走り出した恋心
それ以来、ヘルは私が帰るまで、噴水のところで待っていてくれるようになった。仕事を終えた私が近づいていくと、ヘルは本をぱたんと閉じて立ち上がる。そうして、黙って私の家の方角へと歩き出すのだ。
「今日も彼氏に送ってもらうの?」
帰る前に、ライラにそうやってからかわれるのにももう慣れた。毎日待っていてくれるようになったことを不審に思ったライラに問い詰められ、結局これまでのことを、洗いざらいぶちまける羽目になったのだ。
二度も助けてもらったという話をして以来、ライラの中でのヘルの株はうなぎのぼりだ。迎えに来てくれるようになった理由を説明すると、まるで王子様みたいと大はしゃぎされた。エッジより年下は駄目だとか、無愛想だから駄目だとか文句を言っていたのが嘘のようだ。
彼氏と喧嘩しちゃ駄目よとふざけるライラに、彼氏じゃないってばと返してから、ヘルに小走りで近寄る。
彼氏だなんておかしな話だ。ヘルにとっての私なんて、顔見知りどころか他人でしか無いというのに。
「お待たせ、しました」
私がそう声を掛けると、ヘルはちらりと私を一瞥して、本を閉じて立ち上がった。私は小走りで、すたすたと歩き出したヘルの隣に並ぶ。
ヘルは、自分から雑談を振ってきたりはしない。だから、私が口を開かない限り、殆ど何も喋ってくれない。最初の二、三日は黙って帰っていたけれど、最近は、私は少しづつ無駄話を振るようになっていた。
意外なことに、ヘルは私の話を最後まで聞いてくれる。
「──でね、ライラが絶対においしいって言うから、フルーブに甘い果物を挟んでみたの」
聞いてくれると言っても、勿論、相槌なんてものは無い。ごくたまに、「ふぅん」とか、そんな気の無い返事が返ってきたら良い方だ。
もしかしたら、ヘルは私の話を聞いていないのかもしれない。そう思ったりもしたけれど、どうやらそういう訳でも無いらしかった。
と言うのも、
「おいしかったと思う?」
って問い掛けたら、
「まずい」
って、ちゃんと返事が返ってくるから。
"まずい"って、食べたことがあるかのような返事がおかしくて、私はくすくすと笑う。ヘルの持つ独特の雰囲気にも、少しずつ慣れてきたような気がする。
最初の頃、フルーブを買いに来たヘルにお礼を言ったら、「早くして」と素気無く言われたことを思えば、大分打ち解けてくれたんじゃないかな、なんて思う。
たとえ、ヘルにとっては私は他人のままなのだとしても、本当の他人から、ちょっと親しい他人くらいにはなれたはずだ。言葉としてはおかしいけど、でもきっと少しずつ仲良くなれている。今の関係でも十分だ。
──だから、エレットじゃなくてハンナって呼んで欲しいだなんて、思っちゃ駄目だ。
◆
家まで送ってもらうようになって十日程が経っても、私たちの前にあの男たちが現れることは無かった。一体、いつまで送ってくれるつもりなんだろう。まさかずっと、こうやって送ってもらうわけにもいかないだろう。
送ってくれるようになってから何度か、大通りを通って帰るから一人でも大丈夫だよ、と言ってみたのだけれど、ヘルは納得してくれなかった。しつこいと怒られてからは言うのを止めたけれど、それからもう結構な日数が経ったように思う。もしかしたら今度は、ヘルも受け入れてくれるかもしれない。
送ってもらう理由が無くなったら、ヘルとの繋がりがなくなってしまう。以前のように目も合わせてもらえない生活に戻るのは、想像しただけでも辛かった。
だけど──、このまま彼に負担を掛け続けるのは良くないだろう。
とりとめもなくそんなことを考えながら、お客さんの注文したフルーブが出来上がるのを待つ。ふと噴水の方に目を向けると、いつものように本を読むヘルの傍に、知らない女の子が立っていた。
十二、三歳くらいだろうか。綺麗なキャロットオレンジの髪は、頭の高い位置で二つに結われている。その髪が、彼女が動くたびにぴょこぴょこと揺れて可愛らしい。
「ねーねー、ヘルったら!」
勝気そうなアクアマリンの瞳をきらめかせて、少女はヘルの腕を引っ張る。いつものように本を読んでいたヘルは、掴まれた腕を振り払いながら口を開いた。何を言ったのかは聞こえなかったけれど、不機嫌そうな表情を見る限り、拒絶するような言葉を発したことは間違いないと思う。けれど少女は気にする様子もなく、少女は再び掴んだ腕をぶんぶんと引っ張っている。
「この間使ってた魔法のやり方、教えてよ」
少女が大きな声で叫ぶように言う。
魔法、ってことは、あの女の子も魔術師見習いなのかな。そんなことを思いながらじっと見つめていたら、ヘルはぱたん、と本を閉じた。
あ、やばい。ヘル、怒ったのかも。
反射的にそう思った私をよそに、ヘルは少女を見上げるようにして何かを告げた。
「──」
「ええ! なんでよ!」
少女が不機嫌そうに頬を膨らませる。立ち上がったヘルがこちらに向かって歩き出すと、少女も慌てたように追いかけてくる。
「なんでわたしには無理なの!」
スペイトよりも少し手前で、食べ終えたフルーブの包みをゴミ箱に投げ入れたヘルは、振り返ることもせず素気無く答えた。
「リネリアだから」
「意味わかんない!」
さっさと踵を返し、無表情ですたすたと去って行くヘルの後を、リネリアと呼ばれた少女が追いかけて行く。私はその姿を、呆然と見送るしかなかった。
──リネリア、って。
女の子を、名前で呼んでた。
他人は名前で呼ばない、と言っていたヘルが名前で呼んでいた、あの子は一体誰なんだろう。
凄く可愛い子だった。穢れなんて知らないみたいに、きらきらしていた。
彼女はごく普通に、ヘルのことを名前で呼んでいた。それに──ヘルの方もごく自然に、彼女の名前を呼んでいた。
「……あの子、いつもそこに座ってる子ですよね」
ふいに、目の前のお客さんがそう呟いた。はっとして目を向けると、私の母と同年代であろうその女性は、ふわりと微笑んだ。
「さっきのは、彼女かしら? まだ子どもかと思っていたのに、案外隅に置けないわね」
多分、他愛も無い話題のつもりでそう口にしたのだろう。だけどその瞬間、私の心にぴしり、とひび割れのような痛みが走った。
「か、可愛らしいカップルですよねえ」
私はお客さんに向かって、微笑み返した。上手く笑えているのかは分からなかったけれど、そうするしかなかった。
まだほんの小さな、幼い女の子。その子とお似合いと言われるくらい、まだ幼いヘル。
ヘルがまだ子どもだってことくらい、知っていたはずなのに、何故だか胸が苦しくて堪らなくなる。
どうして?
どうしてあの子とヘルは、お似合いなの?
どうしてヘルは、あの子を名前で呼ぶの?
さっきの光景を思い出しただけで、胸の奥が締め付けられるように痛くなる。私はぎゅっと歯を食いしばって、なんとかその痛みをやり過ごした。
──その時ふいに、気付いてしまった。
きっと……私は、ヘルが好きなんだ。
私よりもずっと年下で、うんと可愛らしくて、だけどいつも無表情で。
魔法が得意で、毎日魔術書を読みながら、フルーブばっかり食べていて。
危険なことから護ってくれる優しさはあるのに、他人に興味の無い無愛想なヘルのことを──、いつの間にか好きになっていたんだ。
少しずつ、仲良くなれているような気がしていた。このまま行けば、いずれはヘルにとっての"他人"の枠から抜け出して、名前で呼んでもらえるようになるんじゃないかって、期待していた。
だけど現実には、私は今もエレットのままだ。
ヘルよりも背の低い、可愛らしい女の子のことを名前で呼んでいた姿が、脳裏にこびりついて離れてくれない。
どうして。
どうしてなの。
どうして私は、ヘルよりも年上なんだろう。どうして私は、ヘルのことを好きになってしまったんだろう。
ヘルよりずっと年上で、未だに名前すら呼んで貰えない私が、こんな気持ちを抱いたところで報われる訳が無いのに。
その日の夕方、私が仕事を終える頃には、いつの間にか戻ってきたヘルは何事も無かったかのように、いつもの定位置で本を読んでいた。
さっきの女の子とは、どういう関係なの?
どうしてあの子のことは、名前で呼んでいたの?
二人で一体、どこに行っていたの?
訊きたいことは沢山あったけど、どれも私には関係の無いことだった。そんな詮索染みた質問は、ヘルを不快にさせるだけに決まっている。
私はすべての想いを飲み込んで、いつものように「お待たせ」って声を掛けた。ヘルは顔を上げると、読んでいた魔術書をぱたんと閉じて、立ち上がった。
いつも通りに、家に向かって歩き出したヘルの隣に並ぶ。私は歩きながら、そっとヘルの横顔を盗み見た。エメラルドグリーンの瞳は、どこかぼんやりと遠くを映している。その目を縁取る睫は、髪の毛と同じで赤味掛かった綺麗な色をしていた。長い睫は、白い肌にうっすらと影を落としている。
綺麗な子だと、思う。
もう少し幼い頃なら、女の子に間違えられたこともあったんじゃないかな、って思うくらい。
「……なに、じろじろ見て」
ふいに顔を上げたヘルは、怪訝そうな目で私を見た。私は慌てて、頭を振る。
「ご、ごめん」
ぶしつけに顔をじろじろと見られたら、誰だっていい気はしないだろう。私は慌てて目を逸らした。私が目を逸らすと、ヘルもまた前を向いて歩き出した。
並んで歩いていても、ヘルが私をちらちらと見るようなことは無い。私がじっと見つめていれば、さっきみたいに胡乱げな目線を返してくれるかもしれないけれど、ヘルの方から私を見てくるようなことは無かった。
当然だ。私は何の変哲も無い普通の顔立ちなのだから。不細工では無いと思ってはいるけれど、特別美人とは言えない。
美人だったら良かったのに。せめて髪だけでも、こんな地味なエルムグリーンじゃなくて、鮮やかな色だったら、もう少し顔立ちも華やいで見えたかもしれないのに。瞳も霧の混じったようなフォグブルーで、全然明るくない。
無意識の内に、唇からため息が零れ出していた。
──いい機会だから、今日を最後に、もうヘルに送ってもらうのは止めよう。私はそう決めていた。丁度今朝、いつまでもヘルに送ってもらう訳にはいかないって、思っていたところだったんだから。
いつまでも一緒にいたんじゃ、きっと諦めることなんてできやしない。これ以上好きにならないためにも、もう関わらないようにした方がいいに決まっている。
関わることさえなくなれば、きっとこの気持ちも消えて無くなってくれるはずだ。私たちはもう雑談を交わすことも無いような、店員と客に──他人に戻るのだ。
……ううん。他人に戻る、だなんて、おかしな表現だ。
私は一度だって、ヘルにとっての他人以上のものになれたことは無いのに。
「……あのね」
家の前に辿り着いた時、私は意を決して声を掛けた。ヘルが不思議そうに私を見上げる。
「明日からは、一人で帰れるよ」
「……え?」
ヘルにとっては予想外だったのかもしれない。ヘルは微かに目を見開いた後で、その目をすっと細めた。
「また、それ?」
その声には、はっきりと不快な感情が滲んでいた。私は一瞬怯んだけれど、それでも言おうと思っていた言葉を続けた。
「前に言ってた男の人たちも全然来ないし、いつまでも送ってもらう訳にはいかないと思って。……そういう訳だから、あの、今日までありがとう。えっと、おやすみなさい!」
そう言い切ると、私はまるで逃げるように家へと飛び込んだ。これじゃまるで言い逃げだって思ったけれど、言い終えた後でヘルの顔を見るのが怖かったのだ。
──もし、ほっとしたような顔をしていたらどうしよう、って。
ヘルはなんだかんだ言いつつも、真面目で優しい子だ。たとえ上司であるルーインに言われたからだとしても、毎日毎日律儀に他人の私を家まで送ってくれていたのは、へルに責任感があるからに他ならない。
そんなヘルが、ほっとした顔なんてするはずが無いと分かってはいた。分かってはいたけれど、それでももしそんな顔をされていたらと思うと、怖くて顔が見られなかった。
私は自分の部屋に飛び込むと、ずるずるとその場にへたり込んだ。
──まだ、大丈夫。まだ、引き返せる。
今ならまだ、この気持ちは気のせいだったと思えるはずだ。
◆
次の日のお昼頃、お客さんがまばらになって来た頃、私は内心びくびくしながらカウンターに立っていた。いつも通りなら、そろそろヘルが来る時間なのだ。
「ねえ、ハンナ。あの子と喧嘩でもしたの? 会いたくないなら、裏にいてもいいわよ?」
朝から落ち着きの無い私を見ていたライラは、私とヘルの間に何かあったのかと思っているみたいだ。私はううん、と頭を振った。
「大丈夫。ありがとう」
ライラは昨日休みだったから、昨日ヘルに会いに来ていたあの女の子のことは見ていない。ライラが昨日休みで良かった。もし昨日のヘルと女の子とのやりとりを見ていたら、今朝になって私が塞いでいる理由なんて、すぐに見抜かれてしまっていただろう。
一晩経って、少しは冷静になった。
これまで毎日送ってもらっていたのに、いきなり「明日からもういいから」なんて言うだけ言って家に飛び込んだのは、やっぱり失礼だったと思う。今日ヘルが来たら、顔を見てちゃんと言おう。今までありがとう、って。
もしかしたら、返事はくれないかもしれない。目も合わせてはくれないかもしれない。だけど──、やっぱり、ちゃんとけじめをつけないといけない。
それで、私のこの恋心に終止符を打とう。報われるはずが無いこんな気持ちは、早く捨ててしまった方がいいに決まっているのだから。
いつもと同じ昼下がりに、ヘルはやって来た。いつものように魔術書を読みながら近づいて来たヘルは、カウンターの前に立ち止まり、すっと顔を上げる。彼は私の姿を目に留めるなり、不快そうに眉根を寄せた。
その冷たい視線は、私を拒絶しているようにも見えて、胸の奥がつきんと痛んだ。
──やっぱり怒ってる、んだろうな。
「……昨日の、なに」
抑揚自体はいつものように平坦なのに、その声がどこか低く感じられる。やっぱり昨日のことを怒っているみたいだ。でも、当然か。私は言いたいことだけ言って、家の中に逃げ帰ってしまったのだから。
「い、いきなりごめんね。でも、あの男の人たちも全然やって来ないし、もう大丈夫だと思うから」
ぎこちなく笑みを浮かべた私に、ヘルは吐き捨てるように言った。
「決めるのはエレットじゃない」
ごく自然に紡がれたファミリーネームの響きが、胸に突き刺さる。──昨日のあの女の子のことは、名前で呼んでいたのに。
そんなことを思って、胸の奥がじくじくするのを感じる。
「でも、いつまでも送ってもらうのも、悪いし」
やんわりと、だけど確固たる意志を持ってそう食い下がったら、ヘルはうんざりしたように息を吐いた。それから、いつもより幾らか乱暴な動作で、カウンターに銅貨を置く。
「……フルーブ」
注文を告げた彼の目は、もう私を見てはいない。
折れてくれたの、だろうか。
ほっとしたような、寂しいような妙な思いで、私はオーダーを通した。出来上がったフルーブを手渡すときも、彼は私と目を合わせてはくれなかった。そんなのはいつものことなのに、何故だか妙に寂しくなる。顔を上げて、そのエメラルドグリーンの瞳で、私を見て欲しいと思ってしまう。
「……ヘ」
ヘル、と名前を呼ぼうとして、私ははっとなって口を噤んだ。他人は名前で呼ばない、と言ったへルは、いまだに私のことをファミリーネームで呼んでいる。他人を名前で呼ばないというのは、他人に名前で呼ばれたくないということと、同義である可能性がある。
そもそも──、私はヘル本人に名前を教えてもらった訳でも無いのだ。
結局呼びかけるすべもなく、私は去って行く彼の後姿を黙って見送るしかなかった。
その日、ヘルは少し早い時間に姿を消した。私を送ってくれるようになる以前に、いつも帰っていた時間帯だ。遠ざかっていくヘルの後ろ姿をじいっと見ていたら、ライラに顔を覗き込まれた。
「ねえ、ハンナ。……あの子と喧嘩でもしたの?」
どこか気遣わしげな表情で、ライラは囁くように言った。お昼のやりとりを傍で見ていたライラは、私が送ってもらうのを止めたということに気付いているみたいだ。
ライラはその理由を聞きたがっているように見えたけれど、私は何も言えなくて、ただ静かに頭を振った。
「喧嘩なんかしてないよ。でも、いつまでも送ってもらって、迷惑掛けるわけにはいかないし」
「いつまでも、って、まだ十日程しか経っていないじゃない。ハンナは人に甘えるのが苦手よね。ちょっとくらい、甘えたっていいと思うのだけど」
ライラの優しい言葉が、胸に突き刺さるようだった。
私はライラが思ってくれているほど、しっかりしている訳じゃない。ヘルへの申し訳なさから、送ってもらうのを止めようとした訳じゃない。ただ、名前すらも呼んでもらえないことが辛くなって、逃げ出しただけなのだ。
帰り道、気分転換にお茶でも、というライラの誘いを断って、私は一人でとぼとぼと歩いていた。ライラの気持ちは嬉しかったけれど、そんな気分になれなかったのだ。
誰もいない広場を通り過ぎて、角を曲がる。
ああ、前にここで、上から植木鉢が降って来たんだっけ。……懐かしいな。まだそんなに日は経っていないのに、随分前のことのように思える。
あの時、突然現れたヘルは、不思議な魔法で植木鉢の落下を防いで、私を助けてくれた。あの時はまだヘルのことを、なんとも思ってはいなかったのに。
不思議な子だな、って気になってはいたけれど、まだ好きにはなっていなかったと思う。
──あの時に、戻れたらいいのに。
そうしたら、もう好きになったりしない。好きになっちゃいけないって、自分に言い聞かせてみせるのに。
ふ、と窓に映った自分の姿を見て、がっかりする。まだ若く、でも決して幼くは無い顔立ち。私がもし、あと数年遅く生まれていたら。そうしたら、ヘルだって私のことをもう少し近しく感じてくれたかもしれないのに──。
また馬鹿みたいに、詮無いことを考えていた、その瞬間。
ぐ、と、急に右腕を掴まれた。突然のことに驚いて、身体を硬くする。恐る恐る振り返ったら、そこにはいつものような無表情で、じっと私を見上げるヘルが立っていた。
どうして。
なんで、ここにいるの?
もしかして、私を迎えにきてくれたの?
「……エレット」
一瞬訪れた胸の高鳴りは、耳慣れたファミリーネームの響きにかき消された。
やっぱり、彼にとっては私は今も「他人」のままなんだ、って。
もう分かりすぎるくらいに、分かっていたことなのに。
「どう、したの?」
彼の方から声を掛けてくれた嬉しさと、いつまで経っても他人以上になれない悲しみとが混ざり合って、なんだか情けない声が出た。
「一人で帰らないで」
向けられた言葉には、思い通りにならないことへの苛立ちが滲み出していた。優しさとか甘さとか、そういうものは含まれてはいない。辟易したような態度に、胸が締め付けられるように苦しくなる。
てっきりもう帰ったものと思い込んでいたのに、へルは私を待っていてくれたんだ。
「もう、大丈夫だって言ったのに」
苛立つくらいなら、放っておいてくれたらいいのに。そんな身勝手な気持ちが零れそうになって、唇をぎゅっと噛み締めた。
苦笑を浮かべて見せたつもりだったのに、右の瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちる。頬を伝ったその感触で初めて、自分が泣いていることに気がついた。
「……なんで、泣くの」
慌てて頬を拭ったけれど、ヘルはちょっと困ったように私を見上げていた。
思えば、ヘルのそんな表情を見たのは初めてだった。
いつも無表情でいることが多くて、見たことのある表情なんて不機嫌そうな顔か、呆れたような表情くらいだ。困らせるつもりなんて無かったはずなのに、初めてそんな表情を見せてくれたことを、どこか嬉しく感じてしまう。
「ごめんね。平気だって言ったくせに、やっぱり心細かったのかも」
涙をごまかすようにそう告げたら、ヘルは呆れた様子を見せた。
「だから、言ったのに」
ふう、とため息を吐いたかと思うと、ヘルは私の腕を引いて歩き出した。腕を掴む手のひらはやっぱり温かくて、そして小さい。前を歩く小さな背中をじっと見つめていたら、どんどんと視界がぼやけてきた。泣きたくない。もう泣きたくないってそう思うのに、溢れ出した涙が止まらなくなる。
──やっぱり私は、ヘルが好きだ。
たとえヘルにとっての私が、ただの他人でしかないのだとしても。大人になってしまった私は、不釣合いなのだとしても。
私は、ヘルのことが好きだ。
頬を伝う涙を、気付かれないように左手で拭った。ああどうか、ヘルが振り向きませんように。家に着くまでに泣き止むから。だからどうか、気付かれませんように。
もはや、ひとりでに走り出した恋心を封じることは、出来そうにも無かった。




