act10
あたし、何か悪いこと、しましたか?
act10.笑顔は恐怖
なに!
なんなの、あの人! 最低!
全部わかってるくせに現状を一つも変えようとしてない。あたしの話だって半分も聞いてくれなかった。
あの人が動かないと、そのせいで舞みたいに傷ついてる女の子もたくさんいるのに。
どうして何もしてくれないの?
そんなにあのお姉さんたちが恐いの?
それとも、実はあの中に、先輩の好きな人がいるとでもいうの? だとしたらなんて見る目のない人なんだろう。舞もあんな人のこと、好きになる価値ないよ。
一夜明けて、水曜日。
昨日の放課後の図書室で、言うべきことは最低限言えたつもりだ。
でもあたしの怒りは一ミリも収まってはいないのだ。
「ちゃんと部活に来いよ」
と言われてしまった手前、ちゃんと支度していくけれども。だってそうじゃないと、あたしが先輩に一方的に負けたみたいで悔しいじゃない。
せっかく走れるっていうのに、こんなにギスギスした気持ちじゃ嬉しさも半減だ。
視界に篠田先輩の姿が入るたび、昨日のやり取りが頭の中に出てきて集中できない。どうしてあんなに飄々としていられるんだろう、あの人。まあ、部長は忙しい人ですから? こんな一年生とちょっと話したことなんていちいち覚えていないかもしれませんが?
ああ、イライラする。
走ってすっきりしないのは初めてだ。
何もかも校庭の隅っこで高飛びに励んでいる部長のせいだ。
休憩時間、校庭に面して並んでいる部室の近くにあるベンチに座って一息ついていると。
「げ」
篠田先輩がこっちに向かって歩いてきた。
あたしが気づいて顔を上げると、あの野郎、ものすごく爽やかに笑いかけてきた。
そんな瑣末なことでさえ今は癇に障る。こっちに来なければいいのに。ずっと視界に入らなければいいのに。
「調子はどう? どこも痛めたりしてない?」
「……はあ」
普段、あたしには絶対にこんな話し方しないくせに。
よく考えてみたら、あたしは部活中に篠田先輩とほとんど話をしたことがない。部長として部活の始まりと終わりに連絡事項を言うのを聞くぐらいで、その他はノータッチだ。だから、図書室での篠田先輩の話し方しか知らない。少し人を突き放すような。
なのにこれは何なんだ。人当たりが良すぎて逆に恐い。
呆気に取られたあたしの、ようやく出した返事(ただ声を出しただけみたいになっちゃったけど)を聞いて、先輩は満足そうにまた笑った。
「それならよかった。体調管理はしっかりしておけよ」
眼鏡は飛ぶとき以外はかけているらしい。
あ、いや、そんなことはどうでもよくて。
問題はあたしの肩に置かれた先輩の手だ。二、三回ぽんぽんとすると、先輩は去っていった。
フェンスの向こうから黄色い声がいくらか上がったような気がしたけど、今のあたしの耳にはそんなものは入ってこない。
なんだ、あれ。
今まで一度もあの人からあんな笑顔をもらったことはない。
体調を心配されるような出来事だって、これまでに一度も起こっていない。
じゃあ何かが起こったのは先輩の頭の中だ。
身に覚えなどない。全然一つも一ミリだって、ない。
今日の部長の行動は、わけがわからない。
結局あたしは全然部活に集中できずに、終わりの時間を迎えてしまった。
「葛西さん、ちょっと」
最後に集合して礼をしたあと、すぐに部室に戻って着替えようと思っていたあたしは篠田先輩の呼び声に立ち止まった。あああ骨の髄まで体育会系の、自分の反射神経が憎い。気づかないふりをしてそのまま行っちゃえばよかった。
だいたい何の用があるっていうんだ。あたし、何か悪いことしましたか?
ギャラリーの目があるところで二人っきりになるのは、あのお姉さま方に目を付けられる可能性が高いから是非やまていただきたい。
そうでなくたってあたしは篠田先輩のことが正直少し苦手なのだ。
部長だか元生徒会長だか成績優秀だかしらないけれど、何を考えているのかわからない。図書室に一人で居るときと、大勢の前に出ているときとで表情も性格も違いすぎて、こういう人は面倒だから深入りしたくない人物ナンバーワンだ。
「なんですか?」
渋々、篠田先輩のほうへ戻ってゆくと、先輩はまたさっきの「万人受けのよい」笑顔をあたしに向けた。だから、何なんだその意味のない笑顔は!
「うん、べつに用事はないんだけどね」
「なら別に呼び止めなくてもいいでしょう」
「そんなにトゲトゲしなくてもいいじゃない。ごめんね、もういいよ」
そう言って、篠田先輩は今度はあたしの頭を撫でた。
そしてフェンスの向こうからは黄色い声。篠田先輩に向けてではなく、あたしに対する反感の声だ。
ギャア! 嫌だ、触るな! 黄色い声はどうでもいいから、あんたがあたしに触るな!
ぞわっと鳥肌が立つのがわかった。半袖のTシャツから伸びる自分の腕を見下ろすと、見事にブツブツしている。
鳥肌っていうのは本来、人体が寒さを感じたときに、毛穴の周辺にある立毛筋が締まることで体毛が立ち上がり、皮膚の周りに空気の層を作って少しでも寒気を和らげようとするものであって。
んなこたぁどうだっていいんだ。
あたしは今寒くない。
「素直だね」
その微笑が、もう、恐怖なのですが。
あいまいに笑い返して、あたしはすばやく部室に戻った。
今日の篠田部長、変だ。絶対何か企んでる。もう捕まったりしないうちにさっさと着替えて帰ってしまおう。そうだ。あのファンのお姉さんたちも恐いし。それがいい。
女子更衣室でささっと着替えを終わらせると、ジャージも畳まずにバッグの中にとりあえず押し込んでロッカーに背を向けたときだった。髪の毛がボサボサのような気がするけれど、そんなのもう知らない。今日は早く帰るんだ。
「依子ちゃん、ちょっといい?」
舞だった。
あたしよりも早く更衣室に戻ってきていたから、すでに着替えも終わっている。
何なんだ、今日は、みんなして!
あたしが急いでるのが見えないのかい。髪が乱れてることなら知ってるから、お構いなく。
「何? ……あたし今日、急いでるから短く終わらせてくれると嬉しいけど」
舞があんまりにも深刻な顔をしていたから、あたしはきちんと彼女に向き直った。舞は大事な部活友達だ。もし相談なら乗ってあげたいところだけど、できれば別の日がよかったなぁ。
更衣室にはあたしたちだけじゃない。他にも人がいるから話しにくそうだったので、ひとまず静かな場所に移動することにした。
どうかどうか、あの鬼のような先輩方や、篠田部長には見つかりませんように。
そう祈りながら、二人は校舎の裏手に移動する。
夕方、日が沈みかけて薄暗くなっている校舎裏は少し不気味で恐い。
「依子ちゃん、どうして?」
「え?」
何がどうしてなのか説明してください、舞さん。そうでなくても今日の色々で思考が半停止状態のあたしには、彼女の問いかけの意味が全然わからない。
「あたしが篠田先輩のこと好きなの、知ってるくせに。どうして依子ちゃんだけ先輩に近づくの? あんなに仲よさそうに話したりしてずるい」
「それは別に、あたしから話しに行ってたわけじゃ」
「昨日ぐらいまでは全然そんなそぶりなかったじゃない。それに、あの先輩たちに囲まれてるときに助けてくれたのだって依子ちゃんだった。純粋にあたしのこ とを助けてくれたのかと思ってたけど、もしかして依子ちゃん、自分があの人たちの標的になりたくなかったからあたしを利用していたの? ああやっておけ ば、依子ちゃんは篠田先輩のことをなんとも思ってないように見せられるから?」
自嘲気味に言い募る舞の瞳にはまた涙が浮かんでいた。
「なんでそうなるの? あたしは本当に篠田先輩のことは何とも思ってなくて」
「依子ちゃんのこと信じるんじゃなかった! 嘘つき!」
鋭く言い放って、舞は走っていってしまった。
最後にあたしを見た舞の顔に浮かぶのは憎悪そのものだった。それと、怒りと、悲しみの色も少し。
きっと舞はまた誰もいない場所を探して、一人で泣いているのだろう。
それを慰められるのは、残念だけど今回はあたしじゃないみたいだ。
どうしてあんなことを言われなきゃいけないんだろう。
それもこれも全部、篠田先輩のせいだ。
今日の部活であれだけ篠田先輩が絡んできたから、舞には嫌われるし、恐い先輩方に目を付けられた。こっちはたぶん、だけど。明日あたり何か仕掛けてくるだろう。
あたしが一体何をしたっていうんだろう。
昨日の図書室での一件がいけなかったの? 篠田先輩に文句をつけたから?
悪いことをしたとは思っていない。だって舞があの先輩たちに嫌がらせをされたのは本当のことだったから。それを当事者に伝えることの何がいけない?
篠田先輩も篠田先輩だ。
昨日、図書室から去り際に「明日は絶対に部活に来い」と言ったのは、単純にへそを曲げたあたしが出席拒否するのを防ぐためだと思っていた。そんなことしなくても普通に出るつもりだったけれど。
だけど、彼の本当の目的はそれじゃなかったんだ。
人前であたしに近づいて、仲良くしているように見せるため。
そしてあの女の先輩たちに目を付けさせて、あたしに舞と同じ目にあわせようとするため?
「だとしたら、ものすごくタチ悪い……」
昨日のあたしの言葉が、どれだけ先輩を怒らせてしまったのだろう。
あんまり怒っているようには見えなかったけれど、そこは普段穏やかで人当たりがいい(絶対嘘だ)と評判の先輩だ。静かに怒って、あたしへの仕返しを考えていたのだろう。
どこまで性格の悪い人を敵にしてしまったんだ。
あげく、親友と思っていた舞にはうそつき呼ばわりだし。
ついてないなぁ。
もう舞と友達やるのは無理になっちゃうのかもしれない。あんなに嫌われちゃったんだもん。
舞のこと好きだったんだけどな。走るのが早くて、すっきりした性格で、でも女の子らしくて可愛い一面もあって。依子ちゃん、って歯切れよく呼んでくれる声も好きだった。
一日にしてあたしは、平穏な生活と大切な友達を失ってしまったんだ。
あの先輩の笑顔のせいで。
紳士的だとか優しそうだとか、巷では色々言われていて好印象らしい篠田先輩の笑顔は、あたしにとって一番の災厄だ。あんなに恐いものはない。
ほんと、恐いなぁ、あの人。
一粒だけ零れ落ちた涙をぐいっと拭いて、今度こそあたしは帰ることにした。
あたしの予想が合っているなら……明日も長い一日になりそうだ。




