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彼と私の境界線  作者: 篠井七紗
第七章
16/21

触れた温もり(1)

 お城の敷地内に入って、建物の中に入っていく。広い廊下は薄暗くて、何だか少し気味が悪かった。窓から差し込む月の光だけを頼りに、ルーインは迷わず廊下を進んでいく。私は出来るだけ距離を作らないよう、ルーインとヘルのすぐ後ろを追いかけて行った。

 ルーインはやがて一つのドアの前で立ち止まると、コンコンとノックしてからドアを開いた。ニーナを抱いたままのルーイン、それからヘルに続いて、室内に足を踏み入れる。そこはどうやら医務室のようだった。医務室の中は廊下とは違い、夜だというのに不思議と明るい。ランプの灯りとは違い、部屋全体を包み込むような明るさだから、もしかしたらこれも何かの魔法を使っているのかもしれない。


 医務室では、私のお母さんよりも少し年上と思われる女性が一人で待っていた。変な魔法をかけられたりしていないかどうか、身体検査をして下さるのだという。言われるがまま彼女の正面に立つと、彼女は私の全身に手を翳し始めた。

 検査は別に服を脱いだりはしないからということで、医務室の中にはその女性とニーナの他に、ルーインとカイルさん、それからヘルがいた。三人は壁にもたれかかるようにして、見るともなしに私たちを見ている。

 別段私を注視しているつもりは無いのだろうけれど、視線を感じてなんだかいたたまれない。

「特に異常は無いわ。……後はおなかの痣だけ癒しておくわね」

 彼女はそう言って、衣服の上からみぞおちの辺りに手を添えると、不思議な言葉を紡いだ。

「Нνлδτй」

 もう何度か聞いたから、分かる。怪我を治してくれる魔法だ。

 女性は直接肌を見てはいないのに、的確に殴られた位置の上に手を翳している。なんで分かるんだろう、凄いな。

 温かなオレンジの光が、ふわりと私の腹部を包み込む。優しい温もりにほっとしたけれど、どこか物足りないような気がした。

 ……どうしてだろう。

 ヘルが掛けてくれる魔法と、何も違わないはずなのに。

 その女性は今度はニーナの前に立つと、ニーナの全身に手を翳し始めた。

「──あなたは大丈夫ね」

 女性はニーナの腕を軽く叩くと、安心させるように笑みを浮かべる。

 私が気を失った後のことは分からなかったから少し不安だったのだけれど、あの男達も、さすがにまだ幼いニーナを殴るようなことはしなかったみたいだ。ほっとした私は、振り返ったニーナに笑みを向ける。けれどニーナは、何だか怒ったように唇を尖らせて、ふいと目を逸らしたのだった。

 もしかしたら、馴れ馴れしいと思われたのかもしれない。今日一日で少し距離が縮まったと思っていたのは、私だけだったのだろうか。そう思ったら、なんだか少し寂しくなった。


 退室の許可を貰って、女性にお礼を言った後、医務室を出る。医務室を出たところで、ルーインは軽く首を傾げ、私の顔を覗き込んできた。

「ごめん。ハンナ、疲れているとは思うんだけど、少しだけ話を聞かせてもらえるかな。……ニーナも、大丈夫だよな?」

「う、うん」

 私が頷くと、ルーインはありがとう、と小さく笑った。

「私はいいんだけど、でもあの、ニーナは大丈夫? 疲れてない?」

 ニーナはまだ幼いのに、休ませてはあげないのだろうか。お兄さんであるルーインの前でそんな風にしゃしゃり出るのもどうかと思ったけれど、兄だからこそ、言い出しづらい場面でもあるのかもしれない。そう思って私が問いかけると、ニーナは拗ねたように頬を膨らませた。

「大丈夫よ、子どもじゃないんだから」

「レディはそんな風に頬を膨らませたりしません」

 ルーインはそう言って、ニーナの柔らかそうな頬を掴む。

「むーっ、やめてよ、にぃ!」

 仲睦まじいそんな様子を見ていたら、本当に兄妹なんだなあと、状況を忘れて微笑ましい気持ちになってくる。ルーインは再びニーナをひょいと抱き上げると、談話室へ案内すると言ってそのまま歩き出した。

 歩き出したルーインの後を追うように、ヘルが歩き出す。私は慌ててヘルの隣に並んだ。さっきまでは縦一列になって歩いていたけれど、広い廊下なのだから、横に並んで歩いても支障は無いことに気がついたのだ。ヘルは勝手に隣に並んできた私を横目で一瞥したものの、特に何も言わなかった。

 カイルさんはさっきと同じように、私たちの少し後ろを歩いている。カイルさんも隣に来ればいいのに、と思って振り返ると、カイルさんは気にするなとでも言うように、掌をひらひらと振ってみせたのだった。


 談話室はとても広く、私の狭いベッドルームなら三つは余裕で入りそうな大きさだった。真ん中には木製のテーブル、そしてそのテーブルを挟んで、向かい合うようにソファがある。部屋の奥には暖炉もあった。流石にそこまで寒い時期ではないから、火はついていないようだ。

 ルーインはニーナを床に下ろすと、右の手のひらを上向きに翳し、何か不思議な言葉を呟いた。その瞬間、掌にぽう、と淡い光の玉が現れる。ぼんやりと見ていると、ルーインは部屋の隅に置いてあった小さな筒型のビンを手に取り、光の玉をそこに押し込んだ。その瞬間、室内がふんわりと明るくなる。流石に昼間のように、とまでは言わないけれど、ランプの灯りよりもうんと明るい。そういえば、さっきの医務室の明るさも、こんな感じだった気がする。

 やっぱり、これって魔法なのかな。すごい、どういう仕組みなんだろう。

 立ったままぼんやりとそれを見ていると、カイルさんがソファに座るよう促してくれた。私は勧められるままに、ソファに腰を下ろす。ルーインはカイルさんに何かを告げると、部屋の奥にもう一つあったドアから出て行った。

どこへ行くんだろう。不思議に思いながらその背中を見送っていたら、駆け寄って来たニーナが私の隣にぼふん、と身を沈めた。ゆっくりとこちらに歩いてきたカイルさんとヘルは、私たちの向かいに腰を下ろす。

「ごめんね、疲れているだろうに」

 カイルさんは私とニーナを順番に見下ろして、困ったように微苦笑を浮かべた。私は慌てて首を横に振る。

「とんでもないです。あの、助けて頂いてありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げると、カイルさんはううん、と頭を振った。

「僕はついて行っただけで何もしていないから、お礼なら、僕じゃなくてヘルに言ってやって」

 そんなことは無いと思うけれど……、カイルさんの目線を追うように、ヘルに目を向ける。ヘルは横目でカイルさんを見ていたけれど、私の視線に気が付くと、私と目を合わせてくれた。

 そういえば、ヘルにもまだちゃんとしたお礼は言っていなかった。改めてちゃんと言っておこう。

「ヘル、あの、助けに来てくれて、本当にありがとう」

 そう言って頭を下げると、ヘルはすっと目線を横に逸らした後、軽く目を伏せて、

「べつに」

 と素気無い言葉を紡いだ。

「ヘル、さっきの剣幕はどこに行ったの」

 カイルさんは何故かおかしそうに、くすくすと笑い出す。さっきの剣幕って、なんだろう。

 ヘルはちらりとカイルさんを一瞥したものの、呆れたようにため息をひとつ吐いただけで、特に返事はしなかった。その代わり、矛先を逸らすように別の話題を口にした。

「……あの寝汚さはどうにかならないの」

 一体何の話だろう、と首を傾げる私とは違い、カイルさんはすぐに理解できたようだ。ヘルの問い掛けに、苦笑を浮かべて肩を竦めてみせる。

「まあ、ルーインの寝起きが悪いのは昔からだからね」

 どうやら、寝汚いというのはルーインのことだったらしい。そういえば、ニーナもさっき馬車の中でヘルに連絡を取った時、ニイは寝たらなかなか起きない、というようなことを言っていたっけ。

「ねえねえ、そんなことより、どうしてみんなは私たちの居場所が分かったの?」

 ニーナはソファの上で足をぷらぷらさせながら、不思議そうに小首を傾げた。

「誰にも居場所を言ってないのに」

「──それは、俺がニーナに、居場所を把握できる魔法を掛けてたからだよ」

 いつの間にか戻ってきたルーインが、テーブルにカップを並べながら告げた。どうやら奥の部屋で、ルーインは飲み物を入れてくれていたらしい。

 私の目の前にもことん、とクリーム色のカップが置かれる。

「すみません、ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げると、ルーインは熱いから気をつけて、と小さく笑ってくれた。私はカップにそっと手を添える。掌がじんわりと温まって、なんだかほっとするような感覚を覚えた。

 この白い飲み物は、リューペかな。リューペは、子どもなら誰もが好きな甘い飲み物だ。大きくなって飲むことは減ったけれど、時々ふと飲みたくなって飲むこともある。

 ちらりと他のカップを見たら、どうやら私とニーナのカップだけがリューペで、後は普通のお茶みたいだ。甘いものを飲んだら気持ちが落ち着くと言うし、ルーインは気を遣ってこれを淹れてくれたのかもしれない。

 そっとカップを持ち上げて口をつけると、優しい甘さが口の中に広がり、心の奥までもほんのりと温かくなるようだった。

「居場所を把握できる魔法って、何!? いつの間に?」

 ぎょっとしたような声を上げたニーナを一瞥すると、ルーインはトレイをテーブルに置き、ニーナの向こうに腰掛けた。

「рдяεδεの応用魔法だよ」

「それって、防護魔法のこと?」

 ニーナの言葉に、ルーインが軽く頷いてみせる。ニーナはふうん、と早くも納得したようだったけれど、私にはさっぱり意味が分からない。防護魔法、なんて言ってるくらいだから、ニーナの身を護ってくれる魔法でもかけていたのかもしれない。

 って、そんな魔法あるのかな? いや、でも、遠く離れた人と会話できる魔法があるくらいなんだから、そんな魔法があっても不思議じゃない。

 ヘルと知り合ってからは、魔法の凄さに驚かされてばかりだ。もはや、魔法があればどんなことでも出来るような気がしてきた。

「ヘルに、ニーナの居場所を探ってくれって起こされて、それで慌ててニーナのところに向かったというわけ」

 ヘルがニーナとの連絡を一方的に終わらせてしまったのは、どうやらニーナの居場所をルーインに聞くためだったらしい。やっぱりヘルは、私たちを助けるために動いてくれていたんだ。

 ヘルのことを疑ってなんていなかったけれど、はっきりとその事実を耳にすると、嬉しさで胸の奥がじんわりと熱を持つのを感じた。

「それで、一体何があったのか教えてくれる?」

 ルーインがニーナの顔を覗き込むようにして告げると、カップを両手に持ったニーナは、こくんと頷いた。

「あのね、私夕方に、ハンナに会いに行ったの」

 ニーナがそう切り出した途端に、ルーインは怪訝そうな表情を浮かべた。

「会いに行ったって、ニーナ、お前ハンナと知り合いだったの?」

 ルーインの問い掛けに、ニーナはふるふると頭を振った。それから、ちらりと私の様子を窺い見る。

 ──ニーナは私に、ヘルが好きだと宣言しに来たようなものだったから、それをルーインに話すのは気恥ずかしいのかもしれない。

 私はニーナの代わりに口を開いた。

「何度かお店に来てくれたことがあって、それで今日友達になったの」

 嘘は言っていない、はずだ。

 ニーナがうちの商品を買ってくれたことは無いけれど、ヘルにくっつくようにして店先まで来たことは、何度かある。それに、私は今日友達になったつもり、なんだけれど。

 ニーナの様子を見ると、ニーナはぎこちなくではあったけれど、小さく頷いてくれた。

「そうなんだ? ……まあ、いいや。それで?」

 ルーインは一瞬疑わしそうな目をニーナに向けたものの、気を取り直したように続きを促した。

「それで、雑貨屋さんの角を曲がったところで、ハンナと話をしてたら、知らない男の人が二人やって来て……、なんだか急に怒り出したの」

 ニーナは、手に持っていたカップにそっと口をつける。ルーインは一瞬険しい表情を作ったかと思うと、ニーナの目を覗き込むようにして言った。

「ちょっと待て。人気の無い道は通るなって、いつも言ってるよな? なんでそんな場所に行ったんだよ」

 ニーナは自分の失言を悟ったのか、しまった、という風な表情を浮かべた。ルーインは顔を上げたかと思うと、今度は私の方を見る。

「ハンナも、どうしてそんなところに行ったの? 人攫いが捕まったなんて言って、油断させた俺も悪かったとは思うけど……、女の子がそんな人気の無い道で話し込んでいたら、危ないことくらい分かるよね?」

 困ったような、それでいて呆れたような表情で、諭すような言葉を向けられる。私はごめんなさい、と頭を下げるしかなかった。私一人じゃなくてニーナも一緒だったんだから、やはり強引にでもあの場を離れるべきだったのだと、今となっては思う。

 そうしなかったのは、年上である私の落ち度だ。

「ちょっと、にぃ! ハンナは悪くないの! 私が無理に連れて行ったんだから」

 ニーナがくいくいとルーインの袖を引っ張ると、ルーインは怪訝そうにニーナを見下ろした。

「無理に連れてったって、何のために? 二人で一体何の話してたんだよ」

「べ、別にそれはどうでもいいでしょ。女同士の秘密!」

 ニーナがそっぽを向いてカップに口をつけると、ルーインはやれやれといった様子で肩を竦めた。

「まあ、それはひとまず置いておくとして。……で、そこに知らない男がやってきたんだな?」

 ニーナはこくんと頷いた。

「なんだか、ハンナのこと知ってるみたいだった」

「うん。……その男の人たちが、前に私に声を掛けてきた二人組みだったの」

 私が口を開くと、全員が一度に私を見た。三人分の視線を一心に感じてなんだかいたたまれない。言葉を続けようとしたら、ニーナが先に言葉を紡いだ。

「その人たちは、前にヘルとハンナが一緒にいるところを見たみたいで、私やへルのことを、ハンナのボディガードか何かと勘違いしてたみたい」

「は?」

 思わずと言ったように、ヘルが声を上げた。怪訝な目を向けられたニーナは、ヘルの目を見て続けた。

「いつも魔術師のボディーガードを連れてるハンナは、きっと、町娘の振りをしてるけど本当はお金持ちに違いないって。だから、誘拐して、ハンナのおうちにお金を請求しようって」

 ニーナの言葉があまりにも予想外だったのだろう。私だって、あんな展開は想定していなかった。三人は揃って、ぽかんとしたような表情を浮かべている。

 やがて、カイルさんが我慢できない、と言った様子でぷっと吹き出した。

「……ハンナちゃんがお金持ちのお嬢様で、よりによって、ヘルとニーナがボディーガードだって?」

 そう口にしたかと思うと、とうとう堪えきれなくなったように、声を上げて笑い出す。

「ちょっ、何なの! 笑うところじゃないんだけど! 馬鹿にしてるの?」

 ニーナがむっとしたような顔でカイルさんを見上げる。カイルさんは尚も笑いながらも、馬鹿にしている訳ではないというように、顔の前で右手を振った。

「──ごめんごめん、それで?」

 カイルさんはなんとか笑いを引っ込めて続きを促したけれど、ニーナは軽く頬を膨らませてそっぽを向いた。どうやら拗ねてしまったらしい。

 ニーナに話す気が無いと分かると、カイルさんもルーインも一様に私の方を見たので、私はニーナに代わって言葉を続けた。

「元々、私に恨みを持ってたみたいだから、もし私が本当にただの町娘だったとしても、売り捌いてやろう、みたいなこと言ってたの。そうしたら、何故かニーナも連れて行こうとして」

 喋りながらふとニーナの方に目線を移したら、私を見上げていたニーナと目が合う。ニーナはカップを置いて俯くと、再び口を開いた。

「ハンナは、私とは関係無いから、私のことは離して、って言ってくれたの。でも、あの人達は全然言うこと聞いてくれなくて、なんか、私を連絡係に使おうと思ってたみたい」

 ニーナを連絡係に使おうとしていたというのは、初耳だ。びっくりして瞠目した私を、ニーナは困ったような顔で見上げる。

「ハンナが殴られて気を失った後、言ってたの」

「そういえば、ハンナだけが殴られたのはどうして?」

 ルーインの言葉に、ニーナは躊躇い無く答えた。

「多分、ハンナが男の人の腕に噛み付いたから、怒っちゃったんだと思う」

「噛み付いた!?」

 ルーインはぎょっとしたように私の顔を見た。あの時は必死だったから、咄嗟に噛み付いてしまったけれど、なんだか恥ずかしくなってきた。私は恥ずかしい気持ちをごまかすように、苦笑いを浮かべるしかなかった。

「どうやって逃げればいいのか分からなくて、咄嗟に」

「雑貨屋の角を曲がった通りなら、大通りからはそんなに離れていないよね。大きな声を出せば、誰か気付いてくれたんじゃないかな?」

 確かに、言われてみれば、そうだ。

 だけどあの時は頭が真っ白になって、大きな声なんて出てこなかったのだ。

 私が口を開くよりも早く、カイルさんの言葉に「ううん」と答えたのはニーナだった。

「怖くて、声なんか出なかったもん」

 その時の恐怖を思い出したのか、俯いてしまったニーナの頭を、ルーインは優しい手つきでぽんぽんと撫でた。ニーナは再びカップを手に取ると、ぽつりと口にした。

「その後、手首と足首を縛られて、乱暴に荷馬車に投げ込まれたの」

「猿轡をかまされたり、魔石のブローチを取られたりはしなかった?」

 カイルさんの言葉に、ニーナは小さく頷いてみせる。

「魔術師が、遠く離れた人と連絡を取れることは知ってるみたいだったけど、どうやって取るかまでは知らないみたいだった。だから、手を封じればそれで大丈夫って思ったみたい」

 カイルさんは膝の上に頬杖をつくと、考え込むように視線を落とした。

「うーん、話を聞く限り──、前々からハンナの誘拐を計画してたってわけでも無いみたいだね。衝動的で計画性は皆無だったという訳かな」

「それで間違い無いと思う。すぐに足がつくような近くの荷馬車を盗んだことといい、猿轡を噛ませなかったことといい、計画していたにしてはあまりに杜撰すぎる。その場の思いつきで行われた犯行だろうな」

 ルーインが頷いた。

「でも、なんで口を封じなかったんだろうね」

 目線を上げたカイルさんが、ふいに疑問を口にする。確かに、その通りだ。結果的に、そのおかげでニーナがヘルに連絡を取ってくれた訳だから、良かったけれど。

「ハンナは殴られて気を失っていたみたいだし、ニーナは怖くて声が出なかったんだろう。必要だということにすら、気付かなかったんじゃないかな」

「馬鹿なの?」

 ルーインの答えに、ヘルは呆れたように嘆息した。確かに、誘拐犯としては間抜けだと思う。

 ──でも、彼らが間抜けだったからこそ、私もニーナも無事に帰ることが出来たのだ。

「しかし、まさかハンナを貴族の令嬢と勘違いするとは……。ヘルに送ってもらってたことが、裏目に出るなんてね。ごめん、俺の所為だ」

 ルーインはひどく項垂れた様子で、私に向かって頭を下げた。

「ち、違うよ。あの人達は、初めて会った時のことを覚えてたんだから」

 私はぎょっとして、慌てて頭を振った。

 寧ろ、私が何の価値も無いただの町娘だと分かりきっていた方が、危険だったかもしれない。彼らが私を誘拐して身代金を請求しようなんて考えを持たなければ、私は気が済むまで殴られていたかもしれないし、さっさと売り飛ばされていたかもしれないのだ。

 そんなことを考えたら、身体の芯がぶるりと震え上がる。

 私もニーナも無事に帰って来られて、本当に良かった。改めてそう思った瞬間、ふいに左肩にとんと何かが触れた。反射的に肩を震わせ、隣に目を向けると、私の左腕にもたれるようにしてニーナが小さな寝息を立てていた。

「あれ、ニーナ? もしかして、寝ちゃったの?」

 カイルが小さな声で言った。ルーインは部屋の隅に置かれていた砂時計に目をやり、もうこんな時間か、と驚いたように呟く。

「すっかり遅くなっちゃったな、ごめん。事情は大体分かったし、もう今日はお開きにしようか」

 つられるように砂時計に目をやると、いつの間にか夜もすっかり暮れて、日付さえも変わってしまっていた。ルーインは私にもたれるようにして眠っているニーナを抱き上げようとして、ふと手を止める。小さく引かれたような感覚に目線を落とすと、ニーナの手は私の服の左腕辺りをきゅっと摘んでいた。眠っているようだから、多分、無意識なのだろう。

「あー、ごめん、ハンナ」

 苦笑しながら、ルーインが私の服を掴んでいるニーナの手を、そっと外す。

「いつの間にか、すっかりハンナに懐いちゃったみたいだ」

 懐いちゃった、って、そうなのかな。たまたま隣にいた私にもたれかかって、服を握ってしまっただけなんじゃないかと思うけれど……。でも、もしルーインの言うことが本当なら、なんだか嬉しい。つい数刻前までは嫌われているようだったから、尚更だ。

「ハンナ、悪いんだけど、今日は一応ここに泊まって行ってくれる? 仮眠室があるから」

 お客様用の部屋じゃなくて申し訳ないんだけど、と口にするルーインに、私はとんでもないと頭を振った。正直、今から誰もいない家に帰って、ひとりぼっちで夜を明かすのは少し心細かったから、その申し出はありがたかった。

「ニーナはどうするの?」

 カイルさんの問い掛けに、ルーインは一瞬思案する様子を見せる。

「うーん、今晩は俺の部屋に連れて行くよ」

 ややしてからそう答えた瞬間、ニーナが薄く目を開けた。

「……えー、ハンナと一緒がいい」

 むくれたような声でそう言ったかと思うと、寝ぼけた目をこするようにしながら、私を見やる。一緒がいい、って、同じ部屋で寝ようってことかな。

 ルーインは一瞬びっくりしたような様子を見せたけれど、すぐに小さく頭を振った。

「駄目。俺の部屋で寝てろ」

「だってニイ、どうせいなくなるじゃない。……一人になるのやだ」

 ニーナの言葉に、私は小さく息を呑んだ。

 ニーナは、心細いんだ。そっか、だから私の服を掴んだりしてたんだ。

 いなくなる、という言葉をルーインが否定しないところを見ると、実際に部屋には戻らないみたいだけれど、ルーインは一体どこに行くんだろう。

 もしかして、まだ事件の処理とか、何かやらなくてはいけないことが残っているのかな。

「ねえ、ルーイン。私とニーナが一緒の部屋で寝たら、駄目かな?」

 私の問い掛けに、ルーインは驚いたような目を向けた。

「いや、駄目じゃないけど……。あんなことがあった後だし、ハンナだって、一人でゆっくりしたいんじゃない?」

 ルーインの問い掛けに、私は小さく頭を振る。

「ううん……。正直、私も少し心細いから、ニーナと一緒の方がありがたいな」

 私の返答に、ルーインは驚いたように瞠目したけれど、すぐにふっと目を細めて柔らかく笑ってくれた。ルーインはどこか安堵したような、優しい笑みを浮かべて私を見下ろす。

「そっか。……じゃあ、今晩はニーナと一緒の部屋で寝て貰ってもいいかな」

「うん、喜んで」

 私は笑顔で頷き返した。

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