第2 難航する捜査 2.
2.
十月二十八日、二十時十二分。
「明美、本当に身体を壊す。頼む、いい加減にしてくれ。出てきてくれないか! 俺の言うこと聴けないのか?」
畠山は廊下から寝室にいる妻に向かって大声で怒鳴る。ここ数日の妻のあらぬ態度に気持ちを害して露に怒鳴ってしまった。
一体どうしたというのだ。このままでは妻どころか自分までおかしくなりそうだ。
息子の病気による医師からの話、畠山自信の事。その事について今後の話は一切出来ず、挙句の果て部屋に閉篭もったままで何一つ前にも進まない状況だ。とにかく息子のこと以上に妻の身体が気に掛かる。焼きもきしていても仕方ない。妻が反抗してでも頬を叩いてでもこの部屋から引き摺り出して向き合って話すことだけだ。
はぁ、ふう。
気を取り直す。
「明美、どうした? いい加減に出てきてくれないか? ゆっくりと話し合おう。君が何を思っているのか、話してくれ」今度は物腰柔らかく問いかける。
「……」
「あのな、弘明も待ってるんだぞ――。お前のことを……」
「……」
「俺たち二人で弘明を助けてやらなきゃ、な」
「……」
「俺はお前の事は分かってるつもりだ。今までどんだけ弘明に献身的に尽くしてきた事をな。親として当然のことだろうが、世間の母親はそこまでなかなか出来ない。でもな、ここでこれからの事を決めていかなきゃどうにもならないんだ。例え嫌で逃げ出したい気持ちがあっても俺たち夫婦には避けて通れない。向き合わなきゃならないんだ」
「……」
「俺たちが居なくなったら、誰が面倒みるんだ?」
問いかける自分の異変に気付いた。次第に全身が熱く感じられ脇の下に汗が滲む。決して部屋が暑い訳ではないが額を手の甲で拭う。動悸がしてきた鼓動が耳に響く。目の前の景色が歪んで見える。一瞬、眩暈がしてよろけるが壁に手を着けるとなんとか持ち堪えた。大きく深呼吸をして気持ちを整える。以前に増して言いようのない鈍痛が背中を襲ってくる。
「明美……?」はあ、はあ。
「……」
「明美!」
息苦しさと苛立ちを振り払うようについに寝室のドアを勢いよく拳で「バン!」叩いた。その瞬間、立っていられなくなった。足の力が不意に抜け、床にひざまずき両手を着いた。呼吸は乱れ、更に重く鈍痛に襲われた。
暫くその場で蹲ったが次第に落ち着いてきた。
肩膝を着きその場に気力で起き上がると深く深呼吸をした。
「いい加減にしろ!」プツンと切れる。
畠山は声を荒げ、抑え切れない感情を露にし、ツカツカとベッドに向かうと蹲っている妻の腕を掴み全身に力を籠めて引き摺る。
「嫌だ! 嫌だ! 離してー! 嫌だ!」寝室中から居間、台所へと響き渡る。
ベッドにしがみ付き、声を荒げて抵抗する妻を無理やり部屋の外に連れ出す。
「嫌だ! 嫌だ!」
引き摺られたせいで着ている服がユルユルに伸びきっている。観念した妻の風貌は居間の灯りに照らされ、化粧気なく髪は乱れ、ここ二週間ほどで一気に十も老け込んでしまったような顔つきだ。
「明美! いいから、聴いてくれ!」
妻の肩を押さえ込み、彼女を覗き込むと宥めるというか、言い聞かせようとした。
畠山の肩を掴む手は力が篭った。そのまま無言の向き合った状況が続く。
暫く彼女の身体は硬直していたが、やがて諦めたかのようにゆっくりと肩を落とした。 普段の彼女とはほど遠いが、幾分かは落ち着きを取り戻しているように感じられた。
彼女の呼吸と落ち着きを確認すると、畠山は片膝を着き、その場から起き上がると台所に向かうテーブルに置いてあったケトルに水を注ぐ。コンロに置くと火を点ける。それから食器棚から湯飲みを二つ取り出すとテーブルに並べた。
「明美、ここに座ってくれ」と台所の椅子へと促す。
「さあ、いいから座って」もう一度促す。言葉は荒くなく穏やかに諭す。
又、暫く俯いてその場から動こうとしない。
畠山はテーブルに手を着いたままじっと待った。
「明美」
根気比べとでも言うか畠山は堪えて彼女をじっと見る。
ゆらりと彼女の肩が動く。
重々しい空気が狭い台所にどんよりと漂う。
どれだけ時間が経っただろうか、やっと腰を浮かせた彼女は重い身体を引き摺り、俯いたまま台所の椅子に着くと深く溜息を落とすと両肘を突き、組んだ両手を額に当て俯く。
暫くするとケトルが音を立て、唸りだした。畠山はコンロの火を止め、お茶葉を入れた急須に熱湯を注ぐ。少しして並べた湯飲みにコポコポとお湯を差す。
俯いた彼女へ湯飲みを差し出すとややしてから解いた手を湯飲みに伸ばす。俯いたままふうーと息を吐き掛け、お茶を啜る。
畠山もその態度に少し安堵し、テーブルを挟んで向き合って座る。同じようにお茶を啜る。
「明美、覚えてるか――」ゆっくりと話しかける。
それから、およそ二時間は向き合って今までの事、関係ないと思われるかもしれないが、弘明が生まれた時のことから今までのことを振り返るように話しかけた。日頃なら息子に関わる事は病状、医師や看護婦、治療のやり方等と苦しい内容の話が多いが、畠山は出来る限り楽しかったことを選んで話した。しみじみと毀れるばかりの思い出話を滔滔と話す。久しぶりの会話だ。何年ぶりかのような気もした。畠山の話す言葉に彼女は項垂れていたが、次第に顔を上げるようになる。
そんな妻には言えなかった。
息子の話題だけに絞って話したが、自分の事、喉の奥から実は――、と言いたかったが、今は到底言えない。話せる状況でないことぐらいは分かっている。
自分の事はさておいて、息子の事を取り止め処なく話す。話せば話すほど自分にはまだまだやらなきゃならないことがあると、改めて思い知らされた。家族を守る。その役目はまだ終えてはならない。だが、強く思う気持ちとは裏腹に果たして今の自分に出来るのだろうか。それでもそれでも、不安を強く払いのけ無理して言う。
妻に向かう畠山は笑っているが、心ではとても混乱し揺れ動いて壊れてしまいそうだが、気丈に振舞った。
そこまで話すと妻の顔に微笑が零れ、頬に涙がスーッと流れるのを見た。妻の表情に陰りは消えないが、それでも幾分か顔には生気が戻ってきたように窺えた。
「そうだ、今度の金曜日、弘明が帰ってくるんだぞ、楽しみじゃないか! ちゃんと病院に了解を貰っているから大丈夫。一昨日、弘明待ってたぞ」
妻の顔を覗き込んだ。もっと妻の心の底まで覗き込みたいが。
「なあ、そして久しぶりに食事をしよう。ゆっくりと過ごしてテレビを見て。――そう、家族三人で。――そうだ弘明の自宅療養の回数を増やして貰おう。又、来週も合わせてお願いしてみる。な!」止めの台詞を切り出した。
俯き加減の妻が畠山の提案で更にコクリと頷いた。
「なあ」ともう一度言いかけたが口を閉じ、言葉を飲み込んだ。
畠山の問いかけに反応する様子もない。だが、本当に息子だけの事意外に何もないのか、と訊こうとしたが、 妻を信じてやるしかない。
妻の湯飲みを包む指を見ながら心に思った。やはり、これから過酷な日々が続いても妻を信じ、家族の絆は変わることはない。何時までも――。
「さあ」
「……」
「さあ、お茶を」と畠山は手を差し出し、妻の湯飲みを手に持った。




