二.
カガミは半ば茫然としてヤサカニの変貌を見ていた。
舞い降りた白き光は火柱のようにヤサカニを包み、数刻経って跡形もなく消失した。
眩さに目を開けていられず、強く瞼を閉ざしている間に何が起こったかはわからないが、ヤサカニから発せられる神々しい空気にカガミは息を呑む。
神降ろしが、カガミの眼前で二度も行なわれた。
その事実に歯噛みする。
ヤナギは自我を海若に奪われており、ぼんやりと虚空を見つめている。海若は依坐を傀儡とすることを望んだのだ。対してヤサカニは、完全に自らの意思があった。ヤサカニに力を貸した神は気まぐれに彼の意思を尊重したのだ。彼の場合、完全な神降ろしとは言い難い。ムロが神降ろしをする様を近くで見ていたカガミには、その微細な違いを察することができる。ヤサカニに宿った力は不完全なものだ。ヤサカニががむしゃらに打ち据えてくることを見るに、姫巫やムロがして見せたような自然事象を操るという芸当はできないようだった。
カガミはヤサカニの切れ味のある攻めに苦心した。銅剣のはずであるヤサカニの剣が、鉄剣を圧倒する。腕力から違った。しかも、手負いとは思えない俊敏さをヤサカニは手に入れていた。不完全とは言っても、まさしく神の力。いくら剣の腕が立とうが、常人であるカガミにヤサカニと同等に渡り合うことはできない。
『……力を貸そうか』
頭の中に声が入り込んでくる。
地祗の声だと瞬時にわかった。カガミは答えない。目前に迫るヤサカニと刃を合わせながら、自分の考えを先読みしてくる彼に対抗するためにどんな手段を使おうか、と思案していた。
いっそ、左手を切らせて意識を朦朧とさせて、自分でも何も考えずに行動を起こしてみようか、とカガミらしくもない無謀な策が浮かぶ。
『――高天原国の都は完全にそちらの手中に墜ちた。我がムロからそちに身を動かしても、劣勢になることはなかろう』
なおも地祗はカガミに語りかけてくる。
カガミは、神降ろしだけは行ないたくなかった。幼い頃の出来事が、神を拒む。だが――――。
ヤサカニの左目は瞬きもせずに絶えずカガミ凝視している。昔、ヤサカニは全てを見通す左目と神々の声を聞くことができる左耳を持っていたと彼の父から聞いたことがある。
今、ヤサカニに宿った神の力は左目に凝固しているのだろう。黒曜石のように艶めいた左目が、一国の王子として厳しく恐れを感じぬよう育てられたカガミでさえも足を竦ませた。
善灯村を訪れた折、サブライに言われたことが脳裏にひらめく。
――神降ろしを行使しろ。さすれば、老いを代償にして神の力が手に入る。
カガミは神の力を得たことで不幸になった者たちに、思いを馳せた。ヤナギ、姫巫、そして、己の実弟・ムロ。彼らはもう自然な形での死を享受できない。神の力が宿った武器によって死するほか、方法はない。
一瞬逡巡したが、カガミは口を一文字に引き結び、声に出さず地祗に答えた。
(力を)
床が軋み、大地が意思を持ったように唸る。ヤサカニの剣舞が止まった。地祗の気配を感じているのだ。
カガミはふと笑みを洩らした。ここに、三神が集おうとしている。古代史に書かれた神々の戦。彼らはそれぞれの領域を侵したがらない。神と神とのぶつかり合いは、全てを無に帰するほど壮絶な戦いとなる。
今、ヤサカニに手を貸している神が何なのかカガミには皆目見当がつかないが、地祗や海若でないことは確かだ。しかし、辺境の地に住まう小さき神々のような力なき神ではないだろう。既に海若がいるにも関わらず場に姿を現し、力を貸すということは力ある神でないとできない。それも、海若と同等か、それ以上に力を持つ神でなければ。
その神の力を借りたヤサカニと戦うのだ。カガミは己の死を覚悟する。
稲穂の擦れ合う匂いが鼻孔をくすぐった。
金色の淡い光彩がカガミの中へ飛び込んでくる。手足が震えた。
カガミは自身の意思とは関係なく、胸元を押さえて背を丸め、声を上げた。
大地が咆哮を上げる。
神々の戦は始まった。
雷鳴が轟き、大地が揺れた。
ムロは、頭できつく縛った長い黒髪をはためかせて宮を振り返った。
貧困街にある丘上にいたムロは嫌な空気を感じて顔をしかめる。
自分の体内から地祗の力が抜け出て行く。かの力が宮内へ向かったのを感じた。地祗の力は完璧にムロからカガミへ身を移した。ムロは親指を噛み、ヤナギがいると思われる宮殿を、苦しげに見据える。
地祗がカガミに力を貸す理由はただ一つ。申し子であるカガミが窮地に陥っているからだ。ムロは高天原国軍と戦っている最中に感じた不穏な気配が宮に集中しているのを感じる。地祗以外にも、地表に降りた神がいるのだろう。
ムロは高天原国を捨てた己にヤナギを案じる資格はないと思いながらも、瞑目し、ヤナギの無事を祈った。
「ムロ指揮官、捕縛した高天原国軍の奴らの処遇、どうする?」
後ろから声がかかる。凛とした女の声が、ムロをヤナギへの想いから戦の現実へと引き戻した。黄昏国から先陣を切って進んできたムロの部隊が、強行軍であったにも関わらず、誰一人としてくじけずここまでこれたのは、この女――副指揮官を務めるルイのおかげだった。彼女は自らの疲労や不安を押し潰して皆を励ましてくれた。ルイの笑顔は太陽のように暖かく、見ているだけで元気が出ると誰もが口を揃えて言う。
神の力を揮うムロは、慣れない自らの力に戸惑いつつ戦場を駆けて兵たちへ激を飛ばしていた。時に、眩みそうになる意識を必死に覚醒させて死ぬような思いで都を陥落させた。宮内にいる台王や王子、ヤナギたち巫のことはカガミに任せた。もとより、その手筈でこの国へ乗り込んだのだ。
――高天原国の最期を飾るは、〝神の腕〟。
ムロは、高天原国軍と相対した時の彼らの顔を思い出した。苦渋が胸を満たす。誰もが、ムロに剣を向けて裏切り者と罵倒した。中には、西門軍の者の中には、ムロを前にしてがっくりと腰を砕き、自らの首を差し出す者もいた。
ムロが捨てたのは、高天原国武官長という軍の中でも抜きん出た地位だけではない。自らを主と慕った者たちをも捨てたのだと思い知る。
「……指揮官」
苛立たしげな口調でルイが再度呼びかけてくる。
「処遇はカガミに決断してもらう。逃亡したり、自害しないようにしっかり縛って見張りを置いておけ」
そう答えると、ルイは心得たとばかりに頷き、捕虜のいる方へ駆けて行った。
「いいか、カガミが戻ってくるまでに一般人は保護して蜘蛛の廻廊へ連れて行け。我らに牙を向けてこようと、決して傷つけるな。傷つけた者は、それと同じ傷を俺が与える。敵兵もできる限り捕虜にしろ」
「はっ」
ムロはヤナギを助け出したい想いを抑え込み、近場にいた兵たちに指令を送る。ここでヤナギを守るために身を翻すわけにはいかなかった。
ヤナギの願いを叶えるためには、高天原国を滅亡させるしかない。
カガミたちを助け出した、あの火事の時、彼女はムロに言った。
――救って。神などいらないの。姫巫の呪から私を解放して、と何度も何度も、私は願ってきた。
彼女は、絶えぬ戦を心より憂いていた。自らが姫巫という立場にいることを厭うていた。彼女は、望んでいた。姫巫がいなくなることを、切に望んでいた。
あの時、ヤナギの心の声を聞いたのは自分だけだ。彼女の願いを聞き届けることが、ヤナギを守ることになるとムロは自らを慰める。
(ヤナギ様、高天原国さえ滅亡すれば姫巫は存在意義をなくすはず。あなたの願いは、叶います)
ムロはヤナギの存命を望んでいた。しかし、それを敢えてカガミに伝えはしなかった。決断を下すのはムロではなく、カガミ。たとえ、ムロが黄昏国の第二王子だとしても、正当な王位継承者であるカガミに個人的な意見など述べることはできない。
ヤナギの微笑が瞼の裏に映り込む。柄にもなく、動揺した。
感傷に浸るムロの横に、ルイが並んだ。捕虜の対処を他の兵たち指示し、ムロのもとへ戻ってきたのだ。高天原国へ潜入していた折、薄茶の髪を黒くまだらに染めていた短い髪は、だいぶ伸びて肩につくまでになっていた。毛先は方々に跳ね、収まりがない。彼女は強行軍の途中、よくムロの髪を恨めしそうに見つめて嘆息した。カガミ様と同じ直毛のあんたが羨ましい、と。蜜色の薄い目がムロを射抜く。
まるで、彼女にヤナギを慕う己の浅ましい心を見透かされたような気がして、ムロはルイから視線を外した。
ルイは傷付いたように顔を強張らせる。彼女は俯き加減で、呟いた。
「あたしの顔は、見ていられないくらい醜いの?」
男勝りなルイの殊勝な声色に、ムロは驚き目を見張った。
「いや、そんなことは――」
「……そう。なら良かった」
へへっとルイは鼻をこする。その態度が、心に負った傷を無理矢理隠す仕草にムロは感じられた。ヤナギも心が折れそうになる時ほど、強い言葉を吐いて己を自戒していた。
ムロは改めてルイの顔面を見て、どうして彼女が視線を逸らしたことを気にしたのかわかった。額に残った裂傷のせいだ。忌み部屋で兵たちから受けた傷は、彼女の額にしっかりと刻まれている。一向に薄くならないそれは、女の身として呪わしい証だろう。なのに、ルイはそれを隠そうとしなかった。これはカガミ様を売らなかった誇り高き傷なのだと高らかに言い、黄昏国の皆を感心させた。
だが、彼女が傷付いていないわけがないのだ。
ムロは考えなしの己の行動を反省する。
「すまない」
思わず謝罪の言葉を口に出すと、ルイはムロの背を優しく叩く。
「何謝ってるんだよ。あたしが変に気にしただけなんだから、あんたは気にしなくていいの。それより、ほら見て」
ルイが空を見上げて口角を持ち上げる。黒と藍が混じる夜空の奥が、薄く赤まっていた。都を包む炎の色ではなく、優しいまろやかな赤。
「宵の明星が光を放ってる」
燃える都の真上には、夜明けを告げる星が一つ、瞬いていた。