射程圏外の恋
さっき出会ったカイルさんは、年上で、明るくて社交的で、優しそうな人だった。こけかけた私を受け止めてくれた両腕はしっかりしていて、大人の男の人だった。きっと普通の──多くの女の子は、彼みたいな人を好きになるんだろう。私も、いつか人を好きになるのなら、ああいう人を好きになるんだろうと思っていた。
なのに。
ふいに立ち止まったヘルが、腕を掴んでいた手を離して、私を振り返る。くりっとしたエメラルドグリーンの瞳が、じっと私を見つめている。
整った、でもまだあどけなさの残る顔立ち。笑みを浮かべればまるで天使のように可愛らしいことを、私は知っている。
私よりも低い背。声変わり前の、少し高めの声。
「……十四歳、かぁ」
無意識の内に、心の声が漏れ出していた。ヘルは怪訝そうに眉根を寄せて、吐き捨てるように言った。
「……だったら、なに」
なんだか、馬鹿にされたようにでも思ったのだろうか。私の言葉は更にヘルを不快な気分にさせたようだった。私は慌てて話題を別の方向に持っていこうと、口を開く。
「えっ、ううん。エッジと同じ歳なんだなぁと思って」
ああ、しまった。話題があんまり別の方向に向いてない。私が失敗を悟るのと、ヘルが眉間の皺を深めるのとは同時だった。
「弟?」
「う、うん」
「あっちが規格外」
一瞬意味が分からなくて、ぽかんとしてしまった。ややしてから、身長のことを言っているのかな、と漸く思い当たる。エッジが高すぎるんだろ、ってこと? もしかして、まだ背が低いことを気にしているのかな。そういえばエッジ自身も、同じ歳でも小さい奴なんて沢山いる、とか言って自分の背が高いことを自慢してたっけ。
「せ、成長期だもんね? すぐ伸びるよ」
思わずそうフォローしたものの、どうやらこれも失敗だったらしい。ヘルは私を一瞥して、鼻を鳴らした。
「……で、帰るの?」
「へ?」
唐突な問い掛けの意味がやっぱり分からなくて、小首を傾げる。ヘルは淡々と言った。
「もういいの」
「もういいって、何が?」
「フェステ」
もしかして、フェステをもっと見てまわらなくていいのかって聞いてくれてるのかな。帰るって言い出したのはヘルの方だったのに、どういうことだろう。
「うん、もう満足したよ。ヘルは?」
「帰る」
だから、帰るって、どういうことなの。もしかして、私がもっとフェステを見たいって言ったら、ヘルは私を置いて一人で帰る気だったのだろうか。
うーん。ヘルの端的過ぎる言葉も、随分と理解できるようになって来たつもりでいたけれど、実際にはあんまり理解できていないのかも。
「うん、途中まで一緒に帰ろうよ?」
私がそう問い掛けると、ヘルはきょとんとしたように二、三度瞳を瞬いた後で、
「いや」
と口にした。
──いやって、なに!?
嫌だよ、のいや? それとも、否、一人で帰る、のいや!?
どの道断られたことには変わりない。まさかここで断られるとは思っていなかった私は、ぎょっとしてその場に立ち尽くした。けれどヘルは私の手首を掴むと、私を引っ張るようにすたすたと歩き出した。
歩き出したのは、私の家の方角だ。
よく考えたら、ここからお城と私の家とはまったく方角が違うのに、途中まで一緒に帰ることなんて不可能だ。いつも家まで送ってもらっているものだから、ヘルは実は遠回りをして送ってくれているんだってことを、一瞬、厚かましくも失念していた。
もしかしてヘルの「いや」は、「いや、家まで送るよ」のいや、だったのかな。
うん……、ヘルなら、ありえるかも。
そう思い至った瞬間、なんだかおかしくなって、私は思わずふふっと笑った。
ヘルの言葉は難しいけれど──、素っ気無い態度を取っていても、ヘルって実はかなり優しい。何だかほっとした途端、嬉しくなって、頬が緩むのを抑えられなくなる。にやついてしまう顔を隠すように俯きがちに歩いていたら、前を歩いているヘルがちらりと私を振り返った。
「……ハンナって、変」
「え!?」
まさか、まさかヘルに変だなんて言われるとは思わなかった。
ヘルのことは好きだけれど、正直ヘルの方がよっぽど変わっていると思う。びっくりして固まる私を見て、ヘルは微かに笑った。気の所為かと思うくらいほんの微かに、目元が緩められる。
「ときどき一人で笑ってる」
時々一人で笑ってるって、何だろう、それ。ただの不審な人みたいだ。そうは思ったけれど、ヘルが笑ってくれるのなら、まあそれでもいいか、と思う。ヘルが笑みを向けてくれたのが嬉しくて、私もつられるように笑みを浮かべた。
ヘルはいつものように私を家の前まで送ってくれた後、さっさと帰って行った。
フェステで花を貰ったり、一緒にケネンシェを食べたりできた所為か、少し気が大きくなっていて、私はヘルにお茶でも飲んでいかない? と訊ねてみたのだけれど、にべも無く断られてしまった。しかもその理由は、「書を読みたいから」だという。……早く帰って魔術書の続きを読みたい、ということだろうか。
少しずつ仲良くなれているような気はするけれど、私はまだまだヘルにとっては取るに足らない存在なんだなあと、少し悲しい気持ちになる。それでも、最初の頃を思えば随分親しくなれたものだ。
そんな風に自分を慰めながらスープの入った鍋をかき混ぜていると、ふいに家のドアがノックされた。この家をお客さんが訪れることは滅多に無いことだ。反射的にびくっとする私をよそに、ドアががちゃりと開かれて、呑気な声が聞こえてきた。
「姉ちゃん、ただいまー」
その声を聞いた瞬間、一気に肩の力が抜ける。なんだ、エッジか、もう。驚かさないで欲しいなあ。
一度火を消して、ドアの方へと向かう。家の中へと上がってきたエッジに、一体どうしたの、と声を掛けると、エッジは眉根を寄せて言った。
「姉ちゃん、鍵開けっ放しだと無用心だろ。ちゃんと戸締りしろよ」
「え、開いてた? ごめん、閉めたつもりだったんだけど」
どうやら閉めたつもりになって、忘れていたらしい。エッジは私を呆れたような目で見下ろした。
「最近、この辺で人攫いが出るって噂になってるんだから、気をつけろよ」
「え、そうなの?」
「そうだよ! 呑気だなあ、もう」
エッジはぷりぷりしたように言いながら、キッチンの方へと向かう。
「あー、腹減ったー。なんか食うもんある?」
「えー、ご飯食べに来たの? スープしか作ってないよ」
食べに来るなら来るで、言っておいてくれたら何か作っておいたのに。そんな私の姉心になど気付くわけもなく、エッジはううん、と頭を振った。
「別に、飯食いに来た訳じゃなくてさ。途中でほっぽり出して悪かったなと思って、姉ちゃん帰ってるか様子見に来たんだ」
「本当だよ、エッジってば勝手なんだから」
「ごめんって」
謝りながらも、エッジに悪びれる様子はあんまり無い。エッジは昔からそういう奴なのだ。よく言えば天真爛漫だけれど、悪く言えば自由奔放な性格をしている。それでも血の繋がった弟だからなのか、そういうところも憎めないし、なんだか許せてしまう。
「俺もスープもらっていい?」
「いいけど、本当にスープしかないよ?」
私の言葉に、エッジは苦笑いを浮かべた。
「いいよ、どうせ向こう帰ったらまた飯食うし」
寮に帰ってからも食べるつもりなんだ。相変わらず良く食べる弟だ。そんなことを考えながら、私は二人分のスープをよそってパンと共にテーブルに出したのだった。
「……うん、うまい!」
エッジはその言葉通り、とても美味しそうにスープを平らげていく。明日も食べられそうだと思っていたスープは、綺麗に無くなってしまった。
エッジが大きくなったのはこんな風にたくさん食べるからなのかな。先に食事を終えた私は、三杯目のおかわりをかきこむエッジを黙って眺めていた。
そういえば、エッジとヘルって同じ歳なんだっけ。
「ねえ、エッジから見たら、何歳の女の子が恋愛対象なの?」
「は?」
ぽろり、と無意識のうちにそんな問いを零していた。エッジは私に向かって、不思議そうな目を向けた。
「えー……、同いか一個下かな」
なんでそんなことを聞くのか、と言いたげな顔をしながらも、エッジはきちんと答えてくれる。だけど、私はその答えがあまりにも予想外すぎて、口を半開きにしたまま、呆けたように固まってしまった。
そりゃあ勿論、三つも上の女が恋愛対象に入っているなんて思ってはいなかった。でも、でも。まさか同じ歳か一個下だなんて、そんな狭い範囲に限定されるとは思ってもみなかった。
「十三歳か、十四歳の子だけなの?」
びっくりしている私を、エッジはきょとんとしたように見つめている。
「だってそれより下になるとガキだし、年上なんてなんか口うるさそうで嫌じゃん」
年上がうるさそう、というのは、もしかしてなんやかんやと口うるさい姉がいるからそんな風に思うのだろうか。だったら姉のいない男の子だったらまた別かも……一瞬そんな淡い期待が過ぎったけれど、すぐにヘルにもお姉さんがいると聞いたことを思い出した。
って言うか、よくよく考えたら、私自身が十三、四歳くらいだった頃も、周りの女の子たちが好きだと騒いでいた相手は、同じ歳の子が多かったような気がする。兄弟構成とか関係なく、エッジくらいの年頃の子って、自分と同年代の子にしか興味ないのかも。
「なんで、んなこと聞くの?」
エッジは怪訝そうに言った。なんて答えようかと迷っていると、エッジは探りを入れるような目で私を見た。
「姉ちゃん、まさかと思うけど、あいつのこと好きだとか言わないよな?」
「あいつ?」
「さっきほら、フェステであった二人組みの、俺のこと睨んでたちっちゃいガキの方」
それってもしかしなくても、ヘルのこと、かな。多分、ヘルに睨んでいるつもりは無かったとは思うんだけど。
「ガキって、エッジと同じ歳だよ」
私もついさっきまで知らなかったことだけれど、反射的にそう返したら、エッジは眉を顰めた。
「マジで? ……ってほら、やっぱそうなんじゃん! あいつと同いの俺に何歳まで恋愛対象かなんて聞くってことは、そういうことだろ!」
エッジは何故かむっとしたような顔で私を見た。いつになく冴えているエッジにぎょっとして言い訳に詰まっていたら、重ねるように罵倒された。
「姉ちゃん、三つも下とかそれ犯罪だから! 勘弁しろよ! だいたい、あいつ見た目からしてまだガキじゃんか!」
弟の容赦無い言葉が、ぐさぐさと胸に刺さってくる。
「犯罪って、べ、別に私そんなつもりじゃないよ。なんとなく聞いただけだし」
しどろもどろになってそう返したら、エッジは小さくため息を吐いた。
「男作るのはいいけどさ、せめて俺よりは年上にして。もっとしっかりした頼りがいのありそうな奴にしてくれよ! 俺、あいつのこと兄さんって呼ぶとか、絶対無理だからな」
エッジはそう言い残して、何故だかちょっと怒りながら、さっさと帰って行ったのだった。




