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彼と私の境界線  作者: 篠井七紗
第三章
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近づく距離

 次の日の夕方、私が仕事を終える頃まで、ヘルは広場にいた。ヘルは今日も送ってくれるつもりなのだろう。昨晩の別れ際に「俺がもういいって言うまで、勝手に帰ったりしないで」ときつく言われている。

 もういいって言うまで、かぁ......。

 もういい、だなんて言われる日が来ることを想像したら、胸が締め付けられるように苦しくなる。

 だってそれは、私とヘルのこのささやかな関わりが無くなる日が来ることと、同義なのだ。たとえその日が来たとしても、ヘルは変わらずフルーブを買いに来てくれるかもしれない。だけど、今までのように他愛も無い話をすることは、きっとなくなるだろう。私はまた広場に座るヘルを遠くから見つめて、"乙女の重いため息"を吐くだけの日々を送るより他なくなるのだ。

 一昨日には、もう諦めよう、送ってもらうのを止めようって思っていたはずなのに──きっぱり諦めるはずだったのに、今は、終わりが来るのが怖い。

「ねえ、もしかしてあの子、ハンナを待ってるのかしら?」

 店じまいの準備をしていたら、ライラが不思議そうに声を掛けてきた。

「う、ん……。なんか、また送ってもらうことになっちゃって」

 私がぽつりとそう口にすると、ライラは「えっ」と大きな声を上げて、私の肩を揺さぶった。

「どうして話してくれなかったの!」

 ライラの華奢な腕が、私の肩をぐらぐらと揺する。大して痛くは無いけれど、乱暴な動きになんだか酔いそうだ。

「ご、ごめんね。なんだかタイミングを逃しちゃって」

 心配してくれていたライラには、きちんと話そうとは思っていたのだけれど、今日は結構忙くて言うタイミングが無かったのだ。

「そんなタイミングなんて計らなくていいから、さっさと白状なさいな!」

 ライラは拗ねたようにそう言うと、私の肩を揺らしていた手を離してくれた。あ、危なかった……。本当に酔うところだった。

「仲直りしたのね」

 手を離したライラは、どこかほっとしたような優しい笑みを向けてくれた。

「別に、喧嘩していた訳じゃないんだけど……」

 説明しようとすると、どうしても私がヘルに対して抱く気持ちを口にせざるを得ない。ライラは散々からかってはくれたけれど、本当のところを知れば、どんな顔をするのだろう。実際に好きになってしまったと知られたら、引かれるかもしれない。だって、相手は恐らく弟エッジよりも年下の男の子なのだ。

 私の戸惑いを見抜いたのか、ライラは小さく笑って見せた。

「言いたくないなら、無理に言わなくていいの。ただ、あの子に泣かされるようなことがあったら、いつでも言って頂戴。私がこてんぱんにしてあげる」

 穏やかな表情にはおおよそ似つかわしくない物騒な発言がおかしくて、その優しさが嬉しくて──私はくすりと笑った。

「ありがとう、ライラ」



 ライラと別れて、噴水の縁に腰掛けているヘルのもとへと向かう。

「お待たせしました」

 私が駆け寄ると、いつものように魔術書を読んでいたヘルは、緩慢な動作で顔を上げた。それから本を閉じて、おもむろに立ち上がる。

「遅くなって、ごめんね」

 歩き出したヘルの隣に並んで、そう声を掛ける。ヘルは私をちらりと一瞥してから、別に、と呟いた。正直、返事は返って来ないものと思っていたので、私はぎょっとして目を見開いた。

 ──「別に」だって。

 多分、他の人に言われても嬉しくはならないであろうたった三文字のその言葉で、驚くほど幸せな気分になれる。

 質問以外の言葉に返事が返ってきたことが、こんなに嬉しいだなんて。ちょっぴり情けなくもあるけれど、でも、嬉しくてたまらない。にやけてくる顔を隠すように俯きがちに歩いていたら、ふいに怪訝そうな声が向けられた。

「なんで、にやにやしてるの」

 はっとして前を見ると、いつの間にか振り返ったヘルが、奇異なものを見るような目で私を見ていた。

 ……し、しまった。ヘルは私より背が低いんだから、ちょっと俯いたくらいじゃ意味無いんだった。

「べ、別に、何でもないよ。気にしないで!」

 顔の前で勢い良く両手を振ったら、ヘルは「あ、そう」とそれきり興味を失ったかのように、前を向いて歩き出した。実際、さほど興味は無かったのだろう。

 ちょっぴり寂しくはあったけれど、それでもヘルの方から声を掛けられたのが嬉しくて、私はまたにやけそうになる頬を抑えるのに苦労する羽目になった。





 翌日の昼下がり、そろそろヘルが来るだろうかとそわそわしている私の元にやってきたのは、意外な人物だった。

「おはよう、ハンナ」

 にっこり笑って、フルーブの代金丁度の銅貨をカウンターに置いたのは、ルーインだ。

「おはよう、ルーイン。フルーブでいいのかな」

 お願いします、と笑ったルーインに、私はもう出来上がっていたフルーブを手渡した。もうすぐヘルが来るだろうと見越して、マスターが今しがた用意したものだ。

「また買いに来てくれるなんて思わなかった」

 この間は、ヘルに話が有って来たついでに買って行ってくれたのだ。今日はまだヘルも来ていないし、まさかまた来てくれるとは思いもしなかった。

「この間食べたフルーブの味が忘れられなくって。ここのフルーブかなりうまいよね」

 ルーインはさっそくかぶりついていた。フルーブを作っているのは私じゃないけれど、この店の売り子として、商品を褒められるのは勿論嬉しい。

「ありがとう。すっごく嬉しい」

 奥で野菜を洗っているマスターにも後で伝えよう。きっと喜んでくれるはずだ。

「ヘルが毎日のように通ってる意味がよく分かったよ」

 カウンターの脇に寄ったルーインは、笑いながらそう言った。

「じゃあ、ルーインも毎日通ってよ」

 私がふざけてそうからかうと、ルーインは小さく笑う。

「来れるなら来たいくらいだよ、本当に。フルーブはおいしいし、ハンナみたいな可愛い子にも会えるし?」

「お世辞は要りません。ルーインがそういう冗談言うだなんて、なんか意外」

 笑いながらそう返したとき、カウンターの前にお客さんが立った。私もルーインも、会話をぴたりとやめて、反射的にそちらに目を向ける。

 そこには、眉間に皺を寄せて、むすっとしたような表情を浮かべたヘルが立っていた。いつも開かれている魔術書は、閉じられたまま小脇に抱えられている。

 ヘルはまだ一言も喋ってはいないのに、身に纏う空気の質だけでも、機嫌の悪さが窺い知れる。

 な、ななな、なんでこんな機嫌悪いの?

「……ハンナ、いつもと同じの」

 いつもよりも乱暴に、カウンターに代金が置かれる。


 ……え、ハンナ、って言った、今!?


 にわかには信じられなくて、私はびっくりしてヘルを凝視した。驚きのあまり固まった私に、少し苛立ったような声が向けられる。

「聞いてるの」

「は、は、はい!」

 我に返った私はどもりつつそう答えると、慌てて大声でマスターを呼び、オーダーを通した。

「いつもの、で通じるなんて、凄いなあ」

 ヘルの不機嫌な様子に気付いていないのか、ルーインは呑気な声でそう呟く。

 いやいやいや、いつもと同じの、とか言われたの初めてですから! そうは思いながらも、断じて突っ込める空気では無い。

「……いたんだ」

 ヘルはそこで初めて気がついた、というように、隣に立つルーインを見上げた。

「いやいや、気付いてただろ?」

「木かと思った」

「こんなところに生えるかよ。さすがに傷つくなぁ」

 そうは言いながらも、ルーインに傷ついたような様子は見られない。……当然か。多分、ヘルのこんな物言いにも慣れているんだろう。

「はいよー、フルーブできたぞー」

 マスターが作ったフルーブを、紙で素早くくるんで手渡してくれた。

「お待たせしました」

 私がヘルにフルーブを渡すのと同時に、ルーインは最後の一口を飲み込んだ。

「俺、そろそろ行くよ」

「うん、お仕事頑張って、ルーイン。また来てね」

 そう言って手を振ると、ルーインは軽く手を上げて答えてくれる。 

「ありがと。じゃあまた後でな、ヘル」

 ヘルの肩を軽く小突くと、ルーインはそのまま走って行ってしまった。ルーインの背中を見えなくなるまで見送った後、こっそりとヘルを見下ろしたら、じっと私を見上げていたエメラルドグリーンとばっちり目が合ってしまった。

「どうか、した?」

 こんな風にじっと顔を見つめられることなんてあんまり無いから、なんだか恥ずかしい。

「……良く来るの」

「え?」

 問い掛けの意味が分からず、小首を傾げる。ヘルは少し苛立ったように言った。

「ルーイン」

 ええっと……。ルーインがよくフルーブを買いに来るのかどうかを聞いているの、かな?

「今日で二回目だよ」

 私がそう告げると、気の無い声でふうんと呟いたヘルは、そのままぷいと踵を返して噴水の方へと去って行った。

 な、なんだったんだろう……。その質問の意味を不思議には思ったものの、正直そんなことよりも、名前を呼ばれた衝撃の方が大きすぎた。

 だって、だって!

 「ハンナ」だって!!

 もう呼ばれることは無いのかもしれないと思っていた名前を──覚えてくれているのかすら定かでは無かった名前を、ごく自然に呼ばれた。

 そのことを思い出すだけで、にやにやと頬が緩んでいく。

 昨晩は、いつものようにエレットって呼んでいたのに。一体どういう心境の変化だろう。私、もう、他人じゃないの? ヘルにとって他人じゃなくなったって、そう思ってもいいの?

「……ハンナ、お前何にやにやしてるんだ?」

 マスターに怪訝そうに訊ねられて、私は思わず「他人じゃなくなったんです!」と言いそうになったけれど、余計に訝しまれそうだったからぐっと堪えて、一人で幸せを噛み締めることにした。

 その日は結局、仕事を終えるまで、気を抜くとすぐに緩みそうになる頬を何度も引き締める羽目になったのだった。




 夕方になって、仕事を終えた私が駆け寄ると、ヘルは読んでいた本をぱたんと閉じた。

「お待たせ」

 立ち上がったヘルは、すたすたと歩き出す。さっきは機嫌が悪いみたいだったけれど、今はいつも通りの様子に見える。私は小走りで、ヘルの隣に並んだ。いつものように、ヘルが何か話題を振って来る気配は無い。何の話を振ろうかな、と考えた私は、無難にルーインの話題を振ることにした。

「そういえば、ルーインとは昔から友達なの?」

 ヘルは怪訝そうに私を見た。

「なんで?」

「なんだか仲が良さそうだったから、小さい頃からの知り合いなのかなって」

 私がそう告げると、ヘルはぷいと目線を前に戻し、簡潔に答えた。

「二年くらい」

 二年くらいっていうのは、知り合ってから二年くらい、ってことかな。案外短いな、と思いながら、私は笑みを向けた。

「そうなんだ。もっと長いのかと思った」

「……」

 返事は、無い。

 まあ、これ以上話題の広げようも無いし、当然かな。何か別の話題を振ろう。何か無かったっけと記憶を手繰り寄せていると、ふいにヘルが口を開いた。

「……誰にでもああだから」

「へ?」

 何のことだろうと思って、隣を歩くヘルを見遣る。ヘルは私の方を見ずに、素気無く言葉を続けた。

「ハンナだけじゃない」

 何が私だけじゃないのか、さっぱり分からない。だけど、私はヘルの口から紡がれた二度目の「ハンナ」に、顔が綻んでいくのを抑えられなかった。

 昼間のは、私の願望が見せた白昼夢じゃなかったんだ、って。

「え? なんでにやけてるの」

 明らかに奇異なものを見るような目で、ヘルは私を見上げていた。一瞬、"ヘルが名前を呼んでくれたから"だなんて、正直に答えそうになったけれど、私はすぐになんでもないよー、と頭を振った。

 余計なことを言って、またファミリーネームで呼ばれでもしたら、たまったものではない。






 翌日の朝、仕事に向かおうといつもの道を歩いていたら、広場に続く道の途中で、ヘルとルーインが話をしているのに気がついた。

 こんな朝早くから、珍しい。一体何の話をしているんだろう。私は一瞬おはよう、と呼びかけようとしたけれど、二人が真剣な顔をして話し込んでいるのを見て、上げかけた手を下ろした。何だか良く分からないけれど、仕事に関する話をしているのかもしれない。邪魔にならないように、ちょっと迂回していこうかな。

 声を掛けられなくって残念だったけれど、朝からヘルの姿を見られて、なんだか嬉しい。頬を緩めた私が踵を返したその時、背後から私を呼ぶ声が聞こえた。

「ハンナ」

「へ?」

 怪訝そうなヘルの声に振り返ると、ヘルとルーインは二人とも、じっと私のことを見つめている。

「あ、おは、よう」

 なんだか間抜けな私の挨拶を無視して、ヘルは訝しむように言った。

「どこ行くの」

「え? 仕事だよ」

「スペイトはこっちでしょ? なんで俺たちを避けてくの」

 ルーインの拗ねたような口調がおかしくて、私は小さく笑った。

「ごめんなさい、そういうつもりじゃなくて。ルーインたち、真剣な話をしてるみたいだったから、邪魔しちゃ悪いかなって」

「ハンナが邪魔な訳ないじゃん。なあ、ヘル」

 悪戯っぽく笑ったルーインがヘルに振る。勿論ヘルが同意をする訳も無く、うんざりしたようにため息を吐くと、ぷいと顔を背けた。

「まあ、ヘルのは照れてるだけだから、気にしないで。仕事、頑張って」

 ルーインはそう言って、屈託の無い笑顔で手を振ってくれた。私も笑って手を振り返して、店へと急ぐ。ルーインは、私が傷ついていたら悪いと思ってフォローをしてくれたんだろうけれど、正直、ヘルが照れているなんて嘘は無理があると思う。あのため息は、明らかに面倒臭がっている風だった。

 でも、もうそんなことくらいでめげたりはしない。

 だって、私はもうヘルにとって他人じゃないのだ。今日も「ハンナ」って、呼んでくれたし。

 顔見知り──ううん、友達くらいにはなれたのかなって、自惚れてもいいんだよね?




 その日のお昼下がり、いつもと同じ時間帯に、ヘルは広場にやって来た。本を小脇に抱えて店先まで歩いてきたヘルは、私の顔をじっと見上げて「フルーブ」と注文を告げた。

「今日は、本、読んでないんだね」

 小脇に抱えられた本をちらりと見て、思わずそう問い掛けると、ヘルはすっと目線を横にずらし、ほんの僅かに頷いた。

 そういえば、ヘルは昨日も本を閉じていたっけ。本を読みながら歩くのは止めたのだろうか。それに、昨日は名前を呼ばれた衝撃が強くて気にしていなかったけれど、昨日ヘルは「いつもと同じの」と言ったのだ。なのに今日は、いつも通りの「フルーブ」に戻っていた。何で昨日はあんな注文の仕方をしたんだろう。気が向いただけ? ちょっと訊ねてみたかったけれど、なんとなくそんな質問をするとヘルの機嫌を損ねそうだったので、私は問うのを諦めて、オーダーをマスターに通した。

 程なくして出来上がったフルーブを手渡すと、ヘルはふいと踵を返して去って行った。その素っ気無さはいつも通りで、私は何故だか少しがっかりしたのだった。

 ──何を期待していたのかは、自分でもよく分からないけれど。

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