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彼と私の境界線  作者: 篠井七紗
第八章
20/21

想いは加速して(1)

 休憩を終えてスペイトに戻ると、ライラはにやにやとした笑みを隠そうともしないまま、すぐに駆け寄って来た。

「ただいま戻りました」

「おかえり。ねえねえ、ハンナ、何話してたの?」

「何って……」

 そう言い掛けたところで、ふと額を撫でられた柔らかい手つきを思い出してしまう。な、なんで今思い出すの! 私はどんどん熱が上ってくるのをごまかすように、ライラに詰め寄った。

「そ、それよりライラってば、マスターに何言ったの?」

「何のこと?」

 何も知りません、とでも言いたげな不思議そうな表情で、こてん、と軽く小首を傾げられる。首を傾げたままで、上目遣いに見上げてくるライラは、女の私でもきゅんとしてしまうくらいにはとっても可愛い。

「ね、どうだったの? いい感じに見えたけど」

 ──だからと言って、乗せられて喋ろうものならからかわれるのは目に見えている。

「そんなことないよ、変なこと言わないでよ、もう」

 からかわれる前に撤退しよう、そう思ってマスターの手伝いに行こうとしたら、それよりも早く、ライラはさらりと爆弾を落としてきた。

「そう? だってあの子、ハンナの頭撫でてなかった?」

「えっ、撫でてないよ!」

 頭なんて撫でられた覚えは無い。額は撫でられたけれど。そんな風に思ってしまった瞬間、もう駄目だった。昨夜のキスのことまで思い出してしまって、自分でもびっくりするくらい、顔が一気に熱くなる。

「頭じゃなくて額だったかな? ここからじいっと見てたんだけど、絶対撫でてたわよ。ねえ、あれ、何してたの?」

 絶対に顔が赤くなっている。自分でも分かるくらいなのに、ライラの追及の手は緩まない。

「わ、分からない……」

 私も、額を撫でられたと、そう思った。でも、ヘルが何のためにそんなことをしたのかなんて、そんなの全く分からない。私が聞きたいくらいだ。

 思い当たることと言ったら、昨夜同じ場所に唇を落とされた。それくらいしかない。けれど、それこそもっと謎なのだ。なんで、どうしてヘルはキスなんかしたんだろう。

「額にキスする時って、どういう時なのかな……」

 そんなキス、両親にくらいしかされたことがない。あのキスには一体どういう意味があったんだろう。それとも、意味なんて無いんだろうか。

 だけど、ヘルが、意味無くキスなんてするのかな。

 もやもやする思考を追い払ったのは、ことのほか大きくなったライラの声だった。

「待って、待って待って。キス? 撫でられたんじゃなくて、キスされたの?」

 がしっと肩を掴まれて、はっと我に返る。ああっ、しまった。口に出してしまった……!

 気付いた時にはもう遅くて、ライラは菫色の瞳を不思議な高揚感できらきらと輝かせて、私を見つめている。

「それで、それで? 何か言われたの?」

「何かって?」

「好きだとか、愛してるとか!」

「い、言う訳無いじゃない!」

 ヘルがそんなことを言う訳が無い。想像も出来ないのに、なのになんだか一瞬想像してしまいそうになった自分が恥ずかしくて、余計に頬が熱くなっていくのを感じる。

「あら、じゃあ何も言わずにキスだけしたの? その方がよっぽどどうかと思うけれど」

 ライラは両手を腰に当てて、訝しげに眉根を寄せる。

「ご、誤解を招くような言い方しないで。額にちょっと触れただけだし、ヘルに、そんなつもりないと思うの」

「ちょっと触れただけって、どういうシチュエーションなのよ」

「……分かんない。突然だったし、ヘル、何も言わなかったから」

 ヘルが額に触れる前、耳を掠めたのは、聞き覚えのない不思議な言葉だった。今思えば、あれはヘルがたまに口走る、私には聞き取れない不思議な魔術の言葉に似ていた気がする。

 最初にナンパから助けてもらった時、植木鉢が落ちてきた時、私の怪我を、治してくれた時。昨日、捕らわれていた縄を切ってくれた時、それから、手首の傷を癒してくれた時──。

 ヘルが呟いていた不思議な言葉と、どこか似ていた。

 もしかして、昨夜のあれは何かの魔術だったんだろうか。

 そんな風に思ったけど、勿論、答えは出ない。

 ヘルに聞けば良かったんだろうか。どうしてキスなんかしたの? って。

 でも、そんなこと聞ける訳無かった。だって、ヘルはいつも通り平然としていたから、分かってしまったのだ。多分ヘルにとっては、なんてことないことだったんだろうな、って。

 ──って、待って。

 なんてことないって、額にキスをすることが?

 ヘルにとっては、よくあることなの?

 遊び人じゃあるまいし、そんな訳が無い。ヘルが誰彼構わずそんな風に気安く触れる性格だとはとても思えない。思えないのに、だからと言って私が特別なのだろうか、などとは到底思えなくて、思考がまたぐるぐると同じところを回り出す。

「ハンナ、あなたびっくりするくらい真っ赤よ。もしかして、他にも何かされたの?」

 ライラの好奇心で輝いていた菫色が、どこか不安げな色に変わっている。

「え?」

 慌てて熱を冷まそうと両頬に手を当てると、ライラはすっと目線を逸らして、ぼそりと疑念を口にした。

「もしかしてあの子、思っている以上に手が早いのかしら……」

「ち、違うってば! 何も、まったく何もされてないからっ、変な誤解をしないで!」

 ライラの斜め上すぎる心配に、顔が余計に熱くなってしまったのは仕方のないことだと思う。




 その日の帰りは、マスターとライラが家まで送ると言ってくれたけれど、もう人攫いも、私を逆恨みしていたあの男達も捕まった訳だから、大丈夫だろうとお礼を言って断った。マスターは暫く渋っていたけれど、ライラがつんつんと腕を引き、マスターに何かを囁く。囁かれたマスターは広場の方を一瞥すると、一瞬目を丸くして、それからふっと笑った。

「まあ、俺よりあいつの方が安心だな」

「え?」

 どういう意味かと小首を傾げた私に「いや、良かったな。気をつけて帰れよ」と告げ、今までの引き止め方が嘘の様に、あっさりと送り出される。

「え? ……は、はい。ありがとうございます」

「じゃあね、ハンナ。また明日」

「うん、ライラ、ありがとう、また明日ね」

 何が良かったのかよく分からないまま頭を下げて帰路につこうとしたら、広場の噴水にヘルがまだ座っているのが見えた。

 あれ、まだいるんだ。

 もう送ってもらう必要も無くなったから、以前のように早い時間に帰ってしまったものと思い込んでいた。

 ──まさか、ヘル、私を待ってくれているのかな。マスターが、あいつの方が安心だとか言っていたのって、このこと?

 一瞬そんな期待が胸を掠めたけれど、いやいやいや、と頭を振る。いくらなんでも、厚かましすぎる。私の自意識過剰だろう。ヘルはたまたま遅い時間まで夢中になって本を読んでいるだけに違いない。

 声、掛けるべきかな。

 このタイミングで声を掛けたら、さっき私が一瞬でも抱いてしまった浅ましい期待が見抜かれてしまいそうで、ほんの少し躊躇った。だけど、声も掛けずに帰るのもどうだろう。

 ……うん、挨拶くらいは、して帰ろうかな。もしかしたら、昼間のように「ん」なんて心ここにあらずな返事が返ってくるかもしれないけれど、それならそれでいいや。

 そう結論を出して、私が近づいていくと、ヘルは読んでいた書を閉じて、私の顔を見上げた。

「あ、ヘル。……また、明日」

 顔を上げるとは思っていなかった私は、びっくりしてそんな挨拶をしてしまった。口にした後で、明日も来るなんて言われていないのに、勝手に決め付けるようなことを言ってしまったことに気が付く。──まあ、殆ど毎日スペイトに顔を出しているヘルは、明日も来てくれる可能性が高いとは思うけれど。

 ヘルは私の言葉には特に反応せず、ただひとつ瞬くと、おもむろに立ち上がった。それから、ぷいと踵を返して、すたすたと歩き出す。

 か、帰るのかな。

 この間は、じゃあね、って言ってくれたけれど、やっぱり今日はいつものように、別れの挨拶は無いのかもしれない。

 そんなことを考えながら背中を見送ろうとしていたら、数歩歩いたところで、ヘルが振り返った。

「何してるの」

「え?」

「帰るんじゃないの」

 まるで一緒に帰る約束をしていたかのように、ヘルは平然とそう告げた。

「え? あの、送ってくれる、の?」

 もう、危険は無いはずなのに。そう思って小首を傾げた私に、ヘルは淡々と告げた。

「平気なの。昨日の今日で」

 まさか、昨日あんなことがあったから、一人で帰るのは心細いだろう、ってことだろうか。

「もしかして、ヘル、私を待っててくれたの?」

「……べつに」

 ヘルは素気無い態度でそう答えて、再び私に背中を向ける。別に、っていうのは肯定じゃないけれど、否定でもない、よね。

 否定しないってことは、やっぱりヘルは、私を待っていてくれたんだろうか。

「ありがとう……」

 昨夜、ヘルたちは私やニーナを攫った二人組みを捕まえてくれたし、この辺りで問題になっていた人攫いも、その前に捕まえられたと言っていた。

 まだそんなに遅い時間でも無いし、大通りを通って帰る分には、一人でも全く支障は無いはずだ。そんなことは分かっているのに、ヘルの優しさが嬉しくて、胸がいっぱいになる。心臓がきゅうっと甘く疼いて、喜びで胸が苦しくなる。

 本当は、ヘルに手間をかけるだけだから遠慮するべきだって思ったけれど、言い出せなかった。あまりにも嬉しくて、勿体無くて。

 私はヘルの小さな背中に抱きつきたいような気持ちに駆られたけれど、勿論現実にそんなことを出来るはずも無く──私は小走りにヘルに駆け寄って、その隣に並んだ。


 ヘルは私の家の前まで来ると、いつものように別れの挨拶も無く、さっさと帰って行った。妙なことだとは思うけれど、別れの挨拶が無かったことにほっとしている自分に気付いて、私は一人で苦笑したのだった。






 ──その夜、晩御飯を食べ終えてお皿を洗っていると、家のドアをどんどんと叩く音が響いた。

 突然のことに驚いて、大げさなほどに肩が跳ねる。

 お客さんが来ることなんて本当に珍しい。一体、誰だろう。

 正直、聞こえない振りをして放っておきたいような気もしたけれど、それだといつまでも気持ちが落ち着かないし、寝られなくなりそうだ。もしかしたら、ヘルが戻ってきたのかもしれない。それか、お隣さんが何か用があって来たのかも。そんな見当をつけて、ドアの方へと向かう。

 ドアを開きさえしなければ大丈夫だと思うのに、なんとなく心細い。どなたですか、と聞いて、変な人だったらどうしよう。ドアの前に立ってそんなことを考えていると、ドアの向こうから耳慣れた声が聞こえてきた。

「姉ちゃん、いる!?」

 その声を聞いた瞬間、私はほっとしてドアを開けていた。勢いよく開いたドアの向こうに立っていた弟は、私の顔を見るなり飛びついてきた。

「姉ちゃん!」

「わわっ!」

 自分よりも背の高い男が、思いっきり胸に飛び込んできたのだ。私はその衝撃で後ろに倒れそうになったけれど、なんとか体制を持ち直した。

「え、エッジ? 一体どうしたの、こんな時間に」

「一体どうしたの、じゃないだろ! 姉ちゃん、怪我は!? ひどいこととかされてないのか!?」

 身体を離したエッジは、私の肩を掴むとぐらぐらと揺さぶった。もしかしてエッジ、昨晩私が攫われかけていたことを、誰かに聞いたのだろうか?

「え、だ、大丈夫。なんともないよ。で、でも、なんで?」

 私は思いっきり揺さぶられている状態で、なんとかエッジに問い掛けた。

「なんでって、こっちが聞きたいよ! 攫われたとか、なんでそういうことすぐ言わないんだよ! 昨夜、一体何があったんだよ!?」

 やっぱり、誰かに昨日の話を聞いたみたいだ。一体、誰に聞いたんだろう。 

「姉ちゃん! 聞いてんのかよ!?」

 私が呆然としていると、エッジは肩を揺さぶるのを止めて、怪訝そうに私の顔を覗き込んできた。

「え、えっとね、エッジ。なんで、昨夜のこと知ってるの?」

 私がやっと疑問を口にすると、エッジは視線を斜めに落とし、どこか拗ねたような声音で言った。

「さっきさ、王城の廊下で、あいつに会ったんだよ」

「あいつって?」

「あいつって言ったら、あいつしか居ないだろ。姉ちゃんの好きな奴だよ」

 その言葉に頭に浮かんだのは、勿論ヘルのことだった。

「す、すす、好きとか一言も言ってないよ!」

 しどろもどろになった私を見下ろして、エッジは幼い子どものように唇を尖らせる。

「好きな奴って言っただけではっきり誰かを思い浮かべてるくせに、よく言うよ」

 しまった。

「そ、それは……ってそうじゃなくて、その人がエッジに、何か言ったの?」

 私は慌てて話題を本筋に戻した。十中八九ヘルのことだろうとは思ったけれど、なんだか恥ずかしいので、名前を口にせずに聞き返す。ヘルは、エッジに声を掛けたのだろうか。必要最低限しか口を開かないようなヘルが、わざわざエッジを呼び止めたりするだろうか。不思議に思って首を傾げた私に、エッジは苦笑交じりに答えた。

「いきなり呼び止められて、ただ一言、家に帰らないのかって」

「え?」

 帰らないのかって、どういうこと?

「昨夜姉ちゃんが攫われて、昨日の今日で家に一人だと心細いだろうから帰れって言いたかったんだと思う」

 ヘル、そんな風に心配してくれていたの? びっくりして言葉を失くす私を見下ろしながら、エッジは何かを思い出したのか、おかしそうに笑った。

「あいつ必要最低限も喋んないから、何言ってるか全然分かんなかったんだけど」

 姉ちゃん普段、あいつとちゃんと会話できてんの?、とエッジは笑った。

 それを聞いて、ああやっぱりヘルのことだったんだ、と思ってしまった私を許して欲しい。ヘルの不思議な物言いは、エッジの前でも勿論健在だったらしい。ヘルの言葉の意味が分からず悩むエッジを想像して、思わず私もふふっと笑った。

 そうだったんだ。わざわざ家まで送ってくれただけで十分過ぎるほど嬉しかったのに、ヘル、家に帰った後のことまで心配してくれてたんだ。そう思った瞬間、胸の中が温かな気持ちでいっぱいになる。けれどそれと同時に、慌てて帰ってきてくれたエッジに対しては、申し訳ない気持ちになった。

「そうなんだ。エッジ、ごめんね。それで、心配して帰って来てくれたんだ?」

「ん。俺も、姉ちゃんを家に一人にしてるの、ずっと気になってたんだ。だからこれを期に、暫く家から通おうと思って」

「え?」

 エッジが足元を指差す。不思議に思って目線を落とすと、大きな荷物が置いてあった。

「荷物まとめてきた」

「えええ!? だ、大丈夫なの!?」

 騎士や魔術師の見習いというのは、どんなに家が近くても王城の寮で暮らすのが原則だ。

「こっちに帰ってきて、仲間はずれにされたりしない!?」

「ねぇよ。ガキかよ」

 エッジは苦笑とともに頭を振った。

「でも、姉ちゃんが無事で良かった。攫われたとか聞いて、びっくりしたんだからな」

「ごめんね、心配かけて」

 エッジはううん、と頭を振った。

「今回はさ、俺、ちょっとあいつのこと見直したよ」

「あいつって?」

「だから……ええっと、ヘルだっけ? わざわざ俺のとこに来るってさ、本気で姉ちゃんのこと心配してるんだなって思って」

 まあ、ほんのちょこっとだけだけどな。そう呟いたエッジは、何故だか機嫌が良さそうに見えた。



 その日は久しぶりに、エッジと隣り合った部屋で眠った。もう幼い子どもじゃないから、さすがに一緒のベッドで眠るようなことはしなかったけれど、隣の部屋にエッジがいると思うだけで、なんだか安心できた。微かに残っていた心細いような気持ちもどこかへ飛んで行ってしまって、私は朝までぐっすりと眠ることが出来たのだった。

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