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第1 衝動事件 4.

4.


 十月十四日、七時四十九分。

 畠山は玄関の鍵を気遣って静かに落とした。自棄に無機質で冷たい金属音なのだろうか。

家を出て足を踏み出そうとしたが振り返り、玄関ドアに向かって小さく溜息を落とした。

仕方ないな……。残された時間は僅かだが、妻にとって今は冷静になって貰う為の時間が必要だ。ここで私が自棄になってしまうと自分がどうにもならなくなる恐れがある。

 今日はそっとしておこうと思う。妻は寝室に閉じ篭り、一歩も部屋を出てくる様子が無かったからだ。

仕事を早退して大学病院に向かうと担当医と面談し、一人で診断結果の報告を貰った。とんでもなく途方に暮れる話を受け入れなければならなかった。本当にこれからのことで不安一杯で押しつぶされそうだ。担当医の話を何とか最後まで聞くことすら出来なかったが、なんとか受け入れようと気持ちを持した。

 昨日、妻は朝から病院で息子の検査に立ち会っており、私の到着を待ちきれず診断結果を訊いてしまったらしい。畠山が病院に着いた時、何処へ行ったのか行く先が分からなかった。何度も携帯電話に連絡をしてみても圏外のメッセージが流れるばかりだった。あれこれ心当たりある知人に聞き、近所も探してみた。行く先を掴めないままではあるが、気を取り直し、一度帰宅して探してみようと思った。

 思い足取りで自宅玄関の鍵を開けようとするとすでに鍵が開いている事に気付いた。ゆっくりとドアを押しやり、玄関に入ると部屋の灯りは点いておらず、真っ暗だった。それでも、なんとなく人の気配を感じ、電気を点けると足元に妻の乱暴に脱がれた靴が転がっていた。一瞬、躊躇ったがしゃがみ、靴を拾い揃えると下駄箱に置く。靴を脱いで廊下から台所と繋がる居間へ音を立てず進み、ソファーへ仕事の鞄と脱いだ上着を置く。

そっと寝室の前に歩み寄る。慎重にドアノブを回し押すと部屋の灯りは点いていない。部屋の灯りは点けなくとも廊下の光が差し込むと妻がベッドの袂に蹲っている姿が分かった。

 畠山は声を掛けず、そのままゆっくりとドアを閉めた。

 その晩、自分の体調も気にせず、煙草と日本酒を煽り居間のソファーで眠り込んでしまった。まったくと言っていいほど、頭の奥で痺れもなく酔えなかった。不思議といつもより煙草は美味しく思えて一箱も空けてしまった。

 少し酔いが残る重い頭、それでも自分だけでも冷静にいなきゃならないと肝に命じてこれからの事を抱えて考えた。

 俯いて考えたが、顔を持ち上げ気を取り直すと「行ってくる」とだけ小声で呟く。それから会社に向かった。


 テレビのリモコンスイッチを押す手が震えた。

 私はとんでもないことをしてしまった。

 テレビのニュース番組で『府内あかね公園』での殺人事件を知ってしまった。明美は誰もいない居間で一人、テレビの画面に釘付けになっていた。判ってはいたが昨日の事は夢であってほしい願いは、やはり願いだけである。

 震えながらテレビのリモコンスイッチを押す。するとその場で崩れ落ちそうにテーブルへうっ伏。暫くそのままの状態でいたが、ゆっくりと頭を持ち上げ目を閉じると、目を見開き歪んだあの顔、少年が苦しんでいるあの顔が――。

 明美は思わず、両手で顔を覆う。うっ、うっと指の隙間から零れ落ちる呻き声。


 ――一昨日、病院からの帰り道。明美は引き寄せられるように自宅への帰り道とはまるで反対にある公園にベンチに座る。すんなりと自宅へは帰るに気になれず、日頃の買い物をする時間であることさえも気が滅入りそうでどうでもよいと思った。だから遠回りして帰ろうというより行く宛も無く車を流した。

 腹の底、沸々したものがこみ上げるが、全身にも指先までには力が入らないままハンドルを握る。何も考えられない、見慣れない景色の中、十分そこらいや、もっとだろうかどの位走らせたか覚えが無い。交差点に差し掛かる信号機の表示が黄色に変る。それまでスムーズに信号を抜けて来たのが不思議なくらいだが、ごく自然にアクセルから足を浮かせ、ブレーキをゆっくりと踏み込む。

 計ったかのように停止車線の真上に滑るように前輪が停車する。と同時に彼女の肩が落ち、ため息が漏れた。

 あんなことを宣告されても今では、冷静な気持ちで余裕があるのが幸いだわ。彼女はそう思って心の中で小さく呟いた。今の自分は、ブレーキどころかアクセル更に踏み込んでもおかしくない心境だから。一時間ほど前から普通の状態でいられるなんて。動揺して気持ちが荒れているのにも係わらずハンドルを握るのは常識を外している。

 前方の横断歩道を歩く人もなく、左右を行き交う車もない。誰も居ない交差点に自分だけが取り残されたままでいる。彼女は定まらない視点のままどことない前方を見つめる。ふと見上げると信号の赤色が目に飛び込んでくる。思わず釘付けになり、その色を凝視して放せない。自棄にギラつく赤色に滾る。吸い込まれそうなほどの気分になりそうだわ、思わず引き剥がすかのように視線を逸らす。

 すると逸らした視線、その行く手の先に公園の看板が目に止まる。白い地肌に書かれた公園の青色の文字が時間の経過と紫外線に晒され薄れて読みづらくはなっているが、公園という文字だけが妙にはっきりと読めた。

『パーン』とけたたましく鳴らすクラクションの音で我に帰るとウインカーも出さず、ハンドルを左に切った。無意識にとった行動だが、迷いもなくアクセルを踏み込む。彼女の後ろにつけた車は若い男が運転していた。煙草を銜え、口を歪ませ彼女の車を睨んで更にもう一度クラクションを鳴らし、銜えた煙草を窓から投げ捨てるとスピードを上げ交差点を突き抜けた。

 彼女の目に映る公園は思っていたより広く感じられた。駐車場に車を停め、少し歩き公園の入り口に着くとその場で突っ立ったまま目だけで見渡した。

 人気が感じられない。目に映る景色、色褪せているように感じるのはどういう訳なのだろう。高い木々が並ぶ足元にベンチが備え付けられており、不思議と人気はない。平日のこの時間なら甲高い声を上げて走る子供たちがそこら辺りを駆け回ってもおかしくないはずなのだけれど。

 私は別の世界に踏み込んでしまったのだろうかと思うくらい静かな公園だ。ここだけは何かが違う。戸惑いも迷いもなく、何故かしら自分が今ここに居なければ、という気持ちに感じられる。

入り口に横に備え付けられた自動販売機で缶ジュースを購入した。私は誰も見当たらない公園の更に奥のほうに位置するベンチまで歩き、浅く腰掛けた。なぜだか、広い公園のなかでもこの場所だけが特に静かな場所に見えたからだ。見上げると一際高い楡の木、太く逞しく横へ広く延びる枝は少し弱くなりかけの日差しを遮る。この公園が作られる前からそこにあったかのように錯覚する。

 日が傾き、木漏れ日が時折、足元をゆらゆらと動く。

 缶ジュースをベンチの横にコトリと置く。それから、抱えていた買い物バッグから取り出した私宛の名前が書かれた封筒。病院から貰った紹介状と診断書を内包した封筒だ。ゆっくりと封を開け、書類を取り出すと丁寧に広げた。

 息子のかかりつけの病院、今日は息子の最終検査の結果を教えて貰う日。朝からの検査が長引いた後、担当の高野医師から呼ばれ、息子の状態と今後の方針を聞かされた。散々待たされたので疲れている。それだけではないが、それ以上に日頃の慢性的な疲れが彼女の気持ちを更に萎えさせた。

 診断書を広げて書かれてある内容が目に入らない。文字を追って見ているが医師のあの説明が脳裏に浮かび上がる。

「私たちも懸命な努力をしていますが、弘明君はこれ以上の快復は見込めそうにありません。弘明君のような症例は極めて少ない心臓の疾患です。残念ですが、後は移植しか残す道がありません。お分かりだと思われますが、現在国内での移植治療は法律が許しません。宜しければ、私たちが知りうるもっと研究の進んだ病院をご紹介いたしましょう。当然、日本ではなく海外の病院です。ドイツのミュンヘンに権威ある病院があります。そこは世界的にも外科手術を得意とする有名な医師団がおります。そのチームを引き連れるのはドッケン・ベルガー博士です。数少ない症例や困難な手術を成功させる博士です。ここなら間違いなく弘明君の外科手術は可能かと思われます。それでも、成功率は七十パーセントだと思われますが、このままですと時間だけが経過します。厳しい数字ですが、可能性に賭けるしかありません。あまり時間はありません。それから一つ、クリアしなければならないことがあります。――それはとても莫大な費用が必要となることです」

 高野はそこまで話すと明美の見たまま、彼女を覗き込んだ。

「とにかく、この判断はご主人とご家族の皆さんとで十分に検討してください」

「あの……、どのくらいの費用が」

「いえ、現在のところ、正確ではありませんが、当然保険も利きませんし、推定ですが数千万相当の治療費が掛かるかと思われます」

 眩暈がしてその場に泣き崩れた。恐らく蒼白な顔をしていたはず。その表情を察してか横にいた看護婦が肩を貸してくれた。高野も親切心で精神安定剤を数日分処方してくれた。

 息子は、下半身脊髄を損傷して動けない状態が続いている。それは交通事故である。もともと産まれたときから心臓の障害を持っていた。三歳の検診のときに不整脈で疑われ精密検査で心臓の左心室に血液が流れ込む。その逆流を防ぐ弁が変形しており、時折血液が逆流することで意識を失い倒れてしまうことがあった。保育園から幼稚園と様子を見ながら、体力のついた小学校に上がった折に心臓手術を試みた。その手術は成功と思われたがまた、再発。

 結局のところ通院と入院を繰り返し、現状を維持していた。定期的検査を行うが決して快復へと繋がる朗報や治る術は得られなかった。けれど、息子は生きている。小さな身体で生きようとしている。その意志が彼を維持していた。

 その弱い身体、無理な行動や運動が出来ないうえに車に跳ねられたのである。あれは私と一緒に並んで手を引き交差点を渡る時、スピードを上げて右折してきた乗用車に接触した。一瞬、何が起こったのか理解できなかったが、息子の弘明が倒れていた。直ぐに救急車で近くの病院に運ばれたが、打ち所が悪く、脊髄を痛めた事による半身不随となり、寝たきりの生活になってしまった。弘明の腰部、脊髄の内部で運動性神経細胞をつかさどる灰白質とかいう場所が損傷している。その為、立ち上がることどころか起きる事さえもままならない状況。私達夫婦と担当医師の高野と話し合いのもと、介護の大変さとこれからのことを何度も話し合った。それ以後、入院となり、通院から本格的な入院闘病生活が始まった。けれど、息子の気持ちを尊重して無理しなければ自宅へ一時帰宅出来る時もあり、息子の唯一、いや私たち夫婦にとっても唯一の楽しみである。

 そんな心臓の疾患を持つ息子に追い討ちをかけるように更なる不幸を招いてしまった。傍にいた私は手首を骨折しただけの軽症。その時、私の心はにはとてつもない大きなものをもう一つ抱えてしまった。何故、どうしてなのよ。産まれながらに心臓を患っているにも係らず、更なる試練を又、受け入れなきゃならないの。どこまで弘明を弄ぶの。どうしてあの子が過酷な運命を背負わなきゃならないの。弘明は何の為に生まれてきたの? 

入院中の息子は日に日に弱っていく。本人の為の治療とはいえ、弱りきった小さな身体には苦痛としか言えない。必死に歯を食いしばる姿は見ていられない。治療のないベッドに横たわる状態であっても手には長く伸びる管から滴る点滴が常に欠かせない。偶に苦痛から開放された息子を見たとき、その遠くを見る黒目には生気が感じられない。

 私も疲れていた。へとへとに疲れていた。覚悟はしていたものの想像以上に現実は厳しい。次から次へと押し寄せる試練の波に耐え切れない。そんな状況、出来ればこの現状から逃れたい。決して言ってはならない言葉だけど、限界だわ。母親として失格だわ。いや、人間としても失格よ。

 今は早く決断しなければならない。私たち家族には時間がない。ただ、息子を治すために治療費を何処でどうやってかき集めるの。それでも何とかしないと息子の寿命は残すところ一年と持たない。直ぐにドナー探しからでも決断しないと、――動揺と困惑、迷いと諦め、項垂れ逡巡するばかり。

「おばさん」

 突然、背後から声をかけてきた声で息が止まりそうになった。俯いたままの姿勢で手に持つ書類をグシャグシャと音を立て女の胸に押し当てる。と同時に声のするほうへ振り返り見上げる。

どこの子かしら――。


 それからの事を思い出そうとする。ふいに瞼の裏にあの歪んだ顔をした少年の顔が浮かんできた。頭を振って払いのけようとしたが離れない。テーブルにうっ伏して体の震えを抑えるのに必死になる。けれど、更に振るえが大きくなるばかりだ。

私は大変な過ちを犯してしまった。取り返しのつかない過ちを。あの子の首に手を滑らせて……、気がつくと取り返しのつかないことを。

 ――いったいどうしたら……。

 ふいに電話が鳴る。

 何度も呼び出しが鳴り響く。更にしつこく電話が鳴る。

 彼女はテーブルにうっ伏したままピクリともしない。

 しつこくしつこく部屋中に鳴り響く。

 あまりのしつこさに彼女は苛立ち、顔を持ち上げると居間へ向かい受話器を取り上げる。

「もしもし……」

<畠山さん?>

「は、はい」

<見たぜ>突然、受話器越しに聞き覚えのない男の声。

「は?」

< こ・う・え・ん。覚えてるかい? 見せてもらったぜ、ひひ>

「え?」

< 大丈夫だ、警察には言わんよ。俺はそんな男じゃない>

「何を言ってるんですか? 誰?」背中が一瞬ひやりとする。

<これはこれは、お愛想だね>

「どこかおかけ間違いじゃないですか」冷静に、出来るだけ冷静に答える。

<畠山さんだろ。だってさっき返事をしたじゃないか。だから、間違えてない>

「あなた、誰?」

<名乗るほどでもない。それより俺は見たんだ。公園であんたのしたことを>

「……」

<返事のない、と言う事はその通りなんだよな>

「どうして……」額に冷や汗をどっと掻く。

<ほらな>

「……」

<いやね、実はな、相談に乗って欲しい事があるんだよ、へへっ>

「……」背筋が凍る。

<少しばかり工面をして欲しい>

「工面?」

<ああ、金だ>

「そんな……、お金なんて」

<そう。お宅に金の無い事は分かっているが、俺の獲物を横取りしたからには落とし前として払って貰う>

「横取り、って何のこと」

<なあ、そう言うなよ。まあ、とにかく金だ>

「何ですか? 金って」

<なあ、そう言うなよ一回だけだ>

「……」

彼女は暫く黙り込んだ。

「いえ結構です。私やっぱり、警察に行きます」声を荒げ言い返す。

<そうかい、仕方ないね。俺も気が長い男じゃないもんでね。息子さん大変なんだろう? >

「何がです?」

<心臓悪いんだろう? 早いとこ移植しないと不味いじゃないか?>

「そ、それは……、あなたには関係ないことです」

<そうだよな。でも母親が犯罪を犯した、とあっちゃあーな。世間の目が許さない。そうこうしてる間に息子さんの寿命が尽きるんじゃ?>

「どうして、そんな……」

<ま、さっさと片付きゃいいんじゃない。警察に駆け込むようなことは止したほうが身のためだ>

「ちょっと……」

<又、連絡する>

 彼女が問いかける間もなく、電話が切れた。

 受話器を握り締めたまま呆然となり、その場に蹲った。

何処の誰だか、正体も判らない男に脅される。けれど、あの時の事をとても詳しく話した。側で見ていたかのように。――間違いなく見られたんだ。

 どうしたらいいの? この男の言うとおりにしないとこれからの全てが何もかも失ってしまう。一体どうしたら……。

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