失いたくない距離(2)
ライラが休憩から戻って来た後、休憩に入ると声を掛けに行った私に、マスターはフルーブが沢山入ったバスケットを手渡してきた。
「これ、あの子にやってくれ」
マスターは広場の噴水の方に向かって軽く顎をしゃくる。もしかしなくても、ヘルに、ということだろうか。
「え?」
思わず間の抜けた反応を返すと、マスターはふっと笑みを浮かべた。
「あの子にも、昨夜は世話になったんだろ?」
何故知っているのだろう、と思ったのは一瞬で、私ははっとしてカウンターの方へと目をやる。小さな厨房から窓を隔てた向こう側で、ライラは悪戯が成功した子どもみたいな顔をして笑っていた。
ライラってば......!
私はマスターにお礼を言って、受け取ったバスケットを覗き込んだ。中にはいくつかのフルーブが綺麗に並んでいた。ルーインに渡したものとは違い、こちらのバスケットの中身は全部フルーブだ。ヘルはいつも、他の物は注文しないからだろう。
「でも、いいんですか……?」
私を助けてくれたという理由で、こんなにフルーブを貰ってしまってもいいのだろうか。さっきはルーインにも、沢山用意してくれたのに。躊躇う私に、マスターは快活に笑って頷いた。
「ハンナを助けてくれた命の恩人だってんなら、こんくらいは当然だろう」
遠慮する方が失礼だからな。マスターはそう言って、私の手にバスケットを握らせた。その気持ちを嬉しく思いながら、マスターにもう一度お礼を告げると、マスターは平然と言った。
「それに、会話の糸口にもなるから丁度良いだろ?」
「え?」
言われた言葉の意味が分からず、きょとんとして聞き返す。
糸口になるだなんて、まるで私がヘルと会話するきっかけを望んでいるみたいに聞こえる。──なんて、え、まさか。
まさか、マスターまで、私の気持ちに気がついているとでも言うの!?
ぎょっとしてマスターを見上げると、マスターは不思議そうな顔で私を見下ろしていた。
「──って、ライラが言ってたけど、なんだ、ハンナ。お前あの子と喧嘩でもしたのか?」
「ええっ」
ライラってば! ライラってば、マスターに何言ってるの!?
小さく口を開けたまま言葉を失った私を見下ろして、マスターは笑みを浮かべ、追い払うような仕草をする。
「いいから早く仲直りして来い。休憩終わっちまうぞ」
「は、はい」
もはや仲違いを否定することも出来ないまま、私はマスターにもう一度お礼を言うと、バスケットを持って噴水の方へと向かった。
思えば、休憩の時にヘルに声を掛けに行くのはこれが初めてだ。ヘルはいつも一心不乱に本を読んでいるから、なんだか声を掛けにくいのもあって、今までは一度も声を掛けたことが無かった。バスケットをぎゅっと握り締めて、ヘルの元へと向かう。私が目の前に立っても、ヘルはいつも一緒に帰っていた時のように、魔術書を閉じたり、私を見上げたりはしなかった。
「隣、座ってもいい?」
「……ん」
手元の書に目線を落としたままで、素気無い返事が返ってくる。どうやら本に夢中になっているみたいだ。
勇気を出して隣に座ったはいいものの、ヘルは少しもこっちを見てはくれない。一度も目さえ合わないことに心が折れそうになりながら、私はヘルの横顔を盗み見た。
薄茶色の長い睫に縁取られた、釣り目がちの大きな瞳。透き通るようなエメラルドグリーンの瞳は、食い入るように手元の書を見つめている。私はなんとなく、ヘルの目線を追うように、隣から本を覗き込んだ。そこにはやっぱり前に見た時と同じように、見覚えの無い文字が並んでいるだけだった。
ただ、心なしか前に覗き込んだ時よりも、文字が小さくなって文字数が増えているように見える。びっしりと並んだ見覚えの無い文字列は、私にはもはや記号のようにしか見えなかった。時折良く分からない数式のような物や、何かを示す図形のような物が載っているが、何一つとしてさっぱり理解できない。
ヘルはこれを全部解読しているのだろうか。
……凄すぎる。
「いつも難しそうなの、読んでるね」
思わずそう呟いた瞬間、ヘルが弾かれたように顔を上げた。すぐ傍で本を覗き込んでいた私と目が合った瞬間、息を呑んだかと思うと、ぎょっとしたように身を引く。
しまった。無意識のうちに、近付きすぎていたみたいだ。
「なんで……、いるの」
ヘルは伏せた目線を泳がせると、戸惑ったような声音で言った。
「隣に座っていい? って聞いたら、うんって言ってくれたよ?」
怪訝そうな様子を見る限り、どうやら記憶に無いみたいだ。夢中で本を読んでいて、気が付かなかったのだろうか。ちょっと寂しい。
「うちのマスターがね、昨日助けてくれたお礼に、ヘルに渡してって用意してくれたんだけど」
バスケットに入ったフルーブを差し出すと、ヘルはちらりとそれを一瞥して、微かに頭を振った。
いらない、ということだろうか。
まさか断られるとは思わなくて、私はバスケットを差し出したままの体勢で、固まってしまった。
お昼ごはんの分はもう、食べたからだろうか。
「お昼食べたばっかりだし、そんなに食べられないかな? でも、せっかくだから、一つだけでも貰ってくれたら嬉しいな、なんて」
いらないと言われたのに、押し付けがましいだろうか。でもマスターだって、折角用意してくれたのに、ヘルが貰ってくれなかったとあってはがっかりするだろうし......。私が軽く首を傾げると、ヘルは俯いて魔術書をパタンと閉じた。
「ちがう」
ヘルが私の顔を見上げる。
違うって、何が?
ヘルは、座ると殆ど同じ高さにある私の目を見据えると、つまらなさそうな声で言った。
「筋合いが無いし」
筋合いが無いって、どういう意味だろう。言葉の意味を測りかねて、バスケットを差し出したままで考える。
ヘルはそんな私を見て、小さく息を吐くと、差し出されたままのバスケットを手にした。
「…………いい。貰っとく」
受け取ったバスケットを私の反対側に置くと、再び魔術書を開く。筋合いが無い、の意味はよくわからないままだけど、説明してくれるつもりはなさそうだ。ヘルらしいというか何と言うか、私との雑談に興じてはくれないらしい。これ以上声を掛けるのも気が引けたけれど、これだけは言っておかなくちゃ、と口を開いた。
「ヘル、昨日は、本当にありがとう」
ヘルは魔術書に目線を落としたままで、ん、と素気無く答えた。さっきと同じような、気の無い返事だ。もしかして、もう聞こえていないのかな。
聞こえていないのなら、邪魔にはならないよね? もうちょっとだけなら、ここにいても、いいよね……? そんな風に勝手な言い訳をして、ヘルの隣に座ったまま、横顔を盗み見る。
まだ幼さの残るその顔を見ているだけで、胸がきゅう、と切なく疼く。本当に、なんでこんなに好きになっちゃったんだろうな。
でも、しょうがない。
ヘルが恰好良すぎるから悪いのだ。
初めてナンパされたあの日も、植木鉢が空から降ってきたあの日も、──誘拐されてしまった昨夜さえ、私を助けてくれたのはヘルだった。
いつだって、ヘルはまるでヒーローみたいに──ライラの言葉を借りるなら、王子様みたいに私を助けてくれるのだ。
これでは好きにならない方が、どうかしていると思う。
本当は昨日、私はヘルにこの気持ちを伝えようと思っていた。ヘルにはっきりと振られたら、この気持ちも諦められるかもしれない。そう思ったのに、結局勇気が足りなくて言い出せないままだった。
でも、あの時もしニーナがやってこなかったら、私はヘルに言えたのだろうか。あなたが好きだと、この気持ちを伝えることが出来たのだろうか。
もし──もし伝えることが出来ていたら、ヘルはなんと答えていたのだろう。
ヘルがもし「俺は好きじゃない」って答えたら、私はそれですっぱり諦めることができたのだろうか。やっと近づけたこの距離さえも失うことになったとしても──また他人に戻ってしまうのだとしても、私はそれに耐えられたのだろうか。
怖い。
やっぱり無理だ、と思う。
やっと他人の枠を抜け出して、名前で呼んで貰えるようになったのに。きっと、ヘルだって私のことを、友達くらいには思ってくれているはずだ。やっと親しくなれたのに、この距離を失いたくない。
さっき、店先にヘルがやって来たときのことを思い出す。顔も上げず、私の顔すら見てはくれなかった。あの瞬間のことを思い出しただけで、心臓をぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなる。
ヘルにまたあんな態度を取られるくらいなら、今のこの距離を失ってしまうくらいなら、今のままでいた方が、幸せなのかもしれない……。
臆病だとは思うけれど、そんな風に考えずにはいられない。
「ハンナ?」
訝しげに名前を呼ばれて、ふと我に返る。いつの間にかヘルは、魔術書に落としていた目線を上げて、不思議そうに私を見ていた。
「え、あ、ごめん。何か言った?」
私の言葉に、ヘルは黙って頭を振った。
「私、ここにいたら邪魔かな?」
「……べつに」
ヘルは小さくそう答えると、ポケットから何かを取り出した。手のひらにすっぽり収まるくらいの、チェーンに繋がれた円形のチャームのようなものだ。少し錆びたような金色のその隅には、親指大の綺麗なエメラルドグリーンの石が埋め込まれていた。丁度、ヘルの瞳とよく似た色をしている。
その石は、何故だか淡い光を放っているように見えた。
「綺麗だね」
ヘルはちらりと横目で私を一瞥したけれど、特に何かを口にすることは無く、視線をチャームに戻した。
シンプルで可愛らしいチャームだけど、あれは一体何なのだろう。どうして石が光っているのかな。そんなことを考えていたら、ふいにニーナのアクアマリンのブローチのことを思い出した。あの石は、ニーナが頬をくっつけると、柔らかな淡い光を放っていた。それから──ヘルと、会話することが出来たのだ。
もしかしてこの石も、あのブローチのように、遠くにいる人と話が出来るのだろうか。それにしても、ヘルはチャームに頬をくっつけたりはしていなかったのに、どうして石が光っているんだろう。
「頬をくっつけなくても、光るの?」
私がそう問い掛けると、ヘルは怪訝そうな目で私を見た。
「えっと、昨日、ニーナがブローチに頬をくっつけた時、ブローチの石が光ってたから。光る石なんて初めて見たし、ヘルが持っているのも、あの石と同じような石なのかなって思ったんだけど……」
もしかして、違うのかな。
「……繋いできた時は、勝手に光る」
ヘルは淡々と答えると、まだ光を放つチャームをポケットに戻した。一体、どういう意味だろう。繋いできた時、って、相手がヘルに連絡を取ろうとしている状態のことだろうか。その時は、頬をくっつけなくても、光り出すということかな。
あれ? 待って、ということは、今のは、誰かがヘルと話したがっていたということ?
「あの、放っておいていいの?」
思わずそう口にすると、ヘルはちらりと私を一瞥した。
「いい。……どうせ、ルーインだし」
本当に、いいんだろうか。
一瞬そう思ってから、すぐにはっとなって立ち上がった。
「って、あっ、私が邪魔してるせい? ごめんね、私そろそろ戻るね!」
もしかしたら、仕事の話などで、隣に人が座っている状況では話せないような内容なのかもしれない。空気を読まずにぼんやり座っていた自分がなんだか恥ずかしくなって、私は慌ててスペイトの方へ戻ろうとした。
けれど、私が足を踏み出すより早く、右腕をぎゅっと掴まれる。
びっくりして隣を見下ろすと、座ったままで私を見上げたヘルが、心底不思議そうな口調で言った。
「……邪魔じゃないって、言ったけど」
気を遣わせてしまったのかな、と一瞬思ったけれど、私を見上げるヘルの表情は、ただ純粋に不思議がっているようにしか見えない。
澄んだエメラルドグリーンの瞳にまっすぐ見つめられて、なんだか余計に恥ずかしくなってきた。
「え、えっと、じゃあ……お言葉に甘えてもう少し、だけ」
どうせ、なんて言って放っておかれるルーインが可哀想だとは思ったけれど、関係の無い私が口を挟むのもおかしい気がする。
私はヘルの隣に、そっと座り直した。
「あっ、そういえば、昨日ニーナが使っているのを見たけど、あの不思議な石、遠くに居る人とも会話ができるの? 便利な魔法だね」
昨日もヘルは、今のチャームについている石を使って会話していたのかな。あんなものを持っていたら、さぞ便利なんだろうな。そう思って何気無く口にしたら、ヘルは冷めた声で否定した。
「そうでもない」
そう言って、開いたままだった魔術書を閉じる。
「魔力のある奴にしか、繋げないし」
魔術師同士でしか使えない、ということなんだろうか。それでも、十分便利じゃないかと思う。直接会わなくてもスムーズに会話が出来るなんて、そんなのは夢物語のようなものだと思っていたのだ。
ふ、と顔を上げたヘルと、目が合う。ヘルはふいに手を伸ばしたかと思うと、私の前髪に触れた。な、なな、な、なんで!? びっくりした私は、落ち着き無く視線を彷徨わせた。軽く前髪をかき上げて、ヘルの親指が私の額をなぞる。丁度、昨日キスを落とされた辺りだ。優しい手つきで額を撫でられて、なんだか心がそわそわと落ち着かなくなる。
「へ、ヘル?」
思わず名前を呼ぶけれど、返事は返って来ない。恐る恐るヘルの目を見ると、ヘルは何か考え込むような目をして、私の額をじっと見つめていた。
──かと思えば、急に手を離して、前を向いて魔術書を開き出す。
な、何!? 今のは、何!?
ヘルは平然としているけれど、私は昨日のことも思い出してしまった所為か恥ずかしくてたまらなくなり、勢いよく立ち上がった。
「や、やっぱり、も、もう休憩終わるから、帰るね!」
本から目を上げることもせずに、ん、と気の無い返事が返って来る。まるでさっきまでと変わらない、落ち着いた態度。
昨夜のキスのことといい、さっきの意味深な態度といい……。これが他の人だったら、もしかして少しくらいは私のこと、なんて期待も出来るのかもしれないけれど、ヘルの態度を見ている限り、とてもそうは思えない。
なんで、キスなんかしたんだろう。
私一人でドキドキして、そわそわして、なんだか恥ずかしいし、虚しい。ヘルの考えていることの十分の一でもいいから、理解できたらいいのに……。
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