第1 衝動事件 1.
1.
女は項垂れ、身を丸くしていた。
三つ折りの跡が残る書類をじっと見つめる。しかし、幾度読み返してもそこに書き綴られるものは変わることはない。そんなことわかっていても強い眼差しで睨みつける。右手で口を塞ぎ眉間に皺を寄せ、細い目になりながらじっと硬直する身体。
一人ぽつんと取り残されたかのように座るベンチの周りには人影がなく、辺りには誰一人見あたらない。風の音、木々が揺れ葉を擦る音、鳥のさえずり、緩やかに流れるがそれさえも女の耳には何一つ届いているようではなさそうだ。そのほうが今の彼女にとって都合が良いだろう。
――ああ、どうして。今まで死に物狂いで献身的に世話して快復の見込みあるとさえ言われた医師の言葉に支えられ、あんなにも疑いなく信じてきた。なのにどういうことなの? あの場では医師の説明を理解し、頭の中ではこれからの事を順番に整理し、冷静に納得はしたと思った。今こうして改めてみると、どうしても信じたくない悲しみのどん底に突き落とされ嘆くばかり。見込みがあると言われても受け入れたくない気持ちとは裏腹にただただ否定したいと反芻する。
目を瞑ると次第に嗚咽を吐き、咽び泣いた。鼻を啜り、呻き声ともなりそうに口を歪ませ、何度も深く溜息をつくと首を左右に振る。目頭は熱く、零れる涙が頬を伝う。何度も突き上げてくる歯痒さが呼吸を乱し、上手く息継ぎが出来ないほど。左手に持つ書類が震えている。常日頃から気丈に振舞っているが、今日だけはとても堪えられない。
どれくらい経っただろうか、目じりも乾いている。
喩え涙が止んでも気持ちはどうにも納まらない。どうしようもない。そう、事実を受け入れるしかないのだから……。
自分の手を胸に当て、少しでも冷静になろうと意識的に開いた口元で息を吸うとややしてゆっくりと吐いた。辛うじてではあるが自分でも分かるほど呼吸の速度は遅くなってきたようだ。時間が経つにつれ全身の力が抜け落ちていく。
物憂く視線を持ち上げたその時、気持ちが緩んだせいか書類を入れてあった封筒を足元に落としてしまった。やや遅れて足元に目を遣り俯くと少しばかり躊躇った。今度は小さく肩を落とし、背中を丸め投げやりに足元の封筒へと手を伸ばそうとした。
「おばさん」
突然、声をかけられ息が止まりそうになった。
手を伸ばし俯いたままの姿勢で手に取った書類をグシャグシャと音を立て自分の胸に押し当てる、と同時に声のするほうへ振り返り見上げる。
いつのまにか女の傍らにポツンと突っ立っている少年。
――どこの子かしら。
ふいに湧いたように現れた少年に動揺した。
左の小脇に真新しいサッカーボールを抱え、襟付きの薄青したシャツを頭から被り、そのシャツの裾先から伸びる細い足。高価そうな今風の真新しい黒色サッカーシューズを履いている。
「な、なに」強張らせながら身を引いた。
少年は少し捻た顔つきで黙ってこちらを見ているが、ふとその容姿に見覚えのある少年だと思い出した。以前息子と一緒に遊んでいたことのある少年と気付くにはそう時間が要らなかった。
女は胸に押し当てた書類を慌てて折り畳むと抱えていた買い物バッグに捻じ込む。
「あ、あなた確か、ヒロと同じクラスだった……」動揺を隠せないまま女は話す。
――ここは公園なのだから子供が居てもおかしくない。けれど、よりによってこんな時にまさか遇うとは思いもしなかった。
「何してるの?」女は浮ついた口調で訊く。
「ちょっとね」少年は口を尖らせて、そう言うと同時にベンチを回りこんで女の横へちょこんと迷わず座る。
――この子この辺りに住んでいたかしら。――いや、違うはず、確かここへ来た道とは反対の住宅地じゃなかったかしら。弘明が交通事故に遭う前、下校時に三人で一緒に歩き、この子の自宅まで送って行った覚えがある。
「いつもここで遊んでるの?」
「ううん、違うよ。でも、時々かな」サッカーボールを見ながら回したり、なぞったりして不貞腐れぎみの返事を返す。
「そうなの、ここまで何か?」
自転車か、何かでここまできたのか、と訊いたつもりだった。歩いて来るには少し距離があるからだ。すると意味が分からなかったのか少年は女に顔を向け、くるりとした目をして小首を傾ける。屈託のない少年の顔、二つの黒目に女の覗き込む顔が映る。又、すぐに手元のボールに目を向ける。
「あなた一人? お友達か誰か一緒?」
少年を斜めから見下ろしながら尋ねる。女は今、当たり障りない質問くらいしか気持ちに余裕がない。
「ううん」首を横に振りながら、「洋平、来ないんだ」ボソッと言い放つと今度はサッカーボールを投げ上げてはキャッチし、又、上げてはキャッチする。
友達と待ち合わせして、まだ来ないことで暇を潰しているのだろうが、どことなく少年の言い方が鼻持ちにならない感じ。会話が噛み合わないし、場が持たない。
「あ、そう。――あ、これ、飲む?」思い出したように横に置いてあった缶ジュースを少年に差し出す。自動販 売機で買ったが飲む気になれずにいた。
少年は一瞬、女の差し出された缶ジュースに目を遣るとサッカーボールを両手でキャッチして、ベンチに置く。
「うん」
迷わず、缶ジュースを受け取るとプルトップを引き上げている。
――いくら私を知っているからといって、ジュースで簡単に釣られてしまうこの子はとても無防備だわ。生意気な口ぶりでもやはり、子供は子供ね。
そんなことを思いながら、少年から目を逸らし何気に見上げると楡の木の枝の遠い先、空高い雲が薄く広がる秋の空になってきた。ふと、そんままぼんやりとただぼんやりと見上げ感慨にふけ、今おかれている状況とこれからの事、それに少年が居ることを忘れてしまいそう。日々の介護に疲れを感じ、息子のことで精一杯で駆け抜けたこの五年。先ほどまで義憤にかられていた気持ちだが、空を見上げるとつい忘れてしまいそうだ。そう、何も無かったと、過去の記憶を消し去りたい。
女は何気に横へ目を遣る。少年は缶ジュースを傾け、喉を小さく鳴らしている。
「美味しい?」
「うん」と口を缶につけ、喉を鳴らして言う。
息子と同じクラスだった少年を見つめていた。じっと様子を見ているといつのまにか息子の姿を薄っすらと重ね合わせていた。
――そう言えば、この子。あの時、弘明と一緒に向ったこの子の自宅。この子と遊ぶ為に会いに向う途中。そうこの子に会いにさえ行かなければ、あんな事故に遭うことはなかったのでは。――この子の存在。
女はふいに忌々しいことを思い出した。あの忌々しい記憶を。
――息子をあんなふうにしたのはこの子が居たからなのだ。その思い込みが先ほどの燻っていた煙、と同時に胸の奥底から悲しさが込み上げ、胸いっぱい急速に広がり始めた。それは遣り切れない悲しい記憶を無意識に繋ぎ合わせているように。
――今、横にいる少年と息子は向き合って本当はサッカーボールでも何かして遊んでいてもおかしくないし、この缶ジュースも分け合って飲んでいたかもしれない。けれど息子はここにいない。自分の手で缶ジュースを傾けることどころか手に持つことさえ出来ないまで弱りきっている。そんな弘明への責任、この自分に対する責任を目の前の少年に向けている。気持ちを整理し違うことは頭で理解できるけれど、どうしてもこの気持ちを払いきれない気がしてきた。この少年の存在が私達家族を狂わせた。絶対にそうよ、だってあの時、あのタイミングで事故が起っていなければ――。
そう思い始めると更に熱く込み上げてくる怒りを少年に向け始めた。
――いや、そうじゃない。この子は関係ない、と否定しながらもこの子とあの時、と肯定の忌々しさの気持ちで何度も小さく口元で呟く。横にいる少年へ責任転換をすることでこの苦しみから逃れ、怒りも治まるのでは、と。
治まるどころか気持ちが次第に高ぶり、息遣いが早くなっていく。
――この子のせいではない事、逆恨みなんて言わせない。止め処なく無性に苛立ち、肩で息をしている自分に気づいているが抑えられない。なぜ! 何故なのよ! どうしてこの子は五体満足なのよ! どうしてなの? 弘明だけあんな身体になって不公平よ、弘明だけがどうして事故に遭わなきゃならないのよ。おかしい、絶対におかしい。誰がそう決めたのよ。この子は、この子は。
――やはり、この子のせいよ! 許せない。横でのうのうとしているこの子を見ていると無性に腹が立つ。強く揺さぶる心の声を少年に向け、罵倒している。
どこにこの怒りを向けたらよいのか冷静さを失いかけている。これまでのこと、言うまでもなく今日の医師から宣告された息子の病状。今までの看病にも精魂疲れ、女は肉体的にも追い込まれ自暴自棄になっている。
とうとうと溢れる怒りに歯止めが効かなくなる女は悲しさから怒りへと変貌していく。屈託無く、横でジュースを飲む少年に一層じわじわと嫉視で憎悪の念、なお胸一面に広がり奥の奥までどっと押し寄せてくる。眉間に深く皺が寄るのが分かるくらい目を強く瞑ってみたが、カッとしてどうしても自分を制御できない。喉がカラカラになり、息苦しく呼吸が速く、薄っすらと脇の下に汗が滲む。
今までの抑えていた気持ちが破裂しそうになる。それでも、堪えて堪えて……。肯定を抑える為に幾度も呪文のように言い聞かせる。だが、 その気持ちが強いほど更に止め処なく沸き立つ怒りが増してくる。
更に怒り、憎悪に追い討ちをかけると後はもう簡単なことだった。平常心を保てない人間は到底考えられないことも平気で行動するのだ。怒りに満ち、我を忘れ、思いもよらぬ行動に走る。気が触れ、獰猛で破壊的、極限の制御を失い憎悪の心と化した魔物と変貌する。
女は正にその魔物に変身した。もはや人間ではない。
その後、女は曖昧な記憶が断片的に続く。頭は痺れ、怒りと殺意のなか、空ろになり、目の前が暗くなり、夢と現実が交差する。
いつの間にか意識が遠退いていた。
んん……。暗闇から朦朧と意識が呼び起こされると同時に自分の腕に伝わる違和感。それは指先まで走る血液、関節、腕へと強烈な力で押さえつけられるように硬直し、動かない。
次第に意識がはっきりしてくると目の前で苦しんでいる少年の歪んだ顔が記憶の薄闇から浮かび上がる。どうしたの? 一瞬、何がどうなっているのか混乱した。
力の入る感触、自分の手が少年の細い首に巻きついている。
苦しみ悶える少年は必死に女の手を引き剥がそうとしている。
女は目を見開き、一瞬息が止まる。
びっくりした、と同時に手に伝わる実感。白目を剥き、じわじわ苦しむ少年の力が抜け落ちていくのが女の両手に伝わった。
少年の形相と自分の行動に驚き、女は思わず手を緩めようとしたが全身が硬直し、両腕も強張って言うことをきかない。目を瞑り、顔をそむけ必死に両手を引き剥がそうとした。自分の手が自分の手でない。けれど、けれど、――けれどどうしても、自分の意思とは別の誰かに体を操られるているかのように指先から腕からが別人。その手はまるで何かに取り憑かれたように。衝動的な感情に駆られている自分を抑えようとした。阻止しようと漲る力と気持ちの葛藤。
暫くして。いやさほど時間は掛かっていない。
やっとの思いで手に伝わる憑き物が手から剥がれ落ちた、と思った瞬間に脱力感がどっと全身を襲う。制御できない葛藤が失われるように全 身の力が一気に抜け落ちた。呼吸が荒く乱れ、尚も大きく肩で息を次ぐ。
女は怯えを持つただの人間に戻る。
グッと力を込めた眉間を弛緩しながら顔を向け、恐る恐る目を開く。
目を疑った。そこにはぐったりとした少年。缶ジュースがベンチに転がり、辺りには残みかけのジュースが広がりベンチから滴り落ちる。その滴りは少年の体から搾り出された体液のようにも見てとれる。
少年は両手をブランとし、恐ろしいことにピクリともしない細い首に女の両手が巻きついたままである。その瞬間に手を引く。
――どうしよう……。嘘でしょう! そんな。
魔が刺した。自暴自棄となる女は怒り、我を忘れ、無意識にとった行動が少年を死へと向かわせてしまった。
背筋が凍りつき、歯がガチガチと音を立て顔が引き攣り、目の前が真っ暗になる。バクバクと心臓がうねり、胃から食道を通してせせり出し そうだ。眩暈がし、頭の奥深くで訳の分からない物がグルグルと回っている。気持ちを落ち着かせようともう一度目を瞑る。肩で大きく息継ぎをする。
――どうして……。
やっとで引き剥がせた両手で顔を覆い、震えた。震えが止まらず暫く続いた。
どうか夢であって欲しいと恐る恐る目を開けてみる。
それでも目の前で少年は首を折り、項垂れ、へたり込んで蹲っている。
ビクつきながら肩にそっと手を当て、揺すってみた。
――どうして、どうして……。
何度も何度も心で叫びながら少年の肩を揺する。グニャグニャと少年の身体は揺れる。
――もう、駄目だ。
そう思った瞬間、女は少年を突き放した。その拍子に足元に落ちていたサッカーボールが転がる。
――私は何も悪くない。悪いのはこの子よ! それに私の息子を跳ねた車よ! 交通事故に遭ったのも、そう仕向けたのもこの子が悪いのよ! だから、この子も報いを受けるべきよ。私の息子と一緒に――。嘘よ、この子よ。
女は気が動転、いや狂ったように訳の判らない言葉を繰り返した。必死にこの状況から逃れようとする。
――これは夢よ。きっとそうよ。
とにかく尋常ではないくらいに心臓が跳ね、勢いが増し、破裂しそうなのが自分でも分かる。
ふいに左右を見渡す。何度も左右を見るが誰もいない。
――私、捕まるの? 弘明を、誰が? 誰が息子を? そんな、ここで私が捕まる訳にはいかない。誰か、誰か助けて。
立っていられなくなるほど足が諤々しているが、腰をずらし辛うじてその場を後ずさる。
女は脅え身震いし、何度も強く首を振り、ベンチから何とか退き呟く。フラフラとよろけながら更に後ずさる。女にとってこの場を逃げ去ることしかもう頭に浮かばなかった。浅はかな考えだけがそう駆り立てた。買い物バッグを抱き込むように身を屈め死に物狂いで走り去った。足が縺れるが必死に逃げた。
ぐったりと少年はベンチにゆっくりと倒れ横たわった。遠目から見る少年はもう人ではなく、襤褸切れと化した物体。その物体はベンチに転がっているだけだ。
日は傾き、薄ら闇の景気に変わりつつある公園は人気もない墓場のようにも感じられる。
女の逃げ去った後、直ぐにその場に歩み寄る一つの影。辺りを警戒して歩み寄るその影は物体となった少年に近づく黒い顔から浮き立つ白い目が二つ。足元にはサッカーボールが転がる。
参ったねこりゃ、たまげた。事もあろうか、あの女、やりやがったな。俺の獲物を横取りしやがって、これじゃ計画がパーじゃねーか。
やれやれといった具合で男はさして驚く様子もなく首の後ろ辺りをぽりぽりと掻く。
ふとベンチの下に落ちている紙に気付く。よく見ると封筒らしく、手を伸ばし乱暴に毟るように拾い上げる。裏表へと翻えすと封筒の下に印刷されてある近くの病院、県内でも名の知れた大学病院だ。ご丁寧に封筒の表にしっかりと宛名までも書いてある。
その宛名を読みなぞると腕を組み考えた。
もしかして、あの女――。少しすると男の眉間にピンと考えが浮かぶ。
「へへ、はぁ、はぁ、ふ、ふふ、ふっふふ」せせら笑う男の声が低く響く。
封筒をズボンのポケットに捻じ込む。
一先ず、このガキをどこかに隠しておくとするか、それからだ。状況が変わった為、人気の無い場所へ運ぼうと咄嗟に考えた。ぶつぶつと呟きながらジャンパーのポケットから取り出したゴム手袋を滑らせながら両手に嵌める。両指を握ったり、開いたりして手に馴染ませる。もう一度、辺りを見渡す。誰も居ないことを確認し、ぐったりとした少年を抱きかかえ肩に背負い込むと急いで公園のトイレに向う。面倒だがサッカーボールも一緒に持っていく。女子トイレの横には、人目を避けそうな恰好の空間があることは予め下調べで判っていた。そこでもう一度、計画を練り直すつもりだ。
全身のありとあらゆる力が抜けた少年はとても重く感じられたのか、魂が抜けたばかりの身体はなお重く、運ぶのにとても苦労している。それに体格の良い男は与太っている後姿が醜くみえる。
女子トイレの横まで来る頃には男はさらに息を切らしていた。そこから渾身の力を振り絞り女子トイレの横へ引きずり込んだ。
重さに耐え切れず、少年を地べたに放る。ゴトッと音を立てその場に転がる。地べたは誰が置いたか分からないが青色のビニールシートが畳まれ置いてある。丁度そのビニールシートに転がる少年の体勢はとても苦しそうな状態だ。どうせすでに息絶えているのだ放ってもどうってことはない。男も少年の横にドサッとへたり込んだ。
肩で息して、咳き込む。小汚い作業ズボンのポケットから無造作にセブンスターを取り出す。その軽さに気付き、セブンスターの口の隙間に指を突っ込む。中を穿っていたが空に気付くと捻り潰し、その場に投げ捨てようとしたが、慌てて思い止まった。
やべーやべー、そう呟くと元の作業ズボンへねじ込んだ。
ジャンパーの反対ポケットからタオルを抜き出し、横目で見下ろして汗をぬぐっていると少年の左手の親指がピクッと動いた。右手がずずっと動く。
男は一瞬驚いた。タオルを握ったまま目を凝らし少年を覗き込む。少年は呻き声ともつかない声を発した。
少しの間、それ以上の反応を見せないのに一人で納得したかのように睥睨し、顎を突き出し頷く。
すると突然、少年は苦しそうに呻き薄く目を開け、咳き込む。
「ゴホッゴホッ、ううっ」
今度は驚きもせず、男は冷酷な目をして呟く。こいつ、まだ生きてやがったか。なら、当初の計画通りに実行と薄く笑う。
少年は自分を見下ろす男の影と二つの目に驚き恐怖に駆られ逃げ出そうとしたが、脅えて萎縮し思うように身体が動かせない。それでもずり下がり這って逃げようと抵抗した。ビニールシートがガサガサと音を立て騒々しく響く。その少年の抵抗を阻止しようと男はその音に驚きもせず、冷静に少年を追いかけ背後から首を掴まえると引き寄せ張り手を食らわす。体格のよい割には扱いが手馴れたように素早く動く。
少年は「うッ」と小さく発した。今度は怖さに震え、怯えた声を上げようとしたが、張り手を食らわされた恐怖で怯えているからだ。
すると人気を感じた。薄暗い遠く先にこちらへと近づいてくるように感じた取った。
咄嗟に男は少年の口を左手で塞ぐ。それから右手に持つ汚れたタオルを瞬時に口の中に突っ込む。それでも少年は必死にもがき、抵抗する。誰かに見られては不味い。人気が無くなるまで、と羽交い絞めにし少年が暴れないようにするが、それでも抵抗する。クソ! 悪く思うなよ。瞬時に男は両手を少年の首へと滑る。何の躊躇いもなく少年の首に手を滑らした。元々、男は嗜虐的な行為を求める性格であるのか、我を忘れ、恍惚とした表情を浮べ、酔いしれているようだ。つい冷静さを失っていた。
少年の首はゴム手袋を嵌めた男の両手が余るくらいに細く、それも簡単に折れてしまう。じわじわと両手に力を込める男。無意識なのか、意図的なのか、親指と人差し指に力を集中させ締め付ける。それから仕上げとしてグッと容赦なく力を籠める。男は高揚している。
少年は目を剥いてもがき苦しむ、見る見るうちに顔が真っ青になっていく。その男の手を必死に足掻いて引き 剥がそうとする少年の非力な両手は抵抗するには何の意味も持たない。
それからどれくらい経っただろうか、たいした時間は要らない。事は簡単だ、数分と掛からない。
視線の先、目の焦点が合わなくなって、もうピクリともしなくなった少年をゆっくりと地面に寝かす。口からタオルを抜き取ると丸めてジャンパーに戻す。
息を殺し、人気を警戒して辺りを見回したが、先ほどの人気は既になく、静寂を取り戻していた。
肩で大きく息を着き、その場に尻餅をつくと胡坐を掻き座る。
は! やってしまった。
「まあいい。しかし、どう練り直すかだな」おもむろにズボンから封筒を取り出し又、頷いた。取り損ねた物はあの女に責任を取ってもらおう。次の鴨はあの女ということか、まあ、仕方ないな。たしかこの大学病院、そうだあの杉山に貸しがあったはず。最近は個人情報の関係から名前だけじゃわからんが、あの医者なら案外役立つかもな。
そのまま、この封筒を置くと短時間で練り直した計画の時間稼ぎにならないと判断していたが、それ以外の思惑にニヤリと薄い唇を吊り上げ、頷きながら男は封筒を半折りにしてズボンの尻のポケットにねじ込む。
辺りがさらに暗くなり始めた。
男は素早く少年を引き摺りよせ、勢いよく背負い込むともう一度先ほどのベンチへと向かった。
クソ重い。やはり、重さは先ほどより増したかもしれない。グニャグニャとする少年の身体は扱いにくく重い。そんなことは分かっていても男は腹の中で毒ずく。
ベンチのある楡の木の後ろまで運んでくると何度か辺りを確認する。人気の無いことを確認できるとベンチに少年を寝かす。
ふー、クソ重いガキだ。
今度は乱暴に放るのでは無く、運び去る時の状態に体勢を戻す。それから辺りを見渡して誰も居ないことを確認する。少年をそのまま放置した状態をもう一度確認する。その場の不自然さがないかを確認。それから、サッカーボールをベンチの下に転がす。
おっと、そうだった。と呟き少年の上着のポケット、ズボンを探る。――確か、と探すのは携帯電話。ズボンのポケットから見つけ出すと引き摺りだす。即座にメールの履歴に目を通す。目的の履歴を見つけると気をつけて削除する。
これでよし、と頷くと少年のズボンへ戻す。
薄暗くなる中、見えづらいがベンチから離れ、改めて服装の乱れや汚れ、不自然さが無いかを確認。恰もベンチで絞め殺された、かのように。
ここで犯行が行われたように偽装すること。咄嗟にあの女へと視点を仕向けるためにはここで死んでしまった、ということにしなきゃな。
夕闇の風は日中より一段と冷たさを増して身体の熱を奪い取る。それでも男の額には薄っすらと汗を帯びている。ジャンパーの裾で額の汗を拭うと肩で息をしながらゴム手袋を外す。ジャンパーにゴム手袋をしまいながら念を入れて辺りを見渡す。更に人気の無いことをもう一度確認するとその場からを音もなく闇へと消え去った。
後に残るは、生き物でなくなった少年の固体だけがベンチの上で冷たい風に晒されているだけになった。ここで息を絶えてしまったかのように。