スターチス
俺の最愛が死んだ。
数日前まであんなに元気だったのに。まだ温かく、今にも起きそうな程穏やかな寝顔を浮かべているのに。
その瞳が俺に向けられる事はもうなく、愛を紡いだ唇も、優しく抱き締めてくれた腕も、天使の様な笑みを浮かべた額も ── もう二度と動く事はない。
何故。どうして。
誰か嘘だと言ってくれ。
そう願うのに、何処か冷静な自分が彼はもう死んだのだと言う。受け入れたくないのに、涙を流し周りを囲む人々とベッドの上に眠る彼がそれを肯定する。
── 彼は死んだのだ、と。
現実を受け入れられず、彼の手を取ったまま膝を突き慟哭する俺を1人部屋に残して、医者も家族も皆かける言葉を失い、静かにその場を去って行く。
触れた手は温かく柔らかい。しかし、握っても指を絡めても、彼が握り返してくれる事はなく。何をしても反応が返って来る事はない。
名前を呼べば、またその愛らしい声で俺の名を呼んでくれるのではないか。もう一度、愛していると言ってくれるのではないか。そんな筈はないと分かっていても尚、可能性を捨て切れず何度も何度も彼の名を呼び続ける。
俺の名前を呼んで欲しい
愛していると笑って欲しい
彼の名前を呼ぶ度、鮮明に思い起こされる彼との思い出。次第に歪む視界に、滂沱の涙。彼との永き記憶に必死に堪えていたものは遂に溢れ出し、彼へ紡がれる言葉は悲痛な泣き声となった。
── 彼との出会いは大学生の頃。図書館で本を探している所を助けたのがきっかけで仲良くなり、告白は俺からした。
交際を始めてから聞いた話だが、彼は元々同性愛者であったそう。出会った時、彼は既に俺へ想いを寄せてくれていたのだとか。けれど、俺はバイセクシャル。他者から見れば異性愛者に見えていた様で、きっと恋人に持つのは女性の方が良いと勝手に諦めていたそうだ。
彼らしいと言えば彼らしいが、今思うとその時に告白していればもっと一緒に過ごせていたのに、と思う。もし、過去に戻れるなら、その時に戻りたい。
卒業後は同棲を始め、愛に満ちた生活を送っていた。朝は口付けで起き、夜はハグで出迎えられ、就寝時にも口付けをしてから夢の世界へ旅立つ。口付けで始まり、口付けで終わる ── そんな恋人らしい、砂糖よりも甘く、蜂蜜よりも濃密な毎日を過ごしていた。
これは2人で決めた約束だった。何時何処で如何なる形で別れが来るか分からない。ならば、後悔しないように、互いに常に愛をもって接しよう、と。
どんなに喧嘩をしても、どんなに忙しくしていても、必ず口付けかハグをする。お陰様で家を出るのが遅刻ギリギリになった事も少なくない。だが、交際してから幾年経っても、口付け1つで頬を染め、手を握るだけで耳の端を赤くするのだから、彼が悪い。あれを見て何もせずに出勤出来る男など、この世に居る訳がない。
そんな愛する人との幸せな日々。彼との日々は深い愛に溢れ、終わりなど無く永遠に続くものの様に感じられた。
だが、神は理不尽だ。彼は急な病に犯され、見る見る内に弱っていく。傍から見てもその変化は顕著で、しかし彼がそれを必死に隠そうとするものだから、辛くて堪らない。
朝起こすのに口付けても、以前は俺の首に腕を回しもっとと強請って来たのに、病に伏してからはゆっくりと瞼を持ち上げ力無く微笑むだけ。日に日に力を失くし痩せ細っていく彼を起こす度、胸が張り裂ける様であった。
何をしても、何もしなくても、状態は悪化する一方。皆言わずとも、最悪の結果 ── 死 ── を意識していたのは知っていた。
他でもない、彼もそう。彼は自分の亡き後を考え、日記をつけたり身の回りの整頓を行ったりしていた。
最後まで諦めていなかったのは ── 否、諦めきれていなかったのは俺だけであった。
止め処無く溢れる涙で視界が揺れ声を枯らす中、先日彼に言われた一言を思い出す。
── 僕にもしもの事があったらノートを見て
その時はもしもだなんて言うなと軽く叱責したが、彼がこの時を予想して何かを用意していたのなら。そう思い、額を濡らす涙を袖で乱暴に拭うと、脇の引き出しから彼の日記帳を取り出した。
恐る恐る中を開く。彼の字だ。ノート一面に記されていたのは、俺との思い出とやり残した事への後悔や自責の念。柔らかく可愛らしい、見慣れた彼の優しい字を指先でなぞると、枯渇を知らない涙腺は決壊し、落ちた雫は頬を伝い服を濡らす。
一つ一つを追い最後の頁に辿り着くと、その頁の端に何かで濡れた跡を見つける。そこには、彼から俺に向けたメッセージが綴られていた。
俺を一人残して先立つ事を許して欲しいという事。
言葉も行動も物も何もかも、
贈られたもの全てが一生の宝物であるという事。
俺が最初で最後の恋人であったという事。
そして ──
「自分の亡き後 自分の事は忘れて欲しい」という事。
俗世に存在しない自分が、生きている俺の時間を奪う事は許されないかららしい。そんな事、誰が受け入れられるだろうか。彼と出会った時から、俺の時間は彼と共にあるというのに。俺の全ては、彼のものだというのに。
彼が何を想い、何を考えこれを書いたのかを想像すると、胸が苦しく堪らない。
しかし、それで終わりかの様に見えたノートは、一番最後の頁が破られていた。隣の頁を見るに、何かを書いた形跡がある。それなのに、何故。
この頁には何が書かれていたのか。何故破られているのか。今何処にあるのか。引き出しの中を探しても、荷物を探しても、それは何処にも見当たらない。
そこでふと、棚にあった本へ視線が向く。それは2人の出会いのきっかけとなった本。入院が決まった頃、彼のリクエストで買って来たもの。もしや此処に。そう思い本棚へ向かうと、本を手に取り徐に頁を捲った。
案の定、1枚の紙が見つかる。それはまるで雨に濡れた後かの様に至る所が縒れてしまっていて、乱暴に扱えば破れてしまいそうな程脆くなっていた。
そっと折れ目に沿って丁寧に開くと、その文へ目を通す。
死にたくない。もっと一緒に居たい。
本当は自分だけを愛して欲しい。
一面に綴られた悲痛な叫び。そこには、彼の本音があった。
読み進めれば読み進める程、胸が詰まり嗚咽がもれる。どんなに不安だったろうか。どんなに辛かっただろうか。幸せな日々を送り、人生これからという所であったのに。代われるなら代わりたかった。その辛さや痛みを分けられるのなら、その全てを負いたかった。
彼への愛と、何もしてやれなかった事への後悔。泣き声は叫び声へ変わり、彼の傍らに崩れ落ちると、頬を伝う涙は彼の横たわるベッドを濡らす。
文字を読み進める最中、スターチスが仄かに香る。
彼の傍らに咲くそれは彼の好んだ花。同棲していた家にも咲いている花で、この香りを嗅ぐと、彼の居ない時でも彼が側に居るかの様な気持ちになって喜びが湧いた。
ほんの一瞬の喜びを感じたくて、彼の存在を感じたくて、残る微かな香りを辿る。まだ、そこに居る筈だと。
だが、彼を失った今、その喜びは刹那的なもの。その香りが鼻を掠める度思い知らされる。
── 彼はもう居ないのだと。
彼の字を辿る度溢れる涙。それでも、彼の最期の想いを知りたくて、彼を感じたくて、必死に堪えながら先へと進む。
しかし、もう全て出し切ったかの様に思われた滾々と雫を流す双眼は、最後の最期に綴られた文字を捉えた瞬間大粒の涙を溢す。
もし彼が今、俺の傍らに居たのならどうしているだろうか。彼が今の俺を見たのなら、きっと自分の事で泣かないで欲しいと泣いている筈だ。誰よりも優しくて、誰よりも愛情深い彼だから。涙を流す俺を見て、彼もまたその瞳を濡らすのだろう。
先程まで泣いていた筈が、そんな仮の想像をして頬を緩めてしまう。やはり、彼には敵わない。俺を泣かせるのも、笑わせてくれるのも、この世で彼一人だけ。
愛している。誰よりも。
もう君の瞳に俺が映る事はないとしても。
何度でも言う。君だけを永遠に愛している。
誰よりも。何よりも。愛する人。
君に出会えて。君を愛する事が出来て。
君に愛されて。幸せだった。
傍らに日記を置き、涙を拭い、カーテンを開ける。
窓を開ければ、庭に咲く花々の香りが舞い込み、スターチスの香りが静寂に満ちた室内を綾なす。
後に残した者の悲しみは、後に残された者の悲しみに勝る。寂しく感じるのは、何も俺だけではない。
彼の存在は俺の中で生きている。もう二度と話す事は叶わなくとも、彼は俺の記憶の中で生き続ける。
愛してる。
君だけを、ずっと愛してる。
何度生まれ変わっても、君だけを愛し続ける。
絶対など、永遠など、来世など無いと言われても。
何度でも君に恋に落ち、愛を告げる。
何度でも誓う。愛し続けると。
世界中でただ一人、君だけを永遠に愛している。
幾度と無く告げた彼への想い。まるでそれに応えるように、窓から温かな光が差し込む。
彼に最期の口付けを落とした時、視界の隅に入った彼の最期の文字。
彼方から風に乗って聞こえてきた彼の声は
少しだけ笑っている様な気がした。
── ね? 一生愛してるって本当だったでしょう?
── ずっとずーっと 愛してる
「ハナハマサジ / スターチス / リモニウム」
花言葉 : 永遠の愛・変わらぬ心・途絶えぬ記憶 … etc.




