三.
チズコは耳を澄まし、川べりで衣を洗っていた手を止めて腰を上げた。
木漏れ日の柔らかい揺らめきと、清流の音。そしていつからか失われた自然の息吹。
太古が息づくこの地には、ただ安らぎと優しいまどろみだけがあった。この地では、身分の違いも何も意味を為さない。
高天原国を地上の国々は桃源郷と呼んでいたが、こここそが常世。絶対に波風の立たない平穏の地。
幻のような危うさで、この地は存在していた。
現の体を失い、たゆたいながらチズコは常闇洞泉を抜けてこの地へやって来た。もう何十年とここにとどまっている。まだ、生まれ変わりの予兆はない。きっと、再び生まれ変わる時は皆が集まってからなのだ、とチズコは妙な確信を持っていた。
姫巫と神の腕を軸にして、彼らに関わりあった者だけがいまだ生まれ変わりの道を示されていない。黄泉を司る神は理由を黙しているが、きっとそうなのだ。神々に関わった者たちは再び同じ世を生きる定めにあるのだろう。
その証拠に、チズコと同じ時期に黄泉へやって来た者たちは皆転生の道を示され、この地を去って行った。
繰り返す輪廻転生の合間の、小休止。
この地は善人も悪人も一様に受け入れ、緩やかに時を刻んでいく。
チズコは心地よい風を受けて瞑目する。五感に届くもの全てが優しい。
ばしゃりと大きな音を立てて、チズコの横にいた男が川に遊ばせた衣を乱暴に引き上げる。
「なんで俺が……」
ヤサカニは小声で悪態を吐く。
彼はヤナギとともに竹林へ出かけたかったのだ。しかし、半ば強引にチズコはヤサカニの耳を引っ張ってこの小川までやって来た。洗濯物はチズコ一人では片付けられない量だった。頼みの綱であるサコには、幼子たちの相手に手いっぱいのため手伝えないわ、と眉を下げて断られた。
チズコは文句を垂れるヤサカニを、腰に手を当てて叱咤した。
「ヤナギ様だって言ってたろう。薬草くらい一人で採りに行けるって。ごらん、わたくしの方が大わらわじゃないか」
「……チズコはこの程度の洗濯物など、どうとでもなりそうだが、ヤナギ様は……」
全く、とチズコは嘆息した。ヤサカニは心配げに竹林の方角を見やる。
「常世に来てまで、ヤナギ様が人々を助けなくとも良いだろうに」
ぼやくヤサカニにチズコは苦笑した。彼の言うことは一理ある。常世でも風邪をこじらせたり傷をこさえたりするが、時が経てば治癒する。生まれ変わる前に死んでしまうことなど、まず有り得ない。なのに、ヤナギは度々竹林へ薬草を採取しに行っては、煎じ薬を作ったり、干し薬を作ったりして人々に分け与えている。
現世の時と、少しも変わっていない。ヤナギの心は透き通っている。姫巫という呪われし重責より解放されたヤナギは、いつも笑っていた。
それを見ていると、自然チズコたちも笑顔になれた。このまま、生まれ変わらずここに留まりたいとさえ思う。
しかし――――。
チズコはヤサカニと同じく竹林に目を転じる。
この世とあの世の狭間が荒れている。大きな気配が動いた。
強い、一陣の風が吹く。
チズコは目を細めた。
「ヤサカニ」
弾んだ声でチズコはヤサカニの名を呼んだ。
ふて腐れたヤサカニは恨めしげにチズコを見上げるが、彼女の顔に喜色が浮かんでるのを見ると瞠目した。
「どうした、そんな嬉しそうに」
「……ようやくおでましのようだ。やれやれ、本当に待ちくたびれたな」
不可解なチズコの言にヤサカニは首を傾いだが、やがてその言葉の意味を理解したのか立ち上がる。彼の手から真白い衣がすり抜け、水草の上に着地した。
見る見るうちにヤサカニの表情が和らぎ、彼は破顔した。