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彼と私の境界線  作者: 篠井七紗
第四章
6/21

優しい手のひら

 その翌日も、客足の落ち着いた昼下がりに、ヘルはいつものようにやって来た。閉じたままの本を小脇に抱えてやってきたヘルは、無表情で私を見上げてフルーブを注文した。カウンターに置かれた銅貨を受け取り、ちらりとヘルを見下ろしたら、心なしかヘルの様子がいつもと違うことに気がついた。

 なんだかぼんやりしているというか、気だるげに見える。

「大丈夫?」

 思わずそう声を掛けると、ヘルは不思議そうに私を見上げた。何が、と問いたげなエメラルドグリーンの目が、私をじっと見つめている。

「なんだか、体調が悪そうだけど」

「……別に」

 ヘルは素気無くそう答えると、手渡したフルーブを受け取って、広場の噴水の方へと去って行った。答える声すらも、いつもより覇気が無く感じられたのは、気のせいだろうか。なんだか心配だなと思いながら、私は去って行くヘルの後ろ姿を見送った。




 夕方になり、仕事を終えた私は小走りでヘルのもとへと急いだ。昼間の様子が変だったから、心配だったのだ。駆け寄って来た私に気付いたヘルは、読んでいた本をぱたんと閉じて私を見上げた。エメラルドグリーンの瞳は、涙で少し潤んでいるように見えて、なんだかどきりとする。頬もなんだかほんのりと赤いように見える。──まさか、熱でもあるのだろうか。

「ちょっと待って」

 立ち上がりかけたヘルを制するように肩に手を掛けて、座らせる。ヘルは不快だと言わんばかりに眉根を寄せた。

「なに」

「熱、あるんじゃない?」

 前髪を持ち上げると、いつもエッジにしていたみたいに、額をこつんとくっつける。その尋常ではない熱さにぎょっとして、私は思わず眉を顰めた。

「すごい熱!」

「どうでも……いいから、離れてよ」

 不機嫌そうな声が至近距離から聞こえ、はっとなった私は額を離して、ヘルを見下ろした。ヘルはさっきよりも赤い顔をして、どこか拗ねたような目で私を見上げていた。

 ついつい弟にするみたいにしてしまったけれど、子ども扱いされたことが不服だったのだろうか。

「すぐにお医者様に見てもらわないと!」

「平気だってば」

 ヘルは呆れたようにため息を吐いて、立ち上がる。けれどその瞬間、その身体がふらりと傾いだ。私は慌てて両手を伸ばして、倒れ込んできた身体を受け止める。ずしり、と重たくて一歩下がってしまったけれど、まだ小さなヘルの身体はなんとか受け止めることが出来た。

「ねぇ本当に、大丈夫?」

 心配になって顔を覗き込むと、ヘルは潤んだ瞳で私を睨みつけた。私を押し退けるようにして何とか自分の足で立つと、ふらふらと歩き出す。

「へいき」

 掠れた声がそう紡いだけれど、息も絶え絶えにそんなことを言われても、信じられるはずも無い。

「平気そうには見えないよ。お医者様に見てもらわないと。お城の寮まで送るよ。肩を貸すから、歩ける?」

 私がそう言ってヘルの腕を掴むと、ヘルはその手を振り払った。

「なんで、俺が、あんたに……」

 ふらり、と再び倒れ込みそうになったヘルを、私は慌てて受け止めた。顔を覗き込むと、ヘルは真っ赤な顔をして、苦しげに荒い呼吸を繰り返している。

「え、ちょっと、大丈夫!?」

 びっくりしてそう声を掛けると、ヘルは何か言おうとしたのか微かに口を動かしたけれど、言葉にはならなかった。私は苦しげに息を吐くヘルを、何とか噴水の縁に腰掛けさせる。

 この調子では、歩いて帰れそうに無い。こんな状態なのに、今まで何食わぬ顔でここに座り、本を読んでいたことに驚かされる。

 見習い魔術師は、エッジのような見習い騎士と同様に、お城の中の寮に住んでいることが多い。最初に送ってもらった日に、私を送らないといつまでも寮に帰れない、って言っていたし、ヘルもきっと寮住まいのはずだ。本当は、私がお城まで送っていくのが一番いいのだろうけれど、ここからだと距離が結構あるので、私一人でヘルを連れて行くことは難しいだろう。協力してくれそうな人が居れば良かったけれど、マスターはもう帰ってしまった後だし、誰かに頼ることは出来そうにも無い。

 ──しょうがない。お城よりはまだ私の家の方が近いし、家に連れて帰ろう。

 私はそう決断すると、噴水の縁に腰掛けるヘルの前にしゃがみ込んだ。

「乗って」

 振り返ってそう告げたら、ヘルは潤んだエメラルドグリーンの瞳を、驚いたように見開いた。それからその目がくしゃりと歪む。怒っているようにも泣きそうにも見える、不思議な表情だった。

「ルーイ、を、」

 息も絶え絶えに何かを言っているけれど、上手く聞き取れない。ルーイ、ってもしかして、ルーインのこと? ルーインを呼べと言っているのだろうか。

「ルーインを呼びに行く間、あなたを一人でここに残しておくわけにはいかないよ」

 だからおぶさって、と告げるけれど、ヘルは頑なにそれを拒む。私はヘルに乗って貰うのを諦めて、強引にヘルの腕を引いた。驚いているヘルを、何とかして背中に乗せる。ヘルは反抗する気力も無いようだ。ヘルをおぶった私は足にぐっと力を入れて、なんとか立ち上がる。そっと顔を動かして横目にヘルを見ると、ヘルは不服そうだったけれど、苦しすぎてもう言葉も出て来ないようだった。

 背中から伝わるヘルの体温は、ひどく熱い。私は荒い呼吸を繰り返すヘルをしっかりとおんぶして、帰路を急いだ。



 いくら年下の華奢な男の子でも、おんぶして歩くのはなかなかの重労働だ。ふらふらしながらも、いつもの倍近い時間を掛けてなんとか家に帰り着いた私は、弟が使っていた部屋のベッドにヘルを下ろした。ヘルはもう目を開けている気力も無いのか、瞳を伏せて、ただただ苦しげな呼吸を繰り返している。荒い呼吸を繰り返すヘルは苦しそうで、見ているこっちの胸が痛くなる。先程よりも熱が上がってきたのか、額には大粒の汗をかいている。やっぱり一度、お医者様に見てもらった方がいいだろう。

 騎士をしている私の父は、去年から三年間の地方配属になって、母と二人で地方へ移ってしまった為、今この家に住んでいるのは私一人だけだ。ヘルを一人家に残すのは気が引けたけれど、私は近くに住むお医者様を呼びに走った。


 ──お医者様に診察してもらったところ、ヘルはやっぱり風邪を引いて、熱を出しているようだった。熱を下げる薬草を分けて貰い、お医者様が帰った後で、私は濡れたタオルでヘルの顔や手を拭った。

 熱冷ましの薬草をすり潰して水に溶かしたものを、スプーンを使って少しずつ口に含ませる。根気の要る作業だったけれど、ヘルが眠っている以上、薬草を飲ませるにはこうするより他無い。暫く苦そうに唸っていたヘルは、やがて静かな寝息を立て始めた。

 そのことに安堵して、私はほっと息を吐く。薬草が効いたのか、苦しげに寄せられていた眉間の皺も薄くなり、穏やかな寝顔を見せている。まだ丸みの残る幼い頬はほのかに赤いけれど、それでも大分ましになったような気がする。

 私はヘルの寝顔をじっと見つめた。あどけない寝顔はいつもの何倍もヘルを幼く見せる。それでも、弟に向けるのとはまた違う、恋しいと思うような気持ちが湧き上がってくる。

 どうして、なのだろう。弟よりも幼く見える、こんなに可愛らしい子なのに。

 どうしてこんなに、好きになってしまったのだろう。

 私はヘルの額に載せた濡れタオルを取り替えながら、部屋の隅に置いていた砂時計を見やった。灰色の砂が半分近く溜まっているということは、もうそろそろ夜中と言ってもいいような時間帯だ。誰にも連絡していないけれど、ヘルが帰って来ないことで、ルーインや他の人たちは心配しては居ないのだろうか。

 そんな不安が頭を擡げては来たけれど、どうしようも無かった。こんな時間に一人でお城まで行くのは心細かったし、その間ヘルを一人にするのも不安だった。……熱があるときというのは、心細くなるものだから。

 ヘルもそうかは分からないけれど、少なくとも、私やエッジはそうだった。だから、ヘルが目覚めた時、傍に誰もいなかった、なんてことにはしたくない。それに何より、ヘルは私の家に来たことなんて無いのだから、目が覚めたとき一人きりで知らない場所にいたら、混乱するだろう。

 傍にいても、時々額のタオルを取り替えるくらいしか出来ることなんて無いけれど、いつ目を覚ますかも分からないから、私は夜通し起きて傍にいようと決めていた。

 ──朝になったら、すっかり元気になったヘルの姿が見られますように。

 そんな願いを込めて、私は熱で少し汗ばんだヘルの髪を撫でた。いつもふわふわと跳ねている髪は、見た目通りに柔らかくて気持ち良かった。

 小さい頃、弟が熱を出して寝込んだ夜は、よくこうやって看病したっけ。あの頃はエッジも素直で可愛らしかったから、一緒に寝て、なんて袖を引かれたりした。そんな風に甘えられると断れなくて、一緒に眠って──次の日には風邪を貰った私が寝込んで、母に看病してもらったのも良い思い出だ。

 ヘルには、兄弟はいるのかな。もしもお姉さんかお兄さんがいるのなら、「一緒に寝て」なんてお願いしていた時期があったのだろうか。今のヘルから想像するのは困難だけれど、もしそんな時期があったのなら可愛いかも。

 そんな他愛も無いことを考えながら、私は暫くの間、ヘルの頭を撫でていた。





 ──。


 何かが頭の上を、往復している。

 一体何かと思って一瞬驚いたけれど、どうやら誰かが、頭を撫でてくれているみたいだ。

 小さな手が、どこか不慣れな手つきで、私の頭をゆっくりと撫でる。恐る恐るといった動きで左右に動く手は、まるで珍獣を触るかの如くぎこちない。それでも、嫌な気はしなかった。寧ろ、その手のやさしい温もりに安堵して、思わず頬を緩めた。

 うっすらと目を開けると、上半身を起こしたヘルの姿が目に入った。ヘルは呆れを含んだ苦笑いのような表情を浮かべて、ベッドに突っ伏すようにして眠る私の頭を撫でていた。

 ああ、ヘルだったんだ。

 そう思った瞬間、これは夢だ、と唐突に理解する。だって、ヘルが私の頭を撫でるなんてこと、ある訳が無い。しかも苦笑いとは言え、ヘルが笑っているのだ。そんなこと、夢の中以外では起こりえないだろう。

 それでも、私は嬉しかった。

 これが夢だと分かっていても、ヘルが私の頭を撫でてくれているということが嬉しくてたまらなかった。ヘルが私に笑みを向けてくれていることが、嬉しくてたまらなかった。たとえそれがどこか呆れを含んだ苦笑いでも、私にはまるで奇跡のように思えたのだ。

 ああ、ヘルが好きだなあ、と思う。

 どうしてこんなに好きになってしまったのか分からないけれど、夢の中で頭を撫でてもらっているだけでも、なんだか胸がいっぱいになる。

「……ヘ、ル……」

 溢れそうになる想いを込めて、思わずその名を呼んだ瞬間、頭を撫でる手がぴたりと止まった。──どうしてだろう。もっと、撫でてくれたらいいのに。

 本当はもう一度目を開けてヘルの様子を窺いたかったけれど、襲い来る眠気には抗いきれず、私の意識はそのまま眠りの底へと沈んでいった。






「──ナ、ハンナ」

 まだ少し幼さの残る高い声が、私の名を紡ぐ。ふわふわとまどろんでいた私は、軽く肩を揺すられた瞬間、はっとして目を開いた。

 すぐ目の前に、呆れたような表情を浮かべたヘルがいた。

「きゃあ!」

 びっくりして身を起こした私を、ヘルはじっと見つめている。咄嗟には状況が理解できず、私は辺りを見回した。どうやら私は、ベッドに顔を突っ伏すようにして、座ったまま眠ってしまっていたらしい。ヘルはいつの間にかベッドから起き出していたようで、私のすぐ隣にしゃがみ込んでいた。

「わ、わ、私、寝てた!?」

 慌ててよだれを拭ったけれど、幸い垂れてはいないようだった。あわあわと立ち上がる私を見上げて、ヘルはこくりと頷いた。

 何か夢を見ていたような気がするけれど、衝撃ですべて飛んで行ってしまった。

「ご、ごめん。寝るつもりは無かったんだけど」

 慌てて手櫛で髪を整える私を、ヘルは無表情に見上げている。その頬には昨日のような赤みは無く、気だるげな様子も無い。

「あ、熱、下がったかな? 体調はどう?」

 私の問い掛けに、ヘルは素気無く答えた。

「平気」

 平気ってことは、もう辛くは無いのかな。私は再びしゃがみ込んで前髪を持ち上げると、ヘルの額に自分の額をくっつけた。額から伝わる優しい温もりに安堵する。どうやら、熱はすっかり下がったみたいだ。

「うん、熱、下がったみたいだね。良かっ──」

 良かった、と言い終えるよりも早く、ヘルは私を突き飛ばした。突き飛ばしたと言っても、ほんの少し肩を押す程度の力だ。けれど、しゃがみ込んでいた私はバランスを崩して、後ろへ傾いだ。

 こける、と思った瞬間、ぐいと腕を引かれる。自分で突き飛ばしておいて、ヘルは私がこけないように腕を引っ張ってくれたみたいだ。決して痛くは無かったけれど、突き飛ばされたことがショックで、私は呆然とヘルに目を向けた。私の腕から手を離し、目を逸らして立ち上がったヘルの頬は、怒りの所為かさっきよりも微かに赤く見えた。

 ──ああ、そっか。

 そういえば昨日の晩も同じことをして、離れてと怒られたのだった。ヘルは子ども扱いされるのがあまり好きでは無いのかも知れない。……これからは気をつけよう。

 そんなことを思いながら辺りを見回した私は、ベッドサイドのデスクに置いておいた水差しが空っぽになっていることに気がついた。

 良かった。ちゃんとここに置いてあることに気付いて、飲んでくれたんだ。

「あ、お水、もっと飲む?」

 ヘルは、頭を振った。

「えーと、何か食べられそうなら、レイシェでも作ろうか?」

 レイシェとは、固めのパンをまろやかな甘さの果物スープの中に浸し、とろとろに煮込んだものだ。見た目はどろどろして見えるけれど、味は甘くておいしいので、私は結構好きだ。胃に優しいから、熱を出したときに母がよく作ってくれた覚えがある。

 ヘルは一瞬視線を彷徨わせ、逡巡する様子を見せた後で小さく頷いた。

「……うん」

 まさかヘルが頷くとは思わなかったので、私はびっくりしてしまった。けれどそんな態度を見せたら、やっぱりいらない、などと言われてしまうかもしれない。私はヘルの気が変わる前にと慌てて立ち上がった。

「じゃあ、作って来るから待っててね」

 言いながらヘルを見下ろしてふと、ヘルの服がしわしわになっていることに気付く。服を着たままで眠っていたのだから、考えてみれば当然だ。

 よれた服を着て帰るのは恥ずかしいだろうし、何より、寝汗をかいて気持ち悪いだろうな。

 何かヘルに貸してあげられるような服は無かったかな。私は弟のクローゼットを開けた。ここに残っているのは、エッジがもう着られなくなったような小さな服ばかりだ。私は無難そうな白いシャツと、ダークグレーのズボンを取り出した。

「これ、入るかな」

 サイズを確かめるようにヘルの体に当ててみると、ヘルは怪訝そうに私を見上げた。この服は一体何だ、と言いたいのかもしれない。

「汗かいた服のまんまじゃ、気持ち悪いでしょ? これ、弟のお古だけど、良かったら着て。濡れタオルも持って来るね」

 ヘルは一瞬、何とも形容しがたい目でその服を見ていたけれど、ややして、躊躇いがちに服を受け取った。すぐに用意した濡れタオルを渡してから、私はレイシェを作るためにキッチンへと向かったのだった。



 レイシェを作り終えて、私が部屋に呼びに行くと、ヘルはもう着替えた後だった。着ていた服を洗おうか、と訊ねようかと思ったけれど、そこまで世話を焼かれると鬱陶しいかもしれない、と、紡ぎかけた言葉を飲み込む。

 弟が二年程前に着ていた服を違和感なく着こなすヘルを見て、ヘルはまだ幼い少年なのだということを改めて認識させられる。私はつきりと痛んだ胸を押さえて、その痛みをごまかすように小さく笑った。

「出来たから、食べよう?」

 二人で部屋を移動して、向かい合ってテーブルにつく。別のものを作るのも面倒だったから、今日は私の朝御飯もレイシェだ。

 レイシェを食べている間、ヘルはずっと無言だった。早く食べ終わってしまいたいと言わんばかりに、黙々とスプーンを口に運んでいる。

 おいしく、ないのかな。

 何だかちょっと不安になりながら、私もスプーンを口に運ぶ。

 今日はレシピの一部を端折ったりしないで丁寧に作ったし、我ながらおいしく作れたと思う。だけど……ヘルの口には合わなかったのかもしれない。

 私は皿の中身をスプーンでかき混ぜながら、そっとヘルの様子を窺い見る。レイシェを咀嚼するヘルは、何故だかとても真剣な表情だ。

 決して、おいしいものを食べている顔ではないと思う。私は自分のお皿に目を落として、ヘルに聞こえないように小さく息を吐いた。

「……ハンナ」

 やがて、ヘルが口を開いた。

「な、なに?」

 何を言われるのだろう。やっぱり、おいしくなかったのかな。緊張しながら顔を上げると、ヘルは私の予想に反して、ふわりと柔らかな笑みを浮かべていた。

「これ、おいしい」

 想定外の反応に、私は一瞬固まってしまった。

 へ、へへヘルが、ヘルが、笑った!? まさかそんな無邪気な笑顔を向けてくれるとは思わなくて、私は驚きのあまり硬直した。衝撃と同時に、胸がきゅう、と甘く疼く。スプーンを持ち上げたまま、微かに頬を緩めたヘルは、まるで天使のように可愛かった。おおよそ好きな男性ひとに対する賛辞で無いとは思うけれど、可愛いのだから仕方が無い。

 あまりの可愛さに、私はまだ寝ているのだろうかと、思わず両手で自らの頬を摘む。ヘルはそんな私を見てふと笑顔を消すと、怪訝そうに眉根を寄せた。

「何してんの」

 ヘルが可愛すぎて夢かと思って、とは、さすがに口にする度胸は無かった。可愛いだなんて言葉で、ヘルが喜ぶとは到底思えない。

「よ、良かった。まだあるけど、おかわりする?」

 小首を傾げて問い掛けると、ヘルは小さく頷いた。私はにやにやと緩みそうになる頬を抑えて、おかわりを入れるためにキッチンへと向かった。


 おかわりをよそった皿をヘルの目の前に置いたところで、私は唐突に、昨晩誰にも連絡していないままだったことを思い出した。

「そうだ、そういえばね、昨晩誰にも連絡してないんだけど、大丈夫かな?」

 ヘルは質問の意味が分からなかったようで、スプーンを持ち上げたままで固まった。そして、言葉の意味を考え込むように、ぱちぱちと瞳を瞬いた。

 きょとんとしたようなその仕草すら、なんだかとても可愛らしく見える。

「ルーインとかお友達とか、あなたが帰って来ないから心配してるんじゃないかって思うんだけど」

「さっき連絡したから、平気」

 そう答えたヘルは、再びレイシェを食べ始めた。簡潔な答えに、私の頭の中が疑問符でいっぱいになる。連絡したって、いつの間に? っていうか、どうやって?

 ──もしかして、遠くに居る人と連絡を取る、便利な魔法でもあるのだろうか。

 って、いくら魔法でも、さすがにそんなものはある訳無いかな。ううん、でも魔法のことはよく知らないし、あってもおかしくないのかも。内心でそんなことを考えながら、私も最後の一口を飲み込む。

 と同時に、ヘルがお皿を持って立ち上がった。いつの間にか、その中身は綺麗に無くなっている。

「あ、おかわりいる?」

 私の問い掛けに、ヘルは小さく頭を振った。もういらない、ということだろう。じゃあ、お皿を持って立ち上がったのはどうしてだろう。もしかして、キッチンに持って行こうとしてくれたのかな。

「あっ、そこに置いておいて、私のと一緒に持って行くから」

 私がそう声を掛けると、ヘルはそう、と言って、テーブルの上にお皿を戻した。やっぱり、キッチンに持って行こうとしてくれていたみたいだった。



 私がお皿を洗っている間、一度弟の部屋に戻っていたヘルは、いつも持っている本を小脇に抱えて、元々着ていた服をぐしゃぐしゃと丸めて手にした状態で戻ってきた。私はそれを見てとうとう「洗っておこうか」と訊ねてしまったけれど、ヘルは黙って頭を振った。せめて何か服を入れるものを渡そうかと思ったけれど、それもいらないと言われてしまった。

「これ、借りてていい?」

 自分の着ている服を摘んで、ヘルが首を傾げてみせる。私はすぐに頷いた。そんな小さい男物の服なんて、もう我が家には必要無いのだ。

「どうせ弟が小さい時に(・・・・・)着てた服だから、誰も着られないし、もし着られそうなら貰ってくれても……」

「いらない」

 私の言葉を遮るように、ヘルはぴしゃりと言い放った。ヘルのエメラルドグリーンの瞳は、何故だか恨みがましそうに私を見ている。

 な、何か怒ってる?

 考えてみれば、当然か。よく考えたら、お古の服なんか押し付けられても迷惑なだけだよね。

「ご、ごめん。人のお古なんていらないよね」

 ヘルは一瞬呆れたような目で私を見たかと思うと、何故だか深く嘆息した。それからふいと踵を返して、家のドアへと向かって行く。それから、

「帰る」

 と端的に告げた。

 まだ起きたばかりなのだしそんなに急いで帰らなくても、と思ったけれど、ヘル自身が早く帰りたいのかもしれない。

「あ、待って、途中まで送るよ」

 私は慌てて後を追いかけた。いくら熱が下がったとは言え、昨夜は意識を失い、今朝まで高熱で寝込んでいたのだ。まだ本調子では無いだろう。そう思って送ると告げたのだけれど、ヘルはぎょっとしたように私を振り返った。

「は?」

 何言ってんの、と言いたげな目が私を見上げる。

「だって、まだ本調子じゃないでしょ? 途中で倒れたりしないか、心配だし」

 私がそう口にした途端、ヘルは露骨に嫌な顔をした。

「もう平気」

 私に送られるというのは、ヘルにとってそんなにも屈辱的なことだったのだろうか。すっかりへそを曲げた様子のヘルを見て、私は早々に引き下がることにした。ヘルのことは心配だけど、もう元気そうに見えるし、ヘルの言葉を信じることにしよう。

「分かった。じゃあ、気をつけてね」

 私の言葉に、ヘルは小さく頷いた。

「迷惑掛けて、ごめん。……ありがと」

 微かに照れの混じったような笑みを見せて、ヘルはドアを開けて出て行った。風邪を引いて、いつもと体調が違う所為なのか──今日はヘルが、やけに笑ってくれた気がする。可愛らしい笑顔を向けられると、胸がきゅんとしてしまう。見慣れていないから、尚更ドキドキしてしまうのだ。


 ヘルの後姿を見えなくなるまで見送った後で、私は自分も家を出ないと仕事に間に合わないことに気がつき、慌てて準備に取り掛かったのだった。

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