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彼と私の境界線  作者: 篠井七紗
第七章
17/21

触れた温もり(2)

 仮眠室はとてもシンプルな狭い部屋で、室内にはベッドがただ四つ並んでいるだけだった。再び眠ってしまったニーナを抱えてきたルーインは、一番奥のベッドにニーナを寝かせると、おやすみと告げて、そのまま部屋を出て行った。ルーインにおやすみと返して、去って行く背中を見送る。角を曲がるところまで見送って、部屋のドアを閉めようとしたら、ルーインと入れ違うように歩いてくるヘルの姿が見えた。ヘルはまっすぐに私を見据えて、いつものような無表情で、私の方へと近づいてくる。

「ヘル?」

 一体どうしたのだろうと首を傾げて見せると、ヘルは黙って手に持っていた水差しとグラスを差し出してきた。

 これは、私たちにくれる、ということなのかな。

「くれるの?」

 私がそう問い掛けると、ヘルはこくりと頷いた。

「あ、ありがとう」

 グラスは二つある。恐らく、私とニーナの分なのだろう。私は受け取った水差しとグラスを、ベッドサイドのテーブルに置いた。それから、もう一度ヘルを振り返る。ヘルは部屋のドアのところに立ったまま、何か言いたげな目で私をじっと見ていた。なんだか少し、機嫌が悪いように見える。

「……なんで言わないの」

 ヘルは唐突にそう言った。

「え、何を?」

 何のことだかさっぱり分からず、小さく首を傾げて見せる。ヘルは不快感を露にするように、眉間に皺を寄せた。

「……。殴られたって」

 すっと逸らされた目線が、私の腹部の辺りを一瞥し、斜めに落とされる。──もしかしてヘルは、さっき殴られたお腹のことを言っているのかな。

「えっと、別に大したことなかったから」

 確かに殴られた時は痛かったけど、正直その後はそれどころじゃなかったから、忘れてしまっていた。

「他は」

 私の返答に被せるようにして、ヘルはきつい口調で言う。

「他、って」

「何もされてないの」

 まるで詰問するような口調で問い掛けられ、慌てて頷くと、ヘルは探るような目で私を見上げた。

 疑いと怒りの混ざったような複雑な色を乗せて、ヘルのエメラルドグリーンの瞳が、じっと私を見据えてくる。

 じっと見られていることを意識した途端、緊張で鼓動が早くなるのを感じたけれど、ここで目を逸らしたら、嘘をついていると疑われてしまうかもしれない。私は目を逸らしたくなる気持ちを抑えて、ヘルの綺麗な瞳をじっと見つめ返した。

 ヘルは暫くの間、胡乱げな目で私を見ていたものの、やがてぷいと目を逸らして、「ならいいけど」と素気無く呟いた。ヘルが目を逸らしてくれたことに安堵して、私は思わず小さな息を吐く。

 このまま部屋を去ってしまうのかと思っていたら、ヘルはおもむろに一番ドアに近いベッドを指差して、どこかむすっとした表情で私を見上げた。

「そこ」

 う、うん? どういうことだろう。さっさと寝ろ、ってことかな。意味を図りかねて一瞬硬直した私に、ヘルは辟易したような口調で告げる。

「……座って」

 ううん。少し、じゃないや。なんだか、かなり機嫌が悪そうだ。

 なんでだろうとは思ったけれど、そんなことを聞いたら余計に機嫌を損ねそうな気もする。私はひとまず言われた通りに、ベッドの端に腰を下ろした。何か話でもあるのだろうか、と座った状態でヘルを見上げたら、近寄って来たヘルが私の正面に立った。驚いた私は、視線を彷徨わせた挙句、床に落とす。下ろした視界に、ヘルの履いている黒い靴のつま先が目に入った。

 いつもはもっと綺麗な色をしているその靴は、なんだか土ぼこりに薄汚れている。──私とニーナを慌てて助けに来てくれたから、こんな風に汚れてしまったのかな、なんて考えてしまうのは、きっと私のただの願望で、自惚れなんだろうな。

 そんなことを考えた自分が恥ずかしくなって、ひっそりと苦笑いを浮かべた瞬間、ふいに伸ばされたヘルの右手が、私の前髪をふわりとかき上げた。ぎょっとした私が顔を上げるよりも早く、左手がそっと肩に乗せられる。

「──рдяεδε」

 掠れたような優しい囁きが、不思議な言葉を紡いだ。至近距離から落とされたヘルの吐息が額に掛かって、一気に心臓の鼓動が早くなるのを感じる。

 な、なに? 一体、どうしたの?

 聞き慣れない言葉に内心で疑問符を浮かべた瞬間、額に掠めるようなキスが落とされた。

「っ!」

 柔らかな感触に驚き、咄嗟に大きく身を引いた私を、ヘルは透き通るような瞳でじっと見下ろしていた。綺麗なエメラルドグリーンの瞳は、どこか苦々しげに私を見ている。不思議なことに、その瞳を見ていたら、胸の奥がきゅっと掴まれたように苦しくなる。

 けれど、ヘルの感情を揺さぶっているものが一体何なのか、私にはさっぱり分からなかった。

「勝手に怪我、しないで」

 ヘルは私の前髪を持ち上げていた右手を離すと、流れを整えるように前髪を撫でた。その手つきが思いの外優しくて、心臓がまた殊更に激しく脈を打ち始める。

 ──な、な、今、今のは、一体何!?

 なんで、なんで額にキスなんかしたの!?

 それに、勝手に怪我しないでって、一体どういう意味!?

 混乱して言葉を失い、ただただ口をぱくぱくさせる私をよそに、ヘルは呆気無く私から離れると、部屋を出て行こうとした。

「へ、ヘル!」

 咄嗟にその名を呼ぶと、ヘルは不思議そうに振り返る。

「……なに」

 座ったままの私を見下ろすその瞳には、何の動揺も見られない。いつもと同じ、凪いだ海の水面みたいに綺麗な色。

 まるで何事も無かったかのようなその目を見てしまったら、なんでキスしたの、なんて聞けなかった。

 ──額へキスされたくらいでこんな風にドキドキしているのは、きっと私だけなんだろうと、すぐに気が付いてしまったから。

「え、えっと、ううん。ごめんね、……今日はありがとう」

「もう聞いた」

 相変わらずの素気無い口調でそれだけ言うと、ヘルはさっさと部屋を出て行ってしまった。ルーインの時のように背中を見送ることも忘れて、私はベッドの上に座ったままの状態で、パタンと閉まるドアを、ただただ呆然と見つめていた。


 ──今のは一体、何?


 至近距離から落とされた優しい声も、額を掠めた柔らかな温もりも──そっと前髪を撫でてくれた掌の感触さえも、まるで現実のものでは無かったような気がして、混乱してくる。

 けれど、額に微かに残った熱が、さっきのことは現実だったのだと私に訴えてくる。

「なんで……」

 無意識のうちに、前髪の上から額を押さえる。その前髪さえも優しく撫でられたことを思い出し、私は奇声を発したいような気持ちに駆られた。

 叫び出したいような気持ちを持て余し、そのまま勢いよく、ベッドの上にごろんと横になる。額に残る柔らかな感触が頭から離れなくて、私は恥ずかしさのあまり両手で顔を覆った。

 こんな状態で、眠れる訳が無い。

 さっきまでは、恐怖で眠れるかどうか不安だったのに、今となっては、別のことで頭がいっぱいで、すっかり目が冴えてしまった。

 ……ヘルはどうして、額にキスなんかしたの?

 どこか苛立ったように、苦々しげに顰められたエメラルドグリーンの瞳が脳裏に過ぎる。


 "勝手に怪我しないで"


 あの言葉は、一体どういう意味だったんだろう。

 私が怪我をするのに、ヘルの許可がいるということだろうか。……って、どうして? 私が怪我をしようがしまいが、ヘルには何も関係無いはずだ。

 そもそも、怪我なんてしたくてするものじゃなくて、気が付いたらしてしまっているものだ。勝手に怪我しないでって、一体どういう意味なんだろう。

 どうして、額にキスなんかしたの? 優しい声で、一体何を囁いていたの? どうしてあんなに優しい手つきで、前髪を撫でたりしたの?

 ──分からないことばかりで、頭が爆発してしまいそうだ。

 ヘルの考えていることが、全然分からない。

 こんな状態で寝られるはずも無く、悶々とベッドの上で一人静かに悶えていたら、ふいに奥のベッドから身じろぎの音が聞こえてきた。

「……ハンナ?」

 どこか不安げなニーナの声が、静かな部屋に響く。

 特に独り言なんかは言っていないつもりだけれど、無意識にじたばたしたりして、うるさくしてしまっていたのかもしれない。

「っ、ごめんね、起こしちゃった?」

 がばりと身を起こして問い掛けると、ニーナはううん、と小さな声で否定した。

「ハンナ、端っこで寝てるの?」

「あ……」

 本当は、ニーナの隣のベッドで眠るつもりだった。でも、ヘルに座るように言われた端のベッドに、そのまま寝転んでしまっていたことに気付く。一度寝転んだベッドと違うベッドで眠るのはマナー違反のように思えて、どうしたものかと思案してしまう。

 でも、端と端のベッドで眠るのは、あまりにも寂しい。

 私が悩んでいると、ニーナは少し逡巡する様子を見せた後、遠慮がちに言った。

「あの……そっちに行ってもいい?」

 そっちに、っていうのは、私のベッドにってことだろうか。背の高い男の人でも十分に寝られそうなベッドは、私とニーナが横に並んでも十分眠れる広さはある。

 ニーナ、さっきは寂しいって言っていたから、もしかしたら人の温もりが恋しいのかもしれない。

「もちろん、いいよ」

 私はベッドの端に寄ると、ブランケットを広げてニーナを手招きした。ニーナは一瞬驚いたような目で私を見た後、なんだか戸惑ったような声音で、躊躇いがちに口にした。

「えっと、同じベッドで、いいの?」

 ニーナはどうやら、隣のベッドに行ってもいいか、という意味で訊ねていたらしい。自分の勘違いに気付いた瞬間恥ずかしくなり、私は頬に熱が上るのを感じた。

「あ、ごめん! 隣のベッドって意味か、そうだよね」

 考えたら、他人である私と同じベッドで寝たいなんて言う訳が無い。慌ててブランケットから手を離したら、ニーナはおいしょ、とベッドから身を起こした。

「ううん。ハンナがそれでいいなら、一緒がいい」

 ニーナはどこか恥ずかしそうにそう呟いて、私の傍へと近寄ってくる。甘えるようなその様子がとても可愛らしく見え、私はなんだかほっとして小さく笑うと、もう一度ブランケットをめくった。

 ニーナもどこか嬉しそうに頬を緩めると、ベッドの中に身を潜り込ませてきた。すりすりと身を寄せてくるニーナの体温は温かくて、ふわりと心が安らいでいくのを感じた。幼い頃エッジにしてあげたみたいに、ニーナの頭を撫でる。ニーナは気持ち良さそうに目を瞑った。

 そうして暫くの間、ニーナの頭を撫でていたら、おもむろにニーナが口を開いた。

「……ねえ、ハンナ」

 か細い少女の声が、私の名前を呼ぶ。

「ん?」

 ニーナは薄く目を開けて、私を見上げた。小さな唇を開いては閉じ、何度か躊躇う様子を見せてから、意を決したように切り出す。

「ハンナは……」

 けれど、私の名前を呼んだだけで、ニーナは小さく頭を振った。

「……ううん、やっぱりいいや」

「えっ、ニーナ? どうしたの?」

 何かあったのかな。不思議に思って、表情を伺おうとすると、ニーナはブランケットの中に潜り込むようにして、顔を隠してしまった。

「なんでもない。……おやすみなさい」

 どこか拗ねたようにそう口にしたかと思うと、そのまま私の胸元に顔をすり寄せてくる。一体何を言いかけたのか、凄く気にはなったけれど、ニーナはそれきり口を開かなかったので、私も無理に問い掛けるのを諦めた。ただ、身を寄せてくる小さな背中をぽんぽんとあやすように撫でてみると、ニーナはなんだか安堵したように、殊更に身を寄せてきた。

 その温かな体温にほっとして、さっきまで色々なことにざわめいていた心が落ち着いていくのを感じる。

 ──今晩は眠れるはずなんて無いと思っていたのに、ニーナの温かな体温に触れていると、何だか急激に眠気に襲ってきた。誘われるままに緩やかに瞼を伏せた私は、そのまま幾許もしないうちに、眠りの世界に旅立っていた。

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