、あたしから近寄っていくことなんて絶対にないのに。
そんなに陸上部女子が羨ましいなら、あの人たちもみんな陸上部に入ればいいのだ。そうすればフェンスよりもずっと近い場所で好きなだけ篠田先輩を見られ るのに。彼女たちにそれができないのは、篠田先輩を好き以上に運動が嫌いなのか、それとも日焼けしたり、土ぼこりにまみれるのが嫌なのか。どちらにしても 自分勝手なことだ。
ぽかぽかと晴れた日の昼休み。
今日はなんとなく体の調子が良くて、時間さえ許せばずっと走っていたい気分だった。
だから、あたしはお弁当を急いで食べると運動着に着替えて校庭へ出た。
教室のある校舎から靴を履き替えて外へ。そこから校舎をぐるりと回って校庭へ向かおうとした途中のことだった。
どこかから、人の話し声が聞こえた。
校庭に出るには、本校舎と特別棟の間を通るのが近道だ。
本校舎と特別棟は二階以上の場所が渡り廊下で繋がっていて、一階は潜り抜けられるようになっている。校庭は本校舎のちょうど裏側にある。
それに対して特別棟の裏は、林に面していて日当たりが悪くて薄暗く、人通りもほとんどない。
声はそちらのほうから聞こえた。
何人かの女の人の声。
なんだろう、珍しいなと、通りすがりに好奇心で校舎裏を覗いてみた。
そこに居たのは、なんと舞だった。
校庭にまっすぐ向かっていたあたしの足は、そこで止まった。
「何とか言ったらどうなの?」
「新入生のくせに篠田くんに近づいて、何様のつもりなのよ」
「……」
三年生らしい女子が四人、舞を取り囲んでいた。髪を明るく染め、きれいに化粧をした目を吊り上げて舞を睨みつけ、口々に勝手なことをわめいている。
「そういえばあなた、走ってる途中に思いっきり転んで、篠田くんに抱きかかえられて保健室に行ったことがあったわよね」
一人の先輩が思い出したように言った。その内容に、他の三人も目の色が変わった。
「何それ! 陸上部に入っただけじゃ足りないわけ?」
「どうせ、篠田くんが助けてくれると思ってわざと転んだんでしょ?」
「そんなこと……っ!」
ずっと俯いていた舞がバッと顔を上げる。心外だと、それは誤解だと、悲痛な目が語っている。
「口答えする気? 生意気!」
「一年は一年らしく、あたしたち先輩の言うことを聞いてればいいの!」
四人のうちの一人、一番背の高い人が右手を振り上げた。その手は真っ直ぐに舞の顔に振り下ろされる。
パシッという乾いた音を聞いたら、もうあたしは黙っていられなかった。
「ちょっと何してるんですか!」
あたしの声はもともと大きいほうだけど、自分でもびっくりするぐらい大きな声が出た。
そのまま急いで舞のほうへ走り寄る。
「依子ちゃん……」
普段はすっきりと爽やかな笑顔を浮かべているはずの舞が、近づいてきたあたしを見て目を潤ませた。左頬は殴られた衝撃で赤くなっているどころか、うっすらと一直線に血がにじんでいる。
「大丈夫?」
そのまま近づいて舞の手を取ろうとしたあたしの手は、しかし舞には届かなかった。
「あんたも陸上部の一年ね。何しにきたの? わざわざ私たちのお説教を聞きに来てくれたのかしら」
「いたっ」
Tシャツの上からグッと腕を引っ張られた。握り締める力は痛いぐらいで、どこにそれだけの力があるんだろうと思った。
「どうせ篠田くん狙いのくせに、自分だけは興味ありませんって顔でほっつき歩いて。ふざけるのも大概にしなさいよ!」
結局、舞と一緒にあたしも怖いお姉さんたちに取り囲まれてしまった。きれいに化粧しているはずの彼女たちの顔も、怒りに歪むと醜悪でしかない。
「ふざけるのを大概にするのは先輩たちの方じゃないですか?」
ため息が出る。
怒りや恐怖なんて浮かんでこない。ただただ呆れるばかりだ。あと、不愉快。
「私たちのどこがふざけてるって言うの?」
「これは真面目な問題なんだから!」
「何も知らない一年が口出ししないで」
先輩たちは口々に反論するけれど、どうにもアホらしくて、不愉快指数がぐんぐん上がるだけだ。面倒くさい。早くこの場所から離れたい。
「別に、あたしたちは篠田先輩に近づきたくて陸上をやってるわけじゃありません。走るのが好きで何が悪いんですか? 篠田先輩を取られたくないからって、 女子は陸上をやっちゃいけないんですか? あたしにとってはそんな考え方のほうがふざけてるし、馬鹿馬鹿しいです。そんなに篠田先輩の傍がいいなら、先輩 方も陸上部に入ったらどうですか」
「それは……」
一瞬、腕を掴んでいる力が緩んだ隙に、あたしはその手を振りほどいて隣に居る舞の手を握り締めた。
「行こう、舞ちゃん。頬っぺた冷やさないと」
そうして、ポカンとしている舞を引きずるようにして、あたしは校舎裏を後にした。
靴を履き替えて保健室へ向かおうとしたら、舞があたしの服を軽く引っ張った。
「ごめんね、依子ちゃん。昼休みに練習するつもりだったんだよね」
ちらりとあたしの格好を見た舞はすぐに俯いてしまった。謝った小さな声は震えていた。
明るくて元気でいつも爽やかな舞がこんなに打ちひしがれているのを、あたしは初めて見た。もしかしたら泣いているのかもしれない。
「大丈夫。そんなに真面目な練習じゃなくて、ちょっと走ろうかなってぐらいだったから」
「……そっか」
「あの人たち、いつも部活のときにフェンスのところで篠田先輩見てる人たちだよね」
「……うん」
下駄箱の並んでいる昇降口には人気がなくて、校庭のほうで遊んでいる男子の声がかすかに聞こえる程度だ。開け放たれた玄関から涼しい風がふんわりと吹き込んできた。
「呼び出されたの? こういうことされたの、初めて?」
「初めて。昼休みになってすぐ、あの先輩たちが教室に来て……」
さっきはたかれた舞の頬は、俯いていてもわかるほど赤く腫れていた。そこに涙が一筋伝うのが見えた。
ぴんと伸びているはずの背筋が、今は小さく丸まり、肩が細かく震えている。
ああ、そうだよね。不安だったよね、怖かったよね。もう大丈夫だから。
咄嗟に掛けられる言葉が何も浮かばなくて、あたしよりも少し背の高い舞をただ抱きしめることしかできなかった。
泣いて落ち着いてきた舞を保健室に連れてきたころ、昼休み終了の予鈴が鳴った。
保健室の先生はお母さんぐらいの年の優しそうな女の人で、頬を腫らした舞をみるとすぐに黙って手当てをしてくれた。
本当はもっと舞の傍についていたかったけれど、授業に出るならそのジャージは着替えなさい、彼女はちゃんと看ておくからと先生に諭されて、しぶしぶあたしは保健室を出た。
舞が何をしたというのだろう。
陸上部に居るだけで、あたしたちが女だというだけで、何が悪いというのだろう。
篠田先輩がそこに居るというだけで。
ふざけるな。
さっきは微塵も感じられなかった怒りの感情が、舞の顔を見ているうちにふつふつと沸きあがってきた。
大切な友達をあんな風に傷つけるなんて許せない。
その日の放課後、舞は部活に来なかった。