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氷の城に幽閉された身代わり花嫁は、冷酷公爵に溺愛されて溶かされる~「お前は一生ここから出られない」と言った彼が、私だけを三年間想い続けていたなんて~

作者: uta
掲載日:2026/05/12

「君では役不足だった」


その言葉が、まだ耳の奥で響いている。


馬車の窓から見える景色は、いつしか緑を失い、白一色に塗り潰されていた。吐く息が白く凍る。肩に羽織った薄い外套では、この寒さは凌げない。


——でも、いいの。寒いのは、慣れているから。


私、リーネ・フォルトナーは、姉の身代わりとして氷河の城へ嫁ぐ。


三日前のことだ。婚約者だったエドワード様に呼び出され、私は期待に胸を膨らませていた。ようやく正式な婚姻の話が進むのだと、愚かにも信じて。


『セレナと結婚することにした』


姉の名前が出た瞬間、頭が真っ白になった。


『君は悪くないよ、リーネ。ただ——君では、役不足だったんだ』


三年間。私なりに尽くしてきたつもりだった。でも、最初から比べられていたのは姉だった。蜂蜜色の髪に翡翠の瞳、社交界の華と謳われるセレナ姉様。


私は、いつだって影だった。


『リーネ、あなたに良い話があるの』


婚約破棄の翌日、母に呼び出された。良い話。その言葉の裏に潜む意味を、私は知っていた。


『ヴェルシュタイン公爵家から、縁談が来ているの。本来ならセレナに行かせるはずだったのだけれど——あの子にはエドワード様との婚姻が控えているでしょう?だから、あなたが身代わりに』


氷河の公爵。感情を持たない冷酷な男。彼に嫁いだ者は、二度と戻ってこないという噂。


反論する気力もなかった。どうせ私がいなくなっても、誰も困らない。


——せめて、家の役に立てるなら。


「お嬢様、間もなく城に到着いたします」


御者の声で現実に引き戻される。


窓の外を見上げると、灰色の空に聳える巨大な城が見えた。黒い石造りの壁。凍りついた尖塔。城全体が氷に覆われ、まるで生きることを拒絶しているかのようだった。


「……ここが、私の墓場」


呟いた言葉は、白い息と共に消えていく。


城門が重々しく開く音がした。




◇◇◇




城の大広間は、外よりもなお冷たかった。


暖炉には火が入っているのに、空気が凍りついている。壁も床も、うっすらと霜が張っていて、息をするたびに肺が痛む。


足音が聞こえる。


重く、冷たく、一歩一歩近づいてくる。その足音だけで、空気が更に冷え込むのがわかった。


「——顔を上げろ」


低い声。感情の欠片もない、氷のような声だった。


恐る恐る顔を上げた瞬間、息を呑んだ。


銀灰色の髪。凍った湖のような蒼氷色の瞳。彫刻のように整った顔立ちは、しかし一切の温もりを感じさせない。


——美しい。


そう思った直後、背筋に悪寒が走った。彼の周囲だけ、明らかに温度が違う。


「お前が、身代わりか」


「……は、はい。リーネ・フォルトナーと申します」


声が震えた。


「…………」


公爵様——クロード・ヴェルシュタインは、私を見下ろしたまま沈黙した。その蒼氷色の瞳が、まるで値踏みするように私を見ている。


——ああ、やっぱり。失望している。


「……ごめんなさい。私が来てしまって、ごめんなさい。姉の方が、きっと相応しかったのに——」


「黙れ」


鋭い一言で遮られる。私は反射的に肩を竦めた。


でも、次に彼が発した言葉は、予想とは違った。


「お前は一生、この城から出られない」


「……え?」


「三年の契約だと聞いていただろうが、俺は変更する気はない」


意味がわからなかった。嫌なら追い返せばいいのに。なぜ、わざわざ私を閉じ込めようとするのか。


「部屋に案内させる。必要なものがあれば、メイドに言え」


それだけ言うと、彼は踵を返した。


マントの裾が翻り、その軌跡に沿って霜が走る。まるで彼自身が冬を纏っているかのようだった。


その時だった。


肩に、温かい何かがかけられた。


「……え?」


振り返ると、黒い外套が私の肩を覆っていた。毛皮の裏地。仄かに残る体温。


そして——すでに遠ざかっていく銀色の後ろ姿。


「公爵、様……?」


彼は振り返らなかった。ただ、低い声だけが残響のように聞こえた。


「……寒いなら、言え」


外套からは、微かに冬の森の香りがした。




◇◇◇




城での生活が始まって、一週間が経った。


公爵様とは、あれ以来ほとんど顔を合わせていない。食事は別々、部屋も城の反対側。必要最低限の接触さえない、名ばかりの夫婦。


——これでいいの。政略結婚なんだから。


そう自分に言い聞かせながらも、あの日の外套のことが頭から離れなかった。


部屋に戻ると、暖炉には新しい薪がくべられていた。


——あれ?


今朝出かけた時は、もう燃え尽きかけていたはずなのに。


テーブルの上には、湯気の立つカップが置かれていた。蓋がしてあって、冷めないように工夫されている。蓋を開けると、甘い香りが漂った。


ホットミルクに、蜂蜜。


「……これ、私の好きな……」


誰が用意してくれたのだろう。


不思議に思いながらも、私は温かい飲み物を口にした。冷え切った体に、甘い温もりが染み渡る。


「……美味しい」


久しぶりに、心が緩んだ気がした。




その夜、眠れなかった私は、城の中を歩いていた。


中庭に面した廊下で足を止めた。月光に照らされた庭は、一面の銀世界だった。


その中に、人影があった。


銀灰色の髪が月光を反射している。黒いシャツ姿で、素手のまま雪の中に立っている彼——クロード公爵だった。


彼は片手を伸ばして、空を仰いでいた。その手から、氷の結晶が舞い上がっていく。まるで魔法のように、彼の指先から雪が生まれ、風に乗って消えていく。


「……綺麗」


思わず呟いた瞬間、彼が振り向いた。


「……何をしている」


「あ、あの、眠れなくて……ごめんなさい、お邪魔しました」


踵を返そうとした私の腕を、冷たい手が掴んだ。


「待て」


触れられた箇所が、一瞬で凍りつくように冷たくなる。彼は慌てて手を離した。


「……すまない。俺に近づくな」


「……え?」


「凍るぞ」


彼は自分の手を見下ろしていた。月明かりの下、その手には霜が張っている。


——ああ、そういうこと。


彼は本当に、触れるものを凍らせてしまう。だから人を遠ざけ、この城に閉じこもっている。


「……寒くないんですか?」


私の口から出たのは、そんな言葉だった。


彼が驚いたように目を見開く。


「何?」


「だって、素手で雪の中に立って……手が冷たいでしょう」


「……俺には、寒さは関係ない」


「でも」


私は一歩、彼に近づいた。


「あなたは……優しい人なんですね」


「……何を言っている」


「暖炉の薪を足してくれたのも、温かい飲み物を用意してくれたのも、公爵様でしょう?」


彼の目が、僅かに揺れた。


「……気のせいだ」


「気のせいじゃありません。ありがとうございます。……とても、嬉しかったです」


沈黙が落ちた。月明かりの下、二人の吐く息が白く交差する。


「……部屋に戻れ」


「はい」


「廊下は冷える。……風邪を引く」


私は微笑んで、踵を返した。


——冷酷公爵なんかじゃない。この人は、ただ不器用なだけだ。


そう思った瞬間、凍っていた胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。




◇◇◇




「——おいおい、リーネ嬢!そんな隅っこで何してるんだ?」


図書室の片隅で本を読んでいた私は、突然の声に飛び上がった。


振り返ると、銀灰色の髪に琥珀色の瞳を持つ男性が、人懐っこい笑みを浮かべて立っていた。


「ギルバート・ヴェルシュタイン。クロードの兄だ。異母兄だがな」


公爵様の、お兄様?


「知ってる知ってる。クロードの嫁さんだろ?」


嫁さん。その言葉に、心臓が跳ねた。


「いえ、私はただの身代わりで……」


「身代わり?誰がそんなこと言った?」


「え?だって、姉が本来の婚約者で——」


「違う違う」


彼は豪快に笑った。


「あいつが最初から指名したのは、お前さんだよ。リーネ・フォルトナー。間違いない」


「……え?」


頭が真っ白になった。


「三年前の夜会。誰も近づかない青年に、微笑みかけた少女がいたそうだ」


三年前の夜会。記憶の奥を探る。確かにあの頃、社交界の端で、誰にも話しかけられずに一人で立っている青年を見た気がする。皆が避けていて、可哀想だと思って——


「……あの時の?」


「あいつはな、物心ついた時から人を避けてきた。近づけば凍らせてしまうから。誰もあいつに触ろうとしなかったし、目を合わせようともしなかった。でもお前さんは違った。怖がりもせずに近づいて、笑いかけた」


胸が締め付けられた。


私にとってはほんの些細な出来事。でも、彼にとっては——


「あいつは不器用なだけだ。本当は、誰より優しいんだ」


「……知っています」


私は自然とそう答えていた。


「あいつを頼む、リーネ嬢。あいつの氷を溶かせるのは、お前だけだ」




◇◇◇




「旦那様は……ああ見えて、毎晩あなたの部屋の前で足を止めていらっしゃいます」


メイド長のマリエットが、珍しく柔らかい声でそう言った。


「……え?」


「私はあの子の乳母でした。呪いを受けた日も、お母様を凍らせかけた日も、傍にいました。以来、あの子は全ての感情を封じました。誰かを傷つけないために」


胸が張り裂けそうだった。幼い子供が、そんな重荷を背負って。


「だから、あの子を、どうか見捨てないでください」


「……見捨てません。私も——私も、独りでした。だから、公爵様の孤独が、痛いほどわかるんです」




その夜、私はクロード様の部屋の前に立っていた。


扉を開けると、冷気が襲ってきた。暖炉に火は入っていない。


「何の用だ」


「……お話がしたくて」


「俺と?」


「はい」


「言っておく。俺に近づくな」


「知っています。凍るから、でしょう?」


「……なら、なぜ来た」


私は一歩、彼に近づいた。


「寒くないですか。この部屋、暖炉に火が入っていません。毎日、私の部屋には薪を足してくれるのに」


「お前には関係ない」


「あります。あなたが寒い思いをしているなら、私も悲しい」


「……何を」


「全部、あなたでしょう?温かい飲み物も、暖炉の火も」


「……うるさい」


その声が、どこか照れているように聞こえて、私は思わず笑ってしまった。


「あなたは、優しい人です」


「違う。俺は冷酷だ。人を凍らせる化け物だ」


「化け物なんかじゃありません」


私は手を伸ばした。


「触るな!」


彼が後ずさる。でも私は構わず、その頬に手を添えた。


冷たい。氷のように冷たい肌。でも——


「……あったかい」


「何を……」


「あなたの心は、あったかいです。私、決めました。この城にいます。あなたの傍に、いたいんです」


「……後悔するぞ」


「しません」


「俺は、お前を幸せにできない」


「私がそれを決めます」


彼の肩が、微かに震えた。


「……どうして。どうして、お前は俺を恐れない」


「恐れる理由がないからです。私を温めてくれた人を、どうして恐れられますか」


彼の瞳から、一筋の雫が零れ落ちた。それは落ちる前に凍りつき、小さな氷の粒となって床に落ちる。


——泣いている。この人は、ずっと泣きたかったのだ。


「リーネ」


初めて、名前を呼ばれた。


「……俺は、お前を、手放したくない」


その言葉に、私の涙腺が崩壊した。


「私も。私も、あなたの傍にいたい」




◇◇◇




穏やかな日々が壊れたのは、ある日の午後だった。


「フォルトナー伯爵家のセレナ様と、クレストフォール子爵エドワード様がお見えです」


姉と、元婚約者。


血の気が引いた。


「俺が対応する。お前は部屋にいろ」


クロード様が立ち上がった。でも私は我慢できなくなって、大広間に駆けつけた。


「まあ、リーネったら。元気そうで安心したわ。帰りましょう?こんな寒い所、あなたには無理よ」


姉が優雅に微笑みながら近づいてくる。でもその翡翠色の目は、冷たく光っている。


「……帰りません」


「え?」


「私は、ここにいます」


「何を言っているの?身代わりは身代わりらしくしていればいいのに」


「身代わりなんかじゃありません。私は自分の意志で、この城にいます」


「自分の意志?」


エドワード様が嘲笑った。


「君が公爵様に相応しいとでも?身代わりの分際で公爵夫人など、分を弁えろ」


「身代わりではないと言っている」


クロード様が一歩前に出た。周囲の温度が下がる。壁に霜が張り始める。


「俺は最初から、リーネを望んだ。三年前、夜会で出会った時から。お前たちが何を言おうと、彼女は俺の妻だ。連れ帰らせはしない」


「こ、これが噂の……化け物……」


姉の言葉に、クロード様が僅かに揺らいだのがわかった。


「クロード様!」


私は彼の手を取った。冷たい。凍りつくように冷たい。でも——


「あなたは化け物なんかじゃありません。私の、大切な人です」


広間の空気が、一瞬止まった。


そして——氷が、溶け始めた。


壁を覆っていた霜が、窓を閉ざしていた氷が、音を立てて溶けていく。


「な、何が……」


姉が目を見開いている。


「……どういうことだ」


クロード様の声が震えていた。


「俺は、お前を凍らせる」


「凍りません」


「俺に触れたものは、全て凍りつく」


「凍りません。ほら、温かいでしょう?」


彼の目から、また涙が零れた。今度は——凍らなかった。


「呪いを解く鍵は——心から愛し、愛されること」


マリエットの声が響いた。


「あなたが誰かを心から愛し、その誰かに心から愛される時。呪いは解けると、旦那様のお母様がそうおっしゃっていました」


クロード様が私を見下ろした。


「リーネ」


「はい」


「俺は——俺は、お前を愛している。三年前から、ずっと。誰にも見向きされない俺に、お前だけが微笑んでくれた」


心臓が止まりそうだった。


「俺は最初から、お前だけを望んでいた」


涙が止まらなかった。誰にも必要とされなかった私。でも、この人だけは——


「私も。私も、あなたを愛しています」


「なぜ、あなたが愛されるの?私じゃなくて——」


姉の顔が、醜く歪んでいた。


「もう十分だ。これ以上、リーネを傷つけることは許さない」


クロード様が私を庇った。


「リーネ、僕は君を愛していた。誤解だったんだ——」


エドワード様が慌てて前に出た。


「手のひらを返すな。『君では役不足だった』——そう言ったのは誰だ。お前が捨てた女は、俺のものだ。誰にも渡さない」


彼は私を抱き寄せた。強く、でも優しく。


「二度とこの城に近づくな。次は容赦しない」


姉とエドワード様は、転がるように城を出て行った。




◇◇◇




城に春が来た。文字通りの意味で。


凍りついていた庭には花が咲き、枯れていた木々には新緑が芽吹いている。


「信じられない……」


「お前の力だ」


隣を歩くクロードが、私の手を取った。もう手袋はしていない。温かい、人の手。


「クロード」


「なんだ」


「……愛しています」


何度言っても、心臓が跳ねる。


「俺も——愛している」


彼の耳が赤くなっている。相変わらず、こういうことを言う時だけ照れるのだ。


婚礼の儀は、春の盛りに行われた。


「俺は誓う。生涯、お前だけを愛し、守り、傍にいることを」


「私も誓います。生涯、あなただけを愛し、支え、傍にいることを」


誓いの口づけを交わした時、広間に歓声が上がった。




宴の後、二人きりになった寝室で、クロードが私を抱きしめた。


「リーネ。俺は、お前に出会えて良かった」


「私もです」


「お前がいなければ、俺は一生あの城で凍りついていた」


「私こそ。誰にも必要とされないと思っていました。でも——」


「俺はお前を必要としている。これからも、ずっと」


涙が溢れた。嬉し涙だ。


「泣くな」


「泣いてません」


「……嘘つきめ」


彼が優しく涙を拭ってくれた。


「愛している、リーネ」


「愛しています、クロード」


窓の外では、満開の桜が風に舞っていた。


氷に閉ざされた城に、ようやく春が来た。二つの孤独な魂が出会い、溶け合い、一つになった。


これは、氷の城に幽閉された身代わり花嫁が、冷酷公爵に溺愛されて溶かされる——そんな、私たちの物語。




【完】

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