きっと大丈夫
はっと目を覚ますと、辺りは真っ暗だった。ガラガラガラ、という不思議な音が響いている。
ここは一体、どこだろう。一瞬訳が分からなくて、私はただただ辺りを見回した。目が暗闇に慣れてくるにつれ、周りの景色が見えてくる。どうやら、ここは狭い部屋のようだ。あたりには麻の袋のようなものが乱雑に積まれていた。暗くてよく見えないけれど、なんだか土の匂いがしている。
まるで、固い板の上に横たわっているような感覚だ。なんだか体中がぎしぎしと痛い。体が宙に浮き上がるような感覚と、床に身体を打ち付けるような感覚が交互にやってくる。もしかしたら、ここは馬車か何かの中なのかもしれない。もしそうなら、この一定間隔で訪れる揺れと、ガラガラという音にも納得がいく。このガラガラ言っている音は、ごつごつした岩道を、車輪が走っている音だろう。よく耳を澄ませば、馬のひづめの音も聞こえてくる。麻袋が摘んであるところからして、荷馬車の類だろう。
なんでこんなところにいるんだろう……。そんな風に思ってから、急に気を失う前の出来事を思い出した。その瞬間、血の気がさっと引いていく。そうだ、あのナンパ男たちに会って、身代金がどうとか言い出して……そのまま、殴られたんだ。
もしかして、私はあの人たちに攫われたのだろうか……。
あんな人気の無い場所に行くべきじゃなかった。激しい後悔に襲われたものの、後悔したところで後の祭りだ。私はとにかく現状を理解しようと、きょろきょろと辺りを見回した。──さっきまで一緒にいたあの少女は、どこに行ったんだろう。彼女は、逃がしてもらえたんだろうか。
とりあえず起き上がろうと思ったけれど、身体が上手く動かない。どうやら、両手首と両足首を縄のようなもので縛られているようだ。その所為で、体が丸まった状態のまま上手く動いてくれない。私は首だけを精一杯動かして、背後を振り返った。
あの少女は、私のすぐ後ろにいた。私と同じように両手首と両足首を縛られた状態で、どこか泣きそうな目で私をじっと見つめていた。
「大丈夫?」
私が声を潜めてそう問い掛けると、少女はきゅっと唇を引き結んだ後、泣きそうな声で言った。
「大丈夫じゃない」
それもそうか。たった今攫われている最中だというのに、大丈夫な訳が無い。
「ねえ、私たちどこに向かってるの? これからどうなるの? 殺されちゃうの? それとも、売りさばかれちゃうの?」
少女の声は、今にも泣き出しそうに掠れている。気を失う前の勝気そうな少女とは別人なのでは無いかと思うほどに、心細そうな表情を浮かべていた。弟よりも幼い少女のそんな姿を見ていたら、胸がきゅっと痛くなって、私は全身に力を入れると、なんとか少女の方に向き直った。
「ううん、きっと逃げるチャンスはあると思う」
無責任な発言だとは思ったけど、他に言い様が無いのだから仕方が無い。
「ごめんね、私の所為で巻き込んでしまって……」
あの二人組みは、私に恨みを持って声を掛けて来たのだ。少女は私の所為で一緒に攫われることになってしまった。申し訳無い気持ちでいっぱいになって、頭を下げると、彼女はううん、と頭を振った。
「……あなたをあそこに連れてった私が悪いの。お家に行こうって言われたのに、聞かなかった。ごめんなさい」
泣きそうな声でそう呟き、うなだれる少女にぎょっとする。まさか、そんな風に考えてしまうとは思いもしなかった。この状況で、私を責めずに自分を責めるなんて、なんて素直で心の綺麗な子なんだろう。
「ううん、ううん。あなたは悪くないの。ごめんね。……えっと……、とにかく、どうやって逃げるかを考えよう?」
私の言葉に、少女は小さく頷いた。
「とりあえず、身動きを取れるようにしないとね。何か縄を切れるようなものがあればいいんだけれど……」
縛られている手首に力を入れてみるものの、縄はしっかり縛られていて、解ける気配は無い。何か縄を切るのに使えそうなものは無いだろうか、と辺りを見回していると、少女がどこか怪訝そうな声音で言った。
「ねえ、どうしてそんなに冷静なの……? 私たち、殺されるかもしれないのに」
私だって、冷静なわけじゃない。何が起こっているのかもよく分かっていないのだ。正直なところ怖いし、武器も何も持たない私たち二人が、無事に逃げ果せる可能性なんて、低いに決まっている。本音を言うと泣き出してしまいたいくらい、怖い。
でも、私よりも──弟よりも年下の女の子が、気丈にも涙を堪えているというのに、私がしっかりしないでどうする。ここには私たち二人しかいないのだから、なんとかなるならないじゃなくて、私がなんとかするしかないのだ。
「殺されたりなんかしないよ、大丈夫。絶対なんとかなるから」
自分にも言い聞かせるようにそう口にすると、少女は泣きそうな目で私を見上げた。
「うん……」
「誰かにこの状況を説明して、助けを呼べたらいいんだけど……」
馬車の木板の隙間から、手紙を落とすくらいしかできそうにない。でも、この馬車がどこに向かっているのかも分からないし、今どこを走っているのかさえ分からない。
そもそも、手紙を用意しようとしたら、まずは縄を解く必要がある。縛られた手首に何度か力を込めてみるけれど、頑丈に縛られているようで、縄はびくともしない。
「──あ!」
少女が突然、大きな声を上げた。私は慌ててシィ、と囁く。少女ははっとしたように口を噤んだ。幸い、声は外には漏れなかったようで、誰かが荷台を覗きに来る気配は無かった。
「ニイに、連絡取ってみる」
連絡を取ってみるって、どういうこと? 不思議に思う私をよそに、少女は首を傾けると、自らの頬を胸元にくっつけた。少女の胸元には、アクアマリンの宝石がついたブローチが飾られている。少女がそのブローチに頬を当てると、ブローチが微かに光った。少女の白い頬が、青い光に照らされる。
「ニイ、ニイったら! ニイ!」
彼女は繰り返しその名を呼ぶけれど、特に何かが起きる気配は無い。少女は暫く「ニイ」と繰り返していたものの、やがて諦めたように、首を元に戻した。頬がブローチから離れた瞬間、ブローチが放っていた光が消える。
「ニイったら何で開いてくれないの、ひどい。──まさか、もう寝てるのかな。信じらんない」
少女はぶつぶつ言ったかと思うと、再び首を傾げるようにして、頬をブローチに当てた。その途端、やはりブローチの石は、ほのかな青い光を放ち出す。
「ヘル! ヘル、開いてよぉ!」
今度はヘルの名前を繰り返し呼んでいる。一体何をしているんだろう。黙って様子を見守っているけれど、何かが起きる様子は無い。暫くの間反応の無いブローチに呼びかけ続けていた少女が、くしゃりと顔を歪めた瞬間、ブローチの放つ光が一度揺らいだ。
「……なに」
どこからともなく聞こえたのは、ヘルの声だった。私はぎょっとして一瞬息を止める。少女はほっとしたように小さく息を吐くと、ブローチに向かって口早に告げた。
「あのねヘル、攫われちゃったの、助けて!」
「……ルーインに頼んで」
助けを求めている少女に向けたものとは思えないほど、冷たい言葉が返ってくる。それにしても、一体この声はどこから聞こえているんだろう。辺りを見回してみるけれど、勿論ヘルの姿なんてありはしない。
「二イは開いてくれないの。ねえ、嘘じゃないんだよ。お願いヘル」
必死な少女の声を本気と受け取っていないのか、ヘルの返事は淡々としている。
「……連絡しとく」
どうやら、声は少女のブローチから聞こえてきているようだ。一体、どういう仕組みなんだろう。まさか、遠くにいるであろうへルと連絡を取っているんだろうか。そんな魔法みたいなことって、あるの?
そう思ってから、やっと合点がいった。──そうだ、魔法だ! 魔法ならこの不思議な現象にも多少は納得がいく。
「ニイはきっともう寝ちゃってるの。ニイが寝たらなかなか起きないの知ってるでしょ! このままじゃどこかに売り飛ばされちゃう! そうなったら、私もハンナも末代までヘルのことたたるんだからね」
なんだか物騒なことを言った所為か、ヘルが小さく息を呑む気配がした。
「……ハンナ?」
「は、はいっ?」
名前を呼ばれた所為で、反射的に返事をしてしまった。もしこれが魔法の一種だというのなら、私の声はヘルには届かないだろう。そう思ったのに、ヘルは怪訝そうな声音で続けた。
「どこにいるの」
もしかして、私の声も聞こえているのだろうか。
「わ、分かんない……。移動してる馬車の中みたいなんだけど」
状況を説明しようとしたその瞬間、ふっと光が消えて、辺りが真っ暗になった。ブローチの放っていた光が消えたのだ。
「……っ、ヘル、解いたの!? 信じられない!」
少女が唖然としたように呟いた。
「ね、ねえ、今のは何?」
「何って、見てたでしょ? ヘルに繋いだの! ……もしかして、魔石を繋いだことないの?」
「ませきをつなぐ?」
また魔法か何かの名前だろうか。軽く首を傾げると、少女はもういい、と些かうんざりしたように頭を振った。
「ひどいよ、二イもヘルも、ひどい! 私たちがどうなってもいいって言うの! さいってい!」
文句を吐き出す彼女の表情は、攻撃的な言葉とは裏腹にひどく頼りない。心細そうな表情を見ていると胸が痛くなって、私はずりずりと床の上を滑って彼女に身を寄せると、小さな額にこつんと自分の額をくっつけた。
「な、何?」
少女はぎょっとしたように私を見上げた。涙に濡れたアクアマリンの瞳が、上目遣いに私を見遣る。──泣いていたんだ。
気丈に振舞っているけれど、本当は怖くて堪らないのだろう。それが普通だ。だって、私でも不安だというのに──彼女はまだ小さな子どもなのだから、怖くて当たり前だ。
私の方が年上なのだから、私が彼女を安心させてあげないといけない。
何も出来ないのだから、せめて、そのくらいは。
「大丈夫、絶対助かるよ」
「なんでそんなこと分かるの」
瞳を涙で潤ませながらも、少女の口調はきつい。
「このままずっと馬車の中に置いておかれるってことは無いはずだから、逃げ出すチャンスは絶対あるよ」
馬車から連れ出される時が、逃げるチャンスだろう。今のこの手足を縛られた状態で逃げ出せるとは思えないけれど、諦めるわけにはいかない。
「それに……誰か、助けに来てくれるかもしれないし」
その時私の頭に浮かんでいたのは、ヘルの姿だった。年下の男の子を頼るなんて情けないとは思いつつ、そう口にしたら、少女はみるみるうちに眉根を寄せた。
「場所も言ってないのに、ヘル、途中で解いたんだよ? 誰も私たちの居場所を知らないのに、助けなんか来てくれる訳ないよ」
さっきも言っていたけれど、解いた、ってどういう意味なんだろう。一方的に会話を終わらせたような状態のことを言うのかな?
「来てくれるよ、きっと」
ヘルはマイペースで少し変わっているけど、実際には責任感が有って、頼りになる人だ。私たちが攫われたということを知っていながら、放置するような人だとは思えない。こんな風に頼りにした私たちを見捨てるようなことはしないだろう。きっと助けに来てくれる、と私は何故か確信を持っていた。
情けないけれど、今の私に出来ることは、少女の額に自らの額をくっつけて、彼女の傍に寄り添うことだけだった。
「ねえ、リネリア……って呼んでもいい?」
額をくっつけたままそう告げたら、少女ははぁ? と眉間に皺を寄せた。
「なんで?」
「駄目? さっき私のことハンナって呼んでくれていたから、私も名前で呼びたいなって思ったんだけど」
私の言葉に、少女はぽかんとしたような顔をした後、何故か気まずげに目線を逸らした。
「……ナ」
「え?」
よく聞き取れなくて、首を微かに傾ける。くっつけたままだった額を離し、彼女の口元に耳を向けると、彼女はぶうたれたような声で言った。
「ニーナ、って言ったの! リネリアじゃない」
「え?」
でも、前に広場のところで見かけた時、ヘルは彼女のことをリネリアと呼んでいたよね? 不思議に思ってぱちぱちと瞳を瞬いていると、ニーナに軽く頭突きをかまされた。
「なっ、なんで頭突きするの」
「なんとなく!」
ニーナは拗ねたように呟いた。
「リネリアはファミリーネームだもん。……ヘルは、ニイのことは名前で呼ぶけど、私のことは呼んでくれないの」
「え?」
リ、リネリアって、ファミリーネームだったの……?!
女の子の名前としても珍しくは無い響きだから、てっきりファーストネームとばかり思い込んでいた。びっくりして目を見開く私を、ニーナは上目遣いに睨みつける。
「でももうずるいなんて思ってないんだからね。女の子が助けてって言ってるのに、ぷつって解いちゃうヘルなんか、もう知らないもん。ヘルなんか、もう好きじゃないもん」
ニーナは拗ねたようにそう呟いた。子どもらしいその様子が可愛らしく見えて、私は状況も忘れて小さく笑ってしまった。
「何笑ってるの」
「ごめん、ごめん。ニーナが可愛くて、つい」
にっこり笑いながらそう告げたら、ニーナは何故か恥ずかしそうに目線を逸らした。
「お、おばさんに可愛いとか言われても、嬉しくない」
ああ、そういえば、さっきおばさんのくせにとか言って罵倒されたっけ。もうそれどころじゃなくなってしまったから、そんなこと忘れてしまっていた。
普通ならおばさんなんて言われたら腹が立つところだろうけど、私が怒っているんじゃないかと確認するように、ちらちらとこちらを見るニーナを見ていたら、怒りよりも微笑ましさの方が打ち勝った。
──暗闇の中でふと、光を失ったままの、ニーナのアクアマリンのブローチが目に入る。そういえば、ニーナはヘルと同じで、魔術師見習いなんだよね。
「……ねえニーナ、魔法を使って縄を解くことって出来ないかな?」
私の問い掛けに、ニーナは頭を振った。
「手首を縛られてるから、魔法は使えないの」
そっか。魔法を使おうと思ったら、手が自由になっていないといけないんだ。ってことは、やっぱり縄を解く必要がある、と。でも縄を解くには魔法が必要だ。──うーん、どうにかして、縄を解く方法は無いのかな。
解けないかとさっきから何度か引っ張っている所為で、手首と縄が擦れて痛くなってきた。もしかしたら、血が出ているかもしれない。だけど、そんなことを気にしている場合じゃない。
どうにかして、逃げる方法を考えないと……。
「もう一回、ニイに繋いでみようかな」
ニーナはそう呟いたかと思うと、再びブローチに頬をくっつける。ブローチが、淡い光を放ち出した。
「……ニイ?」
ニーナがその名を呼んだ瞬間、馬車の外から、男性のものと思われる悲鳴が聞こえて来た。馬の激しいいななきともに、馬車が止まる。私達は思わず、はっと顔を見合わせた。
「一体なんだろう?」
ニーナが顔を上げたために、ブローチの放っていた光が失われる。暗闇の中で、ニーナは心細そうな声で呟いた。私は小さく頭を振った。
「分からないけど、大人しくしていよう」
そう囁き返した瞬間、馬車の扉が勢い良く開いた。




