一.
黄昏国と呼ばれていた傾国が、第一王子ハルセの功績によって復興されて早五十年。日輪国と呼び名を変えた国は破竹の勢いで地上全土を統合していった。
そんな日輪国の一角で、深い皺の刻まれた顔を緩めて感慨に耽っている老人がいた。ほど良くついた筋肉が、若い頃は武に通じていただろうことを窺わせる。
国々は自然とハルセの名のもとに傘下へ下り、かの王子は見事な手腕で国を纏め上げて大王として君臨した。
老人は、五十年前に見た、ハルセの必死なまでに迷いや不安を押し殺した顔を思い出し、苦笑する。
まだ二十前半だった彼が決断に苦渋するのは当たり前だったろう。頼みの綱であるはずの父王は腑抜け、有能な部下は敵国へ寝返った。
あの激動の最中、異母弟だけがハルセを支えた。芥子の実色をした、意志が強い眼差しを向けるムロが、老人の脳裏に浮かぶ。
もとは炎來国との境目にあって、絶えぬ戦禍に身を縮めていたこの善灯村も、ハルセが大王となってからは争い一つ起こらない。
遠方の地ではまだ日輪国に抵抗する豪族がいると伝え聞くが、ハルセは、かの高天原国のように歯向かう者たちを、神の力で捩じ伏せることはしていない。
正しい道を彼は歩んだのだ、と老人――サブライは思う。
サブライの言に従い、神降ろしを行使したハルセは、自ら望んで神を身に降ろしたムロと同様に不老不死となって、在位五十年を過ごした。
民は皆、ハルセやムロを神の子だと敬い、慕う。彼らがいる限り、日輪国は不滅だと詩人は唄う。
サブライは葦の揺れる中、歩いていた。老体には若干厳しい道のりだったが、一日たりともこの道を歩まない日はない。
家からそう遠くない場所にある葦原。黄金に色づいたその中にはいくつも墓石がある。
サブライはその一つ一つを、手にしていた桶の中に入れていた布切れで丁寧に磨いていく。
高天原国に屠られた哀れな魂が、天へ還れるように。
五十年経った今でも、たまに黄泉路を見つけられずに戻ってくる魂がある。そんな魂が、自らの墓石を見た時、少しでも安らかになれるようにと祈りを込めて、サブライは墓石を拭き上げた。
最後に、サブライは崖上にある四つの墓前へ手を向ける。
昔は、サコの墓石しかなかった場所。
今はヤナギとチズコ、そしてヤサカニの墓石もある。彼らの遺体はない。
ハルセとムロは二人で三つの墓を作った。サブライは、二人に手伝おうかと申し出たが、ハルセたちはそれを断った。
ハルセは墓石を作り上げたあとも、随分長い間じっとその場を動こうとしなかった。ヤナギの墓に触れ、何を言うでもなく撫で続けていた。
それが、ハルセに会った最後だったとサブライは記憶している。
ちょうど、五十年。
もう、そんなに時が経ったのだ。
ムロはちょくちょくサブライに顔を出してくれる。
彼はサブライのもとに来る折に触れて、旅で出会った面白い土産話を持ってくる。そして、必ずヤナギたちの墓前に手を合わせる。
ムロの姿は十代後半で成長を止めているため、いつ見ても少年にしか見えなかった。
サブライは随分年老いた自らの手を眺める。齢九十。よくもまあ、ここまで長生きしたものだと自分に感心してしまう。
――ハルセは今頃、どうしているだろうか。
サブライは、知っている。
サブライの前には姿を現さないものの、ハルセはヤナギたちの墓石に何度も足げく通っていた。
大王となったハルセが私情をまじえて墓前を訪れることは良くないと自覚していながらも、こっそりと彼は葦原へやって来る。
ハルセは必ず、墓前に花を添える。拯溟の花だ。サブライもムロも、その花を供えようとはしない。
あまりに生々しく死者を思い出してしまうためだ。花の香りは呼び起こしたくもない過去を揺さぶる。
また、この五十年の間に拯溟の花は大層希少なものとなっていた。
昔は善灯村の水辺にも咲いていたのだが、段々数が減ってきて、ついには一つ残らず消え失せた。
時代の流れだろう。
神秘に満ちた時代は終わりを告げようとしている。霧が晴れるように、国々に陽光が射し込んできた。それに伴い、古き時代のものは姿を隠す。
墓石を建てた折に、サブライは拯溟の花を供えるハルセに訊いた。
『この花の持つ意味を知っているか』と。
彼は否と首を横に振ったため、サブライは花の由来を教えてやった。
『水に溺れてしまいそうな者を助ける――転じて常世への導き、現世へ還る折の標を担うという意味を持つ』
そう言うと、ハルセは何事か考え込むように遠くに眼差しを送った。そして、サブライの方を振り返って言ったのだ。
『では、この花はヤナギたちの標になるだろうか』
ハルセの顔は真剣だった。
ただの言い伝えだと笑い飛ばしたりできず、サブライは頷くしかなかった。ハルセが縋るような目をしていたせいだ。
サブライの中であの表情が消えることはない。
ふと、ヤナギたちの墓石を見やると、朝焼けに照らされて黒く光っていた。
石の下には拯溟の花が飾ってある。水々しいところを見るに、まだ花が手折られてからそれほど時間は経っていないことがわかる。
サブライは遥か遠くに連なる山の奥間から覗く太陽を見つめる。
あまりの眩さに腕を目の上にやった。
「常世に行った時は、皆で杯を交わしたいな」
サブライは呟き、葦原の中を引き返した。