叶わない恋
ネタバレも何もありませんが、とりあえず主人公は死にます。生きるかも……とかいう淡い希望もありません。あえて警告タグがないのはその死に様が別段残酷な表現をしていないからです。そう思ってはいても第三者の目から見たらアウトである可能性もあります。もし注意・忠告があった場合はすぐさま警告タグなどをつけさせていただきます。
さて、前書きはこれぐらいに留めて。長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
暇つぶし程度にはなれると思いますので、よろしければこのあとも読んでやってくださいませ<m(__)m>
青い空を目に映し、白いビルの屋上に設置されているベンチに腰掛けていた少年は、小さくため息を吐き出した。周囲に人の気配はなく、たくさんのシーツが干されている。その白いシーツが風に揺られたなびく姿を、少年はかれこれ数時間は眺めていた。座っている少年の手には程よい大きさのスケッチブックと鉛筆が握られており、そこに描かれているのは雲だった。様々な形の雲を、一つ一つの姿で描いている。
「……はぁ……」
少年は憂鬱そうに重たい息を吐き出した。少年にとって、この白いビルは自分を閉じ込める鳥かごでしかない。しかし、それを仕方ないと思ってしまっている。ベンチの側には車椅子があり、少年は膝の上から荷物を下ろすと、車椅子へと飛び乗った。小さな手を必死に伸ばして荷物を自分の膝へと移し、少年は車輪を手で回す。
「ねぇ、君。大変なら手伝おうか?」
「え?」
車輪を回すのに俯いていた少年は、頭上から降ってきた言葉に驚いた。顔を上げると、短髪の少女が目の前にいた。少女といっても少年より数歳年上に見える。すらっとした鼻筋に細いラインの顔。大きな瞳を持つ彼女はどことなく幼さを感じさせるが、彼女から感じる雰囲気はその幼さを完璧に隠すほど大人びていた。
「えっと……あなたは?」
「あ、ごめん。私は八条里。お見舞いに来た帰りなの」
「帰りって……ここ屋上だよ? どうして帰ろうとしてるのに屋上に来たの?」
「えっと……色々あってね。それで、君は?」
不思議そうに小首を傾げる少年に、少女は苦笑すると話題をもとに戻した。少年も深く突っ込まないほうがいいと判断したのか、それ以上追及しようとはしなかった。
「僕は秋月叶。ここで空の観察をしてたんだ。毎日変わるのは空ぐらいしかないから」
「そっか。毎日ここに来てるんだ」
「ここにいるぐらいしか暇つぶしないから。それより、手伝ってくれる?」
「あ、うん。そうだったね」
そう言って、八条里と名乗った少女は車椅子の後ろへと回り込んだ。
「どこまで行きましょうか?」
「とりあえず、僕の部屋まで連れて行ってくれる? 部屋の番号は505号室だから」
「分りました。では、しゅっぱーつ!」
妙に張り切っている里に、叶は眉をひそめた。それもそうだろう。会って間もない人間が、一体何をそんなに張り切っているのだろうか。疑うような眼差しを向ける叶だが、里は気にした風はなく、車椅子を押していく。すれ違う看護婦に挨拶しながら、二人はすぐさま目的の部屋へとたどり着いた。ノックをしようと里が片手を挙げる。
「あ、別にノックしなくて大丈夫です。この部屋、僕しかいないので」
「え?」
「それに、親もいないので普通にあけてください」
「あ、うん」
叶の説明を驚いてきいていた里は、戸惑いながらもドアを開けた。叶の言う通りで、病室は個室だった。同じ病室のはずなのに、どこか悲しげな雰囲気が漂っている。そのことに眉を顰めながらも、里は叶を病室へと押していく。
「ありがとう、お姉さん。おかげで助かりました」
「……ねぇ、聞いていい?」
「何を?」
ニッコリと笑った叶の表情は消え、少し無表情な顔が覗いている。その表情の変化に、里は胸に広がる違和感を拭いきれなかった。
「あなたの両親は、お見舞いにきてくれてるの?」
「うん。ときたま母さんが来てくれるよ」
「お父さんは?」
「お父さんは、まだ海外で働いている最中なんだ。だから、お見舞いには来れない」
「そっか……寂しい?」
心配そうに見てくる里に、叶は首を横に振った。
「ううん。お母さんだって忙しいから毎日見舞いには来れないけど、寂しくはないよ」
「どうして?」
「だって、今はこうしてお姉さんがいてくれてるし、たまに看護婦さんも相手してくれるから。だから、寂しくないよ」
そう言って、叶は笑う。彼の表情からは寂しいという感情は見えてこない。それでも、里は心配そうな表情を崩さなかった。
「ねぇ、叶君」
「なに?」
いまだ心配そうな顔をしている里を不思議そうに見ながら、叶は声をかける。少し戸惑う素振りを見せながら、しかし、それでも決心をしたように叶を見た。
「明日、また来てもいいかな?」
「え?」
「あ、嫌ならいいんだけど……その……もっと、君と話してみたくて」
「……」
里の提案に、叶はしばらく言葉を失った。いままで、続けて見舞いに来てくれる人などいなかったからだ。言葉を失ったままの叶を見ていた里は、やっぱり無理だったかな、と肩を落とし始めた。その様子を見て、ようやく叶は現実に引き戻された。
「い、嫌じゃないよ……ごめんなさい。今まで、そんなことを言ってくれる人、いなかったから。ちょっとビックリしちゃった……」
あわてて言い募る叶を見て、里はフッと小さく微笑んだ。あわてる叶の姿が、ようやく子供らしさが垣間見えて嬉しかったのだ。そして、叶が自分を受け入れてくれた気がした。
「じゃあ、来てもいいかな?」
「う、うん」
「わぁ、ありがとう! 明日から学校だから、学校が終わってからになるけど。五時までには来れると思うわ」
「うん。待ってるよ、里お姉さん」
嬉しそうに笑う里を見て、叶も嬉しそうに笑った。その笑顔がやわらかく、叶は不思議な魅力を持つ里に興味を持ち始めていた。しばらく話しをした後、里は病室から出て行ってしまった。別れを寂しく思う叶だったが、それほど寂しさを感じていない。
明日も来てくれる。
その約束が、叶にはとても嬉しかった。
*****
約束の日となった朝。叶は忙しなく動く心臓を抑えていた。本当に来るかどうかの不安と、来てほしいという気持ちの鬩ぎ合いに、叶の胸は張り裂けそうだった。しかし、里が来るであろう時間帯は遠い。
「……はぁ……まだ時間はあるんだし、いつものように屋上に行こうっと」
先ほどから挙動不審だった叶は自分に呆れ、車椅子へと飛び乗った。車椅子はまるで自分の一部のように自由自在に運転できる。車椅子に乗った膝の上にスケッチブックと筆箱を乗せると、叶は一番心安らげる屋上へと向かった。
屋上の扉を開けると、真っ青な青空が顔を覗かせていた。その暖かな日差しに包まれながら、ベンチの上に体を移動させる。昨日と同じように真っ白なシーツがいくつも干されている。遠くに見える町並みを見ても、特に変化はない。その日常的風景の変わらなさに、叶は飽き飽きしていた。目を逸らし、上空へと顔を向ける。瞳が青色に染まり、白い雲の形を観察していく。スケッチブックを開き、鉛筆を取り出すと目を離さずに筆を動かした。さらさらと動く筆は、止まることがない。
「あ、叶君、ここにいたのね」
その声に、すばやく動いていた筆の勢いが止まった。顔を向けると白い服に身を包んだ看護婦の姿がある。その姿にため息を吐き出しそうになるのを我慢し、スケッチブックをすぐさま閉じてしまった。
「そろそろ検査の時間よ。病室に戻りましょう? 検査が終わったら朝食だから、ね」
「はい」
看護婦の言葉に素直に頷き、叶は車椅子へと移動する。その間、看護婦は何も手を出さなかった。叶一人で行えることを知っているためか、看護婦はジッと叶の様子を視察する。そして、準備が整うと叶へと近づいてきた。
「それじゃ、行きましょう」
そう言い、看護婦は車椅子を押した。叶の膝の上には閉ざされたスケッチブックと小さな筆箱が乗っている。
「今日も雲を描いていたの?」
「うん。いつも変わるとしたら、雲ぐらいしかなかったから」
交わされる会話は短く、長くは続かない。その対話を暇に思いつつも、叶は笑顔で応えていく。そうすることで退屈しているのを悟らせないようにしているのだ。
「さぁ、着いたわ。医師を呼んでくるから、少し待っててね」
「はい」
病室から出て行った看護婦に、最後まで笑顔を向けていた叶。しかし、看護婦が病室から出て行くと、とたんに詰めていた息を吐き出した。気だるそうに車椅子の車輪を動かし、ベッドの側にある机へと近づく。そこの引き出しに持っていたスケッチブックと筆箱を入れると、ベッドへと上った。必然的に天井が目に入り、叶は憂鬱そうな表情を見せる。腕で目元をふさいだ。
「叶君、調子はどうかね?」
そんな最中、病室へと入ってきた医師に反応し、叶は笑顔を向けた。
「特に異常はありません」
「そうか。ちょっと検査させてもらうね」
「はい」
見慣れた老人の医師の言葉に従い、叶は着ていた服を脱いだ。聴診器で心拍を聞き、血圧などを調べていく。それは、当たり前になった診察だった。動揺することもなく、叶は静かにされるがままの状態でいた。
「はい、終了です。今日も体調良いみたいね。でも、何かあったら、すぐさま知らせてね」
「はい。ありがとうございました」
礼儀正しくお礼を言う叶の態度に、看護婦は顔を緩ませる。看護婦と医師の二人が病室から出て行くと、叶は笑顔を崩した。そして、気だるそうにベッドへと寝転がる。
――もういいや。このまま寝てすごそう。
そう思い、叶は脱いだ服を着なおした。そして、スケッチブックと筆記用具を引き出しにしまうと、すぐさま眠りについた。昨晩は、里との約束で頭が一杯になってしまっていて、あまり眠れていなかったらしい。スヤスヤと眠る叶の寝顔は、年相応の顔をしていた。
昼食時となり、叶は眠りから目を覚ました。病室に運ばれた料理を、特に目を輝かせることもなく見つめる。料理はいたってシンプルなメニューだった。白ご飯に味噌汁、焼き魚とともに添えられている漬物の野菜。デザートとして置かれているのであろうバナナが一本。何とも質素な料理だろうか。食前の薬を飲み、箸へと手を伸ばした。静かに手を合わせると、叶は一言も発せずに料理を口へと運ぶ。たいして温かくもない味噌汁を飲み、冷めたご飯を喉へと押し込む。病院での食事とはそんなものだった。
「味、薄……」
病院での食事は年齢層など関係なく、全員同じ食事が配られる。そのため、味はかなり薄味となってしまい、年若い叶には物足りなさを感じざるを得なかった。それでも、文句を言うわけにはいかない。自分だけ特別扱いなどしてもらえるはずがない。
「ごちそうさまでした」
主食を食べ終え、デザートも食べてしまった叶は箸を置いて一息ついた。再び引き出しを開け、そこから食事後の薬を取り出す。いつも用意されてある水をコップに注ぎ、一気に飲み干してしまう。
「さて、と……朝出来なかった観察をしに行こうかな」
配膳を机に置き、別の引き出しからスケッチブックと筆記用具を取り出した。それをいったんベッドの上に置き、自分は車椅子へと体を移動させる。しっかり座れたことを確認すると、膝の上に道具を乗せた。そして、車輪を回して病室から出て行った。
雲を見つめ、叶はさらさらと鉛筆を走らせる。いつもはそうすることで、時間を気にしなくて済んだ。これが唯一の暇つぶしだった。最初こそ、街中を描いていた叶だったが、変わらない風景に嫌気が差した。何日経っても、何十日経っても、彼が描いていた街中は変わらなかった。そのことが、無性に悔しさを駆り立てた。
まるで、治ることのない自分を重ねるようで、今の状況から変わることはないのだ、と言われているようで。
叶には酷く滑稽な姿となって映ってしまった。それから、叶は止め処ない雲を描くようになった。雲は似たような形はあれど、決して変わらないことはなかった。その小さな変化が、叶には嬉しかった。
「あ~、やっぱりここに居た!」
「?」
夢中でスケッチをしている叶のもとに、少女の声が届いた。首を傾げて見てみると、そこには里の姿がある。慌てて時計に目を移すと、五時を過ぎた頃合いだった。
「病室訪ねたのに、居ないから……もしかしてって思ったけど」
そう言って、里は叶の近くへと寄ってくる。まるで、ずっと友人だったかのように自然な振る舞い。そんな里に、叶は不思議で仕方なかった。昨日今日知り合ったばかりの人間が、これほどまでに親しげに接してきたことなど、叶は経験したことがない。そのためか、里をどう相手すればいいのか、迷っていた。
「どうしたの?」
「ううん……何でもないよ。それより、予想してたより早いんだね」
「今日は水曜日だから普段より早めに終わるの。そのせいかな?」
「そうなんだ」
里の言葉に、叶は悲しそうに微笑んだ。叶は学校というものをあまり知らなかった。小学校へと入学してから、彼は数年でその場所を去った。原因は、今彼が入院している病気のため。彼の病気は刻一刻と彼の命を削り、通院では抑えきれないほど悪化していた。
もうすぐ死ぬんだ。
彼は、そんなことを漠然と感じていた。自分の病気が治らないのであろうということは、医師の態度や両親の態度からそれとなく気付いていた。だから、騒ぎ立てるタイミングを見出せなかった。騒ぎ立てたところで何も変わらない、ということは他の誰でもない叶自身が理解している。
学校という施設をよく知らない叶にとって、通っていたときのことしか分からない。だから、水曜日が早く終わることなど、知る術がなかった。
「叶君は、その……」
「うん。あまり学校のこと知らないんだ」
「……ごめん」
里が言おうとすることに気付いた叶は、自分の口からその先を言う。それを言わせてしまった罪悪感からか、里は叶に謝った。すっかりしょげてしまった里に、叶は苦笑するしかない。謝られても、どうしようもないのだ。
「別にいいよ。別に学校に行ってなかったわけじゃないし。ただ、そこに通う期間が短かっただけなんだ」
「だけど……」
「……じゃあ、学校の話しを聞かせてくれる? 僕、知りたいんだ。ここは何も変わらない。外を見ても、病院の中を歩いても、何も変わらないんだ。だから、外の話を聞かせてもらえないかな?」
「うん! 叶君が聞きたいなら、私色々話すよ!!」
元気を取り戻した里に、叶はホッと胸を撫で下ろした。
彼女の悲しい顔は見たくなかった。初めて自分と一緒にいてくれる存在。一人ぼっちだった叶に声をかけ、共に時間を過ごしてくれる存在。それが里だった。だから、悲しそうな表情を見るより、笑っている彼女を見ていたい。叶はその思いで一杯だった。
楽しい時間はあっという間に過ぎていき、辺りは一面暗闇が広がっていた。さすがに家に戻らなければ里の両親とて心配するだろう。そう思い、楽しそうに話す里の言葉を遮った。
「もう、帰らないと。お姉さんの親だって心配してるよ」
「そう、なんだけど。もっと話したかったなぁ」
「また来てよ。僕、待ってるからさ」
「っ……うん、そうだね」
“待っている”
普通に発したその言葉に、里は一瞬目を見開いた。しかし、動揺した顔を見せまいと、里は必死に笑う。その姿に叶は気付いていたが、あえて何も聞かなかった。
心配そうに笑いながら帰る里の背中を見つめ、一人になった叶は息を吐き出した。彼女に病室まで送ってもらい、そのベッドから彼女を見送ったところなのだが、叶は先ほどの里の表情が気になっていた。彼女にも何かあったのだろう。
“待っている”
その当たり前の言葉を、まるでショックでも受けたような一瞬の表情。それを叶は見逃さなかった。その表情が頭から離れないのだ。
なぜ、彼女は驚いたような顔をしたのか。
その理由を叶が知る由もなく、彼は里の顔を何度も思い返していた。
*****
里が見舞いにくるようになってから、叶はいつしか彼女に恋心を抱くようになった。楽しそうに話し、毎日自分を心配して見舞いにきてくれる少女。そんな少女に抱き始めた恋を、叶はすぐさま気付いた。そして、それが叶うことのない恋だということも、彼は感じていた。
最初から諦めている恋に、執着しようとはしなかった。けれど、彼女の存在が叶にとって大きな存在となっていくことはどうしようもないことだった。彼女の存在が、今の叶に生きていることを感じさせている唯一の存在なのだ。彼女と会っているとき、彼女を待っている間、彼女という存在を思い出すだけで、叶はまだ生きていることを実感することができる。だからこそ、叶は己の想いを里に話すつもりはなかった。
「叶わない恋が切ないと……いったい誰が決めたんだろうね……」
誰かに話すわけでもなく、叶は言葉を吐いた。それは本音だった。
叶わない恋は切ない。想っているだけで辛い。その感覚も、ちゃんと叶の中に存在する。しかし、叶はそれを嘆いてはいなかった。むしろ、その痛みを心地好いとすら感じている。彼女を思うだけでいいのだ。それだけで、叶の胸はいっぱいになった。彼女に想いを馳せることが、それを出来る今が、叶にとって 一番幸せな瞬間だった。
共に過ごすその一瞬が、叶にとってかけがえのない大切な、愛しい時間。
「でねでね! そのときその播磨って男子が……」
楽しそうに話す里を、叶はニコニコと微笑みながら聞いていた。学校の話が楽しいだろうと思った里は、より一層その日その日の事件を面白おかしく喋った。そんな里の心遣いが、叶は何より嬉しかった。
「お姉ちゃんの学校は楽しいところだね。聞いてるだけで、僕も楽しくなってくるよ」
「そう言ってくれると嬉しいな! 私も、叶くんとこんなに話せて嬉しいよ」
話せることが嬉しい。一緒に過ごす時間が愛おしい。
そのときの叶は、確かに幸せを感じていた。
*****
里のおかげで、少しずつ叶の体は回復傾向へと流れていた。里に抱く恋心のおかげか、はたまた楽しく過ごすことのおかげか。悪化する一方だった叶の体調は、快方へと向かっていた。誰もが喜び、主治医すら回復の希望を見かけていた。しかし、そう思われた矢先、叶は体調を崩してしまった。
誰が予知出来たであろうか。
彼女と共にいる幸せな瞬間が、その興奮が叶の体を蝕んでいたことなど、誰が予知出来たであろうか。
「……ごめん……叶君……ごめんなさい……」
緊急手術室の前で、里は両手を組んで謝っていた。彼女以外に、その病室前で待っている人間はいない。叶が手術室へと入ってから、かれこれ三時間以上の時間が経っていた。それでも、叶を見舞ってきた人物は里の他にいなかった。
「っ!」
手術室という文字を照らしていた明かりが消え、里は出てきた医師に近づいた。蒼白しきった里の顔を見て、医師は安心させようと微笑んでみせる。
「叶君は……」
「大丈夫です。なんとか命は取り留めましたから。今はまだ眠っていますが、彼が目覚めたら会ってやってください」
「けど、私のせいで叶君は……」
元気づけようとする医師だったが、里は己を責めたままだった。
「むしろ、叶君はあなたに感謝していますよ」
「え?」
「彼の両親は仕事の忙しさから、あまり見舞いに来られない。病気も病気だから、今まで学校に通った時期も少なくて友達もいないらしい。だから、君が彼と話してくれて、彼と友達になってくれて、彼は本当に喜んでいたよ。毎日見舞いにきて心配してくれるお姉さんが出来たと、私に嬉しそうに話してくれた」
「叶君……」
「だから、あまり自分を責めないでほしい。もし、今の君の姿を見たら、それこそ彼は自分自身をせめてしまうからね」
「どうして? 彼は何も悪くは……」
「彼はそういう子なんだよ。人一倍優しい。だから、自分の体が弱くなければ……自分が倒れなければ……と、いつも自分をせめてしまうんだ」
「そんな……叶君は悪くないのに」
「だから、君には笑っていてほしいんだ。君が笑うことで、彼の心は救われる。そうすることが彼にとっても一番の薬なんだ。君と出会ってから、病気の侵攻は抑えられていたからね」
「……」
医師の言葉を受け、里は叶を思った。そして、彼女は閉じた瞳を再び開け、目の前の医師へと目を向ける。
「わかりました。私が笑うことで一番の特効薬になるのなら……苦しくても、悲しくても、ずっと笑いかけます」
「ありがとう、八条さん」
医師は心から感謝していた。
治らない病気でも、死ぬまではその病気と戦わなければならない。そんな患者を何百人と見てきた医師にとって、その辛さも垣間見ることがある。ある者は嘆き、ある者は生気を失い、またある者は自殺しようとした者もいた。
しかし、叶はそうではない。
独りという孤独を耐え、病気と戦い続ける。どれほど苦しくとも、寂しくとも、彼はその弱音を吐露したことなどないのだ。ずっと笑い続ける彼の姿が酷く痛ましくて仕方がなかった。しかし、里と出会い、彼女が見舞いに来てくれるようになってから叶は本当に幸せそうな表情を見せるようになったのだった。いままでのような虚勢ではない彼の笑顔を見られたこと。医師は何より、この少女に感謝していた。
病気を治せるのは医師だけである。しかし、治せない病気というのはこの世に存在している。その場合、何よりも本人の心を助け、ケアしていくことが大切なのである。自暴自棄になってもおかしくない戦いに、不毛かもしれない戦いに挑み続けるには、支えてくれる人の存在が重要だ。叶にも、ようやくその相手が現れた。そして、彼を治療する際、彼は本当に嬉しそうに笑ったのだ。その笑顔をくれたのは、他の誰でもない目の前にいる少女だった。だからこそ、感謝せずにはいられなかった。
それからしばらくして、叶の容態が落ち着いた頃合いを見計らって、医師は里に叶を外に連れ出すよう提案した。もちろん、それほど長い外出を許可することはできないが、病院付近であれば街中に出ることを許可したのだった。
「よかったね、叶君!」
「うん! 僕、外に出るの久しぶりなんだ。今はどんな店が出てるのかな?」
「この付近で、ベストスポット探しておくね! あ、そうそう。そのときにね、会わせたい人がいるの」
「会わせたい人?」
「うん」
「誰なの?」
「えへへ。それは当日のお楽しみだよ、叶君!」
微笑む里につられ、叶も一緒に笑った。彼女の笑顔が叶の中で大きな光となり、その笑顔だけで幸せだと感じることが出来る。しかし、そんな楽しい時間も終りを告げる時が近づいていることを、叶はどことなくその胸のうちに感じていた。
里と出かける日になると、叶は朝早くから絵を描いていた。里と出会ってから今まで、暇つぶしに描いていたスケッチは止まっていた白いスペース。彼女が来るまでの間に、叶はなんとしてでも描きあげたい絵があった。幼子の描く絵とはいえ、叶はその絵に命を吹き込むように丁寧に描いていく。病室を見回りに来る看護婦も彼の集中力に圧倒され、重要な用事のとき以外は極力話しかけないようにしていた。
いつも空ばかり見ていた叶。いつも描いていたのは狭い屋上から見渡せる広い世界だった。しかし今、彼は一人の少女の絵を描いていた。それは今まで自分を励まし、心配してくれた初恋の相手。彼女にはいつでも笑っていて欲しい。そう心から願うからこそ、彼は彼女の笑顔をそのスケッチブックに描いていくのだった。
自分が死んでしまったとき、彼女の悲しみが少しでも安らぐように。
いつでも笑っている彼女が大好きなのだという気持ちをその絵に注ぎ込むように。
叶は彼女の笑顔を描いていった。
その絵が完成したのは里が来る少し前だった。いつものように笑う彼女は、ほんの少しおしゃれをしてきたらしい。いつも見る学生服ではない私服姿の少女。いつも元気そうな彼女にしては珍しいと思うような女の子のような服装は、けれど彼女によく似合っていた。
「どうかな、叶君?」
「うん、似合ってるよ、お姉ちゃん」
「良かった! それじゃ、早速行こっか」
「うん!」
車椅子へと乗り込むと、里は車椅子の後ろへと回り込んだ。
「それじゃ、久しぶりの叶君の外出にしゅっぱーつ!」
元気のよさはいつものこと。里は車椅子を押し、叶は久しぶりの外出へと旅立った。
叶はまるで初めて訪れた町を見るように、興奮して周囲をしきりにキョロキョロとしていた。
「すごい、前見たときより色々変わってる!」
「前見たときって、叶君そんなに入院してるの?」
「うん。六歳のときに入院し始めたから、もう四年になるのかな」
「うわぁ~、四年も病院に。それだけいたら外も結構変わっちゃってるよね」
「うん。でも、お姉ちゃんが連れ出してくれたおかげで今の街並みが見えるんだね。ありがとう!」
「私のおかげじゃないよ。帰ったら、医師にお礼言おうね?」
「うん!」
普段から想像つかないほどはしゃいでいる叶を、里は優しく微笑みながら見守っていた。
里と関わるようになって、叶は歳相応の反応をよく見せるようになった。それでも、いつも落ち着きをはらい、多くのことを望んでいないことを里は気づいていた。しかし、気づいていながら何も出来ない自分を歯痒く思うしかなかった。
医師でもない里は叶の状態がどうなっているのかは分からない。叶の病状については、医師も、そして叶自身も話してはくれないのだった。けれど、話さないからこそ叶の抱える病気が重いであろうことは予想がついていた。
「あ、叶君! 今度はあっちに行こう!!」
「わぁ、なにあれ!?」
だからこそ、こうして会える今をできる限り一緒に過ごし、彼と笑い合っていたいと思うのだった。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「どうしたの?」
休憩所に寄り、一休みしていると叶は唐突に話しかけてきた。それは普段と同じ、どこか子どもらしさを感じさせない雰囲気を感じさせる。その雰囲気を感じとった里は真剣な目を叶へと向けた。
「聞いてもいいかな?」
「うん」
「どうして、お姉ちゃんは僕に話かけてくれたの?」
「え?」
叶の質問があまりにも意外だったらしく、里は驚いたように目を見開いていた。しかし、その表情が驚きだけではない色を含ませていることに叶は気づいた。
「ずっと気になってたんだ。でも、聞く勇気がなかった。聞いてしまったらお姉ちゃん、もう来てくれなくなるような気がして……」
頭を垂れ、悲しそうな表情をする叶を、里は観念したという風に肩を竦めた。そうして、車椅子に座っている彼と目線を合わせるように膝を屈める。
「ごめんね」
「なんで謝るの?」
「騙してたわけじゃないんだけど、ごめんね。ちょっと長くなるかもしれないんだけれど、聞いてくれる?」
「うん」
「私にはね、弟が一人いたの」
「弟?」
「そう、名前は拓也っていうの。叶君が入院していた病院。拓也もね、実はあの病院で入院してたの」
「だから、病院にいたんだね?」
「うん。拓也の病気は癌だと分かったときにはもう既に手遅れだったわ。だから、治療というよりは病気の進行を遅らせるために入院してたの。でも、私は毎日見舞いにも行ったし、一生懸命励ましたわ。きっと、治せる。きっと元気になって拓也は帰って来れるって信じてた。でも、叶君と会ったあの日にね、拓也は死んじゃったの。拓也の死が受け入れられず、私は泣き叫んだわ。何度も、何度も、二度と目覚める拓也に向かって呼び続けた。けど、やっぱり拓也は目覚めなかった。それで、頭を冷やすために屋上へ行ったの」
「そこで、僕と出会ったんだね」
「えぇ。叶君を見たとき、私は一瞬、拓也がいたのかと思ったの。けど、近づいてみたらやっぱり違った。それでも、一人でいる姿が寂しそうに見えて、それで声をかけたの」
「そっか……」
「叶君を拓也として見てたわけじゃないの。でも、やっぱり心のどこかでは、きっと重なってみていた部分もあったと思うわ。だから、ごめんね」
再度謝る里に、叶は顔を横に振った。俯いていた顔を上げ、里を見た叶の顔はとても穏やかな表情をしていた。
「僕ね、お姉ちゃんが誰かの面影を追っていたことは気づいてたんだ」
「え?」
「時折、僕を見る目が悲しくなってたから。でも、僕はお姉ちゃんに会えて良かったと思ってる。あの時、お姉ちゃんに会えなかったら、僕は……」
咄嗟に口から出そうになった言葉を、叶は慌てて飲み込んだ。その様子に、里は小首を傾げてくる。何かを言いたそうな表情を見せたかと思うと、叶はおもむろに頭を振った。そうして、少し苦笑いをしてみせた。
「僕は、お姉ちゃんに会えたからここまで頑張ってこれたんだ。そうでなかったら、僕はきっと心を閉ざしたままだった。お母さんにも、先生にも。誰にも心を開けずに、二度と笑うことなんて出来なかった。でも、お姉ちゃんに会えたから僕はまた笑えるようになれたんだ。ありがとう、お姉ちゃん。あの時、僕に声をかけてくれて」
「叶君……」
叶のお礼に、里は瞳を潤わせていた。泣き出しそうになるのを必死にこらえ、彼女はニッコリと笑う。叶の前では笑い続けると決意したその日から、里は決して泣くまいとしていた。彼の病気がどんなものであるのかも分からない。けれど、彼の病室が天に近いことが語っていたのだ。
彼の病気は治りにくいものであることを。
彼の命が、風前の灯火であることを。
弟・拓也を失った瞬間から、里は病院のシステムを漠然と理解していた。
「私のほうこそ、ありがとう。叶君のおかげで、私は拓也の死を乗り越えられた。叶君のおかげで、私はまた笑顔になれたんだよ。だから、私のほうこそありがとう」
お互いに泣き出しそうになる顔を必死に隠して二人は笑いあった。
そうこうしているうちに日が段々と傾きかけた頃、二人は叶の病室へと戻ってきた。しかし、その部屋には見知らぬ青年がベッドの横に座っている。その存在に気づいた叶は、訝しげに眉を寄せた。見た目はおそらく里と同じ歳ぐらいだろうか。端正な顔立ちをしているその青年は、伏せていた目をゆっくりと明けて部屋へと入ってきた叶たちを見た。
「晶!」
その青年に向かって、里は明るい声で彼の名であるらしいそれを呼んだ。そのことに叶は驚く風もなく、なりゆきを見つめている。叶の病室にいた、たったそれだけで叶は青年が里と関係している人物であると直感していたのだった。
「里、遅いぞ」
「ごめーん! 叶君と一緒に街に出たら色々見に行きたくなっちゃって」
「ったく……相手は病人なんだぞ。もう少し気を配ってやれよ」
「だからごめんってば」
「それは俺にじゃなく、そいつに言ってやれ」
どこか素っ気ない態度の青年に、里は頬を膨らませた。しかし、彼の言葉が正しいと判断すると、里は叶へと目を向ける。
「ごめんね、叶君。長い時間外に出てちゃったけど、やっぱり疲れさせたかな?」
「ううん、大丈夫だよ。それより、あのお兄さんはお姉ちゃんの知り合いなの?」
「うん。彼は最上晶。私の恋人だよ」
「……そっか……」
恋人という言葉が思いの外グサリと胸に刺さった。それでも、叶は里にそれを感づかれないように、必死に表情を保つ。あくまで彼女の望む弟のように、決して己の恋心を気づかせないよう、叶は笑顔を絶えさないよう微笑み続けた。
「喉渇いちゃったね。ちょっと飲み物買ってくるよ。叶君はいつもと同じのでいい?」
「うん、ありがとう」
「里、俺のも頼むわ。珈琲な」
「はいはい。どうせ甘ーいやつでしょ。いつも飲んでるから分かってるよ!」
「おう、サンキュ」
思っていたより早いうちに晶と二人きりになった叶は、一瞬にして表情を無に変える。彼女の前でなければ微笑む意味などないからだ。いきなり表情の変わった叶に、晶はさほど驚いた風もなく、ただジッと叶を見つめる。
「そういう表情もできるんだな、お前」
「別に。お姉ちゃんの前でないし、笑顔を向ける意味はないと思うけど」
「そりゃそうだ。男に微笑まれたって寒気がするしな。なんだ、やっぱりお前、あいつのこと好きなんだ」
「気づいてたのなら少しは察してほしいな。そっちのほうが年上なんだから」
「お前みたいな腹黒そうな子供にそんなこと言われると、余計にそんなことしねーよ。ま、一応忠告だけはしとくわ。あいつは渡さねーからな」
「それなら僕も一言言っとくよ。僕がお姉ちゃんのこと好きだってこと、絶対言わないで」
「?」
何言か言葉を交わしてみて、初めて晶はキョトンとした表情を出した。それでも、何かを察するわけでもなく、晶は叶の次の言葉を待った。
「お姉ちゃんには言ってないけど、僕の命はあと少しなんだ。先生とか誰も言わないけど、自分の体のことぐらい分かるよ。でも、お姉ちゃんにはずっと笑顔でいてほしい。せめて僕の生きてる間は、ずっと笑っていてほしいんだ」
「あいつは笑顔だけが取り柄みてーなもんだからな」
晶の台詞に、叶は小さく笑った。けれど、その表情は息苦しそうに顔を大きく歪めていた。そんな表情を出すのは、叶にしては珍しいことだった。さらに、初対面の相手ならばなおさらだ。けれど、叶は晶にだけは遠慮も配慮もなく、真正面からぶつかっていく。
「僕が言うのもなんだけど……お姉ちゃんを悲しませたら許さないから」
「そりゃこっちの台詞だ。あいつを好きだって言うのなら、死ぬ気で生きろ」
「……」
「なんだよ?」
急に押し黙った叶に、晶は困惑そうに眉を潜めた。さきほど会ったばかりだというのに、二人のやりとりはまるで幼馴染のように親しげだった。
「初めてだよ。そんなことを言われるの。先生ですら生きろとは言わないから。医者だからこそ、僕の病気が治らないこと知ってるんだろうし、逆にそう簡単に生きろって言わないからいい先生だと思ってる。でも、本気で生きろって言われたのは初めてだよ」
「悲しませるなって言ってる本人が悲しませてどうすんだって意味だよ。別にお前が生きようと死のうと構わねーよ」
「うん。お兄ちゃん、見た目以上に見所あるんだね」
「こんの……くそガキが」
不躾な言いように、晶は乱暴に叶の頭を撫で回した。初めて頭を撫でられた叶はキョトンとした表情で彼を見つめる。それでも、その行為を無理にやめさせようとはしなかった。
しばらくして、里が三つの飲み物を買って戻ってきた。いつの間にか仲良くなっている二人を見て、彼女はまた溢れるような顔で笑った。その表情につられて叶もニッコリと笑う。その姿はまさに歳相応の子供だった。今まで晶と交わしていた会話など微塵も感じさせない、子供らしい純粋な話し方。その様子を見ていた晶は、叶が本当に里を好きであるのだと感じた。
好きだからこそ心配をかけたくない。その心理を、晶とて持っていた。だからこそ、晶は叶との会話を一切里に話そうとはしなかった。それを言ってもどうしようもないのだろうという感覚と、里に抱く恋心を教えないでほしいと願った叶の思いをその胸にソッとしまいこんだ。
そうして静かに、それでも着実に時間は進んでいき、気づいたときにはすっかり日も暮れてしまった頃であった。面会時間も終了となった頃に、里たちは叶の病室を出ようと立ち上がって帰宅しようとしていた。
「あ、晶お兄ちゃんはちょっと残ってもらえないかな?」
「あ?」
「どうして?」
「お兄ちゃんに内緒の話があるんだ。恥ずかしいからお姉ちゃんは部屋の外で待ってほしいな」
「そっか、分かったわ。それにしても叶君と晶が仲良くなって本当によかった。それじゃ、私先に外出とくね」
「うん。ごめんね、お姉ちゃん」
「ううん。別に大丈夫だから。それじゃあね、また明日会おうね! 叶君!」
「うん、またね、お姉ちゃん」
軽く手を振り、里は病室を出ていった。そうして残った空間には再び晶と叶だけとなった。最初のような緊張感は、二人の間にはすでにない。それでも、訝しげな顔を叶へと向ける。
「俺に用ってなんだよ。別にお前の気持ちを伝えたりしないぜ」
「うん。そうじゃなくってさ、これを僕が死んだあとに渡してほしいんだ」
そう言って出してきたのは、里と会う前に夢中になって描いた一枚の絵だった。そこには笑っている里の姿が描き出されている。
「自分で渡せばいいんじゃないのか?」
「言ってるでしょう。僕はお姉ちゃんに何も告げずにこの世を去るって。僕が居なくなったあとでも、また笑ってくれるように……だからこれを渡してほしいんだ」
「まるで……ちゃんと生きようとしていたけれど、不治の病で仕方なく死んでしまった子って立場で死にたいってのか」
「露骨な言い方だけど……そうだよ。僕、お姉ちゃんに笑っていてほしいけど、同じぐらい泣いてほしいとも思う。だって、その時はお兄ちゃんじゃなくて僕を、叶という存在だけを見てくれてることだから。少しでも独り占めしたいでしょ?」
「ばーか。どんなときでもあいつは渡さねーよ。たとえお前を失ってあいつが泣いたとしても、すぐさま笑わせてやる」
「……うん。その言葉が聞きたかった」
晶の言葉に反抗するかと思っていたが、叶はあっさりと身を引いた。もともと、叶は晶から里を引き離そうとは思っていない。自分の恋自体が不毛であると決めつけ、奪おうともしていなかった。ただ心配なのは、自分が亡くなったことで自分の大好きな存在が悲しみに暮れてしまうことだった。
「お姉ちゃんのこと、悲しませたら絶対許さないからね。これから先、ずっとお姉ちゃんを幸せにしないと、呪っちゃうから」
「おぉ怖っ! でも、お前に呪われるようなヘマしねーよ。そんなことより、お前は自分の体を治すことを一番に考えとけ」
「…………そだね」
叶は晶の言葉を同意しながらニッコリと笑った。その笑顔が、どこか仮面のように思えた晶だが、彼は何も言わずに病室を出て行く。ドアがしまり、外で里と晶の二人が何か喋っているのが聞こえてくる。どこか楽しげに聞こえる雰囲気に、叶は一気に表情を曇らせた。
二人の目の前ではかなり平静を装っていたが、終始胸は金切り声を上げているようにうるさくざわめいていた。痛みと愛おしさ、悲しみと喜び。相反する感情が小さな体の中で暴れ、それでも叶はその苦悩を誰にも打ち明けようとはしなかった。あれほど態度を崩した晶の前ですら、叶はいまだ胸に秘めていることがあるのだった。
「ごめんね、お姉ちゃん。本当はもっと……傍に……」
紡ぐ言葉すら疲れたのか、叶はどっとベッドに倒れこむ。そうしてゆっくりと息を吐き、彼が受け取り損ねた彼女の絵を目の前まで持ってくる。そうして、その絵を軽く抱きしめると、叶はゆっくりと目を閉じた。
「……ばいばい……」
まるで静かな波のように、叶の呼吸はゆっくりと、しかし浅く繰り返される。すでに大きく深呼吸することすら難しくなっていた。本人は深呼吸をしているつもりでも、普段と変わらないように呼吸をしているつもりでも、確実に呼吸は終着駅へと続いていたのだった。
そうして、夜が明ける頃。叶の命は、静かにその幕を引いたのだった。
*****
サラサラとした長髪を靡かせて、一人の女性が墓前の前に座り込んだ。色とりどりの花束を墓前に飾り、彼女は静かに手を合わせた。しばらくそうしたあと、彼女は墓前に眠っている彼へと声をかける。
「久しぶりだね、叶君。今日はね、なんとご報告があります! なんと私、今度晶と結婚するんだよ! すごいよね! 付合い始めたのが中学校からだから……もう七年ぐらいになるのかな。正直、本当に結婚できちゃうなんて思ってなかったから嬉しいよ。叶君が、私のお願い叶えてくれたのかな?」
そこまで話した女性の目には今にも溢れ出しそうなほど潤んでいた。泣き出したいのを必死にこらえながら、彼女は努めて明るく話しかける。それは生前の彼にもそうしていたように、その態度は亡くなった今でも変わらない姿だった。
「叶君……君が亡くなって、とっても悲しかったよ。まるで拓也を亡くした時のようだった。それでも、君があの絵をくれたから……そして、晶がずっと私の傍に居てくれたから。だから乗り越えることができたの。ありがとう、叶君。そして、もう一つ言わないといけないことがあります。叶君が亡くなってから、晶から聞いちゃったの。内緒にしておきたかったことだって聞いたけど、それでも君の本心が聞きたくて。だから、遅くなっちゃったけどあのときの答えをここで言うね」
そこで彼女は一区切り間を置き、何かを決意するように頷くと墓前に頭を下げる。
「ごめんなさい。叶君の気持ちはとっても嬉しかったよ。でもね、私は今でもそうなんだけど晶じゃないと駄目だったの。だから、振ることしかできなかったけれど……叶君が私のこと好きだって思ってくれたこと、すごく嬉しかった。ありがとう、叶君。私のこと、好きになってくれて」
そう言って、彼女はニッコリと笑った。しかし、その目からは一筋の涙が流れた。その涙に、彼女のすべての感情が込もっていた。
叶の死も、彼が抱いた感情すべてを否定することなく受け止めた。叶が不毛だと諦めていた恋は、確かに叶うことのなかった想いではあったが、全くの無駄な恋などではなかった。
「里ー。もう行くぞー」
ふと、遠くから彼女に声をかける男性がいた。その彼を目に映した途端、彼女の表情が変わるが、すぐさま怒ったように声をかけた。
「あ、待ってよ晶! 晶は叶君に挨拶しなくて本当にいいの!?」
「いいよ、別に。今でも恋敵であることに変わらねーんだから。敵に塩は送っても、情けはかけねーよ」
晶の言葉がおかしくてクスクスと笑う里だが、彼は軽く肩を竦めるだけで何も言おうとはしなかった。
晶は一度も叶の墓前に手を合わせたことがない。それはかつての恋敵への対抗心なのか。けれど、晶は手を合わせない変わりに、叶の墓前に拳を向けるのだった。喧嘩を売っているようなその態度に、里も最初は怒っていたが今では何も言わなくなった。それが彼なりの叶に対する気持ちであると気づいたためである。
晶の黙祷はものすごく短いが、拳をつけたあとの晶の表情は何かのやる気に満ちていた。まるで、叶との約束を果たしているかのように。
「ねぇ、本当に叶君と何か約束とかしてないの?」
「しつけーな。話せることは話てやったろ。あいつ、お前に自分の気持ち知られるの相当嫌がってたんだぞ」
「だって……それでも、聞いて後悔してないよ。叶君の気持ち、本当に嬉しかったんだもの」
「てめ、それ浮気じゃねーの?」
「茶化さないでよ! あ、そうだ。もう一つ報告あったのよ」
「あ?」
「これは叶君じゃなくて、晶。あんたに報告」
「なんだよ?」
面倒そうながらも問いかける晶に、里はクスッと笑ったあと小さな命の誕生を彼の耳に届けるのだった。
そうして月日は流れていく。叶が亡くなって三年目の春のことだった。里のお腹には新しい命が宿っていた。そして、彼女たちは決めていたのだ。新しく生まれてくる子供の名前を“叶”とすることを。
彼が生きられなかった人生を多く過ごせるように、彼が諦めてしまったこと全てを叶えるような子になるように。
彼女たちは生まれてくる子供を、今か今かと待ちわびていた。
THE END_