三.
絢爛豪華な造りをしている王宮内を、我が物顔で歩いている者たちがいた。
彼らの横を女官が通り過ぎる。女官たちは顔を赤らめてひそひそ話をする。
「地下の国では、さぞ身分が高い方だったに違いない」
「ああ、せめて一言だけでも声をおかけ下さらないかしら」
「カガミ様とヤサカニ様……お二方がいるだけで、場が華やぎますこと」
閉鎖的な雰囲気を持つ王宮内では非常にまれな光景である。
高天原の民ということに自負を持っている宮内の者たちは大抵よそ者を嫌い、遠ざける。
しかし、カガミとヤサカニは最善の礼を以って迎え入れられた。
宴の席にいなかった者も、噂を聞きつけて訳知り顔で彼らに話しかける。
カガミはそのどれもに丁寧に言葉を返していた。彼の影の如く付き従うヤサカニも、喋りかけられれば適切な言を述べる。
ムロはその様子を一人、西門兵の屯所の近くにある訓練場の前で眺めていた。今日は、雪解け祭があるためにムロたち武官も休みをもらっていた。他の武官のように町へ繰り出しても良かったのだが、何となく自主的に訓練しようと思い立ってこの場にいる。
つい先日、カガミもヤサカニも、もう一月すればムロが指揮をとる西門軍へ入ると台王より聞かされた。それを拒否する権限がムロに与えられているわけもなく、ムロは、しぶしぶ二人の技能を確かめさせてもらった。
その時見たカガミたちの力量を思い出し、奥歯を強く噛みしめた。
カガミとヤサカニの能力は非の打ち所がなかった。ヤサカニなど、左目の不自由などものともせずに西門兵数人を一瞬にして気絶させた。
能力が低ければどうにかして軍へ入ることを防げただろうが、ともすれば自分と比肩する彼らの力をみすみす拒否することはできない。
(……黄昏国の流民……)
ムロ自身が黄昏国の民だからこそわかる。カガミたちを王宮に置いておくのは危険だ、と。
不安要素はいずれ牙を剥き、害をなすだろう。
(台王がどうなろうが構わない。だが――)
「随分と厳しい顔をしている」
はっとして後ろを振り向くと、悩みの元凶であるカガミが佇んでいた。圧倒的な存在感を放つそれは、少しだけ笑った。
「なるほど、頭の切れる武官長は俺たちに疑念を抱いているらしい」
「……気安く話しかけるな」
冷たく言い放つが、カガミはそれを気に留めてもいない。
「聞いた話では、武官長も黄昏国の民らしいじゃないか。同郷の者同士、助け合おう」
ムロは苛立った口調でまくし立てる。
「一緒にするなっ。俺はヤナギ様に忠誠を誓った者。既に黄昏国とは訣別している」
カガミの眉がぴくりと上がる。
疑念と不快感が渦となってムロの心を支配する。
「地下深くにもぐっていれば良かったものを」
ムロは抜刀した。切っ先をカガミの鼻先に向ける。
カガミは静謐な瞳でムロを見据えていた。
「カガミ様! 貴様……カガミ様に何をする」
ムロは声の主を横目見た。
怒りに身を震わせた隻眼のヤサカニが今にも飛びかからんばかりの形相で剣を構えていた。
ムロの表情が能面のごとく消失する。整った顔立ちは、ことさら彼を生身の人間から遠ざけた。彼は剣を構え直して名乗りを上げた。
「我が名は、高天原国に仕えし武官長が一人、ムロ。少しでも妙な動きをしてみろ。その首二つとも掻き切ってくれる」
「待った」
中性的な一声に、ヤサカニもムロも動きを止めた。声の主を見つけようと、三人は辺りを見回した。
そして、ムロが「あっ」と叫んだ。
忌み部屋の裏から、チズコが姿を現す。
ヤサカニは目を瞬かせた。
チズコの登場によって、完全にヤサカニとムロから士気は消えてしまった。
「ムロ、この方々は高天原国を救ってくれようとしてるんだ」
「何を……この者は黄昏国の者だぞ! 良からぬことをたくらんでいるに決まっている!」
拳を握りしめて息巻くムロに、チズコは冷めた視線をやった。
「元は黄昏国の民だが、ヤサカニはわたくしと同じ郷の者。彼らは隠密に黄昏国の動向を探ってもらおうと亡き姫巫に命じられていた者たちです」
無茶苦茶な、とムロは毒づいた。
自分がそのようなはったりが通用する人間でないことなど、チズコはわかっているはずである。
幾たびの修羅場を越えて、ここまで生きてきたと思っているのだ。
双眸の鋭さは、大男でさえ萎縮させる覇気があるとも言われたこともあるくらいだ。
「そのような話、聞いたことも」
チズコはムロの言を遮って、乾いた笑い声を上げる。
「隠密がいると周囲に洩らしては、隠密は隠密でなくなります」
「しかし――――、今この時になって高天原国へ戻ってくるなんて、不審だ」
ムロは剣をおさめ、不機嫌さを顔に出しつつ腕を組んだ。
「流れに乗じて高天原国へ帰還しようと思ったんでしょう、きっと。……ねえ、ヤサカニ」
「ああ」
慌てふためいている様子は微塵もなく、ヤサカニは頷いた。
ムロは不審そうにしていたが、さして追及せずに溜め息を吐く。
「わかった。ヤナギ様の采女であるお前がそこまで言うのならば信じよう」
ムロがそう言うと、チズコは一件落着とでも言いそうな顔で笑んだ。
「ありがとう。さて、カガミ様……姫巫への謁見の件ですが」
「ようやく許可がおりたか?」
先程までは無関心そうに場の成り行きを見守っていたカガミが、身を乗り出してチズコに詰め寄る。それがまた更にムロの不信感を誘った。
チズコは残念そうに首を横に振る。
「やはり台王の許可がおりませんでした。姫巫は高天原国が懐刀。おいそれと謁見出来る方ではないのです」
そうか、とカガミは心なし悲しそうに呟いた。
「お前は側近だろう。何とかならないのか」
ヤサカニの気安い物言いに幾分殺気立ったムロだったが、チズコは気にも留めずに返答する。
「わたくしは側近ではなく采女。姫巫の日常の世話をする者。何とかする権限は持ち合わせていない」
「…………」
重い沈黙が立ち込める。
そんな空気を追い払うかのように、チズコが二度手を叩いた。
「ささ、そう気を落とさずに。姫巫には会わせられませんが、その代わり今日はわたくしめが都や王宮内をくまなく案内させて頂きますので」
チズコはそう言い放つとカガミとヤサカニの袖を引っ張り、訓練場より去って行った。
ムロはカガミたちが見えなくなるまでずっとその背を睨み据えていた。
◆ ◆ ◆
梔子齋森。
その圧倒的な霊圧を持った森より抜け出したカガミたちは、鳥のさえずりさえも消え失せた荒れた土地に出た。
チズコいわく、台王の座す宮殿とは反対にある道に出たらしい。
ひたすら真っ直ぐ行けば、第二の都と呼ばれている沢良宜へと辿り着く。
都の中でもあまり人が寄り付かないところを案内してくれと頼んだカガミを、チズコは北門をくぐってここまで案内した。チズコが森に立ちいる前に北門の近くにある池で口をゆすぎ、手を洗うよう頼んできたので、仕方なしにカガミたちは簡素な禊を行なった。最初は木綿の衣をまとって池の中へ入れと言われたが、片時たりとも武器を手放したくないと彼らはそれを拒否した。
梔子斎森の中心にある神杷山へ近付こうとすると、山を守護する主神が怒るために常人はこの森自体に近付こうとしない。
地平に、大きく燃える火の玉が沈もうとしている。
空の真上は既に藍色の帳がかかっていた。
カガミは左右に広がる竹林を眺める。
「これ程荒れ果てた土地にも、竹は生えるのか」
チズコは当たり前です、と冷たく返す。
「竹は生命力に溢れている。多少のことでは動じません」
二人のやり取りを尻目に、ヤサカニは黙したまま、竹林ではなく煤けた地面に目をやっている。通常ならば、地面は土色をしているはずである。しかし、この場所の地面は、墨を一面流したかの如く真っ黒であった。
「…………なるほど、この近くにも蜘蛛の廻廊があるらしい」
眉をしかめてヤサカニは呟いた。
カガミは彼の方を振り返る。
蜘蛛の廻廊の出入口がある場所では、絶えず戦が起こる。それは、万人が知っていることである。
チズコは軽やかな風に、装束の端をなびかせながら微笑んだ。
「よく気付いたね。そう、この竹林の奥には蜘蛛の廻廊がある。でも、安易に近付かないのが身のため」
「それは何故だ」
物珍しそうに、黒い塊にしか見えない小石を拾い上げながら、ヤサカニの代わりにカガミが問うた。
チズコは少しだけ逡巡してから口を開いた。
「数百年前に起きた戦によって、竹林奥部にある蜘蛛の廻廊の出入口は塞がってしまっていると伝え聞いています」
「伝え聞いている、と言うことは、じかにその目で確かめたわけではなさそうだな」
嫌に食いついてくるカガミを恨めしげに睨みつけ、チズコは当然でしょうと首を振った。
「この地は都からほど近いですが、戦で死んだ者たちの思念によって呪われております。むやみやたらと立ち入る者なんていません」
凜然と言い放ったチズコに対し、ヤサカニが唖然とした表情をして見せたと思ったら、彼女に食ってかかった。
「ちょっと待ってくれ、チズコ。そのような地へカガミ様を案内したというのか」
「誰も近付かないような場所が知りたいと仰ったのはカガミ様ではありませんか」
ヤサカニは言葉に詰まり、俯く。
「……カガミ様たちが王宮に来られたと聞き及んだ時は、驚きました」
カガミは首を捻ってヤサカニを見る。ヤサカニは心得た風情で頷いた。
「最初から都に潜伏するつもりだったんだ」
へえ、とチズコは驚きの声を上げた。
「てっきり、都ではなく沢良宜や近郊の邑に潜伏するかと思っていたけど……大胆な」
「木を隠すには森だというだろう」
ヤサカニは、からかい口調のチズコに向かって渋い顔をして見せた。
その横で興味なさげに佇んでいたカガミだったが話が一段落すると、すっと目を細めてチズコを見る。その目の強さにチズコはたじろぎ、嚥下した。彼女は小袖を口許に当てる。
「何か」
「姫巫が采女よ。ヤサカニの友として、俺たちを救ってくれたことには深く感謝している。だが、お前が俺たちの情報を台王、並びにその配下へ流した時は――」
一旦、カガミは言葉を切ると、次の瞬間艶やかに笑んだ。
「未来を視ると、宮内でまことしやかに囁かれているその眼球。二つとも抉ってやる」
人間らしさを垣間見せることなく言ってのけたカガミに、チズコは身震いする。
「カガミ様、無駄に脅すことはお止めください。……悪いな、チズコ。ああ、そうだ。一応市井の様子も見てみたいんだが」
ヤサカニの頼みをチズコは了承し、竹林道を抜けたら左に曲がり、獣道を通って街道に出るよう指示した。獣道には時たま物盗りが出没することもつけ加える。
「わたくしも一緒に行きたいのはやまやまなのですが、これから神杷山へ行かなければならないので」
この時間帯であれば、まだ仕事を終えた商人たちが大勢歩いているだろうから、それに紛れて駛嵋門――都に入る際、必ず通る門――へ近づく。門番は左右に一人ずつと、門上にある高門台――物見やぐらのようなもの――に一人配置されていることも教えてくれた。
カガミたちは黄昏国の装束を着込んでいるため、見咎められれば、ただで通行を許してもらえないことは明白である。なので、チズコは木端に書かれた台王の通行許可証を二人に渡してくれた。
「何かあれば、武官長のムロの名か、姫巫――ヤナギ様の名を出せば門を通してもらえるはずです」
言い終え、チズコは来た道を戻り始めた。
それをカガミは呼び止める。ゆっくりとチズコは立ち止まった。
「助かった」
カガミが一言だけ告げると、振り返ることはせずにチズコは言った。
「礼は要りません。わたくしは、導き手ですから」
彼女の言葉は、何か起こることを暗喩しているように聞こえた。
カガミとヤサカニはその後ろ姿が再び梔子齋森に消えるまで見守っていた。
「今からあいつは、姫巫のもとへ行くのだろうな」
焦燥感を感じさせる声をカガミは絞り出した。彼らしくもない、感情の入り混じった声色にヤサカニは戸惑いを感じたようで小さく「はい」とだけ返事をした。
◆ ◆ ◆
カガミとヤサカニは、なるべく人目につかないように外套をしっかりと羽織り、やや猫背気味で道の端を歩いた。
もちろん、異国民だとすぐにわかる髪色をしたカガミは、かぶり笠を目深に被っている。
王宮内では名が知れているとは言っても、町で彼を知る者などいないので、異国民と知れれば何かしら因縁をつけられかねない。
軒を連ねる市場の界隈からわざと外れ、二人は狭い民家の隙間を通って人気のない区間に出た。
「あまり、大通りから離れるのは得策ではありませんが……どのような通りがあるか確認しておきたいので」
控え目な声でヤサカニは言った。
見るからに、貧困層が住まう地区である。
カガミは何食わぬ顔で寂れた木の下に流れる川を覗いたが、濁流とそれに浮かぶ汚物などの強烈な臭いに顔をしかめた。
物乞いがヤサカニの腕にまとわりつく。ヤサカニは、骨と皮だけの老人に、懐より取り出した銀を二つやった。老人は頭を下げて、おぼつかない足取りで去って行く。
それを見ていたカガミは芳しくない表情を示した。
「物乞いに金銀をやっても無駄だ。彼らに真に必要なのは、食糧と清潔な衣服なのだから」
「はい、わかっております。ですが、今の私は食糧も、与える衣も持ち合わせておりません」
カガミは鼻を鳴らした。
大体、物乞い一人を助けたところで何が変わると彼は憎々しげに口にした。整った顔立ちの彼が剣呑な瞳をしてそう言うと、ことさら言葉の強さが増す。
ヤサカニは炉端に座り込んでいる数多の浮浪者を見回し、嘆息した。
「光の高天原国。その甘い言に騙され故郷を棄てここまで来て、住む場所がない人々がどれほどいるのでしょうね」
「だから何度も言っているだろう」
かぶり笠が風にあおられて飛んでいかないように押さえながら、カガミは眉をひそめた。
「この国に光などない。あるのは姫巫が掲げし、まやかしの鬼火だ」
きっぱりと断言した彼の双眸は、獲物を狙う鳶の如く、見る者全てを震撼させる。
◆ ◆ ◆
しばらくして、宮殿へ戻ってきたカガミとヤサカニは少し早い夕餉を食べ、湯浴みした。
宮の中央にある露天の浴室は庭の風景も眺めることが出来、日中の疲れを癒してくれた。本来ならば王族や客人だけしか使うことの出来ない浴室を使わせてもらえるのは、ありがたかった。普通、身分の高くない者たちは、西門の一角にある木造の浴室で水浴びして体を清める。
寝支度が整うと、カガミは壁に背を預けて持ち込んだ巻物に目を通す。巻物は全て黄昏国から持ってきたものだ。
隣部屋にはヤサカニがいる。二人が与えられたのは、二人一緒でもじゅうぶん広い部屋を一つずつであった。
正式に軍へ入るまではここで過ごしていいと台王が言ってくれたため、ありがたく使わせてもらっている。
窓から流れてくる風に、燭台の炎が頼りなげに揺らめく。
黄昏国のことを記した巻物を横に避け、高天原国のことについた書かれた巻物を開く。ある程度の知識を持っておかなければ上手く立ち回れないことを、カガミはわかっていた。
――蜘蛛の廻廊を渡った者は、故郷を忘れる。
巻物に記された一文が目に止まる。
教えてはもらっていたものの、実際に高天原国へ来てから改めてそれを実感した。
蜘蛛の廻廊を抜けると、あちらのことが酷く曖昧になる。それは高天原国から他国へ移動した場合もそうなるらしい。記憶はあるが、どこに何があったという地理的なことは思い出せない。
「まるで、夢幻のようだ」
ぽつりとカガミは呟いた。
再び戻れば記憶は戻るというが、移動する度、自らがいた国の地理を忘れてしまうなど、ただごとではない。
しかし、それが世の理であるなら仕方ないのだとも理解していた。
数刻後。
燭台の火が掻き消える。
カガミはうつらうつら頭を揺らす。強い睡魔が彼を夢路へ誘った。
『…………――は、――とずっ――緒にい――』
儚げに揺れたのは誰か。
『これは黄昏国の尊き犠牲なのだ』
そのような犠牲ならば、いらないと言えば良かった。喉元が酷く熱くて、何も言えずに黙り込んだ自分。
カガミは飛び起きた。膝の上に乗せていた巻物が跳ねる。
びっしょりと寝汗をかいていた己に気付き、嘲笑を洩らす。波打つ胸に手を当てて、額の汗を拭う。
今から遠い過去に起こった出来事。そうであるのに。つい最近起こった出来事であるように感じる。
ふとカガミが目線を落とすと、床に拯溟の花が散っていた。
いつも、過去の夢を見る時は決まって拯溟の花が現実と夢の境で散る。そして、現にその生々しい灰色の花弁を落とすのだ。
疎ましい。
カガミは心の底からそう思った。
灰色の花は、強い芳醇な香りで以てカガミを惑わす。思い出したくもない記憶ばかり引きずり出す。
『ハルセあにうえ』
久々に目にした拯溟の花を手に取って見ていると、そう声がした。
カガミは表情を強張らせ、拯溟の花を投げ捨てる。
胡座をかいた足にひじをつくと、両手に顔を埋めた。
しなやかに流れる長い髪が、入念に作りこまれた飾り物の如き端整な顔の一切を隠す。
「拯溟の 花弁一片 散りぬれば 愛しき胡蝶 虚空へ消ゆる」
弱々しく吐き出されたその古き歌は、カガミが発したとは思えないほどにか細いものだった。
「“ハルセ”は、もういない」
半月と数多の星々が、そんな彼に光を投げる。