第4 真実と苦悩 1.
1.
薄暗い部屋にひんやりと冷気が漂う。今日の取り調べを終え、留置場の硬く冷たい床に畠山は身を委ねる。徐に肌寒さから身を守る為に腕を摩る。
一時的に警察病院の医師が駆けつけて応急処置をして貰った。あの医者、俺の事を衰弱しきっているようだと、恐らく疲労困憊の為と判断し、安静するように注意してさっさと帰っていった。確かに出される食事もろくに喉を通らないし、自首する前からだいぶ食が落ちたようだ。しかし、たいした診察もしないヤブ医者に違いない。まあ、精密検査でもしない限り、私の事は判らないと思う。
今は何時ごろだろうか、部屋の高い位置にある小さな摺りガラスから薄ら灯りが漏れる。
ふーう。深く溜息が漏れた。――呼吸も安定し、今はだいぶ落ち着いている。床に倒れ、震える全身を押さえながらも一時はどうなるものかと脳裏を掠めた。その後、午後早々に畠山の身体具合を見て警察は一時取調べの中断か、延期を考えたようだが、自分の事しかないお偉いさん直々の指示が下り、明日からも取調べとなったようだ。そのお陰で今日は少し早目に取調べを終えさせた。まったく持って嬉しい限りである。自分に対して投げやりに毒づく。
全身の力を抜いてみた。目を瞑ると硬い床であるにも係わらず、身体が困憊しきって萎んで沈み落ちていくような感覚になる。何時の間にか引き込まれそうな睡魔が意識を占領し、眠りに落ちてく。
薄っすらぼやける意識で狭い視界に写る殺風景な四角い部屋の天井を見ながら、妻は狂っていたのだ――。自分の子供を殺そうなんて――、と呟きあの覚悟を決めた時を想起していた。
――窓を閉めカーテンを引き、居間に閉篭もった。
煙草の薄煙で淀む空気が部屋全体を占領し、閉塞感が襲ってくるが、それ以上に饐えた異臭が居間から染み出て、全ての空間を埋めて窒素してしまいそうだ。二人の死後から腐敗とともに放つ死臭が漂い始めているようだ。常人であればとても耐えられない。
畠山はそんな異常な空間で一人になってしまった。
ふうー。
弘明。お前は今頃、どうしている? 重く縛り付けていた身体と言う器から開放され、空の上で思う存分に全身を使って走り、そして又、笑っているか?
お父さんも暫くの辛抱すれば……。
息子が目に浮かぶと目頭が熱く、世界が滲んで見える。うっ、うっ、嗚咽吐き、声を噛み殺して呻いた。獣の咆哮のように吼えたいが、全身を揺すりながら堪えて泣いた。
明美、お前も何故?
自分の息子と同じ年の子供に手をかけることで妻も精神的に病み、狂ってしまった。いや、妻だけ出ない自分も同じようなものだ。自分も狂っていた、としか言いようがない。あの日から妻は自分を只管責め立てたのだろう。誰にも相談できない状態が続いたに違いない。それにしても何も自分で命を絶たなくても……。
妻のことを思うと神経が研ぎ澄まされたり、意識が朦朧となったりと精神の起伏が交差する。
あれから既に四日は経過したと思う。恐らくこのカーテンの色具合からして今は夕刻頃だと思えた。このまま時間が止まってくれればと。だが、カーテンを照らす昼間の太陽光と夜の光がおよその流れる時間を知らせる。当然、会社にも連絡はしていない。今更仕事なんてどうでも良い事だ。それにどうせ今頃はあの部長の事だから、何かしら裏で手を打っているに違いない。会社にとって自分は不要で、既に過去の人になっているだろう。
営業時代から身なりを気にし、小奇麗にしていた自分だが、髭が伸びている事すら気に掛からない。顔も洗っていないし、当然着替えもせず、風呂にも入っていない。食事も一切摂っていない。居間の隅に座り煙草を吹かすばかり。床に煙草を押し付け火を消している為、灰皿なんて要らない。又、煙草を取り出し咥える。食欲なんてまるで湧かないし、一切のことに思考も働かない。だが、不思議にどういう訳だか眠気も全く襲ってこない。その畠山の虚ろで落ち窪んだ目がギラギラと薄闇に浮かぶ様はまるで獣そのものだ。息子を殺し、内臓までも食い千切ることは無いにしても、死に追い遣った事には変わりない。
しかし、本当にこれで良かったのだろうか? 自問しても答えは見つからないが、あの時はああする事しか出来なかった事も否めない。何が正しくて、何が間違いなのか、幾ら自分を責め立てても息子はもう帰ってこない。犯した事は過ちだが、正しい事でもある。
力を籠め、目を閉じると湧き立つ背徳、逃れ堪えきれずに自分の頭を力一杯殴る。何度も自分の身体を到る所を叩き捲くった。痛みを感じつつ、それでも自分を痛めつけずにはいられない。自分の手に宿り憑いているのが息子なら、何度も自分を殴り殺してもいい。自分を殺せば、それが一番ではないかと――。
獣と化した自分には生きる意味が無いと思えた。ましてや警察に自首し、贖罪しても何の意味がない。妻や息子はこの世界から居なくなったのだから、もう何も考える事はなかった。だが、何れ妻の事や噂話を誰かが嗅ぎつけて穿り返し、都合の良い作り話にされてしまうのではないだろうか? それではやはり意味がない。私に矛先を向ける事で二人の死の意味を隠す方が良いのではないだろうかと。
不意に意識が現実に引き戻される。冷たい無機質な四角い箱に横たわる自分に気付くと辺りを見回した。自分の居る場所が一瞬思い出せなかったが、すぐに留置場に居るのだと認識した。ゆっくりと身を起こし、項垂れ、頭を抱え込みながらこれからの事について迷う。
暫く考え込んで深く溜息を着くと徐に天井を見上げた。
――やはり、ここで食い下がって取り調べされるより、もうどうでも良い。
あの時は二人の死を隠す事にしたかったが、今は米沢さんの息子を殺害したと言うことも合わせた方が良いのでは――。そうすれば直ぐに何もかも終わるのではと。確かに息子が生きているなら金は欲しかったし、治療の為には莫大な費用が要る。だが、今はもうどうでも良いことだ。
そう、今となっては喩え妻が罪を犯したのであろうが、違おうがどうでも良い事だ。私達家族、妻と息子の其々は解放され、私は行くべき道を見出し、終焉をもうそろそろ迎える。そう考えて敢えて警察に自首して来たのだ。
息子を殺した事、米沢さんの息子を殺した犯人。何もかも終えて楽になることを選択する。そう、妻は自殺、私は息子と無理心中しようとしたが失敗し、生き残ったと。全てを被り、時機に何もかもが終わる。
――それでいい、そうしょう。




