明確な境界線(2)
次の日の昼、スペイトのカウンターにいつものように立っていると、ヘルが俯きがちに、開いた本に視線を落としながら歩いてくる姿が見えた。そういえば、昨日はきちんとお礼を言えないままだったような気がする。
たとえヘルが本当は私のことをどうでも良いと思っていたとしても、助けてもらったことに変わりは無い。カウンター前に立った彼に、私は意を決して話しかけた。
「こんにちは」
ぱっと顔を上げた彼は、私を見て怪訝そうな顔をした。……もしかして、昨日の今日でまた忘れられているのだろうか。
「また忘れちゃったの? 昨日、落ちてきた植木鉢から助けてもらったんだけど」
そう告げると、やっと思い出したらしいヘルが、ああ、と納得したような声を上げた。
「昨日は助けてくれて、ありがとう」
そう言って笑いかけたら、彼は瞬きを一つすると、にこりともせずに手元の本に目線を戻した。そして、いつものように素気無い口調で、ただ一言、
「フルーブ」
と注文を告げた。
私と雑談する気は無い、ってことかな。
……多分、そうなんだろうな。昨日ルーインも、他人に興味が無い、みたいなことを言っていたし。
ヘルから見れば、私は他人なんだろう。どうしたら、他人じゃなくなれるんだろう。そんなことを考えながら、広場の方へと去って行く後姿を見送るしかなかった。
結局その日も次の日も、私は暇さえあればじっとヘルを見つめていた。もう声を掛ける勇気は湧いてこなくて、ただ広場で本を読んでいる彼の姿を、こうやって遠くから見ているしかない。
無意識のうちにため息を吐くたび、ライラには「恋する乙女のため息が重い」とかなんとか言って、からかわれる始末だ。
恋では無いと、断言できる。
だって、相手はまだ子どもだ。
正直、二度も私を守ってくれたヘルは、頼もしい人だとは思う。だけど、それとこれとは別の話だ。いくら頼もしかろうと、子どもは子どもなのだ。背は私よりも低いし、声にも顔立ちにも、まだ子どもらしい幼さが残っている。
それでも……。大の男二人を一発で伸した風の魔法や、植木鉢を空中で止める魔法を造作も無く操る姿は、確かに恰好良かった、と思う。
いやいやいやいや。
止めよう、こんなこと考えるの。危ない道に片足を突っ込んでいる気分だ。
ぶんぶんと頭を振った私はふと、ヘルに向かって勢い良く飛んでいく物体に気付いて、思わず、あ、と声を上げた。広場で遊んでいた子どもたちが蹴り上げたクォンの実が、勢い余ってヘルの方へと飛んでいってしまったようだ。
クォンの実は、成人男性の頭よりも大きい木の実だ。そこまで固くは無いけれど、頭に当たれば痛いだろう。
「危ないっ」
思わず叫んだ瞬間、ヘルは顔も上げずに、本を読みながらすうと左手を上げた。口元が小さく動いたと思ったら、間を置かず、クォンの実が勢い良く地面に叩きつけられる。ヘルはその様子を目で確認することすらせずに、左手を下げて、何事も無かったかのようにページをめくった。
クォンの実を取りに駆けて来た子どもたちは、口をあんぐりと開けた間抜けな表情で、ヘルをじっと見つめている。多分、私も同じような顔をしているのだろう。
だって、普通、自分に向かってクォンの実が飛んできたことに気付いていながら、あんなに冷静でいられるもの? それに、ヘルは一度も顔を上げてはいないのに、クォンの実が飛んできたことに気付いていたのだ。しかも、見もせずにそれを地面へと叩きつけた。
考えれば考えるほど不思議だ。
魔術師って、こういうものなのかな。それとも、ヘルが凄いのかな。まだ、見習いなのに?
数分後、どこからともなく現れたルーインさんに、ヘルはまた文句を言われているようだった。クォンの実を弾き飛ばすのに、魔法を使った所為だろうか。
魔法って好きな時に、自由に使える訳じゃないのかな。なんとなく、不便だなぁ、なんて思いながら二人の様子を見ていたら、話を終えたらしいルーインさんが私の方へと近寄って来た。
「すみません、フルーブ一つ下さい」
ルーインさんはどうやら、私がこの間の植木鉢事件の女だとは、気付いていないようだ。
「こんにちは、ルーインさん」
そう声を掛けたら、ポケットの中の銅貨を探っていたルーインさんは、驚いたように顔を上げた。
「……え、あ……ハンナ!? ここで働いてたんだ」
「そうなんです」
私は銅貨を受け取ると、出来立てのフルーブを手渡しながら、ルーインさんに笑みを向けた。
「さっき、あの子が魔法を使ったから様子を見に来たんですか?」
フルーブを受け取ったルーインさんは、一瞬びっくりしたような表情をした後で、苦笑いを浮かべて頷いた。
「そうなんだ。あいつ懲りもせず、魔法ばっかり使うから困るよ」
「魔法って好きなときに自由に使えるのかと思ってたけど、結構不便なんですね」
何気無いつもりでそう口にしたら、ルーインさんは言葉を濁した。
「あー……、まあ、あいつの場合は特殊だからね」
「特殊?」
どういう意味だろう。そう思って小首を傾げて見せると、ルーインさんは困ったように笑った。
「本来、見習いが城の外で使える魔法っていうのはかなり制限されているはずなんだけど、あいつはなんていうかこう、抜け道を見つけ出すのがうまいというか」
「抜け道?」
抜け道ってなんだろう。またしても訊き返した私に、ルーインさんは丁寧に説明してくれた。
「制限されていない魔法を上手く組み合わせて、予想外の効力を発揮させてくるんだよ。今までそんな奴いなかったもんだから、あいつが何か魔法を使うたびにこっちは混乱させられちゃって」
「よく分からないけど……魔法が得意ってことかな」
「魔法馬鹿だからね。ハンナもここで働いているのなら知っているんでしょう、あいつが日がな一日あそこで魔術書を読んで過ごしているのを」
苦笑混じりのその言葉に、私は思わずくすっと笑った。
「あいつが魔術師になったら、かなりの戦力になるとは思うんだけど」
そう告げるルーインさんの声は、何故だか重い。
「でもそれも当分無理かなぁ」
当分無理っていうのは、ヘルがまだ幼いからなのだろうか。これまで魔術師になんてさっぱり縁の無かった私には、いまいちよく分からない。
「見習いって、何歳になったら魔術師になれるんですか?」
「年齢じゃなくて、一人前と認められたらそれでいいんだけど……ほら、あいつって協調性が無いから。そこが一番のネックなんだ」
大真面目な表情でそんなことを言うルーインさんがおかしくて、私は思わず笑った。協調性が無いって結構な悪口なのに、真剣な表情のルーインさんからは少しも悪意が感じられない。
「それよりも、ハンナ。そんなに丁寧に喋ってくれなくていいよ。もっと気楽にしてよ」
にっこり笑ってそう告げたルーインさんに、ありがとう、と私は笑みを向けた。そういえば、以前に会った時よりも、ルーインさんの態度はフランクだ。
──お言葉に甘えて、私もフランクにさせてもらおうかな。
「ああ、そろそろ行かないと。長々と仕事の邪魔しちゃってごめん」
「ううん、私の方こそ引きとめてしまってごめんね。お仕事頑張って」
ルーインさん、もといルーインはフルーブを持った手を軽く上げると、踵を返して去って行った。走り去っていく後姿を見つめて、忙しそうだなあ、なんて思っていたら、ぽん、と肩に手を載せられた。びくっとして振り返ると、好奇心に目を輝かせたライラが、私をじっと見つめていた。
「今の誰? 結構恰好良いじゃない」
「えーと、あの子の上司、かな?」
仲が良さそうに見えたけれど、まだ見習いのヘルから見れば、ルーインは一応上司ってことになるんだよね、多分。
「ね、ね。相手にしてくれない年下よりも、優しげな年上の魅力に靡いちゃったの?」
ライラの問い掛けに、私はぎょっとして頭を振った。
「そんなんじゃないってば。もう、なんでも色恋沙汰にしないでよ」
ただの知り合いだよ、と私が告げると、ライラはあからさまにがっかりしたようにため息を吐いたのだった。
もう、ため息吐きたいのはこっちなんだからね。
それから十日程が経ったある日、いつものようにフルーブを買いに来たヘルは、とん、とカウンターに何かを置いた。
バスケットだ。持ち手にチェック柄のリボンが結んであって、可愛らしい。どこかで見たことがあるような気がするなあと思ってから、私は漸くそれが自分のものだと気付いた。
以前、落ちてきた植木鉢から守ってもらったお礼に、持って帰る途中だったフルーブをあげたんだっけ。バスケットを返してもらっていなかったことを、すっかり忘れていた。
「あ、ありがとう」
バスケットを受け取ってからヘルに目線を向けると、ヘルは手元の本を読んでいた。どうやら、今日も目を合わせてはもらえないらしい。
「フルーブ」
そうして、彼はまたいつものようにそれだけを口にした。
仲良くなりたいと思ってはいるけれど、こんな状態では、どうやって距離を詰めていけばいいのかも分からない。
バスケットを返してもらえたということは、彼はあの日助けてやった人間が私だということくらいは、覚えてくれているみたいだけれど……。そんな些細なことで喜んでいる自分が、ちょっぴり情けない。
マスターにオーダーを通し、無意識のうちに小さいため息を零した、その瞬間。ヘルがふっと顔を上げる気配がした。
ため息、聞こえちゃったのかな。
なんとなく気まずい思いでヘルをそっと窺い見たら、ヘルは綺麗なエメラルドグリーンの目で、じっと私を見つめていた。
その目が何か言いたげに見えて、私はどうかしたの、という意味を込めて、小首を傾げる。何か話しかけてくれるのだろうか、という私の微かな期待をよそに、ヘルはぷいと目を逸らしただけだった。
その日の夕方、ヘルは珍しく遅くまで広場で本を読んでいた。いつもなら私が仕事を終える頃にはもうとっくに帰ってしまっているのに、今日はまだ帰る気配が無い。仕事を終え、ライラと別れる直前、ライラはにやにやと笑みを浮かべて私にそっと耳打ちした。
「またとないチャンスよ。声掛けていらっしゃいな」
チャンスって、だから、私は別にヘルのことが好きな訳じゃ……。そうは思いながらも、確かに滅多に無い機会だとは思う。
仲良くなれないと思っていたら、いつまでもなれないよね。思えば、今だって最初よりはほんの少しくらいは近づけたはずだ。彼は私がスペイトの店員だと、今ではもう覚えてくれている。
……ってよく考えたら、それってごく普通のことだ。ただ存在を覚えてもらっただけで、仲良くなってきた、と考えるのはおめでたすぎるかもしれない。以前に一度名乗ったとは言え、ヘルが私の名前を覚えてくれているのかどうかすら定かでは無いのだ。
声を掛けるかどうか、ちょっと迷いながら噴水の方へと足を進める。
でも、彼に近づくにつれ、ドキドキしていた頭が冷静になっていく。一体なんて言って、声を掛ければ良いのだろう?
「こんばんは」?
「さようなら」?
「おやすみなさい」?
いきなりそんな言葉を掛けるのは、不自然ではないだろうか。
もう彼のいる噴水はすぐ傍に迫っているのに、掛けるべき言葉が出てこない。どうしよう、このまま引き返しちゃおうかな。でもそれも何だか不自然だし、ちょっと悔しい。
私が悩んでいると、ふいに、本を読んでいたヘルが顔を上げた。
「エレット」
少し高めの声が紡いだのは、私のファミリーネームだ。ファミリーネームで呼ばれることなんて殆ど無いから、私はぽかんとした顔をしてしまった。呆けたように立ち尽くす私を見上げて、ヘルはぱたんと本を閉じた。
「帰る?」
「え、う、うん」
私が頷くと、ヘルは何故だか立ち上がり、すたすたと歩き出した。ど、どこへ行くんだろう。っていうか、今の質問は、何?
呆然とその背中を見送っていたら、数歩歩いたヘルは立ち止まって、私を振り返った。
「何してるの」
「へ?」
「帰るんじゃないの」
「え、う、うん。あなたも帰るの?」
私の言葉に、ヘルは何故だか器用に片眉を吊り上げた。それから、エメラルドグリーンの瞳をすっと逸らす。
「この間の男が、あんたに危害を加えるかもしれないって」
「この間の男?」
話が読めなくてそう問い掛けたら、ヘルは些かむっとしたように私を見た。
「もう覚えてないの。二人組みの男に絡まれたこと」
その言葉で、ヘルが言っているのは、どうやらヘルが初めて私のことを助けてくれた日のことだと気付いた。ヘルに覚えてないことを嘆かれるだなんてなんだか心外な気もしたけれど、私はそこには触れずに頭を振った。
「覚えてるよ。でも、その人が私に危害を加えるって、どういうこと?」
「さあ。逆恨みでも、してるんじゃない」
自分から振ってきた割に、興味なさげな口調でそう告げると、ヘルは再び歩き出した。
ええっと、さっぱり話が読めないんだけど……。
恨みって、ヘルに魔法で攻撃されたこと? とりあえず、この間の男たちが逆恨みして、私に危害を加えようと思ってるかもしれないから、気をつけろ、ってことかな?
「分かった、気をつける……ね。ありがとう」
出来るだけ人気の多い道を通って帰ろう。そう思いながら、また明日、と声を掛けたら、ヘルは明らかに気分を害したように眉を顰めた。
「どこ行くの」
なんで、怒ってるんだろう。戸惑いながらも、私はぎこちなく返した。
「どこ行くって、えっと、帰るんだけど」
「……。紛らわしいな」
呟くようにそう言ったヘルは、またすたすたと歩き出す。
えーっと、どういうことだろう。
さっぱり分からない。紛らわしいって、何が?
ぽかんとして立ち尽くしていたら、振り返ったヘルがうんざりしたように言った。
「今度は、なに? 早くしてよ」
「え?」
一体、何がだろう。本当に訳が分からなくて首を傾げていたら、ヘルは早足で戻ってきて私の腕を掴んだ。
「あんたを家まで送らないと、いつまで経っても寮に帰れないんだけど」
「え!?」
家まで送るって、何!? 驚く私をよそに、腕を掴んだままヘルはずんずんと歩いていく。
「私を家まで、送ってくれるの!? なんで!?」
ぎょっとしてそう問い掛けたら、ヘルは呆れたように私を一瞥した。
「さっきからそう言ってる」
言ってない、言ってないよ一度も! 今はじめて聞いたよ!
心の中で激しくつっこむ私をよそに、ヘルは平坦な口調で続けた。
「ルーインが、暫くの間あんたを送ってやれって」
「え?」
ルーインが? なんで?
それって、さっき言っていた、この前の男たちが私に危害を加えるかもしれないっていうのと、関係あるのかな?
私の腕を引くように歩きながら、ヘルは振り返らずに訊ねた。
「どこ?」
どこ、って……。凄く端的な質問だけど、多分私の家の場所を聞いてるんだよ、ね?
恐る恐る家の場所を伝えると、ヘルは黙ってそっちの方向に向かって歩き出した。どうやら、私の解釈で合っていたらしい。
私の家に向かって歩き出しても、私の腕は、何故だかずっと掴まれたままだった。多分もうヘルは、掴んだことなんて忘れているんだろう。
私が離して、とひとこと言えば、ヘルは何の躊躇いもなく離してくれるのかもしれない。だけど、私は何も言わなかった。どうせなら、このまま──。家に着くまで、腕を掴むヘルの手のひらのぬくもりを感じていたいと思ったのだ。
何故なのかは、分からなかったけれど。
「……あのね」
歩きながらそう声を掛けたら、ヘルはちらりと振り返った。
さっき、エレット、とファミリーネームで呼びかけられたことを、ふいに思い出したのだ。
もしかしたら、私の名前を忘れてしまったのかもしれない。
そう思って、私は再び名乗ることにした。
「私、ハンナって言うの」
ヘルはじっと私を見て、それから無表情のままで、うん、と頷いた。何が言いたいんだ、と言いたげな目を見て、言葉が足りなかったかなと思い、付け加える。
「エレットじゃなくて、ハンナでいいよ」
ヘルは不思議そうに瞳を瞬いた。
「なんで?」
まさかそう返ってくるとは思わなくて、咄嗟に言葉に詰まる。ハンナって呼んで、という言葉に対して、そんな疑問を投げ掛けてくる人には、今まで出会ったことが無かった。
「なんでって……」
ヘルは私からふいと目を逸らすと、素気無く言った。
「他人は名前で呼ばない」
その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
他人は、名前で、呼ばない……。
……。
それって、私は他人、ってことだよね。
そりゃ、そうか。別に友達じゃないんだし、他人、で合ってるのか……。
ショックを受けて、顔を強張らせる私に気付く様子も無く、ヘルはすたすたと歩いていく。さっきまでどこか浮かれていた気持ちが、急速に萎んでいくのを感じた。
少しずつでも仲良くなれているような気がしていたのは私だけで、実際には私はまだ、スタートラインにも立てていなかったのだ。
ヘルにとっては、私は顔見知りどころか、ただの他人でしかないんだ……。
結局その日、ヘルは私を家の前まで送ってくれた。ヘルはやっぱり相変わらずで、家の前に着くや否や、さようならの言葉も無く、腕を掴んでいた手を離してぷいと去って行った。
私はお礼だけ言って、その背中をただ見送るしかなかった。