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第1 衝動事件 13.

13.


 週明け、十月二十六日、十二時五十三分。

「じゃあ、橋本君あとを頼むよ」

 畠山は言い残すと事務所を出て行く。

 席に着いたままパソコンのキーボードを打つ指を一時止め、畠山の背中へ顔を向けると不安な表情を作り、なんと言ったら、と掛けるタイミングを逃し見送るだけの橋本。

 確か……、課長。はっきりとは言わなかったけど、今日が再検査の結果を聞きに行く日だとか言っていた。

最近、課長の様子が異常だ。時折、ジッと机の一点を見たままビクとも動かない。話しかけても返事を返してこない。腰辺りを押さえて歩く後姿はとても普通ではない。以前はそんなことはまるで無かったと記憶している。大した事なければ良いのだけど――。

 息子さんの事といい、まさか課長まで何かあると、とてもだけど見ていられない。私がどうのこうの言う訳ではないが、やはりとても気に掛かる。会社の上司としてだけでなく、人として滲み出るところが課長の良さだ。自分に降りかかる苦労を苦労と思わず、周囲の人たちへの気配りや向き合い方がとても真摯な人だから誰にでも好かれる。決っして薄っぺらな恋や愛とは違う尊敬する人。

 ――けれど、奇麗事ではなく仄かな想いは私にはあるのかも知れない。――なんとなく。


 やはり今日も体調が思わしくない。胃もムカムカと重い。

 会社を出て駅へと歩く途中で運良くタクシーを拾い、乗り込む。

「お客さん、どちらまで?」目深に帽子を被った年嵩の運転手が嗄れた声で問いかける。

「ああ、大学病院まで頼む」

 畠山はシートに深く座ると腕を組む。

 ウインカーを折り、手馴れたハンドル捌きでスルスルと滑り出すタクシー。

 今日は会社を早退し、再検査の結果を聞きに行く。健康診断で医師の所見は何も怪しいところは見当たらないと言われたが、後日届いた診断の結果として要検査となったのだ。その為、数日後の再検を行い、今日が再検査の結果を聞きに行く日ということで早退ということにして貰った。

 再検査を受けた病院は息子の入院先の大学病院にした。行き慣れた病院は息子だけでなく、顔見知りとも仕事とも何かにつけ都合も良いと思ったからだ。

 妻の現状も異常であるが、自分自身の異変。ここ最近、食欲不振、倦怠感、不定愁訴に加え、精神が安定せず揺らいでいる。

「お客さん、お見舞いか、何か?」

 人の状況も神経も気にしないで呑気に世間話程度に話しかける無神経な運転手。少し気を害しながら、話を合わせる畠山が呟く。

「ま、そんなところだね」流れる窓の景色へと目を向ける。

「今日は混んでないね。入院してるのは家族の人かね?」

 詮索するような話し振りで本当に無神経な運転手だ。

「ああ、まあ」

「そりゃ、大変だね」

 そんな簡単な言葉で言われたくない心境だ。

「あの、少し黙っておいてくれないかな」窓を見遣ったまま言う。

「あ、すんません」帽子を被り直しながら罰が悪そうに返事をした。

 そう、黙って運転しておいてくれ。出来るだけ、そっとしておいて欲しい。頭の中で色々なことが目まぐるしく駆け巡っている。俺だって呑気に世間話に頷きたいところだが、とてもそんな気になれる訳がない。気が気でない日がここ数日続いている中、本当は大声出して叫びたいところなのに――。

 タクシーの車内は重い空気が膨らみ、運転手も黙ってハンドルを握る。

 そうこうしていると大学病院の看板が見えてきた。運転手はウインカーを折ると病院正門をくぐりタクシーエリアで停車した。

 畠山は黙ってメーターに表示された金額にさっと目を遣り懐から財布を取り出し支払うとお釣りを返す運転手が申し訳なさそうに呟く。

「お客さん、すみませんでしたね。気を悪くしないで下さいね」

「ああ、いいよ」

 後部座席のドアが開くと畠山はそそくさと降りていった。

 タクシーはその場を後にしたのは畠山が正面玄関に消えてからだった。


 正面玄関をくぐると総合案内窓口を横目で通り過ぎ、内科窓口に向かう。

 内科の窓口で受付を済ませ診察室の前で長椅子に座って暫く待つ。

 予約時間通りに来院しても結構待たれた。苛々する中、手首を返し、腕時計を見ると既に十四時近くになる。いったい何時まで待たせるつもりだ。これなら息子の病室を覗いてくる時間があったのでは。

「六〇二番でお待ちの方、中へどうぞ」名前を直接呼び出せない事情、個人情報の扱いのお陰で番号での呼び出しが当たり前になっていた。以前、営業で病院周りの頃は堂々と院内の放送でも個人名を呼んでいた頃とは大違いだ。

 診察室のドア押すと電子カルテの画面に向かいキーボードをカタカタと叩いている。

「あ、すぐに終わります」

 肩で小さく息を着くとレントゲン写真に目が行く。

「はい、お待たせしました。こちらへどうぞ」

 杉山と書かれた胸のネームプレートをした医師が肘掛のスツールに座りなおす。前回の再検査の時から畠山の担当となっており、今日も向き合う。あまり見かけない医師だ。以前から居たかどうかは覚えがない。

 傍にあるレントゲン写真に照明が点き、黒い写真にモヤモヤと映像が映し出される。

「どうぞ、お掛けください」

 畠山はついレントゲン写真に目を取られながら、黙って座る。

「畠山さん、その後どこか変わった様子や痛みとか無かったですか? 再検査を受ける時、畠山さんの口から腹痛や背部痛など。それに黄疸も少し見受けられましたが、その後自覚症状はないですか?」検査結果が出る間にも変化が無いかと。

「……」

「畠山さん」

「え、あ、はい」目をレントゲン写真から逸らし、緊張した面持ちで杉山へと向ける。

「え、では畠山さん、検査の結果ですが――」

 杉山は一拍置いて、切り出す。

「実はまだ断定できないのですが、疑いがありまして、やはり肝臓とすい臓の何れかに疑いがあります。膵酵素であるアミラーゼ、リパーゼ、トリプシン、エラスターゼともにどれも数値が高い。その数値だけでは診断を下すには乏しいです。人それぞれ体質というものがありますからね」

「――そうですか」

「前回、超音波検査をしましたが、得られる画像は鮮明でない所もあり、精度ある診断ができませんでした」杉山はレントゲン写真に目を遣り、説明をする。

 同じく首を捻り、レントゲン写真に目を遣る畠山の表情が硬い。畠山をチラッと見ると頭いっぱいに不安を膨らませて困惑し始めている様子に気付いた。

 そこまで言うと杉山は言葉を一度切り、畠山の顔色を窺いながら話す。

「念の為に今日、更にCT検査をしていただきたいのですが、時間ありますか?」

「あ、あの……、何か重い病気ですか? 何となくそんな気がするのですが。何度も何度も検査する事自体」杉山に向き直り問いかける。

「何を言うんですか。今はまだなんとも、疑いがあるとしか言えませんが、とにかく検査をしてからですよ。大丈夫ですよ」

「先生、気休めは止してください。現時点で分かってるんじゃないですか? どこが悪いんですか?」

「ですから、肝臓とすい臓の疑いです」

「CT検査までしなきゃならないほど病名がハッキリとしないんですか? 何れにせよ普通じゃないですよね」

「いえ、もう少し検査結果を基に診断を下したいと考えています。医者として検査をして正確な診断を下したいのです。私はその為には手を抜く訳にはいきません。ですから、もう少し宜しいですよね?」杉山は畠山の顔を覗き込み見据えて言う。

 視線を向けたまま畠山を諭す。

「分かりました」

 では、と杉山は横にいた看護婦にCT検査の準備の指示をした。畠山がCT検査を受ける為に診察室を出ていくと電子カルテの画面に向かってカタカタと入力を始めた。

 すると胸元から振動するPHSを取り出すと見覚えある電話番号に一瞬嫌な表情になると同時に看護婦が居ない事を確認後、PHSを耳に当てる。

「もしもし。――ああ、君か……。え? ――その事は分かってる。又、院内会議で推薦しておくよ。――今、急に言われてもね」杉山の声が急に小声になり、PHSの送話器に対して押し殺すように話す。

「ところで君のとこの課長、畠山さん。ヤバイな。――え! ――分かった分かった。今は都合悪い。――おい、その事はここじゃ話せんよ。この間、教えたじゃないか。――しかし、君も相当強かな人間だな。――じゃ、夕方にでもそちらへ出向くよ。それじゃ」

 PHSの通話ボタンを切ると何事もなかったかのように胸ポケットにしまう。ちっ、と舌打ちした杉山は電話の男に頭が上がらないことに苛立ちを覚えた。フンと鼻を鳴らした。

「次の患者を!」杉山は又、電子カルテの画面に向かい、声を高げて看護婦を呼ぶ。


 畠山はCT検査を終え、杉山から明後日もう一度、来て下さい、と言われた。検査結果をその時には説明できるそうだ。それで全ての診断を下す、としか言わない杉山の言葉を訊き、診察室を出る時に杉山は妙に明るく振舞っているような素振りが気に掛かる。病気の事をあれこれ悟られないように隠しているのではと。

 杉山は間違いなく病名を隠している。すでに判っているだろうし、もうハッキリと言ってくれたほうがいい。その方が潔い。

 病院の総合待合室でぼんやりと天井を見遣る。力が抜けて、いや自分という物が抜け落ちてしまった殻のように。

 はあ、恐らくすい臓か、なにか……。それもだいぶ悪いのでは。

 頭の奥で明快な想像が浮かぶ。

「畠山さん?」

 そう声をかけられ、ふと身を起こしながら振り返ると弘明の担当医、高野が立っていた。

「今日は弘明君のところへ?」

「あ、ええ、まあ……」

 自分の事だとは言えず、曖昧に頷いた。

「畠山さん、弘明君の治療の件ですが、――奥さんとじっくりと話し合いましたか? 出来る限り今後のことを早目に決めて貰わないと」高野は回りに気遣って小声で畠山へ言う。

「――ええ、分かってます」

 畠山は髪をゆっくりと掻いて顔を擦る。顎に両手を添えたまま曇った表情で応える。

「ああ、そうだ。今週末は一時自宅療養でしたね。無理されなければ、と」高野は畠山の表情を見取ったのか話題を変えるように話した。

「ありがとうございます。無理言って――」高野を見上げていたがすっと立ち、頭を下げる。

「いいえ。じゃ、週末の手続きを婦長としておいて下さい。僕も後で弘明君の様子を診に行きます」

 顔の表情を作り直し話す。高野はそこまで言うと軽く頭を下げその場を後にした。

 畠山は高野の後姿をぼんやりと見送る。――そうだ、弘明のところへ行くつもりだったのだ。すっかり忘れていた。自分の事で頭が一杯になり、息子のところへ行くことを忘れていた。

 しかし、今の自分は笑顔で息子と接して居られるだろうか? 息子も病と闘っている事で戸惑った。

 気持ちを切り替えようと深呼吸をして胸を張るとその場を後にする。

 相変わらず鳩尾辺りの痛み、背中から腰にかけてズンとした違和感を感じながらフワフワと覚束無い足取りで息子の病室へと向かう。

息子の病室は三階の特別病棟。ここからは階段でも十分であるが最近は不調の為、エレベータを使う頻度が増えた。何処に行っても体がだるく倦怠感が襲ってくる。

 目の前のエレベータの扉が左右に割れると中から患者や見舞いだと思える人たちが吐き出され、畠山の前を通り過ぎる。

 入替わりに乗り込むと階数表示、三の数字を押す。誰一人居らず畠山一人、ややして扉が音を立てずにスッと閉まる。

 それから弘明と面会したが、早々に切り上げた。自分の顔色が悪い事を子供ながらに変に感じ取ったようだ。長居すれば自分もきっと堪らなくなりそうで、早々に弘明の体調を気にかけた風にして誤魔化した。

病 院を出る時、自宅へ電話するが妻は相変わらず電話に出ようとしない。留守なのか? いやこの時間なら居るはずだ。最近、特に電話に出ようとしないが、弘明の事で塞ぎ込んでいるのは分かるが母親としてしっかりして貰いたい。

 ――しかし、いったいどうしたものか? 妻のこと、自分の身体のことと頭が痛い。

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