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彼と私の境界線  作者: 篠井七紗
第四章
7/21

ほんの少しの期待

 その日はさすがに来ないだろうと思っていたのに、いつもと同じ昼下がり、ヘルはけろっとした顔をしてフルーブを買いにやって来た。ヘルは朝貸した服では無く、淡いベージュのシャツと、ダークブラウンのハーフズボンにプレイシーズという出で立ちだった。

 本を小脇に抱えたまま、カウンターの前に立ったヘルが口を開くよりも早く、私は彼に話しかけた。

「体調、大丈夫? 寝てなくていいの!?」

 ヘルは一瞬むっとしたように眉根を寄せたけれど、すぐに静かに頭を振った。

「もう平気」

「本当に?」

「うん」

 今日一日くらい寝ていた方がいいのではないかと思ったけれど、もう私が何を言っても聞いてくれそうにも無かったので、私は食い下がるのを早々に諦めた。

 ヘルはポケットから取り出した銅貨を、カウンターの上に置く。念のため「フルーブでいいの?」と問い掛けると、ヘルはこくりと頷いた。

「着替えたんだね」

 マスターがフルーブを用意してくれている間、なんとなくそう問い掛けたら、ヘルは何故だか嫌なことを思い出した、とでもいうように、きゅっと眉間に皺を寄せた。

「あれはすぐ返すから、待って」

「え、ううん。急がないから、全然」

 出来たぞ、という声と共に、マスターからフルーブがまわされる。出来立てのフルーブをヘルに手渡しながら、私はふと気になったことを訊ねた。

「そういえば、もしかして今日の夜も送ってくれるつもりだったり、する?」

 ヘルはきょとんとしたように私を見た。何を当たり前のことを、と言わんばかりの目だった。

「きょ、今日は一人で帰るよ? だから気にしないで、早い時間に帰って、ぐっすり休んでね?」

 昨晩倒れたばかりだと言うのに、遅い時間まで待っていてもらうのは忍びない。せめて早めに帰って休んで欲しい、と思ったのだけれど、ヘルはやっぱり頷いてはくれなかった。

「もういっぱい寝た。昨日みたいに、あんたに迷惑掛けたりしない」

 そんな心配をしている訳じゃないのにって思ったけど、ヘルは結局折れてはくれなかった。



 その日の夕方に近くなった頃、ルーインが店にやって来た。

「やあ、ハンナ」

「こんにちは、ルーイン」

 ルーインはメニューをちらっと見た後、今日は違うものにしてみようかな、と言って、ペタンのナテ包みを注文した。

 ペタンのナテ包みは、ペタンという柔らかな鳥の肉と葉物野菜、それからほんのり甘くて歯応えのあるきのみに柑橘を用いた酸味のあるソースを掛け、もちもちとした薄いパン生地で包んだもので、スペイトの看板商品のひとつだ。

 オーダーをマスターに通し、渡された銅貨を仕舞った後、すぐに用意されたナテ包みを手渡すと、ルーインは心もち声を潜めて言った。

「ねえ、ハンナって好きな奴とかいるの?」

「へっ!?」

 予想外の言葉にぎょっとして身を引くと、ルーインはまるで降参のポーズをとるように、両手を上げた。

「ああ、違う、違う。ハンナをナンパしてるんじゃないんだ、引かないで」

「そ、そんなこと思ってないけど、どうしたの、いきなり」

 不思議に思って聞き返すと、ルーインは身を乗り出してきた。

「最近ヘルと仲良いみたいだからさ」

 好奇心を乗せて紡がれた言葉に、びくっと肩が震えた。

「そう、かな?」

 私は思わず、ルーインの肩越しに、広場の噴水の縁に腰掛けるヘルを見遣った。一心に本を読んでいるヘルは、私たちの方には目もくれない。

 ルーインの目には、私とヘルは仲が良いみたいに見えていたんだ。それって、ヘルが私の名前を呼んでくれるようになったからだろうか。

 ──それとも、昨晩のことを何か聞いたのかな。

 「昨夜のこと、ヘルから何か聞いたの?」と、訊いてみようかとも思ったけれど、もしもルーインが何も知らなかった場合、ただの薮蛇になってしまう。私は慌てて口を噤んだ。

 一瞬、私の気持ちがばれているのかと思ってひやりとしたけれど、そういう訳ではないのかもしれない。心の余裕を取り戻した私はほっとして、ルーインに向かって小さく笑みを作った。

「最近名前で呼んでくれるようになったし、他人では無くなったのかなって、思ってはいるんだけど」

「けど?」

「好きとかそういうのじゃないよ。歳も随分離れていると思うし」

 案外、そんな嘘はするりと唇を滑り出た。

「そうなんだ?」

 ルーインは何故か、少しがっかりしているように見えた。

 なんで、がっかりしているんだろう。私がヘルを好きだと言った方が、良かったのかな。

 ──ううん、言える訳が無い。

 成人を間近に控えた女が、声変わりもまだの男の子が好きだなんて、そんなこと。

「なんだ。ハンナはヘルのことを気にしているみたいに見えたから、もしかしたらって思ってたんだけど」

 残念だな、とルーインははっきりと口に出してそう言った。何が残念なのだろうかと思いながらも、私はそれを聞き返すことはしなかった。

 自分の気持ちをごまかすことに、必死だったのだ。

「なんだか、あの子といると、弟を思い出すっていうか……」

 苦し紛れの言い訳を、ルーインは信じてくれたらしい。へえ、と興味を示した。

「弟さんがいるんだ。どうりで」

「何がどうりで、なの?」

 不思議に思って聞き返すと、ルーインはふっと笑った。

「ヘルにも姉さんがいるんだ。正確には、姉さんと兄さんがいるんだけど。それでハンナとは波長が合うのかもしれないなって思って」

「そうなんだ?」

 ヘルと私の波長が合っているとは思えなかった。なんせ、名前で呼んでもらえるようになるまでに、一月近く掛かったのだ。

 それでも、第三者から見て波長が合っているように見えるのかと思うと、なんだか嬉しくなってくる。

「……あっ、そういえば、ルーイン、一つお願いがあるんだけど」

 私の問い掛けに、ルーインは不思議そうな表情を浮かべた。

「ん? どうしたの?」

 ルーインに迷惑を掛けるのは気が引けたけれど、私は意を決して口を開いた。

「あのね、今晩、私を家まで送る振りをしてくれない?」

 何て説明しようかと思ったけれど、その一言だけでルーインには通じたようだ。ルーインはすぐに理解したような口ぶりで、ああ、と呟いた。

「もしかして、ヘルが昨日熱を出して寝込んでたこと、知ってるの? それで、心配してくれてるんだ?」

 ルーインは、ヘルが昨夜熱を出したことを知っている様子だ。考えれば、当然か。ヘルは今朝、連絡はしたと言っていたし、何らかの方法で熱を出して帰れなかったことをルーインに連絡したのだろう。ただ、どうやらヘルは、私の家に泊まったということはルーインには伝えていないようだ。

 私はどこかほっとしたようながっかりしたような、妙な気持ちで口を開いた。

「送るって言ってくれてるんだけど、遅い時間まで待ってもらうの、心配だし。でも、私が一人で帰るって言っても納得してくれないから、ルーインが送ってくれるって言ったら、あの子も納得してくれるかなって」

 そこまで言い切ってから、ああ、凄く厚かましい奴だと思われているかもしれない、と思って、私は慌てて付け加えた。

「あ、勿論、口裏を合わせてくれるだけでいいの」

 それでも、厚かましいことには変わりは無いだろう。縋るような気持ちでルーインを見上げると、ルーインは予想に反してにっこりと笑っていた。

「いいよ、勿論、家まで送るよ。体調の悪いヘルにハンナを任せるのも心配だし」

「えっ、ううん、そんなの悪いし、本当に振りだけでいいの」

 ぶんぶんと頭を振る私に笑って見せると、ヘルには俺から言っとくよ、と言って、ルーインはヘルのいる噴水の方へと去って行った。お客さんが来ないのをいいことに、私はカウンターから二人の様子をじっと見ていた。傍らに立ったルーインを不思議そうに見上げたヘルに、ルーインが二言、三言言葉を掛ける。その瞬間、ヘルがぱっと私の方を見た。眉根を寄せて、むっとしたような目で私を見ている。

 あれ。どうしてだろう、凄く怒っている、ような……。

 戸惑う私をよそに、読んでいた本を閉じたヘルは、つかつかと大股で私の方へと歩いてきた。その背後では、苦笑を浮かべたルーインが、顔の前で両手を合わせている。

 ん? ルーインが謝ってるってことは、ヘルを説得できなかったってことかな……?

「ハンナ」

 カウンターの前まで戻ってきたヘルは、私を見上げて、不機嫌な声音で言った。

「不安なの?」

「へ?」

 不安って、何が? 端的過ぎる問い掛けの意味が分からず、私は首を傾げる。ヘルの体調はまだ本調子じゃないだろうから、倒れるんじゃないかとは心配している。ヘルが不安なの、と聞いているのがそのことなら、答えはイエスだ。

「うん。私の所為で無理をさせて、また熱がぶり返したら困るもの」

「俺よりルーインの方が安心できるってこと?」

 何が気に触ったのか、ヘルの眉間の皺はみるみるうちに深くなっていく。

「そんなこと言ってないよ、あなたの体調を心配してるの。今日はルーインに送ってもらうから、早く帰ってゆっくり休んで欲しいと思って」

「やだよ」

 ヘルは吐き捨てるように言った。

「ルーインに余計なこと頼んだりしないで」

 ヘルはぷいと踵を返して、噴水のところへと戻って行った。ヘルと二言、三言言葉を交わしたルーインは、ヘルに気付かれないように私に向かって両手を合わせると、そのまま去って行った。

 結局今日もヘルが待っていてくれるということなのだろうか。体調が悪いのに大丈夫なのだろうか、と何だか申し訳ない気持ちになる。更には、巻き込んでしまってとばっちりを受けたルーインにも申し訳ない気持ちになりながらも、私は仕事に戻ったのだった。




 その日の仕事終わり、やはり待っていてくれたのはヘルだった。言葉も無く歩き出したヘルは、どこか不機嫌な様子だった。ヘルがむっとしたような顔をしているのはさして珍しいことじゃないけれど、今日のは明らかに機嫌が悪そうだ。

 朝に見せてくれた柔らかな笑顔は、私の願望が見せた幻だったんじゃないだろうかという気さえしてくる。

「もしかして、まだ体調悪いんじゃない?」

 思い切って、そう問い掛けてみた。

「へ?」

 ヘルは不思議そうに私を見上げた。

「また熱が上がってきたんじゃないかなって」

 無意識のうちに、手を伸ばして額に触れそうになったけれど、私はそれをすんでのところで押し留めた。額をくっつけるのを嫌がったヘルは、手のひらで熱を測られるのも嫌がるかもしれない。

「もう平気って、言ったけど」

 ヘルはうんざりしたように答えた。お昼にも何度か問い掛けているから、同じやり取りを繰り返すことに、いい加減辟易している様子だ。ヘルの体調が心配ではあるけれど、本人が大丈夫だと言っている以上は、どうしようもない。私はただ口を噤むしかなかった。

 ヘルの体調が悪いのなら、余計な話はしない方がいいかもしれない。雑談を振ることも憚られて、地面の砂を見つめながら暫く無言で歩いていたら、ヘルが唐突に口を開いた。

「……ハンナはさ」

 ヘルの方から話し掛けられたことにびっくりして、ぱっと顔を上げる。ヘルは正面を見ていて、私の方を見てはいなかった。

「……なんで名前、呼ばないの」

「へ?」

 聞き間違いかと思って、呆けた声で聞き返す。ちらりと私を見たヘルは、眉根をきゅっと寄せて、どこか拗ねたような表情を浮かべていた。

「ルーインは呼ぶくせに」

 まるで独り言のように呟かれた言葉をすぐには理解できなくて、私は瞳を二、三度瞬いた。頭の中でその言葉を反芻して、その意味を吟味する。


 まさか。


 そう思った瞬間、私の心臓が激しく脈打った。まるで口から飛び出すんじゃないかという勢いで、心臓が暴れ出す。

 いやいやいや、きっと何かの間違いだ。

 私の勘違いだ。

 いや、自惚れに違いない。

 ヘルが私に名前を呼ばれないなんて、そんなしょうもない理由で怒っているなんて、そんな訳が無い。

 ──確かに私は、一度もヘルの名前を呼んだことが無い。ヘルに名前を呼ばれるようになる前は、呼んじゃいけないような気がしていた。だけどヘルに名前を呼ばれるようになった今となっては、別に私が名前を呼んでも問題は無い、はずだ。

 だけど、まだ一度も口にしていないその名前を呼ぶのはなんだか恥ずかしくって、そう簡単には口に出来ずにいた。

 そもそも、私はヘルに名前を教えてもらった訳でもなんでもなく、ルーインから聞いただけなのだ。なのに勝手に呼ぶっていうのもどうなんだろう。

「……名前、教えてもらってないし」

 悩んだ挙句、小さな声でそう返したら、ヘルは綺麗なエメラルドグリーンの瞳をまん丸にして、私を見上げた。私の反応は想定外だったのか、ヘルの目には純粋な驚きが浮かんでいる。

 こんな表情を見たのは、初めてかもしれない。あどけない表情が可愛らしい顔立ちと相俟って、いつもよりも更に幼く見える。

 ややして、ヘルはその目をすっと細めて、不機嫌そうに呟いた。

「知ってるくせに」

 な、なんで私がヘルの名前を知っていることを知っているのだろう。もしかして、ルーインが何度も目の前で呼んでいたのだから覚えているだろう、ということかな。

 だけど、他人が呼んでいるのを聞いて知るのと、本人に教えてもらうのとではまた違う。

 私はヘルに──以前は私が名乗っても名前を教えてくれなかったヘル自身に、名前を教えてもらいたい。私は名前を教えてもいい存在なのだと、ヘルに認められたことを確かめたいのだ。

 私がじいっとヘルを見つめていたら、ヘルはやがて、根負けしたように小さく息を吐いた。

「……ヘルト」

 ぽつりと呟かれた言葉はとても小さくて、すう、と空気に溶けていくようだった。

 ヘル、ト。

 そうだったんだ。ヘル、じゃなくて、ヘルトっていうのが正式な名前だったんだ。

「ヘルト」

 思い切ってそう口にしたら、ヘルはふっと目を逸らした。

「……なに」

「ヘル、って呼んでもいい?」

 心の中ではずっと呼んでいたその名前を、音にして紡ぐ。ヘルは斜めに目を落としたままで、浅く頷いた。

「……勝手に、したら」

 言葉はいつも通り素っ気無いけれど、心なしか、逸らされた頬が赤い。

 ──もしかして、照れてる?

 いや、まさか。ヘルが私なんかに名前を呼ばれたくらいで、照れたりなんかする訳が無い。そうは思いながらも、私はなんだか嬉しくてたまらなくなる。

 声に出して、ヘルの名前を繰り返した。

 私はこの名を呼んでもいいと、認めてもらえたのだ、と。

「ヘル」

「なに」

「へル」

「……だから、なに」

「ふふふ」

「なにがおかしいの」

 むっとしたような声を向けられても、少しも悲しくはならなかった。だって、そう言っているヘルの頬が、ほんの少しだけ赤く見えるのだ。


 ──少しくらい、期待してもいいのかな。自惚れてもいいのだろうか。

 私がヘルを好きな気持ちの何分の一かくらいは、ヘルも私のことを好きでいてくれてるって、そう思ってもいいのかな……?

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