三.
陽炎が揺らめく宮殿の奥部に、一人の青年が倒れていた。神の加護を受けて奮闘したヤサカニは、神降ろしを行なったカガミの前に敗れた。神の力を借りただけのヤサカニと、神を身に降ろし器となったカガミの力の差は歴然としていた。それでも、ヤサカニは体の自由が効かなくなるまで双剣を振るった。
ヤサカニは、弱々しく顔を上げて睫毛を震わせた。火の粉がヤサカニの視界を横切る。最早、起き上がる力もなく、彼は薄目を開けて手を伸ばした。その先にいる少女は、薄い笑みを浮かべて焦点の合わぬ目を彷徨わせていた。空虚な瞳が瞬いた。
少女に朽葉色の髪をした青年が近づく。それを見た黒髪の青年は、
「ヤナギ様、お逃げください」
と声を絞り出すが、少女は逃げない。その瞳は真摯に朽葉色の髪を持つ青年――カガミを見つめた。
「キョウカを返せ」
ひたとヤナギの首筋にカガミは剣を向ける。
ヤナギの意識を乗っ取った海若は、けらけらと不気味な笑い声を上げる。
「そなたに我は、倒せぬ。申し子に宿った神を破ることができるのは、神剣のみ。そこに伏した男は神の加護を拝借しただけだったから、倒せたのじゃ。……わらわは、キョウカの中に宿っておる。そのなまくら刀は効かぬぞ」
カガミの眉が撥ね上がる。
ヤナギの体を操る海若は笑んだ。その笑みは俗世離れした、恐怖さえ誘う美しさがあった。
「悲しいものよの。そなたとキョウカ。実の兄妹が争うさまは」
海若は世を儚んでいた。
遥か昔、人間の手によって壊された高天原国。それを加護していた海若は、国を懸命に現世へ繋ぎ止めようとしていたのだ。なのに、自らが力を与えた氏族――台王は、それを自ら壊そうとする。戦を起こし、国を肥やすことしか考えない。もう、自分たちの国が滅びているとも知らずに、彼らは増長していった。
腹立たしく、やるせなかった。
しかし、海若は現世に於いて無力だった。神世と違い、現世に神が直接介入することは許されていない。古の盟約がとても口惜しく、海若はそれこそ気の遠くなるほどの年月を自らの力を存分に揮える存在の誕生を待っていた。
わずかながら海若の血脈を受け継ぐ一族――姫巫の一族の体へ乗り移り、真の申し子が産声を上げる刻限をじっと待っていた。
そして、海若は二人の子供を見つけたのだ。
ハルセとキョウカ。
姫巫の血脈を受け継ぐ、まぎれもない申し子だった。兄のハルセは、黄昏国を加護する地祗の器としても存在していたため、おいそれと手を出せなかったが、キョウカは別だった。少女は海若を身に宿すことができる唯一の存在。
海若は狂喜した。キョウカの体を手に入れられれば、この世全てを無に帰し、全てを新たに作り直すことができる。
幼い時分には神を体内に宿し続けることはできないが、大きくなれば体に負担をかけずに宿せるだろうと思い、海若は心躍らせていた。
なのに、何を思ったかキョウカの祖母に当たる姫巫は、海若がキョウカの身の内へ入ることができぬように人柱を置いた。人柱となった付き童――サコの、キョウカに対する思いは深く、強く。海若は一寸の隙をつくことも憚られ、手をこまねいていた。
それが、今。こうしてキョウカの体を得ることができた。
海若は両手を広げて妖艶に目を細めた。目じりに引かれた紅い線が見えなくなる。
「この地はわらわの領域。いくら地祗を身に宿していたとて、わらわに打ち勝つことはできな――」
言葉が止まった。
カガミが腰帯に差していた黒々とした鞘を海若へ突き出したのだ。ゆっくりと、彼は鞘から剣を抜く。柄に刻まれた拯溟の花と竹林の絵が海若の双眸に映る。柄の端に青い玉が嵌め込まれていた。海若の頬が引き攣る。
すっと引き抜かれた抜き身の白刃は、月を思わせる。波打つ刃は波紋の如く、揺らめいていた。
剣が耳をつんざくような高い音で啼いた。
「月水鏡剣……」
脱力した口調で海若が呟く。
昔、自らの神力を込めた剣を姫巫の一族へ贈った。剣は月水鏡剣と呼ばれ、神聖な神の秘宝として丁重に扱われた。それは代々、鏡月池に沈めており、戦や神儀の折にのみ使われていた。
「何故、そちがそれを……」
問う海若に、カガミは酷薄な笑みを送った。
「理に逆らって存在するものなど、空しいだけ。キョウカも薄薄そう感じていたはず」
彼は決然とした表情で海若を睨み据える。
「海若よ、しばし常世へ帰ってくれ」
「この体はヤナギのもの。切れば、こやつは死するぞ」
海若は必死の形相でカガミに叫んだ。そう言えば、己の妹可愛さにカガミの剣が下ろされると思ったのだ。しかし、カガミは剣を握る手を微動だにしなかった。
カガミはひと思いに、剣を薙いだ。首の動脈が掻き切れ、血飛沫が噴き出す。返り血がカガミの顔や体にかかった。世を引き裂くような絶叫が上がる。
ヤナギの体が傾ぐ。カガミの手から剣が滑り落ちる。乾いた音を立てて剣の切っ先が床と衝突する。白刃には、血の一滴さえついていない。
カガミはヤナギの体を抱き止めた。
ぽうっと淡い光とともに、ヤナギの中から何かが抜け出して行く。光が宙を舞った。
「……申し子よ、何が望みだ」
光はカガミに訊いた。
「高天原国からの解放を」
何を、とは敢えてカガミは言わなかった。
海若は哄笑の渦の中姿を消した。