第1 衝動事件 8.
8.
十五時三十八分。
赤松は陣屋と二人でマル害の父親である米沢隆志の勤める大分市白埼にある大分なぎさ総合病院を訪れた。
PCを裏手の駐車場に停めると正面受付口へと回った。
待合室は患者や人が疎らだった。昼の休憩時間に入ろうとしている時間帯なので少ないのだろう。病院の昼の休憩時間はだいたい十三時頃から十五時頃辺りが一般的だ。
赤松は受付の前に立つと事務服を着た若い女が立ち上がった。茶髪でだいぶ痛んだ髪先、アイライン、薄赤く引いた口紅が病院に不釣合いな女だと思えた。こんな女が受付に立つなんてこの病院大丈夫か。お偉らさんのパトロンなのか? 冗談なような女だ。
ねめしあげるような目線、威嚇する赤松は背広の内ポケットから名刺を取り出し、スッと滑らせた。この手の女は大体が力の強い人間に靡く。
目の前に差し出された名刺に目を遣るとそれがどうした、といった顔つきで笑みも欠片もまったくなく言い返してきた。
「どちらに?」
この名刺を見てピンとこないなら警察手帳を顔に叩きつけないと分からないバカ女なのか。
「ここの偉い人に会いたい」指先でトントンと軽く叩く。
「はい?」惚けた声で聞きかえしてきた。
「ここで話がわかる偉い人間は居ないのか?」
茶髪の女は誰が良いのだろうと考えているが反応が悪い。電話を取ることも何か行動するといえる動作をまったくしない。
「あんた、俺の名刺、解かるよな?」今度は赤松の自分の名刺をコツコツと叩いて言い放つ。
「解かってますよ。だから、誰がいいか考えてるんじゃないですか」
「なら、さっさとしてくれないか。なんなら、大声上げてもいいんだが」さっさとしてくれ。こっちは悠長にしてられない。時間が無いのだ。他の刑事達に出し抜かれちゃ、俺の引いたクジの意味が無い。
「ちょっと」少し苛つきながら女を呼んだ。
「後ろで踏ん反りかえる黒ぶち眼鏡のあの男は? 偉そうな態度だがな」
女は振り返ると「あ、あの人?」受話器を手に持ち、首を竦めて左右に顔を振る、と同時に踏ん反り返った男を睨む。その視線に気付いたのか男は急に席を立ち背筋を伸ばし、咳払いしているようだ。
女は内線番号を押すと受話器越しに赤松と刑事二人が受付にいると伝える。少しして相手の話に「はーい」と間延びした返事をして受話器を元に戻した。
「理事長が会うって言ってます」
ふん、やはり理事長か。あの古狸のじじいは一筋縄じゃ行かんな。まあ、それは分かりきったことだが。
「じゃ、頼む。案内してくれ」
「ここを右に行って、突き当たりにエレベータあるから、六階に行って。降りたらすぐに役員室があります。すぐに分かるから」素っ気無い言い方で勝手に行って頂戴という。
その態度に呆れるが、まあ、いい。別にどうでもいいって感じなところがここでの裏の話が聞けそうだ。手なずけておけば使えると思う。
「あ、刑事さん。これ」名刺を指で押し戻してきた。
振り返ると女は不適な笑みを浮かべている。
「あの、あんた本当にここの人?」小声でこそりと訊いた。
「そうだけど。ここ、うちのパパが経営してる病院。私は別にここで仕事しなくてもいいんだけどね」だるそうに答える。
「そうかいなるほど、そんな感じがした。あ、そうだ、後から少し教えてくれないか」院長の娘だからもしかするとどうかわからんが。一応、仲良くしておけばきっと役立つ。とくに賢そうなお嬢さんでないのがいい。
「別にいいけど」席に座りながら適当な返事で答える。
「じゃ、後でな」
赤松と陣屋は彼女に言われたエレベータへ向かった。待たされずに降りてきたエレベータに乗り込むと陣屋が六の表示ボタンを押す。
エレベーターを降りると目の前にまっすぐ伸びた廊下。誰が来てもこのフロアーは特別とすぐに分かる。見上げると天井には高価そうな照明が煌々とキラびく。廊下には趣味の悪そうな胸部像が二つ並んでいる。恐らくここの創立者達の像だろう。横目に見ながら踏み進むと少し先のドアが開く気配を感じた。二人はほぼ同時にそのドアの方へ目を向けると部屋の中から一人の女性が出てきた。秘書らしき女は無表情な顔をして二人を直視すると品良く頭を下げる。それも隙のない振る舞い。
「どうぞ、こちらへ」やはり品のある声でドアを引いたまま二人を促す。
赤松と陣屋はつかつかとドアの前まで歩くと女に目を遣る。しかし、女はピクリともせず、表情も変えない。
すると部屋の奥から二人を呼ぶ声が聞こえた。それも低く太い声が部屋に響く。
声のするほうへ目を向けると金の眼鏡を掛けた恰幅の良い男が座ってこっちを見ている。白髪の髪と顎鬚が風格を表している人物ですぐにこの病院で一番偉い人だと分かった。
「お忙しいところ、大変申し訳ありません」赤松は一礼して心からではない決まり文句を言う。
「ああ、忙しいんだが」
「はい、分かっております」
「さっさと済ませてくれ」不機嫌な表情を浮かべる。
「分かりました」赤松と陣屋は部屋に足を踏み入れた。
黒光りした高級レザー地のソファーに赤松と陣屋は二人並んでテーブルの向こうの理事長と対峙するように座る。陣屋はすかさず手帳を取り出しペンを取る。赤松は自分の膝に両腕を乗せ、手を揉みながら理事長を直視する。
「お時間はとりません。少しお宅の事務長のことでお話を」
刑事として必要以上の言葉は述べず切り出す。
「知らない、といったら」
「これは決まった手順で、私たちは協力をお願いしているだけです。ご協力頂けないのなら然るべき手続きを踏まなきゃなりませんが。ご理解いただけますかね」決まりきった台詞でいう。相手の威嚇も脅しも屈せず引かない。私情をいれずこちらからの必要最低限を台詞で一歩も引かない事が刑事の押しの強さだ。相手がどんな人物であれ、いちいち気後れしていては持たない。
赤松は理事長の眼鏡の奥深いところにある黒目まで刺すように見る。相手の出方を窺って様子をみようとする。二人しかそこにいないかのように暫く向き合ったままその場の空気が止まった。
「ふん、そうかね。強気だな」鼻を鳴らし、口を開いた理事長はすぐに眉間に皺を寄せる。
「ええ、それに公務ですから」
「そうか。だが、手短にしてくれんか」
「ええ、分かりました」
「で、刑事さん。何が知りたい? うちの米沢は被害者側だろ?」
「ええ」赤松は少し身を乗り出し、首を立てに振る。「しかし、息子さんが亡くなった原因は父親のせいにあるのでは、と」
「ほう、いきなり単刀直入だな」
「ええ、お時間ないのと仰ったので遠まわしに訊いているようじゃ、進まないですからね」
「そりゃ、ご尤もなものだ」
「米沢事務長、最近揉めたり、トラブったりした事を耳にしたりしてませんか? それから嫉まれたり、恨まれたりされるような人間ですかね?」
「そんな男じゃないと思うが。日頃、私が見る限りじゃ、彼は結構慕われているんじゃないかな。なあ、」横にいる秘書らしき女に目を向けると女は頷き目礼する。
「そうですか。では質問を変えて、会計決算や資金繰りは如何ですか? 金回りは当然事務長が責任を持っていますからね」
「心配は無用だ。健全な病院経営で問題ない。失礼な奴だ」
「そうですか。それは大変失礼しました。ただ、金銭トラブルも可能性があると思いお聞きしているのです」
「憶測や推測があんたの我流なのか」
「いえ、そんな事はありません」
「じゃ、そんな詮索は要らぬ世話じゃ」
「そうですか。私は税理士でも医療事務のプロじゃありませんから、詳しくは解かりません。ですが、薬事法の改正やらでレセプトも大変でしょうな」
一瞬、顔色を変える理事長だが、臍を曲げるどころか身を乗り出し赤松を脅すように低い声で言う。
「ところで、刑事さん。さっきからのお宅の発言、犯人を揚げる事よりうちの内部を引っ掻き回す為に来たのかね? 世間のくだらん情報、マスコミの言うことを警察も信用してるんじゃないだろうな。あんな情報に警察も踊らされてるようじゃ、お宅ら警察も地におちたな」
赤松は怯むことなく理事長を見続ける。
「一つ言っておこう。刑事さん、お宅の推測に誤りがあったとしたら、どうするつもりだ? うちの事務長は私が推薦して雇い入れているんだよ。もし、そんなつまらない男なら私の見る目がない。そう、節穴ということになるんだがね。まだ、私も惚けちゃいない。お宅一人くらいの将来は私の一言でどうにでもなるんだ。そこのところ、肝に銘じておいたほうが身の為じゃないかね。え、刑事さん」
「誤りあったとしたらの事ですから。あくまでも」一歩も引かない赤松、赤マムシ。
「強気だな」理事長は踏ん反り返り、ソファーに奥深く座る。
「お褒めに預かり有難うございます」
「刑事にしておくのは持った無い。だが、本当に変わった奴じゃな」理事長は吐き捨てる。
「じゃ、これで失礼します」赤松はテーブルに両手を付き、ゆっくりと立ち上がる。
「もういいのか?」
「ええ、もうよろしいです。詳しい事は受付で取り次いで貰ったお嬢さんにもっと詳しくお聞きしますから。あ、そうそう事務室で黒ぶち眼鏡をした男性ですが、あれはいかんですな。あれじゃ、病院の質が問われる」理事長を見下ろすように言う。陣屋も手帳をしまい倣って立ち上がる。
「誰かね」横にいる秘書を見る。
無表情な女が身を屈め、理事長の耳元で呟く。
「そうか、あの男か、――ふん」
「お時間を取らせました。では、失礼します」
背を向けて出て行く赤松らに向かって「刑事さんを丁重に」とだけ言うと理事長はテーブルの上にあるクリスタル製の容器に入った煙草を取り出し咥える。秘書は二人を廊下まで送り出すと部屋に戻る。
横にあるライターに手をかけようとするが思いとどまって咥えた煙草をゆっくりと握り潰した。それを見ていた秘書は黙って背を向けると自分のデスクへと戻った。
「警部補、一筋縄じゃいきませんね」
「ああ、分かっている」
ツワモノで古狸なじじいだ。とにかく、気をつけておかないと裏で何をされるか分からない。
二人はドアが開くエレベータから降りようとした。その瞬間、乗り込んできた男とぶつかりそうになった。赤松は「失礼」と言うとすれ違う男は見向きもしないで表示階数ボタンを何度も押していた。エレベータを降りもう一度、男を見ようとしたが車椅子の入院患者や看護婦らが乗り込んで人影で見えなり、ドアが閉まった。
なんだ、あの男。礼儀をしらんのか。
赤松の記憶に何も思い浮かばないことから気にも留めず、廊下を歩き受付に向かった。
既に昼休みなのか、待合室が少し薄暗い。照明を落とし、人影もほとんど居ない。
受付の前まで来ると無愛想なお嬢さんは俯いているが、だるそうな感じは分かる。コネコネと自分の髪を触っている。
「おい、あんた」
ゆっくりと顔を上げる。
「あ、もう終わったの」
「ああ、今いいか?」
一瞬だけ後ろを振り返り、状況を確認してこちらへ向き直った。
「で、私になんか?」
「良かったら、事務長のことを少し聞きたい」
「あんまし良く分かんないし」
「いや、あんたの知っている限りでいい。最近、事務長の身の回りで変わった事は無かったかな? それか、知らない人間が出入りしていたとか? なんでもいいんだが」
「そうね――」首を傾げる。考えているのか、どうか適当に見える女。
「やっぱ、無いな。そんなこと気にしていないし」
「そうか。でも、ここに居るんだろ。一日いれば何かあるだろ」
「そう言われてもね。私は受付補助だから、患者ならすぐに後ろの職員に回すし」
この女はほとんど頭で何も考えていない。それでも受付に居てもらっても困るんじゃないか。ここ本当に大丈夫か。
「うーん、たいした事じゃないかもしれない」
「何か?」
「事務長、ここ最近外出が多いかな。いや、外出というよりほとんど席に居ないような気がするけど」
「それは仕事で館内を巡回したり、業者とか応対してるんじゃないか」
「そうそう、事務長私用の携帯電話でよく話しているかな。それから見かけないのよね」
「それが変わった事なのか?」
「そう、以前はほとんど席に座っていたんだけど。だから、ここに居ると嫌なのね。それがね、席に居ないことが多いから好都合。私はこうしてお気楽に好き勝手できるのよね。何かとあそこに居られるとやり難いのよ。まぁ、今日も当然、居ないから」
「と、言う事は最近の事務長は私用の電話で話が多く、不在が多いということだな」
「そうね、言われてみれば最近ここに居ないような気がするな」
「誰かと会っているのか?」
「そこまでは分からないけど、面会者もここに来るの減ったかな」
「そうか、ほかに何か?」
「えー、そんな位しか分からない」
「じゃ、事務長と仲の良かった人は?」
「そうね、中本さんじゃない」
「中本って?」
「刑事さん、あの人よ。黒ぶち眼鏡の偉そうにしていた、あの男」
「ああ、あの男か」事務室を覗き込むと中本と呼ばれる男は席に居なかった。
「そう、仲が良いってより、コバンザメなのよね。事務長の前では媚を売る、居なきゃ横柄な態度で威張ってさ。私には全然言ってこないけど、他の職員にはよく当り散らしているわよ。まったくウザイ。こんど、パパに言いつけようかしら」
「じゃ、中本は事務長といつもいるのか」陣屋が手帳に書き綴っている。
「それで、中本って男以外は誰か居ないか?」
「うーん、そうね。分かんない。でも、あの人この前、言っていたのを覚えてる。――たしか事務長によく連れて行って貰った事を」
「どんな」
「事務長と飲みに行ったとか、自慢げに話してたわよ。美味しい酒を飲ませて貰ったらしいのよね。幾つかそんな店があるみたい。でもさ、ヤクザがらみ人間の出入りが多いみたい」
「そうだな、どの店も大体は裏にいるもんだ」
「そうなのよね。事務長は結構接待受けていたみたいよ」
「それは何処の店とか? 名前分かるか?」
「えーと、覚えてない。だって興味ないもん」
使えない女だ。それに曖昧なネタだな。まさか俺の見込み違いだったのか、いやそんな筈は無い。俺の目に狂いは無いはずだ。この手の女は物事を深く考えていないのが大抵だ。
ここで話し込むのも何かと他の従業員にも目につきやすい。ふと周りに気を配りながら
「分かった。思い出したら教えてくれ。じゃな、他にも何かあったら教えてくれ」名刺をもう一度渡す。名刺の下には四つ折された福沢諭吉が少し見える。こんな金持ちの小娘でも目の前に福沢を一枚でも渡して嫌がられる事はない。恐らくカードを使うことが多くても小銭を貰うことは少ない。ちょっとしたお茶代わりに使えるはず。お金には困らないがお金はいくらあっても困らない。
もっと情報は欲しかったが、直球の聞き込みよりまずは手懐けた者を配備して自分の行動の効率と些細な情報をリアルタイムで収集するには必要な事だ。沢山は要らない、一人二人いれば十分だ。掴みさえ出来れば、後は連絡を待っておくだけでよい。
チラッとみるとフーンと呟き「そうね、何か思い出したらね」
名刺と福沢を無造作に上着のポケットにしまう。
「携帯番号を書いてあるから、そちらへ連絡してくれよ」
「もっと美味しい情報をだったら、どうする?」
「そりゃ、もっと喜ぶ御礼をしなきゃな」
「じゃ、思い出して連絡しようかな」指先の爪に目を遣り他人事のように呑気に話す。
「頼む」
赤松は陣屋に向かって顎で目配ると正面受付口から出て行った。