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二面性アクアリウム

作者: ゆき
掲載日:2026/10/21

 だから嘘だと言ったんだ。

 恋愛感情に相反する性意識は、まるで水の中の魚たちが自由奔放に泳ぎまわっているようで、「ありのまま」になれない自分の感情に嘘をついているようだった。小難しく語っているが、平たく言えば、僕は人に向ける性意識が恋愛感情だと認識したくなかったのだ。

 世の中にはエディプスコンプレックスだと指摘されるかもしれない。僕が好きになってしまった女性は、僕を育ててくれた涼子だ。まだ赤ん坊の僕を両親は半ば強制的に近縁関係にあった涼子に押し付けた。家族と仲が悪かった涼子は一人暮らしをしていて、子供を押し付けるのに丁度良かったのだ。物心つく頃には母親という存在として涼子がいた。後から涼子に話を聞くと僕を受け取った時、涼子は18歳の高校生だったという。

 高校生で子供を育てるのは大変だ。母乳は出ないし、社会的にも金銭的にも厳しく、精神的に追いやられることもあった。実家からの仕送りもあてにはならない。夜泣きで眠ることは出来ず、優しい隣人に僕を預けてから高校へ行っても、授業で眠ることも多くあったという。その度、先生から怒られるし進路決定に関する相談もフラストレーションに変わった。そのうち、涼子は限界を感じて高校3年生半期にして学校をやめた。


 僕を預かるまでの涼子は介護福祉士になるために勉強をしていたようだ。自分のやりたいことがあったのに、僕を預かったことで夢をあきらめざるを得なかった。僕が涼子の夢を壊してしまったんだ。

 小学6年生になった今でも胸を痛めるほど申し訳なく思う。僕はもう12歳になる。12年も涼子を子育てという檻に閉じ込めているんだ。

「ただいま」

 僕は退屈な学校から帰ってきた。帰るのは外壁塗装が剥げてきている淡いマスタードイエロー色した二階建てのアパート。ここの101号室。僕が生まれ育った場所で、涼子が一人暮らしを始めて14年間過ごしてきた場所だ。

「こうくん、おかえり」

 春先の窓から西日が射して、洗濯物を畳む涼子を照らしていた。涼子は今年で30歳になる。僕のために働いて、休まずに働いて、人生で楽しいと言われている時間の大半を過酷な労働に費やしていたと思う。

「涼子、早起きだね」

 涼子は夜に働きに出かけるから、夕方に起きているのは珍しい。

「目が覚めちゃったの」

 僕は「そうなんだ」と軽く相槌をうつ。

「ご飯作るから、待っててよ」

「ありがとう、こうくん...」

 涼子が起きる頃に夜ご飯を作るのが僕の日課だ。僕の作ったご飯を美味しそうに食べて、夜の帳が下りる頃に涼子はネオンへ消えていく。

 涼子が何の仕事をしているか、僕は聞きだした試しがない。隠さないといけない仕事なんてやましいことでなくても、きっと褒められるような仕事では無いのだろう。でも、僕は育ててもらったこともあって咎めることの出来る立場にはいない。仕方ない選択だったのかもしれない。


 いつからだったか、僕が育ててもらった人のことを名前で呼ぶようになったのは。誰も母親のことを名前で呼び捨てすることなんてないだろう。おそらく、涼子がおかしくなってからなんだろうけど、あれは小学校に馴染み出してしばらくだったか。

 夜勤から帰ってきた涼子がまだ日の上がり切ってないこの部屋で、寝ている僕に覆いかぶさった。僕は口に何かが流し込まれていく感覚がして目が覚めた。目の前にいたのは酒と香水の匂いが混ざって、独特でチープな味のする一人の女性。僕の唇に母親の唇がくっついていた。そして、何かを口移しされたようだ。その液体は焼けるような痛みを伴って僕の喉を通っていく。その液体を飲んだからか、少しの頭痛と共に身体中が熱くなってきて、何故か敏感なところが切なく感じた。

「お母さん...?」

 僕の目の前にいた母親は仕事で疲れたのか、僕の顔の横で枕に顔を埋めた。その姿はまるで心の拠り所に縋る小さな子供のようだった。

 少女と少年はお互いの顔が真っ赤になっていることに薄々気付いていた。カーテン越しの朝焼けのせいなのか、それとも少女に飲まされた液体のせいだろうか。少年が必死に考えたことは水泡に帰す。集中して考えることができない……。

 少し体を起こした少女は少年と目を合わせた。お互いの長いまつ毛が触れてしまうくらい近く、このまま見つめ続けていたら邪魔な体なんて通り越して溶け合ってしまいそう。少女も少年も心臓が激しく脈打って、どくどくと心音が相手に聞こえてしまいそうだ。お互いの吐息がぶつかって、二酸化炭素が絡み合う。

「ごめんね...」

 そうつぶやいた少女は再び少年の唇に紅い接吻を交わす。少年は一体何が起こっているのか分からなかった。今まで自分のことを育ててくれて、愛してくれて、母親じゃないけど母親のような存在。何が少女をそうさせたのか、少年の稚拙な心では理解することが出来ない。それでも、今までの愛し方と違っていることだけは考えずとも分かっていた。

 少女の手が少年の服を掻い潜り、お互いの肌が触れた。少女も着ていた服のボタンを上からひとつひとつ外していく。毎日、お風呂で見ている少女の裸がいつもとは違うもののように見えた。艶やかな肌を自分だけのものにしたいと考えたのは、少年の稚拙な考えがそうさせたのだろうか。

 裸になってもお互いは陰部を隠そうともしなかった。年齢に隔たりを感じることは無い。体の大きさなんて関係ない。決して交わってはいけないと分かっていても、この人に関してはすべて許してしまう。

 少年は初めて女性の身体をじっくりと見た。髪から足のつま先まで、全てが美しく見える。ここはまるでアクアリウムだ。自分の身体のつくりと違うところに様々な色のライトが当てられているような感じがした。

 アクアリウムの中で深く呼吸をすれば、心が落ち着いた。きっと少女の中で泳ぐことが出来たからだ。水が少年を包む時、それは性意識を掘り起こす合図になって、少年を興奮させる。それから、アクアリウムの時間は数時間続いた。その艶やかな色をしたスポットライトが少年の目に焼き付けられるほどに。

 少年は泳ぎ続けた。少女のことを一人の女性として意識したことで、名前で呼ぶようになった。名前は涼子。少年を壊した人の名前だ。


「涼子、ご飯できたよ」

 布団の上で横になっている涼子は、僕の声で体を起こした。

「はーい」

 作ったのは粉砂糖をふんだんに使ったフレンチトースト。小さい時、よく涼子が作ってくれたのを覚えてる。なけなしのお金でも、粉砂糖の量が変わることはなかった。きっと涼子なりのこだわりだったのだろう。

「え、フレンチトーストだ。ありがとね、こうくん。私これ大好きなの...」

涼子は嬉しそうな顔をする。僕もこんな顔をしていたのだろうか。曇りのない、純粋な気持ちのままの僕が嘘だったとは思わない。たしかにそこにいた、と僕の記憶が強く訴えているから。

「いただきます」

 涼子の朝ご飯はいつも白米と目玉焼き、焼き海苔だ。涼子の朝ご飯はこのセットで決まっている。でも、今日という日、僕はどうしてフレンチトーストを作ったのか。気まぐれなんかじゃない。ずっと前から決めていたことなんだ。

 5年前の今日、涼子が1人の少女だと感じた。その時からおかしかったんだ。作ってもらうフレンチトーストがいつもと違う味に感じた。別に美味しくなかったわけじゃない。ただ、少女の涼子が作ったと思うと歯痒いのだ。僕の好きだった涼子は少女なんかじゃなかったのに、どうしても大人に見えなかった。僕を「そういう目」で見てくる他人のような気がした。つまるところ、あの日以降、涼子が変わったんじゃなくて、僕が変わってしまったんだ。だから、この節目の日はフレンチトーストを作ることにしている。僕の好きだった涼子を覚えておくための戒めだ。

「うん。私のより百倍美味しいわ」

 涼子は幸せそうに食べている。目に覇気がなかった頃の涼子とは別物だった。涼子は僕といる時、とても楽しそうにする。それもそのはずだ。涼子には大切なものが少なすぎるから。僕を育てるために多くを犠牲にしてきたのだから、「大切」が少ないことは仕方ないと言えよう。そんな数少ない「大切」と一緒にいる時間を大事にしたいと思うのは至極当然のことだ。

 涼子はご飯を食べ終えると、準備をして僕が眠る前に外へ出ていく。それがいつものことだから変に思わなかったけれど、普通の家なら夜中に出ていくなんてありえないことなのだろう。でも、今の生活が僕にとっての普通だ。間違っているとも思わない。

 今日も僕は目を閉じて眠りにつく。

 いつも思うんだ。なんで涼子は僕の上に跨ったのか。その理由が気になっていても聞き出せない。あの日のことを掘り下げて言葉にしてしまったら、僕は涼子のことを軽蔑してしまいそうな気がした。自分の中の母親像が一瞬にして崩れていきそうで、怖かった。そう感じるほど、僕は今の生活を「大切」にしているのだと、この歳になって気付かされた。


 友達の話すくだらない猥談など興味がなかった。きっと本物を知ってしまっていたから。人とは別の道を歩んでいたはずの僕は、不思議と優越感に浸るんだ。その優越感は僕を鼓舞させ、いつしか同級生のことを下に見るようになる。自分だけが大人になった気分だ。ただ、知らない方が良かったなんて思うほど、優越感は後になって薄れていった。大人になった証拠など提示もできなければ、涼子との関係を話すこともしたくない。妙に大人ぶっている自分を気持ち悪いとすら感じた。子供は子供らしくあればいい。そう教えてくれる人はいない。先生も友達も、もちろん涼子だってそうだ。誰もが「大人」であり続けようとしている「子供」なのだから、誰も知り得ない。


 時が経つのは早いもので、あれこれとしているうちに僕も高校3年生。年齢でいえば18歳になる。僕と同じ歳で、涼子は僕を育て始めたんだ。子供が子供を育てるなんて難しいに決まっている。それでも、涼子は僕を育てる道を選んだ。優しさが背負うものとしては比べ物にならないくらい大きく、不利益を被るものでも、背負う理由が涼子にはあったのだろう。

 ここ数年で大きく変わったことといえば、涼子が今までの仕事を辞めて日勤帯の新しい仕事を始めたことだ。残業になることもあるが、僕と寝る時間は同じだし、起きる時間も同じ。普通の家庭に近付いた気がする。それ以外は何も変わっていない。

 そして今日、高校生活に別れを告げる日を迎えた。僕は涼子が出来なかった卒業をする訳だが、こころは痛まないのかと自問自答をしてみても、そんな痛みはずうっと味わってきたから、今更痛みを味わうなんて感覚は僕にはない。ただ思い残るのは涼子に楽させてあげたいという、心の底からの労いだった。

「こうくん、もうちょっと寄ってよう」

 桜が舞う校門で写真を撮ろうと、涼子が急かしていた。僕は照れくさくて、肩を寄せる涼子をちょいと押しのけている。そんなささやかな抵抗も知らずに、シャッターをきる涼子。

 ぱしゃり。ぱしゃり。ぱしゃり。

「もう、強引だなあ…」

 僕の肩の高さまでしかない涼子。背の高くない僕ですら見下ろせる身長。小柄なその身体で多くの苦悩を抱え込んだ。僕はその荷降ろしを手伝っていきたい。ひとつひとつでいいんだ。何も焦らなくていい。今まで僕にしてくれたこと、愛情をもって返していく。それが僕にできる、贖罪に似た感謝だ。

「どれどれー、いい写真が撮れたんでねー?」

 撮った写真を確認する涼子。自分の卒業式がなかったからなのか、いつもより楽しそうにしている。

 今ではよく笑う涼子だが、僕のことを恨んでいるなんてことはないだろうか。間接的に自分の人生を壊されたんだ。恨まれて当然のことだ。でも、恨まれているなら、あの時の愛撫はなんだったのだろうか。僕を理不尽にも大人にさせたあの行為。僕にアクアリウムを見せたのには、何か理由があったんじゃないの。

 涼子はきっと、多くを語ることはしないと思う。それでも、聴きたかった。涼子の言葉で。

「ねえ、涼子。僕のこと、ちゃんと好きだった?」

 突然の質問に涼子は目を丸くする。僕は耳を塞ぎたくなるような答えを想像した。最悪の場合を。

 そして、涼子はくすっと笑って僕に言った。

「好きじゃなきゃ、ここまで育ててないよ。こうくんは、私の大切な子どもなんだから」

 恋ではない、たしかに存在していた愛に気付いた。僕が本当に望んでいたもの。あの時から胸につっかえていたものがすっと抜けていく。

 僕は心の底からの言葉を伝えた。

「ありがとう、お母さん」

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