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彼と私の境界線  作者: 篠井七紗
プロローグ
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プロローグ

 夕暮れ時、見知らぬ二人の男性に行く手を阻まれた私は、すっかり途方に暮れていた。


「なあ、ちょっとだけでいいからさあ、付き合えよ?」

 私の右腕を掴んだ男の人が、慣れ慣れしい口調で問い掛けてくる。私は必死で腕を振って、その手を振り払った。

「すみませんが、急いでいるので」

「つれないこと言うなよ」

 振り払った腕を、再び掴まれる。今度はさっきよりも強い力で掴まれた所為で、振り払おうとしてもびくともしない。聞き分けの無い男性に対して、苛立ちと同時にじわじわと恐怖心がこみ上げてきた。

 こっちは十七歳の女一人。成人男性二人を相手に、力で適うはずが無いのだ。さっと辺りを見回してみても、私たちの他には人気なんて無かった。

 ──どう、しよう。


 今日はいつもより店が忙しかった所為で、帰る時間が遅くなった。早く帰りたいからと、近道を通って帰ったのが間違いだったのだろうか。この道は表通りに対して、人通りが少ない。あまりにも遅い時間になると通らないようにはしているけれど、まだそんなに夜遅い時間でも無いから、何も起こりはしないだろうと油断していた。

 私が甘かったのかな。

 ううん、別に相手はただのナンパのつもりかもしれない。だけどこんな風に声を掛けられたことがない私は、どうやって逃げれば良いのかも分からないし、怖くてたまらない。

 途方に暮れて俯いていると、痺れを切らしたように男性の一人が私の腕を引いた。

「まあ、ちょっと来いよ」

 ちょっと来いって、どこに? 素直について行く訳にも行かず、逃げ場を探すように左右に目を走らせたその瞬間。

不意に目の前を、鋭い風が横切った。

「うわっ」

「なんだ!」

 まるで意思を持っているかのように鋭い風が、ひゅんと音を立てて私と男性たちの間を通り過ぎて行く。彼らは、大げさな程驚いた様子で仰け反った。その瞬間、こつりと靴音が響いて、私たちは同時に音のした方を振り返る。


 ──そこには、一人の少年が立っていた。


 ふわふわして柔らかそうな髪は、赤味がかった薄茶色。大きな目は、淡く透き通ったエメラルドグリーンだ。その目は不機嫌そうに歪んでいるのに、くりっとした丸い形の所為か、迫力が無いどころか可愛らしくさえ見える。

 突然の風に怯んだ様子だった男の人たちは、幼い少年の姿を見るなり、安堵したようにまくし立てた。

「なんだぁ、お前」

「ガキはひっこんでな」

 二人の挑発に、少年は不愉快極まりないと言った風に眉根を寄せた。右の小脇に分厚い本を抱えている彼は、左手を彼らに向かって翳す。

「βиλъс」

 不思議な響きの言葉に続いて、少年の手のひらから飛び出すように、突風が吹いた。二人は勢いよく風に吹き飛ばされ、塀にゴン、と背中をぶつけてそのまま動かなくなった。

 何だろう、今の。

 もしかして……魔法?

 塀にぶつかって動かなくなった男の人たちを見て、さすがに大丈夫なのか心配になったけれど、その腕がぴくぴくと動いたのを見て、ほっとした。死んではいないようだ。良かった。

 目の前で魔法を見たのなんて初めてで、どこか現実味が湧いて来ない。

「あ、ありが、とう……?」

 この子は私を助けてくれた、んだよね。

 まだあまり実感の湧かないまま振り返って頭を下げたら、彼はなんだかむっとしたような表情で私を見つめていた。

 私を助けてくれたのかと思ったのだけど、どうやら私も睨みつける対象に入っているらしい。

「……怪我は」

 不愉快そうな表情を浮かべたまま、彼はずんずんと私の方へと近づいてくる。ど、どうして怒っているのだろう……? 心配しているような言葉の字面とその態度が、全く合っていない。

「無い、です」

 反射的に一歩下がった私の右手首を、伸びてきた少年の左手が掴む。目線の高さまで持ち上げられて初めて、私はさっきまで掴まれていた部分が赤い痣になっていることに気付いた。

「Нνлδτй」

 本を小脇に抱えたまま、私の腕に右手を翳した少年が、また不思議な響きの言葉を紡ぐ。その瞬間、私の腕をオレンジ色の優しい光が包み込んだ。ほのかな温もりが身の内に染み込んでいくような、不思議な感覚を覚える。

 光が収まった時、腕に残っていた赤い痣は綺麗に消えて無くなっていた。

「す、すごい」

 少年は私の手首を掴んでいた手を離すと、私をじっと見上げて、素気無い口調で言った。

「他は」

「え?」

 問い掛けの意味が分からず聞き返すと、彼はますます眉間の皺を深めた。

「他には無いの、怪我」

「な、無い、です」

 私がそう答えると、彼は確認するかのように私の全身をさっと一瞥した後、ふいと背中を向けて歩き出した。何事も無かったかのように、あっさりした別れだった。

 それじゃあ、とか、そんな別れの言葉さえ無かった。

 状況がよく理解できなくて、暫くの間ぼんやりと少年の後ろ姿を見送っていた私は、暫くしてはっと我に返り、後ろを振り返った。塀にぶつかった男二人はどうやら気を失っているようだ。このままにしておいてもいいのだろうか、とも思ったけれど、その身体がもぞもぞと動き出したことに気付いた瞬間怖くなって、慌ててさっきの少年の後を追った。

 けれど角を曲がっても、彼の後姿はもうどこにも無かった。

「さっきの……って、いつものお客さん、だよね」

 私は誰に向けるでもなく、そう呟いた。




[彼と私の境界線]




 城下町の広場にある、軽食スタンド。フルーブとかペタンのナテ包みとか、持ち運びのしやすい食事を売っているのが私の働いているお店"スペイト"だ。

 スペイトに来るお客さんは常連の人が多いから、もう大抵のお客さんの顔は覚えている。今、向かいの広場でフルーブを食べている少年も、常連の一人だ。

 お昼時を過ぎてお客さんもまばらになった午後、することの無くなった私は、大して汚れてもいないカウンターを拭きながら広場をぼんやりと眺めていた。

 少年は広場の中央にある噴水の縁に腰掛けるようにして、左手だけを使って器用にフルーブを食べている。右手は、いつも持ち歩いている分厚い本のページをめくるのに忙しい。

 フルーブは、手のひら大の豆を蒸したものに切り目を入れて、肉と野菜を挟み込んだ軽食だ。食べていると下からソースが溢れてきて、零さずに食べるのが難しい物なのだけれど、彼はいつもソースを零すことなく綺麗に平らげる。

 しかも、その間もずっと目線は本に落とされたままなのだから、よほど器用なのだろう。

 ふわふわして柔らかそうな髪は、赤味がかった薄茶色。本を見つめるつり目がちな瞳は、淡く透き通ったエメラルドグリーンだ。

 男の子なのだけれど、まだあどけなさの残る顔立ちがどこか可愛らしい。歳は多分、私よりも幾つか下だろう。

 いつも一心不乱に、一体何の本を読んでいるのかな。

 以前、フルーブを買いに来た時に本をこっそり覗いてみたことがあったけれど、見覚えの無い単語の羅列が目に飛び込んできただけだった。

 幼い顔立ちからは想像も出来ないけれど、異国文化の勉強でもしているのかもしれない。

 勉強熱心で、不思議な子。これまで、私の持っている彼の印象といえば、そんなものでしかなかった。何の本を読んでいるんだろう、っていう興味はあったけれど、いうなればそれだけだったのだ。

 彼の名前はなんて言うんだろうとか、歳はいくつだろうとか、仕事は何をしている人なんだろうとか、彼自身に対する興味は無かった。

 なのに、どうしてだろう。

 昨日までは気にならなかった彼のことが、凄く気になる。

 それは──もしかして昨日の夕方、しつこく声を掛けられて困っていた私を助けてくれたのが彼だったから、なのかな。

 私のぶしつけな視線に気付いているのかいないのか、本を読む彼の目線が上げられることは無い。気付いていたとしても、彼は顔を上げて、私を確認したりはしないのだろう。

 私にはまるで興味が無い、って感じだったもんね。

 はあ、と小さくため息を吐いて、私はついさっきの出来事を思い返した。





 いつものように店のカウンターに立っていた私の前に少年が立ったとき、私は思わず「あ」と呟いた。彼は殆ど毎日フルーブを買いに来てくれるから、彼が来たこと自体に驚いたわけじゃない。だけど、昨日助けてもらったことを思い出して、思わず声を上げてしまったのだ。

 彼は私の驚きの声を意に介す様子も無く、目線さえ上げずに「フルーブ」と注文を口にした。そういえば、この子とは目が合ったことが無いな、と今更ながらに気付く。彼はいつも、本を開いたままでカウンターの前にやってくるのだ。目が合ったのは昨日、「怪我は」と問い掛けてくれたあのときだけだ。

 目が合わないことで、一瞬躊躇った。だけど、私は思い切って口を開いた。

「あの、昨日はありがとうございました」

 手元の本に目線を落としていた彼が、す、と顔を上げる。ほんの少し高い位置にある私の顔を見上げて、怪訝そうに眉を顰めた後、

「……誰?」

 と呟いた。

「え」

 まさか昨日の今日でそんなことを言われるとは思わず、びっくりした私は言葉に詰まってしまう。彼は固まった私を醒めた目で見たかと思うと、少し苛立ったような口調で告げた。

「なんでもいいから、早くしてよ」

「あ、す、すみません」

 反射的に謝って、後ろのマスターにオーダーを通す。程なくして用意されたフルーブを、慌てて少年に手渡した。彼は代金をカウンターに置くと、そのまま私を一瞥することも無く、踵を返して去って行った。そして、いつものように噴水の縁に腰掛けてフルーブを食べ始め──今に至る、という訳である。

「……まさか顔も覚えられてないとは、思わなかった」

 嘆くように、小さくため息を吐いた。

 確かに、今まで彼がフルーブを買いに来たときに、目が合ったことは一度も無かった気がする。

 だけど、それでも。昨日はばっちり目が合ったのだ。

 昨日助けた人間のことを、覚えていないなんてことがあるのだろうか?

 助けてもらった恩も忘れて、どこか恨みがましい気持ちで、広場に座る彼をじっと見つめる。さっきの素気無い態度は、照れ隠しとかそういうのじゃなくて、本当に興味が無いという対応だった。私のことなんかまるでどうでもいい、というような態度だった。

 だけど昨日確かに彼は、私にしつこく迫ってきた二人の男性を追い払い、私の腕に残った痣を温かな光で癒してくれたのだ。

 まるでどうでも良い私のことを、どうして助けてくれたのだろう。

 放っておいても良かったはずなのに。


 広場で本を読んでいる彼が立ち去るまでの間、私はじっと彼を見つめていたけれど、とうとう彼が私に視線を返してくれることは無かった。

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