番外編 大地の休息
戦の合間の小休止――。
ハルセとキョウカの過去話です。
拯溟の花片が、春の麗らかな風に吹かれている。視界一面を覆うそれに、ハルセは目を細めた。
蒼く晴れた空に灰色の花が舞う様は、何とも不釣り合いであった。
「あにうえ」
舌っ足らずな拙い声が花吹雪の向こう側から聞こえる。
ハルセは精悍な顔つきを少しだけ和らげ、声の主を振り返る。拯溟の花弁の隙間より見え隠れするその幼い姫に手を差し伸べれば、姫はすぐに花吹雪を突っ切ってこちらへやって来た。
「来い、キョウカ」
キョウカは豪勢な簪を揺らしながら、迷わずハルセの足に抱き着く。ハルセは軽く笑い、自分の腿の付け根程しかない背丈のキョウカを抱き上げる。
夕陽色をした衣を纏いし少女は天真爛漫に顔を緩めた。薄く色づいた頬は、走ってここまで来たのだということを如実に物語っていた。額と額を合わせて彼女の大きな黒い瞳を覗き込んだ。
「俺を捜しに来てくれたのか?」
「うん。きょうかは、あにうえと一緒にいたかったの」
温かな言葉に胸を突かれた。日溜まりの匂いがする。柔らかな頬を擦り寄せてくるその動作に愛しさを覚え、ハルセはキョウカをより一層強く抱きしめた。
暗い戦が続く黄昏国。その渦中に、このような純粋な少女がいるなどと、ハルセはキョウカと出会うまで微塵も信じていなかった。
黄昏国の掟では兄妹(または姉弟)の場合、下の子が齢三つになるまで血が繋がっていようと面会することが出来ない。ハルセとキョウカもそれに従い、昨年の冬に初めて顔を合わせた。
雪が降りしきる宵。そこで二人は出会ったのだ。ハルセが十となった祝杯の宴でのことであった。血縁のみが寄り合い、円座に腰を下ろして酒を飲み交わす。新年の厳かな雰囲気の宴だった。
あの時のことを生涯忘れることはないだろう。
朱塗り盃を翳して口元に運ぶハルセを、真正面に座す母の後ろよりじっと観察していたキョウカはやがて、小首を傾げてハルセの前に立った。そして、母親譲りの黒髪をおかっぱにした姫はハルセの頭を撫でたのだ。
場の空気は凍り付いた。
生まれ出でた際に〝神の腕〟と占者が結論づけた黄昏国が第一王子、ハルセ。神力を欲しいがままに扱える素質を持つとされた彼に進んで近付く者はいなかった。母でさえ何かの秘密を隠すかのように、ハルセを避けて通った。
そんな、無礼を働けば返り討ちに遭うと畏れられ、実父でさえ手を持て余していたハルセに、キョウカは触れたのだ。皆、姫が彼の逆鱗に触れたと思い、息を止めた。
錦糸の織り込まれた装束の裾を捌き、母がキョウカをハルセより引き離そうとする。
「これ、兄上に無礼なことをするでない」
軽く諌める母の手を嫌がり、キョウカは眦を吊り上げた。
「だって先程から、あにうえ一人でいるのだもの。だから、きょうかが一緒にいるの」
予想外の返しにハルセは目を見張った。
キョウカは隙をついてハルセの懐に飛び込んだ。その振動で盃の中身が零れ、床に散った。
「はじめまして、あにうえっ。きょうかはあにうえが大好き」
どうして自分がここまで懐かれるのか。困惑を隠せないハルセは立ち竦む母の顔を窺い見る。母は長く艶やかな髪を耳にかけ、ほうと息を吐いた。
「キョウカは、そなたが毎朝鍛錬を行なっている様を見ていたようです。物心ついてより、ずっと。いつ会えるのかとそればかり聞いておりました。今日、こうして会えたことに嬉しさが隠せなかったのでしょうね」
ハルセが鍛錬を行なっている斎庭の垣根の向こうには、女子が住まう離れがある。垣根の隙間より、キョウカは自分を知ったのだろう。
ハルセの着物を掴んでいるキョウカの小さな手を、そっと自分の手で包んだ。すると、キョウカは嬉しそうに顔を上げてハルセに笑いかける。屈託ない笑顔は、様々な重圧によって大人ぶる他なかった十の少年の心をほぐした。
「……キョウカ……」と名を呼べば、はいと歯切れ良い返事をする。
どうしようもなく温かな気持ちになって、少女の頭を撫でた。すると、キョウカも負けじと撫で返してくる。
ハルセは自然と唇を綻ばせた。周囲は騒然とする。大人顔負けの余裕と貫禄を持つハルセが、今は年相応な顔をしているのだから仕方ない。
「お前がキョウカを気に入ったのなら良かった良かった。少々じゃじゃ馬だが、たまには遊び相手になるのだぞ」
黄昏国王――父の言葉にハルセは頷く。
はたしてその言葉通り、ハルセとキョウカは仲睦まじく暮らした。戦へハルセが赴く度、キョウカは泣きべそをかきながらも、大きく手を振って彼を送り出してくれる。
どこぞの夫婦のようだとは二人に近しい護衛はいつも囃し立てた。
「もうっ」
縦皺を寄せてキョウカはハルセの胸板を叩いた。はっとして彼女を見やれば、頬を膨らませて顔を逸らされた。
怪訝な表情でキョウカの髪を撫でると、じと目でこちらを睨んでくる。
「どうした?」
「きょうかが話しかけても上の空でした」
「ああ」
ふっとハルセは納得した。どうやら、物思いに耽り過ぎてキョウカの声を拾えなかったらしい。
「悪かった。かわりに今日は一日中、キョウカと遊んでやろう」
キョウカは何も言わずにハルセへしがみつく。彼の着物の袷部分に顔面を押し付けた姫の表情はわからないが、喜んでいるのは伝わってくる。
広い宮殿の中、一人でいるのは心細かろうとハルセは思う。
空より垂れた目に見えぬ闇は、始終黄昏国を覆っている。その核部にある王宮の腐敗具合と言ったら、目に余るものがあった。
父である王は政に戦にと忙しく、ろくに顔も見ることが出来ない。母である王妃は、高天原国の姫巫――"神の口"という異名もある、戦女神と名高い神力を操る巫――より度々送り付けられる文に頭を抱えていた。その文の内容は、ハルセにもわかり兼ねる。しかし、あまり良い内容ではないのは容易に想像出来た。
「…………きょうかは、あにうえとずっと一緒にいたい」
唐突に、怖い夢を見た直後のような萎れた声で、キョウカは言った。黙っていると、彼女は涙を湛えた黒曜石の瞳でハルセを見る。
「かあさまは駄目だと言っていたの。何故? きょうかがあにうえに『相応しい姫』ではないとかあさまは言ったわ」
虚を突かれた。賢しげなキョウカ。だが、まだ四つでしかない。どうやら彼女は彼女なりに、ハルセとどうしたらずっと共にいられるかを模索していたらしい。
「…………この髪色がいけないの? 顔が駄目? 我が儘な中身が問題なの?」
キョウカは兄上と一緒にいたい、と彼女は震える声で悲鳴を上げた。
ハルセは静謐な双眸でキョウカを見据えた。朽葉色の長い髪が、瞳が、淡く煌めく。
「俺はキョウカの、長く漆黒の髪が好きだけれど」
手入れが行き届いたその艶やかな髪を指ですいた。
「全てを見透す澄んだ瞳、可愛らしい顔立ちも好きだけれど」
ハルセは幼姫の輪郭をなぞった。
「何より好きなのは、一人でいる者に笑顔で手を伸ばす、その優しい中身」
穢れを知らない白い陶磁器の如き頬に唇を落とすと、誰にも渡したくないとの願いを込めて再び強く抱きしめる。
大地より巻き上がる突風に、拯溟がまた吹雪く。
「歪んだ世、お前だけが美しい」
芯から凍える冬椿。
高天原国に怯えて暮らす、傾いた黄昏国。亡国同然のこの国を、復興する役目を担って生まれたのだと周囲は口々に呟いた。崇めた。畏れた。
飛び交う幾多の情報。一体、どれが真なのだと頭を抱えた日もあった。
だが、弱味は見せられない。自らが唯一、地上に残された一縷の希望なのだとハルセは自覚していた。
冬晴れの空は、宿運に翻弄されし王子と姫に、束の間の穏やかさを与えてくれた。