特別な花(1)
──ある日、店を開けてすぐの時間帯に、とても珍しいお客さんがやって来た。
「なーなー、姉ちゃん、ラーネフェステ、一緒に行こうぜ」
カウンターに身を乗り出すようにしてそう言ったのは、弟のエッジだ。エッジがスペイトに来たのは初めてではないけれど、こんなに朝早い時間に来るのは珍しい。
「エッジ、また背が伸びた?」
少し高い位置にあるエッジの顔を見上げて問い掛けると、エッジは得意げに笑った。
「そうなんだよ。買った服がすぐ着らんなくなるから、困るよ」
困るよ、なんて言いながらも、なんだか嬉しそうだ。男の子だし、背が伸びるのはやっぱり嬉しいのだろう。
……あ、そうだ。服と言えば、この前エッジに黙って、エッジの服をヘルに貸したんだった。結局ヘルは次の日には返してくれたからまたクローゼットに戻したし、どうでもいいって言うのは分かりきっているけれど、一応報告はしておこうかな。
「ああ、そうだ。エッジ。ごめん、この前エッジのクローゼットに入ってた小さい服、知り合いに貸しちゃった。もう返してもらったけど」
「へ? もういらないしいいけど、そんなの、いつ誰に貸したんだよ?」
エッジは何だか怪訝そうだ。
「えーと、この前知り合いの子が熱を出して、寝汗がひどかったから」
私がそう答えると、エッジはますます訝しむように目を細めた。
「寝汗がひどかったって、まさか家に泊めたのか? どういう知り合い?」
まさかそこを追求されるとは思わなかった。そういえば、エッジは意外と心配性だったっけ、と思い出す。
「友達だよ。えっと、一緒にいる時に倒れちゃったから、うちに連れて帰ったの。……ごめん、エッジのベッド勝手に借りちゃった。シーツも全部洗ってマットも干しておいたから、許してくれる?」
友達、と呼んでもいいのか分からなかったけれど、他に適切な言葉が思い浮かばず、顔の前で手を合わせてそう告げた。友達と伝えれば納得するだろうと思ったのに、エッジは険しい表情を崩さなかった。
「ベッドも別にどうでもいいよ。……で? 俺のお古を躊躇無く貸すってことは、男だよな」
「う、うん。そう、だけど」
エッジは急に唇をきゅっと引き結んだかと思うと、むっとしたように言った。
「姉ちゃん、誰もいねえのに男を家に上げるとか、馬鹿じゃねえの!」
エッジの言葉の意味が一瞬理解できなくて、私はきょとんとして硬直してしまった。ややしてから、いやいやいや、と我に返って頭を振る。
「男の子って言っても、エッジがもう着られないサイズの服を着るような小さな子だよ?」
自分で口にして、その言葉に胸を抉られるようだった。もう嫌というほど何度も思い知らされたことだけれど、それでもやっぱり、ヘルがまだ子どもなのだと認めることは、辛い。
「小さな子って、具体的に幾つだよ? そんなガキと友達って、どういうこと?」
エッジはますます怪訝そうだ。
「年齢は聞いたこと無いけど、エッジが二年くらい前に着てたシャツとズボンを貸してあげたの」
それくらい小さい子だ、という意味でそう告げたら、エッジははあ? と眉根を寄せた。
「二年前って、そんなガキでもないじゃん」
二年前と言えば、エッジは十二歳だ。十分に子どもだと思うのだけれど、エッジの中ではそうでは無かったらしい。エッジはむっとしたような表情を浮かべて、私を見下ろしている。
「つーか俺と同じ歳の奴でも、俺より小さい奴なんて珍しくないんだって、ちゃんと分かっとけよ。……それで、何とも無かったのかよ?」
「え?」
何とも無かったって、何が?
「風邪なら貰わずに済んだよ」
「そういうことじゃなくて! 姉ちゃんヘンなことされなかったかって聞いてるんだよ!」
怒りの所為なのか、姉にそんなことを言わされた所為なのか、エッジはほんのりと頬を赤くして、つっけんどんに言った。
私は呆気に取られて言葉を失った。
相手は子どもだって、言っているのに! しかも熱を出して気を失っていたというのに、そんなことある訳が無い。
そもそも、ヘルが私に対してどうこうなんてことは、天地がひっくり返ってもありえない。私は時間を掛けてやっと他人を脱したレベルの人間なのだ。
真剣な表情でそんな心配をしているエッジが何だか可愛らしく見えて、私は小さく笑った。
「エッジって本当に心配性だよね」
「姉ちゃんがぼんやりしすぎなんだよ」
エッジはむっとしたようにそう言ってから、わざとらしくため息を吐くと、それで、と話を元に戻した。
「思いっきり逸れたけど、今年のラーネフェステ、一緒に行こうぜ」
「えー、また?」
私が思わずそう返すと、エッジは拗ねたように口をへの字に曲げた。背が伸びて声が低くなり、大人に近づいても、こういう部分は変わらないのだなあとなんだかおかしくなる。
ラーネ・フェステは、年に一度だけ開催される、女神様の聖誕祭だ。当日には、この広場を中心に、都全体に多くの露店が並び、王都を上げて女神様の誕生を祝う。
エッジはフェステでしか食べられないケネンシェという甘いデザートが大好きで、それを食べるためだけに、毎年フェステに行きたがるのだ。実際、去年もエッジと二人で行っている。エッジは一人でフェステに行くことを嫌がるのだ。
というのも、ラーネ・フェステは本来恋人同士のお祭りで、フェステを訪れるのは、幸せそうなカップルか、恋人を求めて一人でやってくる人かのどちらかが殆どだ。フェステ自体が男女の出会いの場のようになっている一面もあるので、一人で行くと異性に声を掛けられやすいのだけれど、エッジはどうやらそれが嫌らしい。「姉ちゃんといると、ゆっくり菓子が食える」とかなんとか言って、私を連れて行きたがる。
つまり、姉を隠れ蓑に使おうというのだ。
「いいじゃん、どうせ姉ちゃんは一緒に行く相手なんかいないんだから」
エッジの言葉は断定系だ。私が否定するとは思っていないらしい。
一瞬ちらりとヘルの姿が脳裏を過ぎったけれど、私にヘルを誘うことなど出来るはずも無く──誘ったところで一緒に行ってくれるとも思えないが──、私は大げさに嘆息してから、エッジの額を指先ではじいた。
「しょうがないなあ。今年だけだよ」
去年と同じ文句で了承すると、エッジはほっとしたように笑った。それから安心した様子で、フルーブ二つとペタンのナテ包みを購入すると、機嫌良さそうに帰って行った。友達の分も頼んだのかと思ったら、全部一人でお昼ご飯に食べるらしい。成長期の男の子って、あんなものなんだろうか。
あれだけ食べるから背も伸びるのかなあ、なんて思いながら、私は去って行くエッジの後姿を見送ったのだった。
その日の帰り道、いつものように待ってくれていたヘルと並んで歩きながら、私はヘルに問い掛けた。
「ねえねえ、ヘルはフェステに行くの?」
隣を歩いていたヘルは、不思議そうな目で私を見上げた。
「フェステ? 何の?」
「十日後の女神様の聖誕祭だよ」
私がそう告げると、ヘルは考え込むように瞳を横に逸らした後、そんなものもあったっけ、とでも言うような口調で「ああ」と呟いた。
「スペイトは?」
お店はやっているのか、ということだろうか。私は小さく頷いた。
「やってるよ」
ラーネ・フェステの日は広場に多くの人が集まるから、スペイトにとっても稼ぎ時だ。
ただ、私はエッジとフェステに行くために、昼過ぎには上がらせてもらえることになっている。ライラもデートがあるから、昼過ぎまでだ。その代わり、昼過ぎからはライラのお姉さんや、ライラのお母さん──つまり、マスターの奥さんが手伝いに来て下さることになっている。
「ふうん」
ヘルは素気無くそう言って、それで会話を打ち切ってしまった。スペイトが開いているかを聞くということは、いつものようにフルーブを買いに来てくれるつもりなのだろうか。だけど、フェステの日は広場が人で混雑するから、とてもじゃないけれど噴水の縁に腰掛けて魔術書を読むなんてことは、出来そうに無いと思うけれど……。
◆
それから数日が経ち、あっという間にラーネ・フェステの日がやって来た。
ラーネ・フェステでは、男性は正装し、女性はラネラと呼ばれる民族衣装を身につけるのが慣わしだ。ラネラは裾がふんわりと広がった膝丈の白いドレスで、ラルヴィータに住む女の子なら、誰もが一着は持っている。私は朝からラネラを着て、いつもは下ろしている髪を編み込んでアップにして、スペイトで働いていた。いつものようにスペイトにやってきた常連さんたちが、いつもと違う私の装いを可愛らしいと言って褒めてくれる。
正直、いつものようにヘルがフルーブを買いに来るのではないかと、期待していた。他の常連さんのように、ヘルがお世辞を言ってくれるとは思わなかったけれど、ただ会いたかったのだ。フェステの日にスペイトが開いているか聞いていたくらいだから、きっと来てくれるだろう。そう思っていたのに、いつもの時間が過ぎてもヘルはやって来なかった。
「今日、あの子来なかったわね。……まあ、祭りになんて興味が無いんじゃないかしら、人ごみが煩わしくて今日は引きこもってるんじゃない?」
ライラは私を励ますように、そんな言葉を向けてくれた。
「べ、別に、気にしてないよ?」
私が慌ててそう告げると、ライラは微苦笑を浮かべた。素直じゃないんだから、とでも言いたげな表情だった。
「まあ、あの子に限ってデートってことは無いと思うけれど」
デート、か。
確かにヘルに限って、女の子とデートなんてことはありえないだろう。フェステに行くのか聞いたら、何のフェステか聞き返されたくらいだ。ライラの言うように、人ごみなんか嫌いそうだし、寮の自室に引きこもっているのかもしれない。
そうは思ったけれど、何故だか脳裏に、キャロットオレンジの髪の少女の姿が浮かんだ。高い位置で二つに結った髪を揺らしながら、「ヘル」と親しげに呼んでいた少女。まだ幼く──ヘルと並ぶと可愛らしいカップルのように見えていた、あの少女。
たった一度見かけただけなのに、その姿を鮮明に思い出すことが出来る。
とても可愛らしい女の子だった。
もし、もしもあの子と一緒にフェステに行っていたら……?
そんなことは無いはずだ。ヘルが女の子とフェステに来るとは思えない。そう思うのに、ヘルの腕を掴んで歩く少女の姿を勝手に想像してしまい、胸がずきんと痛んだ。
デートに向かったライラと別れた後、迎えに来てくれたエッジと共に、私はフェステをまわることにした。昼を過ぎて、広場はますます人でごった返していた。色とりどりの花の入ったバスケットを持った女の子たちが、広場の中をうろうろと歩き回っている。
「姉ちゃん、早くケネンシェ食べようぜ」
騎士見習いの制服を身に纏ったエッジは、見た目にはすっかり一人前の男の人のようなのに、中身は子どもの頃と全く変わった様子が無い。急くように私の腕を引いて、ケネンシェの出店へと向かっていく。
「まだ来たばっかりなんだから、おやつは後にして、先にご飯を食べようよ」
思わずたしなめる私の言葉なんて、意に介す様子も無い。
「何言ってんだよ、腹が減ってる時に食わねえと勿体ねえじゃん。ほら、早く並ぼうぜ」
結局強引に押し切られて、ケネンシェを買う列に並ぶ羽目になった。ケネンシェは細長いスポンジケーキに、甘くて軽いひんやりとしたテレードクリームを絡めたものだ。ラーネ・フェステでしか買えないケネンシェは大人気で、長蛇の列になっていた。
列に並びながら、辺りをきょろきょろと見回してみる。私たちの前に並んでいるカップルは、仲良さそうに腕を絡ませて、寄り添っている。見詰め合う視線の熱さだけで、テレードクリームがでろでろに溶けてしまいそうだ。幸せそうに笑う彼女の髪には、勿論一輪の花が飾られている。
──男性はフェステで売られている花を一輪買い、好きな女性の髪に挿す。その花は彼女に囁く愛であり、他の男性に向けた牽制になるのだ。フェステの間、たとえ一人で歩いていても、髪に花を挿している女性なら、異性に声を掛けられる心配は無い。
……残念ながら、私は人生で一度もそんな花を貰ったことは無いけれど。
エッジと他愛も無いことを喋りながら待っていると、列はあっという間に進んで、無事にケネンシェを買うことが出来た。折角並んだから私も買おうかと思ったけれど、まだそこまでおなかは減っていなかったので、やめることにした。
折り畳んだ紙でしっかりとくるまれているケネンシェは、片手でも食べられるようになっている。私たちは歩きながら、出店を見てまわることにした。エッジはケネンシェをおいしそうに頬張っている。
おなかは減っていないけど、おいしそうに食べるエッジを見ていたら何だか意地悪したくなってきて、私はエッジの腕を引いた。
「ねえ、一口ちょうだい」
エッジは一瞬悩む様子を見せた後で、ぶんぶんと頭を振った。
「やだよ。食べたかったら、姉ちゃんも買えば良かったじゃん」
「だって一個食べるほど、おなかすいてなかったんだもん。いいでしょ、一口くらい」
ふざけてケネンシェを奪おうとすると、エッジはケネンシェを持った右手を、高い位置に避けてしまう。私は思いっきり手を伸ばしてそれを取ろうとするけれど、左手でぺしぺしと払われる。
あんまりからかうとエッジがへそを曲げてしまうだろうから、そろそろ止めようかと思いつつ、そんなしょうもない遊びをしていたら、ふいに、背後から声が掛けられた。
「ハンナ?」
ぱっと振り返ると、そこにはルーインが立っていた。紺色のローブを羽織ったルーインは、一人じゃなかった。その隣には、ヘルが立っていたのだ。ルーインと同じように、ヘルもローブを羽織っていた。私の髪によく似た濃いグリーンのローブの肩口には、ラルヴィータの国章が刻まれている。
ヘルが正装しているのを見るのは、初めてだ。なんだか可愛らしいのに、とても恰好良く見える──。思わず見とれてしまった私とは対照的に、ヘルはどこか冷めた表情でエッジを見上げていた。私のことなんて、視界にすら入っていないようだ。
「わ、おはよう。二人とも、来てたんだね」
咄嗟にそう言うと、ルーインはヘイゼルの瞳を細めて笑った。
「うん、まあ、警備がてらね。こんなところで会うなんて、奇遇だなあ」
穏やかな笑みを浮かべるルーインに対して、ヘルは不機嫌な表情を崩さない。私がヘルの様子をちらちらと窺っていると、エッジが身を屈めて耳元に囁いてきた。
「誰?」
「あ、えーと」
紹介しようかと思った矢先、ふいと踵を返したヘルが、私たちに背を向けて歩いて行ってしまった。あっという間に人ごみに紛れて見えなくなった背中を、ルーインもぎょっとしたように見送っている。
「おい、ヘル! ……っとにもう、あいつは自由だな! ごめん、俺も行くよ」
ルーインは私とエッジに軽く手を上げて、早歩きでヘルを追いかけて行った。慌しく去って行った二人の背中を、呆然と見送る。
折角フェステでヘルに会えたのに、ヘルは私の方を見てもくれなかった。まだエッジの紹介もしていないのに、ぷいと去って行ってしまった。
今日も会えるかなって気にしていたのも、会えて嬉しいのも私だけなんだろうな。
分かっていたことだけれど、何だか悲しくなる。
「で、あいつら誰なんだよ。知り合いなのか?」
去って行った二人の背中を見送って、エッジは怪訝そうに言った。
「えーと、スペイトの常連さん、かな」
嘘は言っていないはずだ。
「へーえ」
エッジはまだ何か言いたそうな様子で、二人が消えた方角を見送っていたけれど、ややしてはっとしたような顔をして、うわ、先輩だ、と呟いた。
「ちょっと俺、挨拶してくる!」
そう言って、突然走り出した。
「えっ、エッジ? ちょっと待ってよ!」
びっくりして呼び止めたら、振り返らないままに大きな声が返って来た。
「悪い、先に帰ってて!」
その言葉だけを残して、あっという間にエッジの姿は見えなくなってしまう。
「ちょっと、エッジ! ……もう!」
エッジが一人で行くのは嫌だと行ったからついてきてあげたのに、そんな優しい姉をほっぽってどこかへ行ってしまうなんて、なんて弟だ。私は小さくため息を吐いて、きょろきょろと辺りを見回した。
辺りは人でごった返している。今しがた走って行ったエッジの姿さえ、もう見つけることは出来ない。本音を言えば、もう一度ヘルに会いたいけど……この人ごみの中を探すのは、不可能に近いだろう。私はふう、と今度は深いため息を吐いた。お祭りを一人で楽しむことなんて出来ない。折角半日のお休みをくれたマスターには何だか申し訳無いけれど、もう帰ろう。
幸せそうに手を繋ぎ、見つめ合うカップルたちの横をすりぬけて、家の方向へと向かう。あちこちから漂ってくるケネンシェの甘い匂いと花の香りが鼻腔をくすぐり、何だか急に虚しくなってくる。
カップルたちが幸せそうに過ごす祭りの日に、私は一人で一体何をしてるんだろう。早く家に帰りたい。さっさと家に帰って、ゆっくりご飯でも食べよう。そんなことを考えながら急ぎ足になっていたら、ふいに小石に足を引っ掛けた。
ぐらり、と上体が傾く。こける──と思った瞬間、優しく誰かに受け止められた。
「す、すみませんっ」
咄嗟に謝って、ぱっと顔を上げる。そこには、私よりも少し年上であろう青年が立っていた。長い栗色の髪は右側で一つに束ねられ、右肩から前へと流されている。彼が身に纏っているのは、ルーインが着ていたのと同じ、肩に国章が刺繍された、紺色のローブだ。きっとこの人も魔術師なのだろう。
「いえいえ。大丈夫?」
彼はアンバーの瞳をくしゃりと細めて、優しく笑ってくれた。私ははい、と頷いた。それから、青年に抱きとめられた状態のままだと気付いて、慌てて彼から離れた。
「す、すみません、ご迷惑をお掛けして」
知らない人に抱き締められてしまった。ううん、こけかけたのを、助けてくれただけだ。そうは思うけど、なんだか恥ずかしい。目を合わせるのも気まずくなって、私は深く俯いた。
「ううん。……ねえ、もしかして、一人?」
「え?」
顔を上げると、青年は穏やかな笑みを浮かべていた。
「良かったら一緒に……」
青年が何かを言い切るよりも早く、冷めた声が割って入る。
「何してんの」
声のした方を振り返ると、仏頂面をしたヘルが立っていた。