二.
ムロは体を丸めて小さく息を吐く。
夜明けは遠い。
「無理に抗うな」
苦しげに顔を歪めるムロに、カガミはそう助言した。
「抗えば抗うほど、神の力は増大するぞ」
「……ああ」
ムロはカガミの助言に従い、体の力を抜く。
決戦の時は刻一刻を忍び寄っている。
ムロとルイの二人は、最前線に立って地上軍を指揮する役目を負っている。カガミたちの中で誰よりも先に蜘蛛の廻廊へ足を踏み入れるのだ。きっと、ムロは上手くやってくれるに違いない。カガミは異母弟を信じていた。
今までの戦は、常にヤサカニが采配を揮っていたが、今回の戦は違う。有能な軍師はここにいない。
ムロは素早く姿勢を正し、カガミと向かい合った。漆黒に染め上げたムロの長い髪が滑らかに零れる。
「カガミ、約束しろ。俺はきっと高天原国を陥落させる。そのかわり、きっと……ヤナギ様を解放してくれ」
虚を突かれ、カガミは返事に窮した。
まさか、ここまできてムロからそんな言葉が飛び出すとは思っていなかった。
ムロは自嘲の笑みを浮かべ、腰に手を当てて片眉を上げる。
「どうせ、何を今更と思っているんだろう」
「――ああ」
素直に答えれば、はんっとムロは鼻を鳴らした。
「国など俺にとっては取るに足りないもの。お前のように王子として日々を暮らしたわけでもないしな」
カガミは同じ王族の血を継ぎながら、あまりにも自分と違うムロを静かに見据える。ムロは宵の宴に興じる人々の方へ目線を転じた。
戦へ行く者たちを鼓舞するために開かれた宴は、たいそう賑わっている。
「お前の肩に黄昏国の者たちの願いが乗っているように、俺の肩にはサコやチズコ、そしてヤナギ様の願いが乗っている。だから、きっとお前が高天原国を滅亡させられるよう血路を拓いてみせる。ヤナギ様は……解放されたいと――姫巫という業より抜け出したいと願っておられた。その願いを叶えてやってくれ」
カガミは下唇を噛みしめた。思わず拳に力がこもる。
羨ましかった。ヤナギに対する誠実な想いを、まっすぐに口にすることが許されるムロが。己の立場を投げ打ってヤナギのもとに馳せ参じたヤサカニが。
「お前が、叶えてやればいいじゃないか」
嫉妬混じりに言えば、ムロは苦笑した。
「俺はヤナギ様を殺せない。……笑えばいい。俺はヤナギ様を救いたいと思いながら、自分の想いを凍らせられない愚か者だ」
ムロは言い捨て、身を翻した。
宴席では、鼓や笛の音が楽しげに鳴っている。笑い声と杯を合わせる音。どれもがカガミの耳を空しくすり抜ける。
ムロは、ヤナギのことを真剣に好きなのだ。彼は出会った時より、ヤナギ以外を見ていない。
それはカガミにもわかる。カガミもまた、ヤナギしか見ていなったから。
異母弟は、ヤナギが自分の異母姉であると気がついていないはずだ。伝えようかとも思ったが、結局カガミは真実を告げなかった。告げれば、ムロは傷つくだろう。今より更に。ムロが辛い思いを抱えるような事態は避けたいとカガミは考えた。
――十分だろう。
ムロはヤナギに忠誠を誓っていたにも関わらず、彼女の願いを叶えるために、あれほど憎悪していた黄昏国へ下った。そして、そこで自らが王族であるということを知ったのだ。これ以上、ムロが悲しみの連鎖で悲嘆するのをカガミは見たくなかった。
(俺だけで十分だ)
人の記憶はおかしなものだ。
カガミは、幼げでいたいけな少女だった妹とヤナギが同一人物に思えなかった。
「出発するのか」
威厳ある声が暗がりからした。カガミは、影から現れた男の姿を見止めて肩を竦めた。
「ムロとルイの部隊だけ先に出発する。彼らが通る蜘蛛の廻廊は少し遠い。明朝、出発だな」
答えると、男は鷹揚に頷いた。
「して、サブライ。あなたは何をしにきたんだ。軍に加わりたいということならば、喜んで迎えるが……」
「いや、わしは中立の立場からこの戦を見届ける」
「そうか」
カガミはサブライの返しを予期していた。
サブライは顎鬚をさすり、まなじりを下げた。
「何、久しぶりにムロと手合わせしてみたいとも思いたってな」
「そうか――待っていてくれ。すぐにムロを呼んで――」
「王子」
宴に参加して酒をあおっているムロを連れてこようとするカガミを、サブライは呼び止めた。
「強すぎる愛情は、時として憎悪を伴う。逆もまたしかり。それは止められぬ定め」
カガミは、自分自身が何度も何度も己に言い聞かせ戒めてきた言葉をサブライが放ったことに驚き、目を丸くした。
「……王子、愛しているのだろう。ヤナギ様を」
カガミは息が止まるかと思った。サブライは暗闇からカガミとムロの会話を盗み聞きしていたのだ。そして、会話の最中にカガミが見せた揺らぎを敏感に察知したのだろう。そうでないなら、心を見透かす占手か何かでしか有り得ない。
何も言わず、カガミは月を眺めた。上弦の月は、幼い頃ヤナギと見たものと似ていて。
「――俺は、拯溟の花でも、空に浮かぶ月でも、常にそばで見守ってやれる男でもないから」
サブライは黙って聞いている。カガミはサブライの澄んだ目に向き合う。
「以前、あいつは拯溟の花が好きだと言っていた。摘んできてやれば、顔を綻ばせて笑ってくれたものだ。ある時は、闇夜に浮かぶ月に手を伸ばして綺麗だと言っていた。庭先にある池に月が映っているのを見せてやれば、これまた嬉しそうに俺の手を握ってくれた」
カガミは瞑目した。記憶の果てからヤナギの笑い声がする。
それを振り切って、カガミは目を開いた。
「サブライ。俺は、ヤナギへの気持ちを、俺自身――いや、黄昏国で俺の勝利を待つ民のためにも認めるわけにはいかない」
遠い過去を振り返りながら、ハルセは歩き続ける。放浪の旅を始めてから早数ヶ月が経った。
「どこに行くのですか」
行く先々で問うてくる声に、ハルセは曖昧に笑う。
ハルセは自分の統治した国々を見て回り、豊かさを知る。これも地祗の加護あってのことだと思った。地祗は大地に豊穣をもたらした。
かの神は、自らに実りの一部を献上することを条件に、日輪国を加護してくれている。
天災もほぼなく、人々の笑い声が野にも山にも木霊している。
当て所もない旅の最中、出会う者たち全てが飢えや渇きから解放された顔をハルセに向ける。
良かった、と思う。
民の様子が、高天原国を討ったことは間違いなんかではなかったのだとハルセに思わせてくれる。
ハルセは長い間、高天原国を滅ぼしたことが果たして最善だったのかと自分自身に問い続けてきた。もう二度とあの国は蘇れない。天上と地上をたゆたっていた桃源郷は滅びたのだ。
私憤に駆られて高天原国を討ったのではない、と言い切れない自分が不甲斐なかった。
そうは言っても、ハルセや地祗の恩恵へ賛美を口にする人々を見ていると、素直に嬉しいと感じる。
この五十年の間、ずっと日輪国のことだけを考えてきた。自らのことなどかなぐり捨てて、国に仕えてきた。
――もう、いいだろう。
ハルセは、すっと息を吸い込んだ。新緑と土の匂いが入り混じった匂いがする。
『そろそろ、終わりを迎えたいのか』
体内より地祗の念が伝わってくる。
地祗は気まぐれにハルセとムロの体に入り込んでは、人――地祗は青草と呼んでいる――の暮らしを遊山していた。
ハルセは、そうだな、と笑んだ。
「宿命は、全うしただろう」
いつの間にか落葉樹の生い茂る一帯に入り込んでいた。水辺には、優しげに拯溟の花がざわめく。