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「さて、そろそろ時間が無くなってきたかな」
メガネ少女ともっと話すべきことがあったのですが、無情にもくるみさんと兄との下校イベントに巻き込まれ、私は自室のベッドの上で図書館から拝借してきた「不思議の国のアリス」を読み漁っていました。
「……結構余裕そうだね」
「そうでもないですよ。一応玄関から外に出ようとしたり、窓を椅子で砕こうとしたりもしましたけど全部ダメでした。どうにも夜はこの家から出られないみたいですね。打つ手が無いときは遊ぶに限ります」
「ちなみにキミを家に閉じ込めてるのはボクの力だけどね」
「へぇ……?」
「待った待った。ハサミじゃウサギの肉は切れないよ。考え直そう」
凶器片手に部屋中をちょこまかと逃げ回るウサギさん追い回しますがなかなか捕える事が出来ず、三分もすると私はハサミを投げ出してベッドの上に大の字になりました。
「その見事な逃げ足を讃えて、話ぐらいは聞いて差し上げますよ?」
「言い方は癪に障るけどありがとう。時間が無いって言ったのは、『個別ルート』の話をしておこうと思ってね」
「個別ルート?」
私が首を傾げると、ウサギさんはクッションにちょこんと飛び乗りました。どうやらそこが一番居心地が良いようです。後で念入りに洗っておきましょう。
「ヒロインが複数いるエロゲーだと、大抵最初に『共通ルート』って言ってヒロインたちの顔見せパートがあるんだ。いわゆるプロローグの部分だね」
「えっ⁉ 誕生日の会話でだいぶ限界だったんですけど、あれでプロローグなんですか⁉」
媚び媚びの台詞が他ならぬ私の口から出たことを思い出し、思わず私は赤面します。
「これは抜きゲーによくある設定だけど、あれはたぶん最初から好感度マックスのベタ惚れ設定だね」
「抜き……?」
「あ、抜きゲーっていうのはね――」
「あー! あー! あー! 何となく分かったんで言わなくていいです!」
私は必死に耳を塞ぎながら、人間様の情緒が分からないウサギさんを睨みます。
きっと他の動物たちが彼と同じように人間の言葉を話せたら、「ペット」としてここまで人間から愛されることは無かったでしょう。
彼らペットは私たちの自尊心を決して傷つけません。言葉を話せないその身をもって、人間様こそが生物の頂点であると教えてくれているのです。
それに引き換え、このウサギさんはもう少し私のペットとしての自覚を持ってくれないものでしょうか。ありがたいのは餌代が必要ないことぐらいです。
「……なんかすごく失礼な事を考えてるような気がするんだけど」
「何を言ってるんです。私たち、礼儀なんて気にしない間柄じゃないですか。お互い失礼の塊みたいなものです」
「言われてみればそりゃそうだ。これはボクとしたことが一本取られたな。いやはやまったく、キミに負けることほど屈辱的なことはこの世に無いよ」
「もぅ、ウサギさんのおバカさん♪ うふふ」
「あはは」
疲労回復した私はもう一度ハサミ片手にウサギさんを追い回しますが、やはり小さな体躯と俊敏な足の組み合わせに勝てるはずもなく。
部屋をドタバタと荒らしまわった挙句、日頃から運動不足気味の私は三度ベッドに倒れ伏しました。
「で、現状を整理するけどいい?」
「ご自由にどうぞ。私は寝てます」
「このゲームのヒロインは出揃った。キミと、そのお母さん、幼馴染のくるみさんと、そして図書室のメガネさん。合計で四人だ。共通パートはここまでで、これからは個別パートに入るから、何かしたいのなら明日がギリギリタイムリミットじゃないかな」
「……結構早かったですね。自我が芽生えてからまだ二日ですよ」
「そりゃまあ、プレイヤーに気に入られて個別ルートに入った時点でもうほとんど救いようがないしね。最初からプロローグ中までがタイムリミットだったんだよ」
最初から言え、と言ってもこのウサギさんには無意味なのでしょう。
現状で出来ることと言えば、どうかプレイヤーさんが私を選ばないようにと祈る事ばかり。
「……そういえば、『シナリオ』のペース早くないですか? まだ起承転結の『起』ぐらいですよね?」
「そもそも抜きゲーに起承転結なんか期待しない方がいいし、付き合って終わりなわけがないだろう?」
ウサギさんのその言葉で、私は全てを察しました。
「あの、その……やっぱり選ばれたヒロインは、兄と初夜を迎えるところがゴールではないという事ですか?」
「むしろそこまでは序章ぐらいに思ってもらって間違いない。こういうタイプのゲームは平均3~4回ぐらいのセック――」
「あー! あー! あー!」
私は頭から布団を被りました。
耳を塞ぎ、目を閉じ、都合の悪い現実を一分の隙もなく遮断するために。
このまま闇の中で震えていれば嫌なことは全て過去の物になってしまうような、そんな気がします。
「ボクとしては、さっさと諦めてくれても構わないんだよ?」
しかし布団の向こうから聞こえるウサギさんの声が、私を現実へと引き戻します。
「私を監視しなくて済むからですか?」
「キミの担当をするのでなければ、どうせまた別の人を担当する仕事が回ってくるだけさ。仕事量的には何も変わらないよ」
「コンビニ店員みたいなこと言わないで下さいよ」
「アルバイトは自分から応募してなるものだ」
ウサギさんは一瞬躊躇うように口を噤みましたが、溜息を一つつくと諦めたように口を開きます。
「ボクはそれとは違う。何も考えずになんとなく生きてたら、いつの間にかこんな仕事をやらされてた。興味の無い人間同士のセックスも、内臓を抉り出す残虐な殺人シーンも、胸糞が悪くなるようなイジメも沢山見させられてきたよ。当然拒否権なんかない。でも、それでいいじゃないか。どんなに嫌なことがあっても、ボクは生きてるんだから」
「あなたは……それを辞めたいとは思わないんですか?」
「…………」
「……ふん! やはり獣風情とは一生分かり合えないようですね。勇気のない者はそこで座っていなさい。私が奇跡を見せて差し上げます」
私は威勢よく起き上がり、何もすることがないのに気が付いてもう一度ベッドへと帰っていきました。
気まずい沈黙が一人と一匹の間を流れます。
「……キミは口も悪ければ性格も悪いし、おまけに頭も悪いっていう最悪の人間だ」
「急に喧嘩売るのやめてくださいよ。武器の準備ができないじゃないですか」
「キミには確かに欠点がたくさんある。だけど何が起きても諦めない根性だけは他人に誇ってもいいと思うな」
突然そんな似合わない事を言い出したウサギさんにびっくりして、私は目を見開きます。
「待ってください。私は顔にも自信があります」
「そういうとこがダメなんだよキミは」