第1 衝動事件 9.
9.
十八時三十五分。
「ただいま」
一言発したと同時に引く玄関のドアが鉛のように重く感じられる。
畠山はやはり、かという思いでドアを引いたまま深く溜息を落とす。
帰宅中に自宅へ電話をした時、何度かの呼び出し後、やっと受話器を取る気配がしたが無言のままだった。妻に間違いないのだが呼びかけに応じる気がないようだ。
玄関の明かりを点けると靴を脱ぎ、揃える事も無く台所へ向かう。手に提げていた鞄を台所横の居間のソファーへ放り投げると食卓のテーブルで二つのコンビ弁当を広げる。
水道の蛇口へとケトルを持ってく。半分くらいの水を汲むとコンロにかける。食器棚の引出しから箸と湯飲みを取り出すとテーブルに並べた。
ネクタイを緩めながら寝室へ向かう。その前でゆっくりとドアノブを回して押すと廊下の光が差し込む。当然、部屋の灯りは点いていない。
「明美」小さく問いかける。
部屋に備え付けてあるベッドにうつ伏せている妻と薄暗いが分かる。ただ、動く気配も無く、まるで物と化した物体と見間違えるほどだ。
「明美!」今度は強く呼んだ。
暫く様子を窺っていると声ともつかないうめき声で妻の頭部が微かに動いた。
「明美、いったい、どうしたんだ? 弘明のことは分かるが、お前までそんなんじゃ身体を壊してしまう。世話やら任せきりは申し訳ないが、頼む! いい加減に、これからの事をゆっくり話そう、な」
「……」
「このままじゃ、何も進まない。とにかく部屋から出て、何か腹に入れてくれないか」
「……」
あれ以来、妻は塞ぎ込んでしまいほとんど部屋を出てくる様子がない。自分の居ない時に少しは何か食べていれば良いのだが、帰宅してもそんな痕跡がない。それに妻に問いかけてもまともに話しにならない。今日も何一つ変わらない態度だ。
息子の入院先で説明を受けた十三日の検査結果以来、妻の態度は一変した。当然だ。医師の下した診断の結果、救いようの無い息子の病状を聞かされ、愕然としていたに違いない。誰しもまともで冷静ではいられない告知、普段何もない人間でさえ動揺するところに、気持ちが弱っている私たち夫婦には残酷とも言える告知だった。
だから妻の精神状態も普通でないのは当たり前だ。ここ数日まるで魂の抜け殻も当然といえばそうかも知れない。
深く溜息を落とすと急に背中に錘がどっしりと圧し掛かるように重くだるい。どう言う訳か次第に腰の辺りが砕けるように立っていられなくなった。柱に凭れ掛かり身を屈めると肩で息を継ぐ。目の前がチカチカとし始め視界が狭くなり薄暗くなる。軽い眩暈が襲う。ここ最近、妻同様に自分も精神的に参っていた。ぐらつきそうになりどうにか堪えたが、身体は堪え切れず、やがて折れるように膝を着き項垂れる。胸を押さえると呼吸が乱れ動悸がする。意識が遠退きそうになるのを無理して大きく息を吐き出す。
――ふう。
深い息継ぎを暫く繰り返すと意識は辛うじて維持できた。気分も良くなってきた。気を取り直して改めて問いかける。
「なあ……」
「なあ……、明美。――何かないか? その、まあ何と言うか、隠しているような事」
「……」
妻の反応のない様子に肩でもう一つ息を継ぐ。それから壁に背凭れずりずりと尻餅を着く。
「何か他に隠し事、なんてのは、……ないよな」
目頭をグリグリと押す。それから両手で顔を擦る。部屋の壁から天井へとだるく視線を移動する。それからもう一度項垂れると床の一点を見据えたまま放心状態となる。
「いったい、どうしたんだ」
視線は同じ一点を見据えたままだ。暫くして片膝に手を着き起き上がろうとする。ふいにコンロにかけたケトルがけたたましく唸り始めた。それでも畠山はヌタヌタと台所へ向かった。その瞬間、脳裏には何か分からない引っかかるようなもの、それも得体の知れない何か、奈落の底へと引きづり込まれていくような悪い予感が駆け巡り、胸騒ぎともなり、ジワジワと広がりかき消せなくなりつつあった。妻のことでもあり、自分の事でもある。
コンロの火を止めると騒々しい甲高い音と入れ替わり静けさが増す中、微かに動悸が残る。
思い出したように急須にお湯を注ぎ、ややしてから湯飲みにお茶を注ぎ、長く息を繋いで一口啜る。
その後、一人で弁当をつついた。妻の為に買った弁当は蓋が乗ったままだ。結局、部屋から出てくる様子もない。仕方ないがもう少し様子を見てみよう。あまり食が進まない。食べかけの弁当にご飯へ箸を突き刺し、手を休める。弁当をじっと見つめると口から小さく溜息を落とす。
煙草に火を点け何気に天井の隅を見つめ緩く煙を吐き出す。続けてもう一口吸う。
――そういえばテレビでやっていた少年の絞殺事件だ。息子の診断結果と同じ日のようだ。
驚いたことに息子と同級生、それもうちのクライアントである大分なぎさ総合病院事務長の米沢さんの息子だ。とんでもない事になったな。同じ子供を持つ親としてとても遺憾だ。
深く長い一口で煙草を吸う。
しかし、他所の息子より我が息子の今後が今の私達夫婦にとって早急に決断を下さないとならない状況がますます深刻化している。なのに妻のあの様子はいったいどうしたらよいのだろうか、このままの状態が続くようなら考えなければならない。ふうと溜息を着き食べかけの弁当をゴミ容器入れに捨てる。
もう一口煙草を吸うと灰皿で揉み消した。