終章 神燈国《しんとうこく》
深い溜め息が謁見の間に立ち込めた。
側近や女官たちは戸惑ったように顔を見合わせる。
神燈国。
かつてこの世には、他国とは隔絶された亜空間にある高天原国と呼ばれる国があった。
その国は〝神の口〟から生まれた姫巫という軍神を有しており、姫巫の口から発せられた全ての事象は現実となって敵国を襲った。
大きな旱魃、飢饉、津波。人々は喘ぎ苦しんだ。
そんな時、姫巫に対抗出来る唯一の希望が、黄昏国王の息子として産声を上げた。
〝神の腕〟。
その王子は、自らの身に神を降ろし、神の力を使って姫巫との戦いに勝利した。
黄昏国第一王子ハルセは、その後、浮世にある全ての国を統治することとなった。
そうして出来た国が、日輪国だ。由来は黄昏国の古称から来たらしい。
ハルセはよく国を統治し、見る見るうちに国土は潤った。
民は大王であるハルセを神と崇め奉った。
彼は五十年もの間、国を治めた。そして――――。
「大王……?」
恐る恐る、初老に差し掛かった側近はムロに声をかけてきた。
「何だ」
ムロは艶のある髪の毛先をいじりながら、気のない返事をする。
玉座に座っているにも関わらず、彼から大王の威厳や恐怖は感じられない。
「どうかなさったのですか?」
「……どうもこうもない」
ばん、とムロは横に置かれていた卓を叩いた。
ああ、と女官は慌てた声を上げる。
その卓は一昨年前に地方の豪族より献上された、至高の技巧を凝らされた卓だったからだ。
構わずムロは不満を口にする。
「何がどうしたら、俺が大王なんだ」
「ですから、ハルセ大王がそう文を遺されておりまして……」
「そのハルセは見つからないのか」
「は、はい」
ムロは親指の爪を強く噛む。
旅から戻ってきて、いきなり謁見の間に呼ばれたので何事かと思えば、ハルセが姿を消したのだという。
しかも、次期大王はムロにという厄介な木簡を残して。
(あいつも、俺と同じように神の呪を受け入れた者だ。おいそれと死ぬことはあるまいが、まさか……)
一つの仮説に行き当たり、ムロは厳しい表情を浮かべる。
「まさか、常闇洞泉へ?」
いや、とムロは首を振る。
そんなはずはない、と自分の考えを打ち消す。
常闇洞泉が存在する高天原国へと続く道はもうこの世にはない。
それはムロが一番よくわかっている。
この五十年間、ヤナギのもとへ逝こうとあらゆる地へ放浪したのだ。
それでも、蜘蛛の廻廊は全て重き岩で塞がっていた。
「ムロ大王」
ムロは呼ばれてまた大きな溜め息を吐いた。
「わかった。ハルセが帰還するまでならば」
安堵の溜め息がそこかしこから上がった。
どう見ても二十そこそこの青年に見えるムロは、側近から大王の証である月水鏡剣を受け取る。
すっと鞘より抜いてみる。
抜き身の刃は鏡月池の水面のように静かに凪いでおり、ヤナギを殺した剣とは到底思えなかった。
『あら、あなた、サコと一緒に宮へ来た子じゃない。私はヤナギというの。よろしくね』
懐かしい声が脳裏に過ぎった。
ムロは驚いて目を見開く。
『国を護りなさい』
優しい笑顔がちらつく。
「………………はい、ヤナギ様」
ムロの両の目より、透明な雫が滴った。
滝の如く止まることを知らない涙を流す自分自身に、ムロは酷く戸惑った。
――ヤナギ様、ムロは高天原国の平和を守れなった。貴女との約束を破ってしまいました。
――だから、せめて。ヤナギ様という大きな犠牲を払って建国したこの国を、きっと守ってみせます。
のちに神燈国と呼称を変えることとなる、日輪国が二代目の大王、ムロ。
初代大王であるハルセの異母弟にして、武の天才。
神燈国建国の際には尽力し、姫巫討伐にも一役買ったとして、民に敬われていた。
海松色に染めた一つ結びの髪に芥子の実色をした瞳は、見る者を捕らえて離さない魅力を持っている。
後に彼は、神燈国歴代大王の中でも髄一の賢君と呼ばれることとなる。
平和を最も大切にした彼の治世は、とても穏やかで人々に安寧の時代をもたらした。