明確な境界線(1)
「あの坊や、知り合いなのか?」
突然向けられた声にはっと振り返ると、厨房の方から顔を覗かせたマスターが、不思議そうな目で私を見ていた。
マスターは、私のお父さんと同年代の男性で、スペイトの経営者だ。ここで売っている軽食は、全部マスターが作っている。
「知り合いっていうか、えーと、昨日知り合ったんですけど、もう忘れられてました」
私の答えに、マスターはナイフで豆の皮を剥きながら、くっと笑った。
「それ、知り合ったって言わないだろ」
「……確かに」
言われてみればそうかもしれない。知り合ったつもりになっていたのは、私だけだったということか。何だか少しがっかりして、私は小さくため息を吐く。そんな私の様子を見て、マスターはまた笑った。皮を剥いた豆に切り目を入れながら、ちらりと広場に目を向ける。
「しっかし、あの子、よく来るよな。殆ど毎日来てないか?」
こっちにすれば嬉しい話だが、飽きないのかねえ、と、マスターは不思議そうだ。
ここ一年くらいの話ではあるけれど、あの子は殆ど毎日フルーブを買いに来てくれている。これまではよっぽど好きなんだなあ、としか思っていなかったけれど、確かに自分に置き換えて考えてみると、お昼ご飯が毎日同じものだなんて絶対に耐えられない。
飽きないのだろうか……。
翌日の昼も、少年はいつもと同じようにフルーブを買いに来た。昨日の素気無い態度にすっかり怯んでしまった私は、もう彼に声を掛けることはしなかった。
勿論彼の方も、何も言っては来なかった。
もしかしたら、昨日店員に声を掛けられたことすら覚えていないのかもしれない。彼はいつも通り顔を上げることも無く、開いた本に目を落としながら「フルーブ」と無愛想に注文しただけだった。
結局それから十日が経っても、彼と目が合うことは一度も無かった。いつものように、フルーブを片手に噴水の方へと去って行った背中を見送って、思わず小さなため息を零す。
その瞬間、左のわき腹を肘でつんつんされた。マスターに聞こえないようにと、こそっと耳元で囁かれる。
「ねえねえ、ハンナったら最近、凄く熱い目であの子のこと見てるわよね」
はっと我に返って隣を見やると、ライラがにやにやした目で私を見ていた。ライラはマスターの娘で、私と同じ歳の女の子だ。三日に一度くらいの頻度で、スペイトを手伝いに来てくれる。
ライラは頭の高い位置で一つに結った鳶色の髪を揺らして、からかうように私の顔を覗き込んだ。
「でも、あの子随分年下だと思うんだけど。背だってこんなだし」
ライラは自分の肩の辺りで手を翳す。
「それは言い過ぎ、このくらいはあるよ」
何故だか少しむっとして、鼻の高さに手を翳してみせると、ライラはくすくすと笑った。
「熱い目で見ていたことは否定しないのね?」
「まさか!」
私は慌てて否定した。
「いつも何の本を読んでるのかなって思っていたけど、それだけだよ。本に興味があるだけで、そういうのじゃないよ」
先日彼に助けてもらった話は、ライラにはしていない。何でも恋に結び付けたがるライラにそんな話をしたら、からかわれるのは目に見えていたからだ。
でも、話していないのに結局からかわれる羽目になってしまった。ライラに気付かれるくらい、あの子のことをじっと見ていたのかと思うと、なんだか恥ずかしくなってくる。
「さあ、何の本なのかしらね。一度こっそり盗み見してみたけど、読めない文字で書いてあったのよね」
何の本なのか気になって、こっそり覗き込んだのは私だけではなかったらしい。ライラにもやっぱり読めなかったんだ。
そう思ってからふいに、先日助けてもらった時、彼が不思議な響きの言葉を口にしていたことを思い出した。
「魔法……かなぁ」
もしかしたら、あの本には魔法についての何かが書いてあるのかも。魔術言語は普段私たちが使っている言語とは違うと聞いたことがあるし、もしかしたらあの本に書かれているのがそれだったのかもしれない。
「魔法?」
怪訝そうに首を傾げたライラに、私はなんでも無い、と頭を振って見せた。唐突に私の両手を握り締めたライラは、やたらと大真面目な顔で言った。
「でもね、ハンナ。あの子は確かに可愛い顔をしてるけど、売り子の私たちと目も合わせようとしないし、なんだか感じが悪いわ。それに──あなたの恋のお相手にしては、いくらか幼すぎるんじゃないかしら」
熱い目で見ていた疑惑から、まだ離れられていなかったらしい。私はぎょっとして、ぶんぶんと頭を振った。
「本当に、違うんだってば」
「そう? 恋する乙女みたいな切なげな目で見ていたわよ?」
しれっと向けられた言葉を、私は慌てて否定した。
「な、何言ってるの、そんな目で見てない!」
「あなたに好きな人が出来たっていうのなら応援してあげたいけれど……、エッジよりも年下というのは、ちょっとね」
一人で暴走しているライラには、私の否定の言葉なんてまるで聞こえていないようだ。
エッジというのは、私の弟の名前だ。ライラの言葉に、私は三つ年下の弟の姿を思い浮かべる。昔は小さくて可愛かったエッジは、いつの間にか私の背をすっかり追い抜いていた。騎士見習いになった頃からぐんと背が伸び始めて、最近では声もすっかり低くなり、もう幼い頃の面影は消えつつある。
確かにエッジと比べれば、あの少年は背も低いし、顔立ちにもまだ幼さが残る。声だって男の子にしては高いし……エッジよりも更に年下なのかもしれない。
「だ、だから、好きとかそういうんじゃないんだってば」
こういう話題が苦手な私は、早く話題を切り上げようと、別の話題を振る。
「そういえば、ライラこそ彼とはどうなの?」
付き合いだしたばかりの彼氏の話を振ると、ライラはぱっと顔を輝かせて、惚気始めた。話が逸れたことにほっとしつつ、私はライラの幸せそうな話を羨望の思いで聞いていた。
好きな人、かあ。
恋への憧れはあるけど、私はまだ人を好きになったことが無い。
確かに、最近はよくフルーブを買いに来るあの少年のことが気になってはいるけれど、それは好奇心であって、恋ではない。
だって、相手は弟よりも年下の、幼い少年なのだから。
その日もいつものように仕事を終え、ライラと別れて帰路に着いた。ちなみに、二人組みの男に絡まれたあの日以来、どんなに早い時間でも、表通りを通って帰るようにしている。
マスターがあまったフルーブをいくつか分けてくれたので、それを詰めたバスケットを持って、人気の少なくなった広場を通り抜ける。ちらり、と噴水に目をやるけれど、さっきまで座っていた少年はもうそこにはいない。
……なんで私、がっかりしてるんだろう。
これじゃあまるで、私が本当にあの子に恋しているみたいだ。
思考を追い払うようにぶんぶんと頭を振った後、家に向かう角を曲がったとき、頭上から大きな声が降ってきた。
「ああああ! 避けてーーっ!」
びっくりして、反射的に頭上を見上げる。すぐ隣に立つ家の上階の窓から、焦ったような顔をした女性が顔を覗かせていた。一体何だろう、と思う間も無く、大きな土色の固まりが眼前に迫っていることに気付く。──植木鉢だ! 植木鉢が、私に向かって落ちてきている! ぽろぽろと、土が顔面に落ちてきた。反射的に目を瞑り、頭を守るようにしゃがみこんだその瞬間、背後から不思議な言葉が聞こえてきた。
「Бπφуо、Πуй」
ぐにゃり、と空間が歪んだかのような、奇妙な感覚を覚える。ぶつかる、と覚悟した痛みは訪れず、植木鉢の割れる音さえも聞こえては来ない。恐る恐る顔を上げた私は、唖然として硬直するしかなかった。
視界がすべて、緑色に染まっているのだ。まるで緑色のフィルターを通したみたいに、目に映るものがすべて緑色に染まっている。それに……驚いたのはそれだけじゃなくて、頭上をぷかぷかと浮遊する植木鉢に対してもだった。
植木鉢が、浮いているのだ。
空中を漂うように、私の頭上でふよふよと上下している。
目の前の出来事に理解が追いつかず、ただただ硬直していると、いつの間にかすぐ傍に誰かが立っていた。はっとしてそちらを見上げて、思わず息を呑む。
そこに立っていたのは、いつもフルーブを買いに来るあの少年だった。
少年は私には目もくれずに、植木鉢の下に両手を翳す。
「ЯπЫ」
彼が囁くように呟いたその瞬間、植木鉢がとん、と彼の手の上に落ちた。それと同時に、私の視界を覆っていた、緑色のフィルターのようなものも消えてなくなる。まるでしゃぼん玉のように、ぱちんとはじけて消えた。
なん、だったんだろう、今の。
ぽかんと口を開けて、しゃがみこんだ状態で見上げた少年は、植木鉢を両手に抱えたまま、無表情で私を見下ろしていた。
「すみません! お怪我はありませんか!」
頭上高くから飛んできた声に、私は声のした方を見上げた。上階の窓から顔を覗かせている女性が、不安げな目で私を見つめている。多分彼女が手を滑らせて、植木鉢を落としたのだろう。
「大丈夫ですー!」
私は大きな声でそう返して、それから、もう一度少年に目を遣った。少年は黙って植木鉢を道の端に置くと、おもむろに私の方を振り返った。私は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「あ、あの。ありがとうございました」
正直、何が起きたのかよく分からないのだけれど、恐らく彼が守ってくれたのだろう、ということだけは分かる。植木鉢が落下することなく空中で止まっていたのも、きっと魔法の力だ。
少年は私の言葉には特に反応せず、
「怪我は」
と素っ気無く言った。私が頭を振ると、少年はふいと踵を返そうとして──ぴたりと、動きを止めた。
「……なんか、いい匂い」
鼻をひくつかせ、独り言のようにそう呟いた後、くるりと動いたエメラルドグリーンの瞳が、私の持っているバスケットの上に留まる。
……あ。
もしかして、バスケットの中に入っているフルーブの匂いだろうか。鋭いな。殆ど毎日買いに来てくれているし、フルーブが本当に好きなんだろうな。
上にナプキンを掛けているから、植木鉢の砂も入ってはいないはずだ。一瞬の逡巡の後、私はそのバスケットを差し出した。
「あの、良かったらどうぞ。助けてくれた、お礼に」
差し出したバスケットを受け取った彼は、中に何が入っているのか気付いていた訳では無かったらしい。少し怪訝そうな様子で、上にかけられたナプキンをぺろりとめくる。中を覗き込んだかと思うと、そのまま黙り込んでしまった。
「フルーブ、好き……なんだよね?」
反応が無いものだから、なんとなく不安になってそう口にする。顔を上げた彼は、私の目をじっと見た後で、漸く合点がいった、というような顔で呟いた。
「……ああ、あんた、スペイトの」
スペイトというのは、私の働いている店の名前だ。この前は「誰?」って言われたけど、今は私のことを覚えてくれているようだ。それだけで何だか嬉しくなって、私は頬が緩むのを感じた。
「ハンナ。ハンナ・エレットって言うの」
「ふぅん」
いかにも興味無さげな相槌を打つと、彼はバスケットを軽く持ち上げた。
「もらっとく」
そして、ふいと踵を返して歩き出す。
……え、え、え!?
それだけ!?
ふ、普通、名乗られたら名乗り返すよね!?
てっきり名前を教えてもらえるものだと思い込んでいた私は、歩き出した彼の背中を唖然として見送った。
呼び止めて、名前を訊けば教えてくれたかもしれないけれど、とてもそんな勇気は湧いてこなかったのだ。
マイペースというか、何と言うか……。本当に、不思議な子だ。
立ち尽くしたままその後姿を見送っていたら、ふいに、背後から大きな声が飛んできた。
「へル!」
低めの青年の声に、心なしか億劫そうに少年が振り返る。つられるように、私も後ろを振り返った。藍色の髪の背の高い青年が、こちらに向かって駆けて来るのが見えた。私よりもいくらか年上であろう彼は、焦ったような声で少年を呼び止めた。
「ちょっと待てよ!」
「なんで」
立ち止まった少年は、不機嫌そうな表情で青年を見つめている。私の横を通り過ぎ、少年へと駆け寄った青年は、少年に向かって問い掛けた。
「一体何があったんだよ」
「植木鉢が降ってきたから、止めた」
少年が簡潔にそう答えると、青年は困惑したような表情を浮かべた。
「なんでもかんでも不精して、魔法を使うなって言っただろ。避けられるものは自力で避けろって」
青年はどうやら、魔法を使ったことに対して文句を言っているらしい。魔法は使ってはいけないものだったのだろうか。よく分からないけれど、私の所為で少年が怒られていることだけは確かだ。
そのことに気がついた瞬間、私は思わず口を開いていた。
「あの!」
急に声を上げた私に対して、二人は同時に振り返った。青年は不思議そうな顔をしている。当然だろう、いきなり知らない人間が口を挟んできたのだから。だけど、何故かさっき私を助けてくれた少年の方までもが、不思議そうな表情を浮かべていた。
「そ、その子は、私を助けてくれたんです、なので、あの……」
戸惑いがちに向けた言葉に、青年は目を丸くして少年を一瞥した。それから再び私に目線を戻して、すみません、と頭を下げた。
「そうだったんですね。……それならそうと、早く言えよ」
後半は、少年に対して向けた言葉だろう。少年は興味無さそうにため息を吐くと「もういい?」と、青年の返事も待たずに歩いて行ってしまった。てっきり引き止めるかと思ったけれど、青年はもう何も言わず、やれやれといった様子で少年の後姿を見送っただけだった。
少年が角を曲がって見えなくなると、振り返った青年はふと私を見て、なんだか照れたように笑った。
「びっくりしましたよね。……突然、すみません。遅くなりましたが、俺はルーインと言います」
ヘイゼルの目を細めて笑うルーインさんは、とても人の良さそうな青年に見えた。
「あ、ハンナです」
小さく頭を下げられたので、同じように下げ返す。
「怪我はありませんか?」
ルーインさんの問いに、私ははい、と頷いた。
「大丈夫です。さっきの子が守ってくれた、ので……。あの、さっきの魔法って、使っちゃいけないものだったんですか?」
さっきの少年が、使ってはいけない魔法を使って私を助けてくれたというのなら、なんだか申し訳無い気がする。
「そんなことはないですよ。ただ、あいつはまだ見習いなので、ちょっと大きな魔法を使うと本部に連絡が行くんです。どういう用途で使ったか、確認しないといけなくて」
面倒な仕組みなんですけどね、とルーインさんは小さく笑った。
「ヘルは使わなくて済むようなことでもすぐに魔法を使う癖があるので、てっきりまたしょうもないことに使ったのかと思って見に来たんですよ」
「ヘル?」
そういえば、さっきもその名前を呼んでいたような気がする。あの少年の名前が、ヘルというのかな。
「ああ、さっきの奴の名前です」
「そうなんですね」
ヘル、って言うんだ。何だか可愛らしい名前だな。
私は心の中で、その名前を反芻した。
名乗ったものの名乗り返してもらえなかったことを、わざわざルーインさんに告げたりはしなかったけれど──何かを感じ取ったらしいルーインさんは、苦笑いを浮かべて見せた。
「すいません、悪気がある訳じゃないと思うんですが、あいつ、どうも素っ気無くて」
「いえ。あの、ルーインさんの所為じゃないですし……」
「もしかしたら、凄く冷たい奴みたいに思ったかもしれないけど、あいつ、根はすっごいいい奴なんですよ。目の前で困っている人がいたら助けなきゃとは思ってるんです。ただ、ちょっと独特というか、他人に対して無関心すぎるところがあって。本人には悪気は無いんですけど」
眉尻を下げて必死に弁解する姿がなんだかおかしくて、私はくすっと笑った。ルーインさんはヘルのことが好きなのだろう。ヘルを嫌いになって欲しくないのだという思いがありありと伝わってくる。
「冷たいだなんて、思って無いですよ。たとえ他人に関心が無かったとしても、助けてくれたことに変わりは無いですから」
そう口にした瞬間、ふと、これまで抱いていた違和感が心の中に落ちた。
この前も今日も、どうしてどうでもいい存在の私を助けてくれたのかと疑問に思っていたけれど、彼は私を助けたわけじゃなくて、目の前で困っていた人を助けたに過ぎなかったのだ。だから、その人がどんな人だったかとかそういうことに関心が無くて、私のことを覚えてくれていなかったのだ。
そう気付いた瞬間、私は何故だか、心のどこかでがっかりしたのを感じた。
──妙な話だ。助けてもらってありがたいと思いこそすれ、どうしてがっかりしなくてはならないのだろう。私は抱いたその感情を打ち消すように、ふるふると頭を振った。