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第1 衝動事件 2.

2.

 十月十三日、十時十二分。

 畠山は、ビルの踊り場で一人、空を見上げたまま手すりに両腕を着き、肩を落とし溜息を着く。眉間に皺を寄せ見上げ下唇を歯で噛む。

 駅から近い生命保険会社のビルディングの五階、外ベランダの踊り場から見える空は両脇のビルに挟まれ片身の狭い思いをしているように見える。

 中堅薬品会社、協和薬品株式会社に勤める畠山秀樹は昨年から総務課に席を置き課長職を任されている。今年、四十二歳になったばかりで唯一の取り柄ではないが健康には自信がある、といいたいところだが――。

ふーっ。

 ところがここのところ思わしくない、と思っていた。どうも背中から腰のあたりまでズンとする圧迫感というか、違和感が残る。脂汗を浮べ、軽い眩暈。時折刺す胃の痛みのせいか食欲もあまりなく気に病んでいた。倦怠感と痛みが襲ってくる。自分の体ではないような気がしてならない。

 身体を起こし背筋を伸ばし右手で腰の当りを擦る。思い過ごしであればと――。

ここ最近の空模様、どんよりと重々しく低く垂れ込める鉛色した雲が青空を追い払い空一面に広がる天気が続いていたが、今日は空高い雲が薄く広がる秋の空となっている。

 項垂れた後、もう一度手すりに両手をかける。手すりにぶら下がるようにし、目を瞑り背筋を伸ばすと暫くそのままの体制を保つ。

「……」

 ふう、どのくらいだろうか、五分としていなかったように思う。少し重々しく感じる気分が幾分か過ぎ去って楽になったように思えた。

 上体を起こし、ゆっくりと上半身を左右に捻ってみた。嘘のように体が軽くなっていた。

 気を良くしたせいか、シャツの胸ポケットから、ついセブンスターを取り出す。真新しく封をきっていなかったのに気付き、一瞬の思いつき。いや、待てよ。――やはり煙に巻かれる快楽に負けて封を解く。その開いたところから煙草を引きずりだす。咥えたまま空を見上げた。

 どうしたものか、口にしたもののやはり止しておこうか。

 それより、今日は息子の診断結果が出る日だ。日頃から妻に大半を任せているせいか申し訳なさがあるが生活が掛かっている。遊んでられない現実があり、遊び金もないほど日々の治療費に回している。なんとか食いつないでいるのが現状で大切な息子の為にはどうしても頑張って行かねばならない。今日の診断結果次第では莫大な治療費が掛かる可能性がある。所詮サラリーマンの収入は知れたもの。本来なら誰かに縋りつきたいところだが自分の両親も妻の両親もすでに他界しており、幾らばかりかは親戚、知人に援助してもらっているがこれ以上の頼りはできない。それでも何か良い手立てを考えなければ息子の将来がない。

今、畠山自身のこともあるがそれ以上に背負って行くものが大きい。

「課長ー」ふいに背中越しに湿りっ気を含んだ男の声が聞こえた。

 声のするほうへ首を捻る。

「ん、ああ、君か……」

「ここいいっすか」と問いかけながら懐からセブンスターを取り出し、畠山へ差し出し確認する。同意を求める ことなく、巨体を左右に揺らしのしのしと歩み寄る。池辺は勝手に許可を貰ったといった態度だ。

「あ、ああ、構わんよ」一応、返答した。

 池辺辰己は畠山の同期である西城課長の部下で、入社して今年でそろそろ四年半くらいになるのかな、それでもうちの会社では若手社員に部類される男である。池辺の風貌は俗にいう肥満系の男だ。薄青い縦縞のスプレッドシャツできめこんでいるようだが、縦縞の模様が波打っている。

 そもそもうちの会社に縁故で入社した男だ。なにやら内山部長の親戚らしく、甥にあたる。詳しいことはあまり聞かされていない自分には関与する範疇ではない。幸いにして部下でもなく上司でもないので気兼ねしなくて済む。

 聞いた話によると仕事はそこそこ出来るようだ。この男は押しの強さで問屋や販売店への商品の卸を捌く。手際のよさ、仕事のこなしが社内でも知れ渡っている。そのせいか不遜で遠慮ってものを知らないような奴だ。

「池辺、おまえまた最近、太ったんじゃないか」ふと口をついて出てきた台詞に悪気がある訳じゃないが、自分の不調を気にしている畠山にとって不思議ではない台詞だ。それに一瞥してすぐに感じとった。ワイシャツの襟をなぞる顎の贅肉が池辺の肥満のバロメータを示している。若いのにこれじゃ、老いることなく生活習慣病で苦労しそうだな。

「そうす、か。へへ」煙草を咥え、ライターの火を風から避けようとパンと張った指で囲う。やはりまったく動じない返事と素振りである。

 池辺は畠山のセブンスターに気付いたのかライターを差し向ける。

「あ、ああ」畠山は左手を軽く持ち上げ、ひらひらとする。もう、いい、と気にならないなら知ったことじゃない。この男の体より自分のことを心配したほうがいい。

「先週、健康診断の結果だったんですがね、LDLとか、コレステロールやらと数値がやたら高いんですよね。へへ、評価が『要注意』ですからね、参りました。へへ」分厚い唇を丸くし、ふうーと煙を長く吐く。その訊きもしないどうでもいい事を池辺は勝手に話す。それも相変わらずの口ぶり。

「課長も気をつけて、へへへっ」煙草を咥え、顎を突き出し、ネクタイを締め上げる。

 しかし、どことなく品の無い厭らしい笑いをする鼻持ちならない男だ。

「じゃ、お先に。外回りしてきます。今日も西城課長と一緒だ」と池辺が独り言をいい踊り場のドアを押しビルへと消えた。

 その背を見送りながら畠山は咥えたセブンスターを元に戻した。


 十三時三十分。

「課長、お電話です」

 畠山の向かいに座る事務の橋本が言う。

 彼女はいつも必要以上に話さない。少しぶっきらぼうな人物だが、事務を携わる者は笑顔を振り撒くより事務処理に適しているのが良いと考える。正確性と速度、畠山は彼女に対して信頼の念を持っており、彼にとって片腕となる一応のレベルを持った彼女である。他の社員二人も日頃から良く頑張ってくれていると判断もしている。この部屋には畠山を含め四名でこの会社の総務と経理をこなしている。

「課長、畠山課長!」

 少しして畠山がハッと目を見開いた。

「は! 何」

「内線ですが」

「あ、悪い。つい、考え事をしていた」

「営業部の西城課長から内線です」

「すまない」といい終わらぬうちに躊躇せず受話器を取り上げ、内線ボタンを押す。何も考えてなく無意識の動作だった。

 それを見ていた橋本は訝しげる。ここ最近の課長の行動が不可解でいつも焦点の合わない目線、会話が噛合わない等といった畠山をおかしいと思っていた。とても遣り過ごせないと胸の内が不安だらけで、今、目の前での行動をみてもなおさら不安は広がる。自分の事に目をかけてくれているのが日頃の仕事の中でも良く分かる。決して贔屓にして貰っているとは思っていないが、仕事振りの評価を彼女なりに自負している。

「はい、もしもし。――いや、そりゃ無理だ」

 のっけから受話器越しに西城からの憤慨した声が漏れる。

「――それは、こちらの問題じゃない。――ああ、その件ならお前のところの西山主任に話してあるが」

 畠山は顎を左右に振りながらネクタイを締め直す。

西城とのやり取りは長引いた。事の解決はなさそうだが一旦話を切った。

「ああ……、分かった。でも、間違いなくこちら側のほうではそんな事はできないぞ。これ以上は無理だ」

 そこまで言い切った後、受話器を耳から離し目の前で一時握ったまま畠山は溜息をついた。視線は定まらないまま虚空を泳ぐ。

「課長?」

「へぇ、あ、なんでもない」

我に帰った畠山は受話器を元の位置に戻し、右手の人差し指と親指で目頭をグリグリとする。とても疲れていると悟った橋本は畠山に再び声を掛ける。

「あの、課長。お茶……入れ替えましょうか?」

 机の端にある湯飲み茶碗を見ながら窺う。

 俯いて暫く返事のない畠山は肩で息を継ぎながら目頭を揉んでいる。

「ああ、頼む」額の周りを何度も擦る。湯飲み茶碗にはまだお茶が残っているが、温くなってとても飲めそうに見えない。

 橋本は椅子を引き、席を立とうとした。

「あ、いや、いいありがとう。ちょっと外の空気を吸ってくる」手を揚げ、彼女にそう言うと席を立つ動作が覚束無い。何処と無く意識的にしっかりと歩こうとするが思うように歩けず、胃を押さえてふらつきながら部屋を出て行く様子。

 その後姿を橋本だけが見遣る。

 部屋を出ると廊下を抜け、ビルの踊り場へと出るドアを押す。

 ドアを押すと身体へ冷気が押寄せる。身が引き締まるのを感じ、一気に気力が高ぶった。踊り場へ出るとそこには先客がいた。

「池辺?」その後姿をみてすぐに池辺と分かった。その横にも一人の男が並んでいる。

「へっ」池辺は咥えた煙草を右手に取り、手すりに両肘を着き、凭れ掛ったまま首を捻りながら面倒くさそうな返事を返した。なんだ、ウザイとでも言う顔が露だ。畠山の姿を見ると少し背を伸ばした。一応気を使ったような仕草だ。

 畠山は背を伸ばし、腰を擦りながら「なんで、お前ここに?」言いながら顔を顰める。池辺の態度に気分を害した。無骨で生意気な男であるのは知っていたがここまで生意気な奴とは思わなかった。

「なんすか?」太い指にいつものセブンスターを挟み、口に持っていく。

「サボりか? こんなとこで油売ってないで外回りでも行ったらどうだ」今さっき西城からあれやこれや言われたことに気分を害していた事で少々八つ当たり気味だ。

「大丈夫っす、ちゃんとやってますって。な! へへっ」いつもの品の無い厭らしい笑いで横の男に相槌を求める。

 甲斐? 珍しい、この男と同じ営業部の男だ。一昨年まで畠山の部下でもあったが今では西城の部下だ。池辺と並んで煙を撒き散らしている。大人しい感じのする雰囲気を持つが、類は友を呼ぶとでも言うべきか、最近は体系も池辺に似てきたようだな。

 畠山は池辺の側を横目で見ながら「そうかね」ぼそっと言い放ち、手すりに歩み寄る。通り過ぎる横で甲斐は首を折り、頭を下げる。

「すんません」煙草を足元に放ると靴の先で踏みにじる。何食わぬ顔してその場から立ち去る。甲斐は一礼して側の空き缶へ煙草を落とす。

「大変っすね、課長も」薄く笑う口元から、何が大変なのか不明な台詞を吐きながらビルのドアを開き、甲斐を後ろに引き連れて中に入って行った。

「何がだ」本当に生意気で気味悪い奴だ。よくもまあ、この会社が勤まるものだ。西城も苦労しているだろうな。

 そう言えば西城の奴、まるでこっちのが悪いみたいじゃないか。あれだけの在庫だが、呆れたものだ。クソが。

 最終的にどうやって売り捌くのか本当に大丈夫ないだろうが、仕入れの支払いを遅らせるなんて出来っこない。仕入れれば必ず仕入れ元に支払わないといけないというのに一度売り上げが立った売り先のクライアントからのキャンセルを受けて次の売り先が見つかるまで支払いを引き伸ばすのも限界がある。このまま放おっておくと売り先なしの在庫だけになってしまう恐れがある。

 うちみたいに薬品を病院に卸している中堅の会社は他にも沢山ある。それとは反比例して病院はここ数年減ってきている。小児科や産婦人科は特に減ってきている。凌ぎを削って生き残りを賭けた会社は淘汰されずに済むだろう。ただ、うちみたいにぬるま湯に浸かった社員のいる会社は生き残れない。営業の世界は、少しは俺も分かる。それも一年前まで西城と肩を並べ、販売一課と二課とで競い合ったものだ。なおさら、知らぬ訳じゃない。今もあんなやり方じゃ、何時まで経っても何も変わらない。新規に開設された病院やドラッグストアなどに足蹴に通うわけでもなく、妙なプライドから脱却できず、行き慣れた病院へいっては医者に色事とアルコールに塗れてザブザブとした接待漬けの連日連夜。今の営業は馬鹿な連中の集まりだ。自分も以前はそうだったから、そう強い事は言えないが。

 ふっと畠山はよろめいた。慌てて手すりを掴む。

 手すりを掴んだまま胸に手を当て息切れる。肩で大きく息をする。どういうわけか足元の景色が歪んで見える。それに辺りがぼんやりと薄暗くなってきた。はっ、目が回っているのか。不味い、ここでひっくり返るようだと……。

 その場でしゃがみ込み目を閉じた。本当は目を閉じたくなかった。一瞬、そうなると目が覚めないのではないかと思ったからだ。それでも耐え切れず地面に手をつき蹲った。

 しかし、この気分の悪さはいったい何なのだ。まったく治るような気がしない。ますます悪くなっているような気がする。時々催す吐き気、胃痛、背部の鈍痛、食欲不振と思い込みや勘違いじゃない。徐々に何かが変化していく。自分の身体は自分が一番分かる。最近、自暴自棄になっている。

畠山は暫くその場にいた。

 幾分か気分が良くなって来たのはどのくらい経ってからだろうか、しゃがみ込んでいた姿勢から起き上がると深く深く息を着いた。少し俯き加減で空を見上げると項垂れる。それから徐に煙草を咥えた。煙草でも吸わないとやってられない気がした。自分の身に起っていることを知りたくは無い。まさか……。

来週の再診断まで待つべきか、どうかが悩む。

 そう思いながらも咥えた煙草に火を点ける。スーッとひと口吸い込むと今度は頭の奥のほうで酔い痺れる。一瞬だが、恍惚とした気分で嫌な事を忘れられる気がする。

 やはり、一度行ってみるか。

 いや、その前に息子のことが先だ。診断結果は午後には出ると訊いているし、妻も先に向かうと言っていた為、遅れていくわけにはいかない。もう一口胸いっぱいに吸い込むと踊り場にある空き缶へ煙草を放り込んだ。

 一服終え、席に戻ると橋本へ午後の早退を告げ、午後は早々に退社した。

病院にいく事は特に伝えていないが、彼女は畠山の事情を知っている。理解して貰っていると畠山も内心ありがたく思っていた。

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