氷の城に幽閉された身代わり花嫁は、冷酷公爵に溺愛されて溶かされる~「お前は一生ここから出られない」と言った彼が、私だけを三年間想い続けていたなんて~
「君では役不足だった」
その言葉が、まだ耳の奥で響いている。
馬車の窓から見える景色は、いつしか緑を失い、白一色に塗り潰されていた。吐く息が白く凍る。肩に羽織った薄い外套では、この寒さは凌げない。
——でも、いいの。寒いのは、慣れているから。
私、リーネ・フォルトナーは、姉の身代わりとして氷河の城へ嫁ぐ。
三日前のことだ。婚約者だったエドワード様に呼び出され、私は期待に胸を膨らませていた。ようやく正式な婚姻の話が進むのだと、愚かにも信じて。
『セレナと結婚することにした』
姉の名前が出た瞬間、頭が真っ白になった。
『君は悪くないよ、リーネ。ただ——君では、役不足だったんだ』
三年間。私なりに尽くしてきたつもりだった。でも、最初から比べられていたのは姉だった。蜂蜜色の髪に翡翠の瞳、社交界の華と謳われるセレナ姉様。
私は、いつだって影だった。
『リーネ、あなたに良い話があるの』
婚約破棄の翌日、母に呼び出された。良い話。その言葉の裏に潜む意味を、私は知っていた。
『ヴェルシュタイン公爵家から、縁談が来ているの。本来ならセレナに行かせるはずだったのだけれど——あの子にはエドワード様との婚姻が控えているでしょう?だから、あなたが身代わりに』
氷河の公爵。感情を持たない冷酷な男。彼に嫁いだ者は、二度と戻ってこないという噂。
反論する気力もなかった。どうせ私がいなくなっても、誰も困らない。
——せめて、家の役に立てるなら。
「お嬢様、間もなく城に到着いたします」
御者の声で現実に引き戻される。
窓の外を見上げると、灰色の空に聳える巨大な城が見えた。黒い石造りの壁。凍りついた尖塔。城全体が氷に覆われ、まるで生きることを拒絶しているかのようだった。
「……ここが、私の墓場」
呟いた言葉は、白い息と共に消えていく。
城門が重々しく開く音がした。
◇◇◇
城の大広間は、外よりもなお冷たかった。
暖炉には火が入っているのに、空気が凍りついている。壁も床も、うっすらと霜が張っていて、息をするたびに肺が痛む。
足音が聞こえる。
重く、冷たく、一歩一歩近づいてくる。その足音だけで、空気が更に冷え込むのがわかった。
「——顔を上げろ」
低い声。感情の欠片もない、氷のような声だった。
恐る恐る顔を上げた瞬間、息を呑んだ。
銀灰色の髪。凍った湖のような蒼氷色の瞳。彫刻のように整った顔立ちは、しかし一切の温もりを感じさせない。
——美しい。
そう思った直後、背筋に悪寒が走った。彼の周囲だけ、明らかに温度が違う。
「お前が、身代わりか」
「……は、はい。リーネ・フォルトナーと申します」
声が震えた。
「…………」
公爵様——クロード・ヴェルシュタインは、私を見下ろしたまま沈黙した。その蒼氷色の瞳が、まるで値踏みするように私を見ている。
——ああ、やっぱり。失望している。
「……ごめんなさい。私が来てしまって、ごめんなさい。姉の方が、きっと相応しかったのに——」
「黙れ」
鋭い一言で遮られる。私は反射的に肩を竦めた。
でも、次に彼が発した言葉は、予想とは違った。
「お前は一生、この城から出られない」
「……え?」
「三年の契約だと聞いていただろうが、俺は変更する気はない」
意味がわからなかった。嫌なら追い返せばいいのに。なぜ、わざわざ私を閉じ込めようとするのか。
「部屋に案内させる。必要なものがあれば、メイドに言え」
それだけ言うと、彼は踵を返した。
マントの裾が翻り、その軌跡に沿って霜が走る。まるで彼自身が冬を纏っているかのようだった。
その時だった。
肩に、温かい何かがかけられた。
「……え?」
振り返ると、黒い外套が私の肩を覆っていた。毛皮の裏地。仄かに残る体温。
そして——すでに遠ざかっていく銀色の後ろ姿。
「公爵、様……?」
彼は振り返らなかった。ただ、低い声だけが残響のように聞こえた。
「……寒いなら、言え」
外套からは、微かに冬の森の香りがした。
◇◇◇
城での生活が始まって、一週間が経った。
公爵様とは、あれ以来ほとんど顔を合わせていない。食事は別々、部屋も城の反対側。必要最低限の接触さえない、名ばかりの夫婦。
——これでいいの。政略結婚なんだから。
そう自分に言い聞かせながらも、あの日の外套のことが頭から離れなかった。
部屋に戻ると、暖炉には新しい薪がくべられていた。
——あれ?
今朝出かけた時は、もう燃え尽きかけていたはずなのに。
テーブルの上には、湯気の立つカップが置かれていた。蓋がしてあって、冷めないように工夫されている。蓋を開けると、甘い香りが漂った。
ホットミルクに、蜂蜜。
「……これ、私の好きな……」
誰が用意してくれたのだろう。
不思議に思いながらも、私は温かい飲み物を口にした。冷え切った体に、甘い温もりが染み渡る。
「……美味しい」
久しぶりに、心が緩んだ気がした。
その夜、眠れなかった私は、城の中を歩いていた。
中庭に面した廊下で足を止めた。月光に照らされた庭は、一面の銀世界だった。
その中に、人影があった。
銀灰色の髪が月光を反射している。黒いシャツ姿で、素手のまま雪の中に立っている彼——クロード公爵だった。
彼は片手を伸ばして、空を仰いでいた。その手から、氷の結晶が舞い上がっていく。まるで魔法のように、彼の指先から雪が生まれ、風に乗って消えていく。
「……綺麗」
思わず呟いた瞬間、彼が振り向いた。
「……何をしている」
「あ、あの、眠れなくて……ごめんなさい、お邪魔しました」
踵を返そうとした私の腕を、冷たい手が掴んだ。
「待て」
触れられた箇所が、一瞬で凍りつくように冷たくなる。彼は慌てて手を離した。
「……すまない。俺に近づくな」
「……え?」
「凍るぞ」
彼は自分の手を見下ろしていた。月明かりの下、その手には霜が張っている。
——ああ、そういうこと。
彼は本当に、触れるものを凍らせてしまう。だから人を遠ざけ、この城に閉じこもっている。
「……寒くないんですか?」
私の口から出たのは、そんな言葉だった。
彼が驚いたように目を見開く。
「何?」
「だって、素手で雪の中に立って……手が冷たいでしょう」
「……俺には、寒さは関係ない」
「でも」
私は一歩、彼に近づいた。
「あなたは……優しい人なんですね」
「……何を言っている」
「暖炉の薪を足してくれたのも、温かい飲み物を用意してくれたのも、公爵様でしょう?」
彼の目が、僅かに揺れた。
「……気のせいだ」
「気のせいじゃありません。ありがとうございます。……とても、嬉しかったです」
沈黙が落ちた。月明かりの下、二人の吐く息が白く交差する。
「……部屋に戻れ」
「はい」
「廊下は冷える。……風邪を引く」
私は微笑んで、踵を返した。
——冷酷公爵なんかじゃない。この人は、ただ不器用なだけだ。
そう思った瞬間、凍っていた胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。
◇◇◇
「——おいおい、リーネ嬢!そんな隅っこで何してるんだ?」
図書室の片隅で本を読んでいた私は、突然の声に飛び上がった。
振り返ると、銀灰色の髪に琥珀色の瞳を持つ男性が、人懐っこい笑みを浮かべて立っていた。
「ギルバート・ヴェルシュタイン。クロードの兄だ。異母兄だがな」
公爵様の、お兄様?
「知ってる知ってる。クロードの嫁さんだろ?」
嫁さん。その言葉に、心臓が跳ねた。
「いえ、私はただの身代わりで……」
「身代わり?誰がそんなこと言った?」
「え?だって、姉が本来の婚約者で——」
「違う違う」
彼は豪快に笑った。
「あいつが最初から指名したのは、お前さんだよ。リーネ・フォルトナー。間違いない」
「……え?」
頭が真っ白になった。
「三年前の夜会。誰も近づかない青年に、微笑みかけた少女がいたそうだ」
三年前の夜会。記憶の奥を探る。確かにあの頃、社交界の端で、誰にも話しかけられずに一人で立っている青年を見た気がする。皆が避けていて、可哀想だと思って——
「……あの時の?」
「あいつはな、物心ついた時から人を避けてきた。近づけば凍らせてしまうから。誰もあいつに触ろうとしなかったし、目を合わせようともしなかった。でもお前さんは違った。怖がりもせずに近づいて、笑いかけた」
胸が締め付けられた。
私にとってはほんの些細な出来事。でも、彼にとっては——
「あいつは不器用なだけだ。本当は、誰より優しいんだ」
「……知っています」
私は自然とそう答えていた。
「あいつを頼む、リーネ嬢。あいつの氷を溶かせるのは、お前だけだ」
◇◇◇
「旦那様は……ああ見えて、毎晩あなたの部屋の前で足を止めていらっしゃいます」
メイド長のマリエットが、珍しく柔らかい声でそう言った。
「……え?」
「私はあの子の乳母でした。呪いを受けた日も、お母様を凍らせかけた日も、傍にいました。以来、あの子は全ての感情を封じました。誰かを傷つけないために」
胸が張り裂けそうだった。幼い子供が、そんな重荷を背負って。
「だから、あの子を、どうか見捨てないでください」
「……見捨てません。私も——私も、独りでした。だから、公爵様の孤独が、痛いほどわかるんです」
その夜、私はクロード様の部屋の前に立っていた。
扉を開けると、冷気が襲ってきた。暖炉に火は入っていない。
「何の用だ」
「……お話がしたくて」
「俺と?」
「はい」
「言っておく。俺に近づくな」
「知っています。凍るから、でしょう?」
「……なら、なぜ来た」
私は一歩、彼に近づいた。
「寒くないですか。この部屋、暖炉に火が入っていません。毎日、私の部屋には薪を足してくれるのに」
「お前には関係ない」
「あります。あなたが寒い思いをしているなら、私も悲しい」
「……何を」
「全部、あなたでしょう?温かい飲み物も、暖炉の火も」
「……うるさい」
その声が、どこか照れているように聞こえて、私は思わず笑ってしまった。
「あなたは、優しい人です」
「違う。俺は冷酷だ。人を凍らせる化け物だ」
「化け物なんかじゃありません」
私は手を伸ばした。
「触るな!」
彼が後ずさる。でも私は構わず、その頬に手を添えた。
冷たい。氷のように冷たい肌。でも——
「……あったかい」
「何を……」
「あなたの心は、あったかいです。私、決めました。この城にいます。あなたの傍に、いたいんです」
「……後悔するぞ」
「しません」
「俺は、お前を幸せにできない」
「私がそれを決めます」
彼の肩が、微かに震えた。
「……どうして。どうして、お前は俺を恐れない」
「恐れる理由がないからです。私を温めてくれた人を、どうして恐れられますか」
彼の瞳から、一筋の雫が零れ落ちた。それは落ちる前に凍りつき、小さな氷の粒となって床に落ちる。
——泣いている。この人は、ずっと泣きたかったのだ。
「リーネ」
初めて、名前を呼ばれた。
「……俺は、お前を、手放したくない」
その言葉に、私の涙腺が崩壊した。
「私も。私も、あなたの傍にいたい」
◇◇◇
穏やかな日々が壊れたのは、ある日の午後だった。
「フォルトナー伯爵家のセレナ様と、クレストフォール子爵エドワード様がお見えです」
姉と、元婚約者。
血の気が引いた。
「俺が対応する。お前は部屋にいろ」
クロード様が立ち上がった。でも私は我慢できなくなって、大広間に駆けつけた。
「まあ、リーネったら。元気そうで安心したわ。帰りましょう?こんな寒い所、あなたには無理よ」
姉が優雅に微笑みながら近づいてくる。でもその翡翠色の目は、冷たく光っている。
「……帰りません」
「え?」
「私は、ここにいます」
「何を言っているの?身代わりは身代わりらしくしていればいいのに」
「身代わりなんかじゃありません。私は自分の意志で、この城にいます」
「自分の意志?」
エドワード様が嘲笑った。
「君が公爵様に相応しいとでも?身代わりの分際で公爵夫人など、分を弁えろ」
「身代わりではないと言っている」
クロード様が一歩前に出た。周囲の温度が下がる。壁に霜が張り始める。
「俺は最初から、リーネを望んだ。三年前、夜会で出会った時から。お前たちが何を言おうと、彼女は俺の妻だ。連れ帰らせはしない」
「こ、これが噂の……化け物……」
姉の言葉に、クロード様が僅かに揺らいだのがわかった。
「クロード様!」
私は彼の手を取った。冷たい。凍りつくように冷たい。でも——
「あなたは化け物なんかじゃありません。私の、大切な人です」
広間の空気が、一瞬止まった。
そして——氷が、溶け始めた。
壁を覆っていた霜が、窓を閉ざしていた氷が、音を立てて溶けていく。
「な、何が……」
姉が目を見開いている。
「……どういうことだ」
クロード様の声が震えていた。
「俺は、お前を凍らせる」
「凍りません」
「俺に触れたものは、全て凍りつく」
「凍りません。ほら、温かいでしょう?」
彼の目から、また涙が零れた。今度は——凍らなかった。
「呪いを解く鍵は——心から愛し、愛されること」
マリエットの声が響いた。
「あなたが誰かを心から愛し、その誰かに心から愛される時。呪いは解けると、旦那様のお母様がそうおっしゃっていました」
クロード様が私を見下ろした。
「リーネ」
「はい」
「俺は——俺は、お前を愛している。三年前から、ずっと。誰にも見向きされない俺に、お前だけが微笑んでくれた」
心臓が止まりそうだった。
「俺は最初から、お前だけを望んでいた」
涙が止まらなかった。誰にも必要とされなかった私。でも、この人だけは——
「私も。私も、あなたを愛しています」
「なぜ、あなたが愛されるの?私じゃなくて——」
姉の顔が、醜く歪んでいた。
「もう十分だ。これ以上、リーネを傷つけることは許さない」
クロード様が私を庇った。
「リーネ、僕は君を愛していた。誤解だったんだ——」
エドワード様が慌てて前に出た。
「手のひらを返すな。『君では役不足だった』——そう言ったのは誰だ。お前が捨てた女は、俺のものだ。誰にも渡さない」
彼は私を抱き寄せた。強く、でも優しく。
「二度とこの城に近づくな。次は容赦しない」
姉とエドワード様は、転がるように城を出て行った。
◇◇◇
城に春が来た。文字通りの意味で。
凍りついていた庭には花が咲き、枯れていた木々には新緑が芽吹いている。
「信じられない……」
「お前の力だ」
隣を歩くクロードが、私の手を取った。もう手袋はしていない。温かい、人の手。
「クロード」
「なんだ」
「……愛しています」
何度言っても、心臓が跳ねる。
「俺も——愛している」
彼の耳が赤くなっている。相変わらず、こういうことを言う時だけ照れるのだ。
婚礼の儀は、春の盛りに行われた。
「俺は誓う。生涯、お前だけを愛し、守り、傍にいることを」
「私も誓います。生涯、あなただけを愛し、支え、傍にいることを」
誓いの口づけを交わした時、広間に歓声が上がった。
宴の後、二人きりになった寝室で、クロードが私を抱きしめた。
「リーネ。俺は、お前に出会えて良かった」
「私もです」
「お前がいなければ、俺は一生あの城で凍りついていた」
「私こそ。誰にも必要とされないと思っていました。でも——」
「俺はお前を必要としている。これからも、ずっと」
涙が溢れた。嬉し涙だ。
「泣くな」
「泣いてません」
「……嘘つきめ」
彼が優しく涙を拭ってくれた。
「愛している、リーネ」
「愛しています、クロード」
窓の外では、満開の桜が風に舞っていた。
氷に閉ざされた城に、ようやく春が来た。二つの孤独な魂が出会い、溶け合い、一つになった。
これは、氷の城に幽閉された身代わり花嫁が、冷酷公爵に溺愛されて溶かされる——そんな、私たちの物語。
【完】




