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第1 衝動事件 6.

6.


 十月十五日、七時二十五分。

 後藤と菊池は事件現場の府内あかね公園内駐車場に居た。

「ああ、分かった。そちらももう一度当ってくれ。それから転進してくれ」手短く指示をし電話の通話ボタンを切る。

「山下さんの方はまだ、何も?」菊池が伺う。

「ああ、そのようだな。自販機業者も当然、ここに出入りしているからな」懐に携帯電話を終いながら言う。

 公園の周囲を立ち入り禁止黄テープが張り巡らされ、そのテープの前に立つ制服警官に二人は目礼し、駐車場の自動販売機の前に立つ。当然、ここも関係者以外に触れないようにポールが並んでいる。自動販売機の陳列棚に並んでいる缶ジュースと同じものが犯行現場のベンチに転がっていた。だから、犯行現場は公園のベンチということになるはずだが、会議の席でのやり取りでそうとは確証が無い限り言い切れない。それに自販機のメーカーの人間、缶ジュースを補充するその人物自体が犯人とも考えられる訳だから。

「係長、こっちもまったくですね」

 黙っている後藤は菊池の話を聞き流しているようだ。

「昨日から今朝にかけてぶっ通しであれだけ聞き込みしても手がかりも目撃者もまったくですからね」弱音を吐く菊池をよそに後藤は自動販売機を背にし、公園の入り口に立ち、腕を組んで辺りを見回していた。

県警総力で殺人事件の初動捜査が昨日から始った。後藤と菊池は早朝五時から公園の周囲に隣接している住民に聞き込みを始めた。倉田と吉川も公園の周辺を当っている。山下と郷地には自動販売機業者の行動確認、公園管理業者、その他関連する業者があれば合わせて当たるように指示しておいた。

 第一発見者も朝早くから公園を散歩していたということから、昨日は公園の周辺状況を捜査してみたが、何よりもまずはこの時間帯に起きている住民を四名で手分けして探そうと昨晩に決めた。次に十六時から十九時の時間帯に聞き込みをしようと二班に分けて地取りに分けようと考えた。捜査効率を上げ、可能性ある目撃者を探そうということだ。マル害の死亡推定時刻が十六時から十九時の間くらいなのでその時間帯が犯行時間帯ではあるが、朝からの時間も効率よく利用したいのだ。

 この公園入り口にPCを停め、早朝の時間帯からおよそ二時間かけて聞き込み、きっちりと公園全体を一周した。これからさらに聞き込み範囲を隣接した周辺から広がりを持たせ、聞き込みをし直そうとしていたが、一度犯行現場に立ち寄り検討しなおそうと思い、後藤は菊池と公園正面入り口から駐車場へと入ってきた。駐車場は立ち入り禁止状態にある為、一台も停められていない。

「しかし、参りましたね。目撃者の聞き込みまったくですからね」

「……」虚空を睨む後藤警部補。

「係長、だだっ広いこの公園で殺人が行われたのにどうも不思議でならないのですが」

「なぜだ」腕をくんだまま後藤は聞き返す。

「だってそうじゃないですか。目撃者がただの一人もいないのですよ。いくら閑散と冴えない公園でも午後から夕刻にかけて人っ子ひとりもいないとは思えないのですが。まだまだと思うのですが、なんとなくですが……」

「だれが、いないといえるんだ」菊池の話を否定するように言う。

「ベンチに座って少年の首を絞めている光景は誰しも気付きませんか? そんな行為をしていれば誰かに気付かれそうですよ。ただ、計画的な犯行であれば何か、気付かれないようにするとかんがえられますが、やはり無計画な犯行であればきっと目立ちますよ」

「ああ、そうだが、物事は考えてから言えよ」そう言いながら後藤が歩き始める。横目で菊池を見遣る。

 菊池は後藤を目で追いかけながら首を捻り、腕を組む。

「いいか、付いて来い」

「あ、はい」

 菊池は辺りを探るように後藤の後ろに続く。二人はゆっくりと公園に入っていく。公園の広さは一般にある小、中学校のグランドに相当する広さと言える。後藤の歩く速度は遅く、公園に入ると視線を犯行の行われた奥のベンチに固定したまま歩く。およそ、三十メートルほど進み、左手に植え込みが見えてきた辺りで立ち止まる。

 後藤は身体を上下左右に揺らし、しゃがみ込んでベンチを見る。それから背伸びして見た。その光景を菊池は横目で見てから後藤の真似をする。菊池は首を伸ばさなくても楽に見えた。二人の視線の先にあるベンチの周辺には躑躅が点在している。開花時期をとうに越えた躑躅は何の魅力のない立ち木。

「あのベンチに座る人影を見るにはこの辺りまで歩いて気をつけて上から覗き込まないと見えにくい。瞬間に見えたとしても不思議でないが」

「確かにそうと言えますね。だから、発見者は植え込みを回り込まないと気付きにくい、ということですね」

「まあ、とにかくそんな位置にあるということだな。楡の木は公園全体を囲んでいるように植樹されている。その楡の木にペアーのように設置されているベンチに座ると分かるんだが、他のベンチに比べこのベンチだけはどこから見ても死角になるようなんだ。偶然にここで犯行が行われたのか、それとも計画的に行われたものなのかだな」

「でも、それでも絞殺して騒いでいたら、不自然ですよ。犯行の真っ最中ですよ。偶々、その見えそうな角度で通りかかったとして、覗き込んだとしたらどうでしょう」

「そうだな。だがな、――親子のように、息子と母親か、息子と父親とかなら一瞬見たところで親子に見えればどうって事はない。息子を抱きかかえるような体勢にも見えなくもない」

「と、言うことはマル害と犯人は顔見知り? で、ベンチに並んで座っていた、と?」

「そう考えてみても不思議じゃない。ただ、あのベンチが犯行の現場としてだが」

「そうですよ、ベンチが犯行現場ですよ。だって、缶ジュースも転がり、横たわるマル害の状態もですよ。だから、犯行現場はあのベンチの上で行われたと思います。それに顔見知りならなお更で、一緒に公園に来たとも考えられますよね」

 後藤は首筋辺りを掻く。

「おいおい。そう、あれこれ決め付けるな。この公園、確かに日々の利用者は少ないようだ。それにこの辺りまで歩いて気を付けて見ないとベンチに座る人影は見え辛い。だからといって誰にも見られていないとは考え難い。恐らく気付かれていないだけだろう」

「そうかもしれませんね」

「ただ、本当に目撃者がいると限らない。単にいないのかも知れない」

「じゃあ、やはり誰も見ていない?」

「いや、そうとは限らない。勝手な憶測で判断したくないし、俺たちは可能性を追っていくこと? 真相を絞り込むんだ。勝手な決め込みは思考を狭まる。どちらにせよ、聞き込みは必要ということだな。とにかく目撃者がいるか、いないかの判断は必要だ」

「でも、どうやって? ここら辺りの住民を取りあえず聞き込みはしましたよ。早朝の世帯には誰も居なかったですからね。これ以上の範囲を広げ、聞き込みにも結構時間かかりますよ」

「とりあえず?」

「あ、いえ」

「だったら、もう一度最初から洗いなおすし、二度三度と聞き込みを重ねてもいいんだぞ。その時、思い浮かばなくても時間が経つと思い出す事だってあるんだ。些細なことが欠け落ちて見落とすことがないように目撃者が本当に居ないのか」

「分かりました。全部洗い直しですね」

「ああ、そうだな。でもまぁ、少しは可能性がある角度からでもいいんだ」

「可能性のある目撃者はいるかもしれん。とにかく足で稼ぐしかないな。捜査は始まったばかりだぞ」

「ですね。すみません」

 大した判断でもない事でも、些細な事も取りこぼさず、可能性ある事実。それを虱潰しに一つずつ潰していく消去式で追い込んでいくのも捜査の基本だ。それを菊池には身体に刷り込んで欲しい。

 二人はさらに調べた後、駐車場に戻り公園を後にした。

携帯電話を取り出し倉田の携帯電話に連絡をした後藤は菊池に言ったことと同じ事を伝えた。

 その後、地道な地取りを午前中にかけて行った。


 十二時四十分。

 捜査本部の午後一番。会議室でコーヒーを啜る刑事たち、窓際で二人コソコソと話して手帳に書き込んでいる刑事、自分の席に座り、後頭部をペン掻いている刑事、上座に近い席に腕を交差させ口をへの字にし、目を瞑る頭の薄い年嵩の刑事。それぞれに準備や整理をして会議の始まるのを待っているようだ。いや、緊張感のない雰囲気と言っても良いようでもある。事件発生二日目と言うこともあり、寛いでいる訳ではないが刑事たちの緊張は薄くまだまだスロースタートといった感じだ。

 後藤と菊池がドアを開け、会議室へ戻ってきた。会議室に入るなり、他の刑事たちを気にも留めず後ろへと進む。一人の年嵩の刑事には手を揚げるとその刑事は目礼を返した。

「係長、コーヒー飲みます?」コーヒーカップを手に持ち、揺らしながら後藤へ問いかける。

「いやいい、すまんな」と言いながら壁時計を見る。

「そうですか」菊池も壁時計を見ながらカップを元の位置に戻す。

 壁時計が十二時五十五分。

 会議室のドアが開き、本間部長と黒田課長が入ってきた。

 今日は、上妻本部長は一緒ではないようだ。一日、二日では事件解決にいたる筈はないと踏んでいる。毎日毎日の捜査会議には出ていられない。それでも濃い報告が上がり、進展や展開が変わるようであれば出席する。そんないいとこ取りしか出席しないだろう。

「係長、本部長いっつもいいとこ、ど……」こそっと話す。

「しっ」静かに、と目配せする後藤。

「全員揃ったか?」

 手元に広げた書類に目を落としながら確認する。

「いえ、赤松警部補がまだですが」柳井警部補がさっと手を挙げ言う。

 黒田は顔を上げ、首を伸ばし赤松の座るはずの席を見遣る。

「わかった。赤松警部補がまだのようだが、始める」まったく、あの男は、と言ったふうに窺えた。つい、顔が陰るが、すぐに柳井へ目配せる。

「起立! 礼!」柳井が声を張り上げると揃った刑事達が一礼をする。

黒田は腕を組んだ本間の横で全員を見渡す。

「着席」

 頭の薄い年嵩の刑事は顎に手を持っていき、肘を抱え込んでいる。

「部長、どうぞお願いします。指示ください」黒田が本間を見ながら言う。

 首を横に振り、顎で返す本間が指示する。

「分かりました。では、各班、捜査報告をしてくれ」

「はい」すぐに手を挙げたのは昨日に続き山崎警部補だ。

「山崎警部補。そうか、赤松警部補の班がまだのようだな。じゃ、頼む。害者の身辺情報だったな」軽く頷く黒田。

 山崎は席を立つと手帳に目を落とし、目を凝らす。

「はい、マル害の少年について調べで分かったことですが」

 指を舐め手帳の頁を捲る。小さくカサッと捲れる音が聞こえるほど周りが山崎の報告を聞き漏らすまいと聞き耳を立てている。

「昨日、報告したマル害の自宅付近を聞き込みしました。ほとんどの情報が得られませんでしたが、事件当日十三日の午後三時頃、少年が自宅を出かける姿を隣の主婦が見かけているようです。偶々買い物から帰ってきて車から荷物を運び出す時、少年の姿が目に入ってきたので声を掛けようかと思ったら、携帯電話で話しているようで、手を振って声をかけても気付かなかった、との話です。それ以外はまったく、収穫はありません」

「その主婦はマル害とは話はしなかったと?」黒田が尋ねる。

「ええ、そのようです」

「じゃあ、見かけただけだな。他には何か?」

「いえ、今のところ分かっている情報だけです」

「そうか、それじゃまだまだだな、引き続き頼む」

「はい、わかりました」手帳を閉じ、席に着く山崎。

「では――」と言いかけた時、会議室のドアがカチャリと小さく音を立てて開いた。

 ドアがゆっくり開くと赤松が頭を下げ、入室してきた。

「遅れてすみません」

「赤松警部補、遅れるようなら必ず連絡すること。出来ないのでは困る」赤松をチラッと横目で見ると視線を戻し黒田が言う。

「申し訳ありません。以後気をつけます」頭を下げるがその態度と言い方は反省の色がなく別段申し訳なさそうな顔をしていない。

 後藤と菊池の三列前の席に着こうと他の刑事を横切る。薄くニヤッと笑ったような気がする赤松の口元に気付いたのは菊池だけなのだろうか。何気に横を見ると後藤もチラッと横目で見ていた。

「赤松警部補。早速だが午前の報告を頼む」

 赤松は席に着くなり、背広の内ポケットから手帳を取り出し広げると頁を捲る。一瞬、戸惑いの表情を見せるが席を立つ。

「はい。マル害の両親の職場から当ろうと思いまして。まずマル害の母親の店へ訪問してきました。当然不在です。息子が亡くなったのでしょうから、休んでいて当然です。店員から母親の人柄や日頃の素行など差し障りない程度に聞いてみましたところ、口を揃え母親に対する敬意は表すものの、陰では何か言いたそうな感じでして、日頃、母親の言葉の端々で本当の息子でないので愛情は薄かったようです。日頃から慕ってこない息子に対してあたっていた。素っ気無い台詞も吐いて呟いていたようです。そのことが店員にとって嫌な気がしていたようです。この事は想定していました。やはり先日の山崎警部補の報告にあった後妻の立場からして間違いない気がしていましたから。えー以上ですが、午後からは父親の通う病院へと当ってみるつもりです」

 そこまで一気に話すと手帳をパタッと閉じて席に座る。

黒田は目を細め赤松を一瞥すると書類に目を落とす。赤松の報告に何かを感じ取ったのか、考え込んでいる様子だ。

「母親は息子に死なれて亡骸に縋り付くのが芝居なら、とんだ女を嫁に貰ったもんですよ」呑気な口ぶりで赤松が言うが、言い繕うようにも聞こえる。

横から陣屋が厳しい表情をしたまま「害者が可哀想だな」小声で呟く。赤松に相槌を打ち、マル害に同情するかのように言う口ぶり。

「分かった。引き続き父親の方を当ってくれ。くれぐれも両親への対応と発言には気をつけてくれ。ナーバスになっている両親はテレビの恰好の的だからな。――では、現場のほうはどうだ。臨場したその後の収集の方は。後藤警部補、現在までの報告を頼む」

「はい」と手帳を広げながら椅子をずらし、席を立つ後藤。

「では、犯行現場の公園周辺を捜査しました。それから、目撃者も当ってみました」

「四名で二手に分かれ、四方を樹木に囲まれた公園に隣接した住民、付近の店、会社、それから自動販売機の取扱い業者、公園の管理業者なども聞き込みをしました。今のところ犯人と思える人間の目撃者はまったくです。それから、マル害の目撃情報もこれもってまったくありません。引き続き公園を中心に地とり、周囲を広げて聞き込みを行いたいと思います」

 そこまで報告を伝えると後藤は手帳を畳み席に着く。

「そうか」短く溜息を着くと黒田は顎を撫でる。「とにかく引き続き当ってくれ。些細な情報も漏らさず頼むぞ」

「はい」席に着く後藤と菊池が答える。

「では次、鑑識の方はどうだ」

「はい、遺留品の整理と分析は現在も行っております。それから現在のところ、マル害の司法解剖が今日の午後に予定されております。その結果報告を待ってから更なる報告をいたします。それ以外は今のところありません」

「分かった。夜の会議で報告を頼む」

「了解しました」

「君たち、少し捜査の進め方、遅くないか? 情報が薄いぞ。それじゃ黒田警部の顔が立たんぞ」

 本間部長が痺れを切らしたのか急に口を挟む。

「今日の夕方までにはもっと濃い情報を頼む。なあ、黒田警部」

「は、はい」黒田が短く答え一礼する。

「とにかく、頼むよ。黒田警部の絶対の指示に従ってくれ」目を細くして刑事達を見る。

「いいか、すぐに当ってくれ。夜の会議までにはもっと気の利いた報告を頼む。では、これで捜査会議を終える。散会!」少しばかりか黒田の声が大きく聞こえる。その雰囲気を感じ取ったのか柳井がすばやく声を上げる。

「起立! 礼!」柳井が声を張り上げると刑事達は一礼をした。

 本間は口をへの字にし、席を立ちながら黒田に目配せする。本間は上妻本部長と違い、黒田をかっている。黒田という男を右腕と思っている男で事件の解決進展を危惧しており、上妻のような派手で自分のことしか考えていない上司とは違い、世間体も見栄もなく正義感を重んじる男だ。よって黒田の現場指揮することを応援する故に、刑事達にも活を入れたいと考えての発言だった。

 本間に続き黒田が会議室を出て行く後姿を刑事達が見送る。


 後藤と菊池二人は地下二階にある鑑識課のドアを押した。

「梶原くん、どうかな」

「あっ、後藤係長。どうも」ゴム手袋を嵌め、顕微鏡を覗き込んでいた指紋係の梶原が振り返る。

 ここに配属された梶原美香はすでに三年になる。田辺の右腕になる女鑑識管で変わり者でもある。ほとんど篭りっきりで一日の大半をこの部屋で過ごし、パソコンに向かっては回収された遺留品や証拠品に付着する指紋の他、塗料、果汁、粉類、液体類、ありとあらゆる物の照合や分析をしている。地方の県警には警視庁のように係りが分業されておらず、指紋に関する係全ての担当が居る訳ではない。指紋照合係、照合係、理化係、資料係、現場足跡等を梶原がこなす。現場写真係、特殊写真係、写真閲覧係全般の熊川がこなす。この鑑識課では全般の責任を田辺主任が仕切る。梶原が指紋係全般、熊川が写真係全般の総勢三名で鑑識課が成り立っている。

「この試験管には何か」白く濁っている試験管に菊池が触れようとした。

「あ、それ」

「ん?」

「触らないほうが良いと思う」梶原は抑揚のない平たい声で言う。

「あ、そう」

「うん、馬の精液を薄めたもの」菊池に背を向け、言い放つ。

「へぇ、おっとと」降参といった具合に両手を挙げ後ずさる。なんでこんな物が、いう訝しげな視線で見る。

 後藤はつかつかと進み、退いた梶原を横目に顕微鏡を覗きながら「ところで例の吸殻だけど」と問いかける。

「はい?」と横にいる梶原が応えようとした。

「まだだ」すると背後から田辺の声。

 部屋の入り口の立つ田辺が両腕を脇に抱え、腕を組み、口をへの字にして言う。

 菊池が反応して振り返る。後藤は顕微鏡から目を離し起き上がると腕を組んで顎を撫でる。

「田辺主任、判りましたか?」菊池が質問する。

「今言ったとおり、まだだ」

「でも、少しは進んでいるんだろ?」背後にいる田辺に顕微鏡を覗きこみながら言う後藤。

「まあ、そうだな」

「田辺係長、何か少し掴めましたんでしょう。あの吸殻」

「いや、まだ何とも、ね」

「DNA鑑定は?」振り向きながら後藤が聞く。

 顕微鏡から離れた後藤を確認してから梶原が交代するようにプレパラートを別のものと取り替え、座りなおすと顕微鏡を覗く。

「そうだな。ただ、現段階ではまだ、なんとも」

「鑑定が決定的証拠になるとは、やはり難しいのでしょうか」菊池が横から聞く。

「そうだな、最近の鑑定方法も昔とは違うが、やはりな」

「だからですか。捜査会議の場ではまだ報告するには至らないし、結果が出ない限り正確な報告が出来ないというわけですね」

「まあ、そんなところだ。それにそんな早く結果は出ない」

 そこまで言うと田辺は自分の机に向かう。席に着くと手に持っていた黒いファイル2冊を机の上に無造作に置いた。その一つのファイルが滑ると下側のファイルの表紙が見えた。

 田辺は振り返ると人差し指を突き出し、目を細くし、菊池に視線を送る。

「そもそもDNA鑑定で物事は証明できないし、断定できない。一〇〇パーセントの証明は土台無理なんだ。いいか」と言いかけた時、顕微鏡を覗いている梶原が口を挟んだ。

「人のDNAは二十三対四十六本の染色体で構成されています。すべてをつなげると約六〇億の塩基の並びになります。部分的にひとりひとり違う配列を持っています。DNA構造の模式図で、ある特定のヌクレオチドと呼ばれる分子が鎖のようにずっとつながっています。ヌクレオチドの塩基には4種類あります。略してA、T、C、Gと呼びますが、アデニン(黄)、チミン(緑)、シトシン(茶)、グアニン(青)を色と形を換えて表しています。このため指紋のように同一人物であるかを判断できるとして、ここ二十年ほど研究と解析技術が進み、犯罪捜査にも導入されるようになったのです。

六〇臆の塩基を全ての照合をする訳ではありあません。現在、『MCT118型鑑定』を警察では採用しています。人の第一染色体のMCT118と名づけられたところに「GAAGACCACCGGAAAG」という十六塩基配列が繰り返し出てくるところがあります。父親、母親それぞれから受け継いだ二ヵ所からそれぞれその繰り返し数が測定できます。例えば、『十六回と二十七回』、『十三回と三十二回』といったパターンが見られます。このパターンが人によって違うことから、二つのDNAが同じか違うかを判定できます。家族であれば更にそのパターンが似ています。『MCT118型鑑定』で、血液鑑定を行っても一〇〇〇人に一人、同じパターンの人があってもおかしくないと言われています。だから、DNA鑑定で何かを証明しようなんて不可能なんです。ただ、縦列型反復配列多型の方法では完全に別人であることが簡単に証明できます。現在の犯罪捜査では縦列型反復配列多型を中心に検査をして個人識別に使っています。その為、最大限の評価も出来る事も否めません」

 そこまですらすらと話をすると梶原が覗き込んでいた顕微鏡から目を離し、「すみません」田辺に向かって頭を下げる。相変わらず表情の少ない彼女は何にしても博学で何処で習ってくるのか良く知っている。本職以外の事も色々と調べてくる。その辺りも田辺にとって気が楽なのだろうが。

 もともと刑事一家であった梶原。父親も兄も捜査一課に席を置いていた。父親は梶原が小学校の五年生の時、殉職した。盗みを犯した犯人を追っていた時だったらしい。詳しくは本間部長が知っているらしく、それは本間部長と彼女の父親は警察学校の同期だからともある。兄は亡き父の想いを受け継ぐように警察へ進んだ。捜査一課に席を一時置いたが、警視庁へと引き抜かれ、現在東京で活躍している。その血筋なのか梶原本人もDNAを引き継いでいるようで警察の世界へと入ってきた。田辺から可愛がられ、ここで才覚を発揮している。若い割に衒うことなく田辺を慕っているし、難解な事件も解決に導いた立役者でもあり、そんな怜悧な人物だから田辺もとやかく口を出さない。

それだけでなく田辺も後藤も本間部長にお世話になった口だから、彼女の父親にも敬意を払っている。警察に身を投じる人間は、同じDNAを持ち合わせているのかも知れない。だが、『MCT118型鑑定』してもそれは鑑定できないだろう。

「――と、言うことだ」田辺は開いたままの口を閉じ、下唇を突き出す。突き出した人差し指を首の後ろへもって行きポリポリと掻く。それから後ろ髪を撫でる。

田辺は今年で五十三歳になる。ここには二十八年も在籍しており、大分県警の鑑識課でも古株である。現場や会議では気丈に振舞っても気の知れた仲間内では、ぼやきも愚痴も言う。疲れも溜まっている。だいぶ白髪も増え、頭の天辺も寂しくなっているのを気にしてか最近、残りの髪に愛着を持つ、いや少ない髪を確認するかのように後頭部に残る白髪交じりの髪を撫で付ける。そんな田辺と馬が合うのか、事あるごとに後藤はここに足を向ける事が多い。

 田辺は大切な髪の確認が取れたのか、今度は首を揉みながら「はぁ、疲れたな。梶ちゃん俺、保管庫に行ってくるわ。ここ頼むよ」と言った。そのまま頭を後ろから両手で抱え込み数回腰を回す。それから両手を上に伸ばし背伸びをしながら言う。

 彼女は薄く目だけで笑うような素振りで「はいはい」嗜めた口ぶりで返事をする。

 田辺が部屋を出た後、梶原もポリビーガーを両手に持って出て行ってしまった。

 熊川も出払って、田辺と梶原二人が居ないガランとした鑑識の部屋は何でもあり、といった状況だ。

 後藤は徐に田辺の机に視線を持っていきながら歩み寄り、表紙の見える下側のファイルを手に取る。頁を捲りながら資料に目を落とす。菊池も田辺の机の前にいる後藤に歩み寄り後藤の手に持つファイルを覗き込んだ。

「なんだ、ここまで解かっていてもったいぶって」口元を緩める後藤。

「あの吸殻、同一の判定みたいですね」

「ああ、そうだな。同一人物みたいだな。あの鑑定方法が全てではないが、可能性があると言うことだ」

「じゃあ、同一人物があの木陰に居たという可能性はあるってことですよね」

「ということになるな。あの木陰の下を通りかかったというより意図的に居たということが考えられる。しかし、それも断定できるにはどうかだな。全てにおいて決めつけは禁物だ」

 後藤は、梶原からの話を聞いても常に確実な事が言えない限り不確かな事として整理していく性格を持ち合わせている。納得できないものは頷けない性格だ。

 二人は解析された資料を見入る。

「この報告書、今晩の捜査会議には報告するんでしょうね」

「そうだろうな。ひとつの可能性のあるということでだろう。その前に一足早い情報だな」

 黒いファイルを閉じると後藤は机にあるもう一つのファイルの上に重ねた。と同時に梶原が部屋に戻ってきた。

「ありがとうな、梶原くん」

「いえ、どういたしまして。何かありました? 私、部屋に居ませんでしたよ」

 先ほどの話は何処に行ったのやら、後藤と菊池の行動を見てみぬ振りをした梶原は自分の席に着くと顕微鏡を覗き始めた。ひょうひょうと答える彼女に後藤はニヤリと笑いながら部屋を出て行く。その後ろについて行こうとした菊池を呼び止める梶原。

「あ、菊池さん。そこに冷たいもの準備しておきましたけど、どうぞ。後藤係長の分も準備したんですが、すでに行ちゃいました」

「え?」彼女から言われる辺りを探すとポリビーガーに入っている白い汚濁ともいえる液体が目に入る。馬の精液が混ざったのではたまったものではない。まさかそんな物飲ませる訳が無いだろうが気が引ける。

「あの、これ?」菊池は指を指す。

「ええ、その辺にあるはずです。それから、菊池さん」菊池へ目を向けず、顕微鏡からまったく目を離さない。

「いえ、止めておきます」両手をひらひらし、梶原の話に耳を傾ける様子もなく部屋を出て行こうとドアを押した。

「え、そうですか」と梶原は顕微鏡から顔を上げ振り返る。

「もうひとつDNAについて追加しなきゃ」と机の傍らにあったポリビーガーを口にした。

「喉が渇いたと思ってポカリスウェットせっかく準備したのに。それに近年のDNA鑑定はもっと精度が向上してるんだから、ほぼ完璧なのに。話は最後まで聞かなきゃ」とグイと残りを飲み干すとコトリを机に置いて首を回す。

 肩を窄めると顕微鏡に又、目を落とした。

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