特別な花(2)
「え、あ、ヘル……?」
なんで? なんでこんなところにいるんだろう。びっくりして固まる私の目の前まで近寄ってくると、ヘルは私の目の前に立つ青年を見上げて口を開いた。
「さっきルーインが呼んでたけど」
「ええっ、何かあったのかな?」
青年は不思議そうな表情を浮かべながらも、じゃあちょっと繋いでくるよ、と口にした。それから私に向かって「残念だけど、また機会があれば」と小さく笑って見せると、あっという間に姿を消した。
さすがに、またの機会が無いことくらいは分かる。あまりにも爽やかな対応のせいか不快感は覚えなかったけれど、もしかして今のはナンパだったのかな。
女慣れしてる人なんだろうなあ、なんて思いながら、急ぎ足で人ごみをすり抜けていく後姿を見送っていたら、へルが怪訝そうに言った。
「さっきの男は?」
「へ?」
さっきの男って、今の人のことだろうか? 知らない人だし、むしろ知り合いだった様子のヘルに誰なのか聞きたいくらいなんだけれど。
「今の人? 知らない人だよ」
私がそう口にすると、ヘルは違うと言いたげに頭を振った。
「一緒にいたやつ」
その言葉で漸く、エッジのことを言っているのだと気がついた。さっきは一緒にいたエッジがいないことを、不思議に思ったのかもしれない。
「エッジのことなら、なんか先輩に挨拶したいからって、どっか行っちゃった」
私がそう告げると、ヘルは目線を斜めに落とし、考え込む様子を見せた後でぽつりと呟いた。
「あいつ、あんたの何なの」
あいつって、一応ヘルよりは年上だと思うんだけどな、なんて思いつつ、弟だよ、と返す。一瞬驚いたように目を丸くしたヘルは、
「……あ、そう」
と興味を無くしたように呟いた。
「ヘルこそ、ルーインとは一緒じゃないの?」
辺りにルーインの姿は見当たらない。不思議に思って問い返すと、ヘルは素気無く言った。
「見回りは元々あいつの仕事だから」
ルーインの見回りに付き合ってあげていた、ってことなのだろうか。詳しく聞こうか悩んでいたら、バスケットを持った女の子が歩いてきた。
「お花いかがですか~」
少し離れたところにいるカップルらしき二人組に、声を掛けている。二人は顔を見合わせた後、照れたように笑った。それから男性が、一輪の花を手に取る。花売りの女の子に銅貨を渡して、男性は女性の髪に花を挿す。彼女ははにかんで、照れたような様子で、両頬に手を添えて俯いた。
ああ、いいなあ。幸せそう。
なんだかほんわかした気分でカップルを見ていたら、ふいに花売りの少女が私の姿を認めた。にこっと笑ったかと思うと、私たちの傍へと小走りにやってくる。
ま、まさか、さっきのカップルに声を掛けたように、私たちにも声を掛けてくるつもりなんじゃ……。思わず身を固くしたその瞬間、少女はちらりとヘルの顔を見て、一瞬はっとしたような顔をした後、さり気無く体の向きを変えた。微かに進む方向が変わって、少女は笑顔のまま私の横を通り過ぎて行く。
──ぐさり、と刃物で胸を貫かれた気がした。
彼女は最初、私たちの傍に来るつもりだったのだと思う。だけど近づいてきて、はっとしたように私たちの横を通り過ぎて行ったのだ。
それは多分、遠目にはカップルのように見えた私たちが、近くで見たら到底そうは見えなかったからなのだろう。
かたや、成人を間近に控えた女。かたや、まだ幼さの抜けきらない少年。カップルに間違われるかも、なんて一瞬でも思ったこと自体、おこがましかったのかもしれない。
恥ずかしい気持ちと虚しい気持ちが合わさって、なんだか凄く惨めな気分になる。きゅうっと手のひらを握り締めたその瞬間、ヘルが口を開いた。
「ねえ」
その言葉に、私の横を通り過ぎたばかりの花売りの女の子が、ぱっと振り返った。
「え?」
「……ニーネソラン」
「あっ、はい、ニーネソランですね!」
女の子はぱっと顔を輝かせて、私たちのもとへと戻ってくる。
「何色にされますか」
少女は、バスケットの中身をヘルに見えるように傾ける。悩む様子も無く、ヘルはオレンジ色のニーネソランを手に取った。
「ありがとうございます、二トーンです」
にっこり笑った少女に銅貨を払って、ヘルは花を手にしたまま、無表情に私を見上げた。まさかヘルが花を買うとは思っていなかったので、私はぽかんとしてヘルを見下ろした。
その花、どうするつもりなの?
ヘルに花を愛でる趣味なんかあるとは思えないし、誰かにあげるのかな。
一体誰にあげるのだろうか。頭の中に、あの可愛らしい少女の姿が浮かんで、胸がちくりと痛んだ、その瞬間。
ヘルは手を伸ばして、私の髪にニーネソランを挿した。クリップのように加工されている茎の部分で、パチンと私の髪を挟み込む。
「え?」
びっくりしてヘルを見下ろすと、ヘルは顔を背けて、素っ気無く言った。
「花が無いから変なのが寄ってくるんじゃない」
変なのって、何?
まさか、さっきの男の人のこと?
ってことはこの花は、ナンパ避けのためにくれたのかな。でも……ヘルは、髪に花を挿すその意味を、分かっているの……?
戸惑う私をよそに、ヘルは花を挿すだけさして、ぷいと踵を返した。
「……帰る」
多分、もう寮に戻るつもりなのだろう。そのまま帰ってしまいそうなヘルを、私は慌てて呼びとめた。
「ヘル!」
「…………。なに」
振り返ったヘルは、不思議そうに私を見上げた。私は一瞬の躊躇いの後、思い切って口を開いた。
「せっかくフェステに来たんだし、一緒にケネンシェ食べない?」
その途端、ヘルはきゅっと眉根を寄せた。ああ、断られるんだろうなと思った瞬間、ヘルは予想に反して小さく頷いた。
「うん」
びっくりして一瞬反応を忘れてしまったけれど、私はすぐに笑みを浮かべて、ヘルのローブの端を摘んだ。ヘルの気が変わる前に、ケネンシェを買いに行かなければ。
「じゃあ、並びに行こ!」
ヘルを引っぱるようにして、ケネンシェの店に向かう。列はさっきよりも長くなっていて、面倒くさいって断られるんじゃないかと身構えたけれど、ヘルは意外にも黙って列の最後尾に並んでくれた。
「ヘル、お花、ありがとう」
順番を待っている間にそう声を掛けたら、ヘルは黙って私を見上げて、素っ気無い声で「別に」と呟いた。
花が無いから変なのが寄ってくる、なんて言っていたくらいだから、花を贈ることの意味は知っているのだろうけれど……、ヘルが私に花をくれたことに、特別な意味は無いのだろう。そうは分かっていても、やっぱり嬉しい。頭にそっと手を添えて、柔らかな花びらに指先が触れると、ついつい頬が緩んでしまう。花びらを撫でながらふいに隣を見下ろすと、ヘルはじっと私を見上げていた。ただ、私と目が合った瞬間、ふっと逸らされた。
「ヘル?」
「なに」
返事はすぐに返って来たけれど、ヘルは目線を合わせてはくれない。ちょっぴり寂しい気持ちになったけれど、私はすぐに気を取り直して、別の質問を振った。
「ヘルは、ケネンシェ食べたことあるの?」
私の問い掛けに、ヘルは微かに頭を振った。
「ない」
「あのね、甘くて凄くおいしいんだよ。エッジは毎年それを食べるためだけに、ラーネ・フェステに行きたがるの」
ヘルの眉がぴくり、と動いた。
「毎年一緒に来てるの?」
「え、うん。私と一緒だと、女の子に声掛けられなくて済むからだって」
「ふぅん」
いかにも興味無さそうに、ヘルは適当な相槌を打った。ヘルにとってはどうでもいい話題だったかもしれない。
列の進みは意外にも早くて、そうこうしている間に順番がやって来た。誘ったのは私だし、花を買ってもらえて嬉しかったから、ケネンシェは私が奢ろうと思っていたのだけれど、ヘルはさっさと二つ購入してしまった。
列から抜けた後、ケネンシェを一つ差し出される。
「ありがとう」
私はそれを受け取って、小さく頭を下げた。慌てて取り出した銅貨を代わりに渡そうとしたけれど、いらない、と顔を背けられてしまった。
「で、でも、食べようって誘ったの私だし」
私がそう言って食い下がっても、ヘルはそっぽを向いたままだ。
「お、お花買ってもらったし、いつもお世話になってるし」
やっぱり、ヘルはこっちを向いてくれない。
「私の方が年上だし」
思わずそう呟いた瞬間、ヘルは凄い勢いで振り返った。エメラルドグリーンの瞳を細めて、むっとしたように私を見上げる。
「それ関係ある?」
まさか、そんな一言で怒るとは思わなかった。私はびっくりしてしまって、反射的にぶんぶんと頭を振った。
「な、無い……かな」
ヘルは小さく息を吐くと、そのまますたすたと歩き出す。私は慌ててその後を追いかけた。
「えっと、じゃあ……、ごめんね。いただきます」
私がそう言うと、ヘルはちらりと振り返って、こくんと頷いた。ぶらぶらと歩きながら食べようかと思ったけれど、運よく木陰のベンチが一箇所空いているのを発見した。あそこに座ろうよ、と声を掛けたら、ヘルは微かに頷いてくれたので、私たちはベンチに二人で並んで腰掛けた。
ケネンシェを包んでいる紙を広げて、がぶりと頬張る。とろりとしたテレードクリームが美味しくて、しらずしらず頬が緩んでいく。
ふと視線を感じて隣を見ると、ヘルはじっと私を見上げていた。
ただ、無意識のうちにぼんやり見上げていただけなのかもしれない。そう思ったけれど、見られていると気付いた瞬間急に恥ずかしくなって、私はその照れをごまかすように口を開いた。
「お、おいしいね」
ヘルは私から、ふいと目を逸らした。
「……ふつう」
てっきり、うんって返してくれると思ったのに、ヘルの返答は素っ気無かった。予想外だったけれど、ヘルらしいかもしれない。何故だかそれがおかしくて、私は思わずくすっと笑ってしまった。
「なに?」
ヘルは怪訝そうな目で、私を見上げる。私は小さく頭を振った。
「ううん」
なんだか、幸せだな。
まさかヘルとラーネ・フェステを一緒に過ごせるとは思わなかったし、お花をもらえるとも思わなかった。こんな風にベンチに並んで座って、ケネンシェを食べたりできるなんて夢にも思わなかった。
ヘルと一緒に過ごせるだけで、こんなにも幸せだ。
私は横目でちらりとヘルを見た。ケネンシェを食べ終わった後は、どうするのだろう。ヘルはもう帰るつもりなのだろうか。気付いたらヘルはもうケネンシェを食べ終わっていて、ただぼんやりと広場の方を眺めていた。食べるの、早いなあ。
私も早く食べ終えた方が良いのかなと思いながらも、食べ終えたら帰ることになるのかもしれない、と思うと、どうしても食べ終わるのが惜しくなる。ちょっとずつ齧りながら、一口一口を噛み締めるように咀嚼する。ヘルがこっちを見ていないのをいいことに、私はヘルをじっと見下ろした。
赤み掛かった薄茶色の髪は、穏やかに吹く風にふわふわと揺れている。柔らかそうだと思っていたけれど、撫でてみたら想像通りに柔らかかったことを思い出した。
服装は、いつもと違う正装だ。深いグリーンのローブは、肩に国章が刺繍されている。さっき少し摘んだ時、その生地の厚さに驚いた。上質な生地を使っているんだろうな。
たとえ見習いでも、魔術師なんてそう沢山いるわけじゃない。だからこういう恰好を見ると、まだ年下なのに凄い人なんだなって感じがする。
「なんなの」
不機嫌そうな声に、ふと我に返る。ぱっと顔を見たら、ヘルは仏頂面で私を見ていた。じろじろ見られているのが不愉快だったのかもしれない。
「う、ううん。ヘルがそういう服着てるの初めて見たなあって思って」
私が咄嗟にそう返すと、ヘルはちらりと自分のローブを見下ろしてから、醒めた声で、そう、と呟いた。ヘルにとってはどうでも良いことだったのかもしれない。
惚れた欲目が無くても、ヘルの顔立ちは整っていると思う。ただ、まだ幼さの残る顔立ちの所為で、可愛らしい印象が強い。それでも、正装をしている姿を見ると、やっぱり恰好良いなあって思う。胸がきゅんとときめくのを感じて、私は気付いたら思ったままを口走っていた。
「恰好良いね」
ヘルは一瞬びっくりしたように目を見開いた後、すっと目を逸らした。
「…………そう」
どこかその頬が、赤いように見える。もしかして、照れてるの、かな。そう思った瞬間、なんだか急に私まで恥ずかしくなってくる。
うう。
私は赤くなっているであろう顔を隠すように、俯いた。
──でも、ヘルって意外と照れ屋さんなのかな。
ちょっと可愛い、かも。
そんなことを考えて、思わず頬を緩めたその瞬間、あ、という声が聞こえた。
ふっと顔を上げると、目の前にはルーインと、さっき私がこけかけたときに助けてくれた男性が立っていた。
「一緒だったんだ」
ヘルと私を交互に見て、ルーインはぽつりと呟いた。ヘルはルーインを一瞥したものの、それきり関心を失ったように、ふいと目線を逸らした。
ルーインの隣に立っている青年が、ヘルに向かって苦笑を浮かべる。
「ヘル、騙しただろ? ルーイン、僕のことなんて探してなかったけど?」
そういえば、さっきヘルは彼に"ルーインが探してたけど"って声を掛けていたっけ。それが嘘だったということだろうか。でも、なんでそんな嘘をついたんだろう。私と青年がじっと見つめていたら、ヘルは緩慢な動作で青年を見上げた。けれど、特に何も言わなかった。
「まあ、馬に蹴られたってことかな」
ルーインの言葉に、青年はきょとんとしたような目を向けた。それから、ルーインの目線を辿るように私を見下ろして、急にその目をまん丸に見開いた。
「えっ、何、そういう関係なの?」
そういう関係って、何が? 不思議に思って小首を傾げると、髪に挿された花がふわりと揺れた。それで初めて、ルーインと青年が見下ろしているのは、私の頭に飾られたその花なのだということに気がついた。
えっ、まさかこの花を見て、ヘルと私の関係のことを言っているの?
違うのに!
ヘルはナンパ避けとして花をくれただけなのに……。そう分かっているのに、なんだか恥ずかしくて顔が熱くなってくる。赤くなった頬に気付かれないように俯きがちに、そうっと隣に目を向けたら、ヘルはさっきまでと何ら変わりない様子で、平然と二人を見上げていた。
こんな風に恥ずかしいの、私だけなんだろうか。
そりゃ、そうか。意識しているから恥ずかしくなるのであって、端から意識なんてしてないヘルが、恥ずかしい気持ちになる訳が無いのだ。
そう思い至った瞬間、どきどきしていた気持ちがふっと小さくなって、代わりに胸の奥がちくんと痛んだ。
ルーインは俯いた私から目線を逸らし、ヘルに向かって問い掛けた。
「俺たちまだ見回りを続けるけど、ヘルはどうする?」
「帰る」
即答だった。
「えーと、じゃあ君は? こうして出会えたのも何かの縁だし、良かったら僕らと一緒に見回りに行かない? 何か食べるならご馳走するよ」
さっきこけかけてしまった私を受け止めてくれた青年が、優しい笑みを浮かべて首を傾げた。恐らく、私に聞いてくれているのだろう。
「あ、ありがとうございます。えっと、でも、私ももう帰ります」
エッジもどこかに行ってしまったし、ヘルも帰ってしまうのに、いつまでもフェステにいる意味なんてない。そう思って、小さく頭を振った。
「そっか、残念。ねえ、君の名前を聞いてもいいかな? 僕は、カイルって言うんだけど」
彼──カイルさんはそう言って、人好きのする笑顔を浮かべた。
「あ、えっと、ハンナです。ハンナ・エレット。さっきはありがとうございました」
人懐っこい笑顔につられるように笑みを向ける。カイルさんはにこにことした表情を崩さないまま、頭を振った。
「どういたしまして。……ハンナか。可愛い名前だね。歳はいくつ? 僕は二十一なんだけど」
二十一歳なんだ。少し年上なのかなとは思っていたけれど、四つも年上だったんだ。
「十七歳です」
「へえ。ヘルは十四だっけ? じゃあ僕よりヘルの方が歳も近いわけだ」
カイルさんはそう言って、小さく笑った。
ずっと知りたいとは思いながら、怖くて聞けずにいた情報が、ふいに転がり込んできた。ヘルって、十四歳なんだ……。年下だとは分かっていたから、三つも下だということに、大した衝撃は覚えなかった。
寧ろ、思っていたよりは歳が近くてほっとしたかも。
なんだ、エッジと同じ歳なんだ。
なんだか少し嬉しくなって、笑みを浮かべたまま隣に目をやる。すると、ヘルはきゅっと眉根を寄せて、どこか恨みがましい目で私を見ていた。
え、なんで?
戸惑う私をよそに、ヘルはふいに立ち上がって私の腕を掴むと、その腕を引くように歩き出した。
「……帰る」
帰るって、一緒に帰ろうってことなのかな?
「え、う、うん」
戸惑いながらも頷いて、私も立ち上がる。ヘルは二人に挨拶もせずに、すたすたと歩き出した。私は腕を引っ張られるようにして歩きながら、二人を振り返る。
ルーインは苦笑を浮かべて片手を挙げていた。その隣で、カイルさんはにっこり笑って手を振ってくれていた。
私は軽く会釈だけして、ヘルに目線を戻した。
斜め前を歩くヘルの横顔は、どこか不機嫌そうに見える。ヘルがむっとしたような顔を浮かべているのはいつものことだけれど、多分あれはヘルの癖みたいなもので、ヘルはいつも怒っているわけじゃない。
だけど、今みたいな表情を浮かべているときは、本当に機嫌が悪いときだ。
いつの間にか、ヘルの変化の乏しい表情から、そんなことまで読み取れるようになっている。
──ああ、これが好きってことなのかな。始めの頃は、いつ見ても不機嫌そうにしか見えなかったのに。
いつも無意識のうちにヘルを目で追って、ヘルのことばかり考えている気がする。ヘルの一挙手一投足に浮かれたり、落ち込んだりして。いつの間にか、こんなに好きになってしまっている。
どうして、なんだろう。