この想いと決別するには
どんなに寝不足しようとも、変わらず朝はやってくる。欠伸をかみ殺しながら店先に立っていると、ルーインがやって来た。
「おはよう、ハンナ」
「あ、おはよう」
私が挨拶を返すと、ルーインはカウンターに銅貨を置いた。
「フルーブ一つ、くれる?」
「はい、ありがとうございます」
大声でマスターにオーダーを通してから、もう一度ルーインの方に向き直る。ルーインはカウンターに頬杖をつくようにして、私を見上げていた。
「……昨日、聞いた? ナンパ男のこと」
ナンパ男というのは、私とヘルのことを逆恨みしているかもしれないと言っていた、あの二人組みのことだろうか。私がこくんと頷くと、ルーインは微かに苦笑いを浮かべた。
「ごめん、長い間不便をかけました」
「えっ、いえいえ、こちらこそ、ありがとうございました」
反射的に頭を下げると、ルーインは小さく笑った。
「なんて言うか、うん、まあ違って良かったんだけど、拍子抜けだよね? 窮屈な思いさせてごめん」
「違って良かった、って?」
ルーインの言っていることの意味が分からず、小首を傾げてみせる。するとルーインは、え、と驚いたような顔を見せた。
「もしかして何も聞いてない?」
「何もって? あの男の人たちが捕まったってことなら聞いたよ」
他にも何かあるのかな。そう思いながら答えると、ルーインはぱちぱちと瞳を瞬いた。
「あー、えっと、別にあいつらは捕まえてないんだけど……」
ルーインはガシガシと頭をかき、なにやら独り言のように呟いた後で、「実は……」と、何かを切り出そうとした。けれどその声に被せるように、奥からマスターの声が響いてきた。
「フルーブあがったぞー」
「あ、はいっ」
慌ててフルーブを受け取り、ルーインに手渡す。ルーインは受け取ったそれにかぶりつくことはせず、身を乗り出すようにして言った。
「──実はさ、俺たちは元々、君に声を掛けてきた男って言うのが、今噂になってる二人組みじゃないかと思って警戒してたんだ」
今噂になってる二人組みって、誰だろう。そんな疑問が顔に出ていたのか、ルーインは困ったように笑った。
「んー、なんて言ったらいいのかな、いわゆる人攫い。それも若い女の子を狙う人攫いが最近、王都でちょっと問題になっててね」
そういえば、そんなようなことをエッジが言っていた気がする。
「そいつらも二人組みだって聞いてたもんだから、もしかしてハンナに声を掛けた男っていうのは、そいつらじゃないかって思ってさ」
……え?
あの人たち、ただのナンパじゃなくて、人攫いだったの!? 人攫いって、子どもを無理に攫って売りさばくような人のことだよね。腕を捕まれた瞬間のことを思い出し、思わずぞっとして肩が震える。ルーインはそれに気付いたのか、安心させるみたいに小さく笑ってくれた。
「ああ、でも違ったんだ。安心して。そいつらはただのナンパ野朗だったみたいだから」
「え?」
それって、どういうことだろう。
「昨日、やっとその人攫いを捕まえたんだけど──、ヘルに会わせたら、君をナンパしていたやつらとは違う男だって言われてね」
ルーインは苦笑を浮かべながら続けた。
「もし、君に声を掛けてきた二人組みっていうのが人攫いだったら、目をつけられた君がまた狙われでもしたら困る。そう思って、ヘルに君の護衛をさせてたんだけど」
でも俺の取り越し苦労だったわけ、とルーインは少し恥ずかしそうに笑った。
「ごめんね、長い間不便な思いをさせて」
私はぶんぶんと頭を振った。
そっか、それでヘルは毎日のように私を家まで送ってくれていたんだ。ずっと不思議に思っていたのだ。逆恨みしている"かもしれない"なんて理由だけで、どうしてわざわざ毎日家まで送ってくれるのだろう、って。
「ううん。私のこと心配してくれてたんだね。ありがとう」
ぺこりと頭を下げると、ルーインはやめてよ、と顔の前で手を振った。
「ハンナを家まで送ってたのはヘルだし、そもそも、俺の勘違いだったわけだし。ハンナが俺に礼を言うようなことは、なにもないよ」
──ううん。そんなこと、ない。ルーインは私の心配をしてくれていたんだと思うと、純粋に嬉しい。それに……ルーインがそんな風に言ってくれたおかげで、ヘルが私を送ってくれるようになったのだと思うと、感謝してもしきれない。それが無かったら、きっと今ほどヘルと親しくなることは出来ていなかっただろうから。
ただ、ヘルに面倒をかけてしまったことは申し訳無く思う。今日ヘルがフルーブを買いに来たら、昨日まで毎日送ってくれていたことに、改めてちゃんとお礼を言おう。
ルーインが帰った後、私はナプキンを畳みながら、さっきのルーインの話を思い出していた。
二人組みの人攫い、か……。結果的には別人だったみたいで良かったけれど、もし私に声を掛けてきたあの二人組みが人攫いだったらなんて、考えてみただけで背筋がぞっと寒くなる。
もし、私に声を掛けてきたあの二人の目的が、ただのナンパなのだと最初から分かっていたら、昨日までのようにヘルが家まで送ってくれることは無かったんだろう。そう思ったら、ルーインが勘違いしてくれて良かった、と思えた。ヘルには面倒を掛けてしまったけれど、私はそのおかげでヘルと親しくなれたのだから。
──でも、考えている内に分からなくなって来た。本当にそうなのかな。本当に、良かったんだろうか。寧ろ、もしヘルと親しくなれていなかったら、私はヘルのことを好きにならずにいられたんじゃないだろうか。そうしたら今みたいに、どうしたらこの気持ちを捨てられるのかだなんて、苦しい想いを抱かずに済んだんじゃないだろうか、なんて。
ううん、そんなこと無い、か。
例えそのことが無かったとしても、私は結局ヘルのことを好きになっていたような気がする。思えば、初めてヘルが助けてくれたあの日から既に、私はヘルのことばかり考えていたのだ。
本当は、素直に気持ちを認められなかっただけで……あの時にはもう、好きになっていたのかもしれない。
「──ねぇ」
急に背後から声を掛けられて、私はびっくりしてナプキンを取り落とした。落としたナプキンを拾って振り返ると、ライラはじっと私を見ていた。
「やっぱり好きなんでしょう」
ライラは私の手の中のナプキンを抜き取ると、くしゃりと丸めてごみ箱に入れた。
「え?」
「いつも迎えに来てたあの男の子のこと。ハンナ、あの子のこと、好きなんでしょう?」
いつものように何言ってるの、と笑い飛ばそうとした私は、ライラの目を見た瞬間、開きかけた口を噤む。ダークグレーの瞳は、真剣な色を湛えて私を見据えていた。
「なん、で?」
反射的に返した問いは、とてもぎこちなく響いた。
ライラは小さく笑った。どこか気遣わしげな、心配するような笑みだった。
──いつもみたいに、そんなことないよって笑い飛ばそうと思っていたのに、ライラが本気で心配してくれているのが分かって、何も言えなくなる。
気が付いたら、私は小さく頷いていた。
「……うん。……好き、みたい」
ライラはじっと私を見ている。その目がまるで続きを促しているかのように思えて、私はそっと目を伏せた。
「……変、だよね。相手は、子どもなのに」
「変じゃないわよ。全然、変じゃない。最初に私が冗談でからかってしまったから、言いづらくさせてしまったのよね? ごめんね。恋をするのに年齢なんて関係ないのに」
ライラは、そっと私の両手を握り締めた。
「さっきの話、聞こえちゃったんだけど……あの子、今日からもう、迎えに来ないの?」
私は小さく頷いた。
「ねえハンナ。……告白、しないの?」
ライラの唐突な言葉に、私はぎょっとして顔を上げる。それから、ぶんぶんと頭を振った。
「まさか!」
「どうして、まさかなの?」
ライラは軽く首を傾げた。その動きに合わせて、頭の後ろで縛られた鳶色の髪がふわりと揺れる。その動きを見ていたら、ヘルの元へと嬉しそうに駆けて来る、幼い少女の姿を思い出した。あの子のツインテールも、こんな風にふわりと揺れていた気がする。
「だって、私はもう、子どもじゃないし。……ヘルが私のことを好きになってくれるとは思えないよ」
あんなに可愛らしい、同年代の女の子がすぐ傍にいるのだ。その子じゃなく、大して可愛い訳でも無い年上の女を好きになるなんて、そんなことはありえないだろう。
「そうかしら。……私にはそうは、思えないのだけれど。ねえ、じゃあハンナは、諦めるつもりなの? 気持ちを伝えることもせずに、諦められるの?」
「分からない、けど……でも諦めるしか、無いよ」
「どうして? そんなの、相手の気持ちを聞いてみないと分からないじゃない。もしかしたら彼の方だって、ハンナのことを好きかも知れないのよ」
「無いよ」
私は間髪入れずにそう断言していた。ライラは気を遣って言ってくれているのかもしれないけれど、ヘルが私のことを好きだなんて、そんなことある訳が無い。
勿論、嫌われてはいない、と思う。名前で呼んでくれるようになったし、フェステではケネンシェを買ってくれて──お花までくれた。
だけど、それはあくまで"他人"を脱して友達になれたとか、そういうレベルの話であって、そこに恋愛感情は無いのだ。そんなの、素っ気無いヘルの態度を見ていたら嫌でも分かる。
「そんなこと、ありえないよ。……いいの、もう。そのうち諦められると思うから」
ごめん、もう何も言わないで。
囁くようにそう言うと、ライラは私の方こそごめんね、と呟いて、握り締めていた手を離してくれた。
ヘルは、私を家まで送ってくれるようになる以前から、毎日フルーブを買いに来ていた。だから今日も来てくれると思ったのに、いつもの時間が過ぎても、ヘルが姿を現す気配は無かった。
もしかして、いい加減フルーブには飽きていたのかな。私を送るついでみたいに買いに来ていたけど、ここへ来る用が無くなったから、もう他のお店へ行っちゃったのかな。
そんなことを悶々と考えていたら、唐突に、マスターからフルーブがまわってきた。今日はヘルが来るかどうか、分からないのに──。そんなことを思いながら、フルーブを手にカウンターの方を向くと、カウンターの前に立ったヘルがじっと私を見上げていた。
い、い、いつの間に!
「お、お、おは、おはよう」
驚きのあまりしどろもどろに挨拶した私に対し、ヘルは怪訝そうに目を細めた。昨日みたいに、もう昼だけど、って言われるかと思ったけれど、ヘルは何も言わず、カウンターに銅貨を置いた。置かれた銅貨は、やっぱりフルーブの代金と同じ金額だった。
「……フルーブ」
「お、お待たせしました」
別に待たせてはいないはずなのに、反射的にそう言って、手に持ったフルーブをヘルに差し出す。ヘルは特に何も言わず、そのフルーブを受け取った。フルーブを手に持つと、そのままふいと踵を返す。
ヘルが何か雑談を振ってくれるとは思わなかったけど、まさかこんなに素っ気無いとは思わなかった。まるで、出会った頃みたいだ。
────。
……ううん。
それは違う、か。
あの頃のヘルは、いつも魔術書を読みながらフルーブを買いに来ていた。開いた書に目を落としたままで、私とは一度も目を合わせてくれなかった。でも今、ヘルは魔術書を閉じた状態で、私の目を見てくれた。
最初とは違う。私とヘルの間にあった見えない高い壁は、もううんと低くなっているはずだ。
そんな風に自分を慰めようとした瞬間、視線を感じて隣に目をやる。カウンターから離れたところから、ライラがじっと私を見つめていた。どこか気遣わしげなその目を見た瞬間、さっきのライラの言葉を思い出す。
"気持ちを伝えることもせずに、諦められるの?"
──諦められると、そう思っていた。だけど、本当にそうなのかな。私の胸を占めるこの気持ちは、放っておいたらやがて無くなってくれるものなのかな。
今だって、素っ気無いヘルの態度の中に、出会った頃とは違う部分を必死に探している。あの頃よりは仲良くなれたはずだなんて、そんな拙い慰めで自分をごまかしている。
こんな状態のまま放って置いたら、きっと気持ちは大きくなっていくばかりだ。
ライラの言う通り、なのかな……。
気持ちを伝えてはっきり振ってもらった方が、諦めもつくんだろうか。
「ヘル」
気付いたら、私は去っていこうとしているヘルを呼び止めていた。私の声に、ヘルは不思議そうに振り返る。開きかけた魔術書を手にしたまま、首だけを振り返らせて、じっと私を見上げている。
「あ、あの、えーと、……昨日まで、送ってくれてありがとう」
ぺこりと頭を下げると、ヘルは別に、と素気無く答えて、そのまま再び前を向いて歩き出した。あまりにも素っ気無い態度。いい加減慣れていたはずなのに、心臓をぎゅうと掴まれたように、胸が苦しくなってくる。
「っ、あのね!」
私がもう一度口を開くと、ヘルは開きかけていた魔術書を閉じ、再び振り返った。
「……なに。まだ何かあるの」
ヘルはなんだか、訝しげに私を見上げている。
「えっと……」
何か、言わなきゃ。
あなたが、好きですって──。伝えたら、私は諦めることが出来るかもしれない。私は勇気を出そうと、ぎゅっと拳を握り締めた。心臓の脈打つ音が、やけに大きく聞こえてくる。
言うんだ。
はっきり伝えて、振られたら、きっと諦めることが出来る。
何も言わない私を不審に思ったのか、ヘルのエメラルドグリーンの瞳が、微かに眇められる。とうとう意を決した私が口を開いた、その瞬間。
「へールっ」
鈴を転がしたように幼く可愛らしい声が、静寂を引き裂いた。




