四.
月が雲に隠れていた。
朔のごときその夜は、高天原国の都に住まう人々に闇という恐怖を運び、無音を誘う。
人っ子一人いないはずの市井で、荒い呼吸を必死に整える者がいた。
常ならば一寸の乱れもなく結わえている髪は乱れた呼吸同様乱れている。上衣は胸が肌蹴ており、下衣には無数の泥が飛び散っている。
ヤナギは息を押し殺して路地裏より表を覗き見た。
追手も馬鹿ではないらしい。気配を隠している。
しかし、近くにいるはずだ。
どんなに彼らが闇に紛れようとしても、鎧と衣が擦れる微かな音でも空気は揺れる。
それを察知するくらいの敏感さはヤナギにもある。だてに巫の修行を十数年して来たわけではない。
近頃はめっきり修練もしていなかったが、積年の修行は身に染みついているらしい。修行をしていて良かったと思えたのは、この時が初めてだ。
ヤナギは左手首につけた勾玉の腕輪を無意識のうちに触り、固く目を閉じる。
両手首につけた勾玉は、先代より受け継いだものである。こめかみからは冷や汗が伝った。
◆ ◆ ◆
沢良宜の乱を平定したヤナギはその後、一月かけて都へ凱旋した。
しかし、台王からはねぎらいの言葉も何もない。それが常だった。
かの王は、姫巫のことなど政を行う上での道具としかみなしていない。
特に気にするでもなく、ヤナギは神杷山へ帰った。
台王が遣いを送ってくるなど滅多になかった。
祭事や大きな行事がある時はその旨を伝える仕官を送ってくるものの、それ以外では全く音沙汰なかった。
その台王より、文が届いたのがつい二日ほど前のことであった。
いぶかしく思いながらも、その内容を見れば、姿を見たい。執務が終わった後――日が暮れてから台王の寝殿へ来てくれとの内容が書かれていたので、ヤナギも、それを届ける役目を仰せつかったチズコも首を傾げた。
兎にも角にも、行ってみようと思い至り、一人寝殿へ行ったヤナギだったが、その結果がこのさまである。
行かなければ、もしくは供を連れて行けば良かったと今更悔やんでも詮無きことだろう。
だが、嘆かずにはいられなかった。
「おお、姫巫よ、しばらく見ぬうちに艶めかしくなったのう」
「お久しゅうございます、台王。こうして面と向かってお会いしたのは六年前以来ですね」
「そう言えば、そんなにも会っていなかったな。そちは祭事にも何にも参加しなかったせいだ」
「…………申し訳ございません。ですが、これからは心を入れ替えて精進して参ります故。ご温情頂きたく存じます」
ああ、と台王はぞんざいな口調で言った。
何気ない会話を交わしていた二人だったが、場の状況は異様だった。
少なくとも、ヤナギは逃げ出してしまいたいと思っていた。
台王は舐めるような眼つきでヤナギを見る。
彼の四方には裸で眠る巫たちの姿があった。
姫巫として神杷山にこもるまでは、ヤナギよりも高位にあった巫たちの醜態にヤナギは目を背ける。
高天原国台王はヤナギの様子を面白がるように、巫の体を玩んでいた。
「おやめ下さい。今は私と話しているのでしょう」
真っ直ぐな眼差しで言えば、くつくつと台王は嘲笑する。
「やはりそちの巫力は先代に劣るか。そちが言の葉を紡ごうと、わしは痛くも痒くもない。先代の言葉にはある程度の重みを感じたが、そちの言葉には全く重みなど感じぬわ」
ヤナギは歯軋りした。
台王の言いたいことは彼女自身が一番わかっている。
台王はそれなりに呪いを撥ね退ける術を取得している。
真に強き言葉でないと呪いの力は効かない。
ヤナギの表情が歪む。
神の加護は純潔を喪ったとしても衰えない。
大巫より習った教えではそうあったが、やはり純潔を守るのが強き巫だとも教えを受けていた。
なのに、ここにいる高位の巫は台王に身を委ね、恍惚の表情さえ浮かべている。汚らわしいと思った。
胸のうちに苦い物が込み上げてくる。
「房中術、というのを知っているかね。姫巫」
脱ぎ捨てていた薄絹を羽織り、台王が寝室の戸の前で佇んでいるヤナギに近寄ってくる。
その手がヤナギの輪郭をいやしい手つきでなぞる。
鳥肌が立った。
「触らないで!」
怒りを込めて台王の手を思い切り払いのける。彼はそんなヤナギの態度に不快感を表すでもなく笑う。
先代の姫巫とは違う恐怖を感じた。
巫たちは鬱陶しげにヤナギを半眼で見つめる。彼女たちの顔は、巫のそれではなく、女のそれであった。
「台王様…………私は房中術など、まやかしだと思っています」
「ほう。ここにいる巫たちの位を言い連ねてもそう言えるのか。わしは房術に長けておってな。わしの房術を受けた巫たちは皆、他の者より圧倒的な巫力を有し、高い位についている」
ヤナギは反論出来なかった。
確かに、ここにいるのは高い地位にある巫ばかりであった。
しかし、房中術とは男と女の交わりによって体内の気を高めたり、乱したりできる術であり、この国では、闇のまた闇の禁術と云われるくらいに穢れしものである。
暗殺の方法の一つにもなる房中術を使える者は、希少だった。その筋の子供か、古い書物や暗殺者に通じている者しか習得できない。
それを台王が心得ているとは思い難い。
「房中術を使えばそちの巫力など、すぐに開放できる。えもいわれぬ快楽と共に、力まで得られるのだ。良いことだろう。幼きそちにそれを施すのは酷だと思い、成人するこの時まで待っていただけ有難いと思って欲しいものだ。もう十五であろう」
ヤナギは答えなかった。いや、答えたくなかった。
その間にも、台王の骨ばった手は楊の胸元まで進んだ。
ふと、脳裏に過ぎったのは、自分が姫巫の役目を全うすることが最善のことだという考えだった。
台王に身を預ければ、それは容易に成せるかもしれない。ヤナギの心は揺れに揺れた。
時間にすれば数秒だろうが、長い時間悩んだように感じられる。
しかし、台王の次の言葉で迷いは霧散した。
「かつての姫巫がそうであったように、姫巫は、妖艶に腰を振って夜伽をすれば良い」
ヤナギの中で何かが弾けた。両の腕輪の勾玉が飛散した。
――――お逃げ。
誰かが耳元で囁く声がする。
熱い空気に抱擁される。
気が付けば、勝手に口が動いていた。言葉ならぬその無音の声は、台王の部屋全体に広がり、ヤナギ以外の全ての者を縛った。見えない糸が彼らの体にまとわりついている。
「姫巫よ……何を……何をしたのだ……っ」
喉元を押さえて片膝つく台王は立ち竦むヤナギを仰ぎ見た。
ヤナギは首を緩く振り、一目散に部屋を飛び出した。外に控えていた数人の護衛官にぶつかる。
彼らは急に部屋より飛び出してきたヤナギに面食らう。
護衛官たちはこの中で行われていることを知っているのだろうことがすぐにわかった。
よどんだ瞳は台王のそれと似ている。
狂っている。
ありったけの憎しみを込めて護衛官たちを睨んだ。
怖気づいたのか、彼らは躊躇いの色を見せる。
しかし、「何をしている、姫巫を捕らえよ!」と叫ぶ台王に背を押されて護衛官たちはヤナギににじり寄る。
ヤナギは慌てて装束の裾をたくし上げて細く長い廊を走り抜け、王宮を出た。
履物を履く余裕などなく、裸足のままひた走る。
後ろを振り向きはしなかった。
不開の門がある東門へ一旦逃げて、追手が集うのを待った。
叢の陰より、ある程度の大きさをした石を反対方向に投げる。
案の定、彼らはそちらに注目する。
その隙をついて、ヤナギは鬱蒼と茂る木々の合間を縫って西門へと急いだ。
東門を抜ければ峡谷に繋がる道があり、南門か西門を抜ければ市井に出る。どこから逃げるのが好都合かぐらいは、混乱したヤナギの頭でも考えることが出来た。
チズコの待つ神杷山に続く北門に行くことも考えたが、チズコも巻き込んでしまうと判断したので西門から逃げることを選んだ。
少なくとも、ヤナギを庇わなければ殺されはしないだろう。
南門は市井と王宮とを繋ぐ、最も重要な箇所であるので常時台王の配下の者がいる。その南門より市井に逃れようと思う度胸はヤナギになかった。
都合の良いことに、西門は台王と近しい者でない――――直轄下にない武官たちの寝所がある。包囲の目も薄いとヤナギは睨んだ。
自分がこんなに頭が回るとは、自身でも思ってみなかった。
火事場の馬鹿力とはよく言ったもので、土壇場になって初めて人は力を発揮するものだ。
(逃げなければ)
その思いだけでヤナギは走っていた。走るのをやめれば捕まってしまう。
捕まってしまえば、台王の前に引き立てられて惨い仕打ちを受けるのは目に見えていた。
「ヤナギ様っ?」
西門を突破する際にぶつかった兵の一人が己の名を呼んだが、無我夢中で走った。それが、ムロであると気付いていてもなお、走り抜けた。
◆ ◆ ◆
こうして、今に至る。
もう、追手は目前まで迫っていた。
あちらはかくれんぼの玄人である。
室内にこもりきりで祈祷を捧げたりする巫とは役割が違う。
確かに、姫巫も戦に行くことはある。しかし、兵と違い、姫巫は巫力を使って敵を制す。
己の体力を削って相手を制す彼らと、己の血や精神力を使って敵を制する姫巫は潜り抜ける修羅場の種類さえ違う。
「姫巫様」
ついに見つかってしまった、とヤナギは絶望を孕んだ目で行く手を阻む護衛官を見た。
頬が削げ落ちた男は無表情でこちらに腕を伸ばす。
雲間に浮かぶ青白い満つる月の弱々しい光の中、伸ばされた腕は恐怖そのものが具現化したように思えた。
真象の力は使えない。
あれは、大地に神気が溢れ、自分の精神が凪いだ時にしか使えないのだ。無理に使えば死ぬだろう。
先ほど台王の部屋で起こったような神事が都合良く再び起こり得るはずもなく、ヤナギは己が身を呪った。
ヤナギはサコが死んでから、初めて慟哭した。
月はかげり、風は嘶く。
一瞬の出来事だった。白き光が弧を描いた。
群雲より月が姿を現した時、追手は既に事切れていた。
背中には鮮やかな一筋の紅き剣筋が残っている。
微かな金属音が場を支配する。
ヤナギの前に立っていたのは、異国民とすぐにわかる出で立ち――鉛で出来た鎧に鮮やかな色の着物、狼の毛皮で作った履物――をした青年だった。朽葉色の髪目が月光に色づき鮮やかだ。
涼しげな面差しは、夜でもよく映える。
その青年は戸惑った様子で口を開こうとしたが、後ろから聞こえた足音に眼つきを変える。
そうそうたる数の仕官がそこにはいた。
ヤナギは目に溜まる涙を拭い、逃亡することを諦めて前へ進み出ようとする。
大体、逃げたところで身を寄せるところなどなかったのにどうして、逃げようとしたのか自分でも不思議だった。足掻く自分が惨めに思えた。
『――――お逃げ』
あの声のせいだと今更ながら思う。
ヤナギは、己を恥じた。
青年の手が、つとヤナギが進み出るのを阻んだ。
怪訝な顔で彼を見やれば、邪魔だと言わんばかりに後ろへ押し返される。
「ちょっと…………」
抗議の声は続かなかった。
青年が地面を蹴って追手に突撃したからだ。
剣舞でも見ているかのような錯覚を起こす。月に反射したその横顔は異様な程に美しかった。
たじろぎながらも次々と襲いかかるてだれたちを青年は鋭い剣で捌きつつ、彼は乱れなく舞った。
鋭利な瞳からヤナギは目が離せなかった。
血の華は、現に存在する何よりも美しいと先人たちは伝える。
そのとおりだとヤナギは感じた。
血だまりの中、剣刃を死人の上衣で拭う彼に戦慄より感動を覚える。
異常の中に長く身を置くと、それが正常だと思ってしまうように人間の頭はなっているらしい。あまりの異常さに思考が麻痺する。
もう追手はいない安心感から、どっと涙が零れて来た。
その場にへたり込む。
声なく流れ落ちる涙に、青年は戸惑ったようだった。青年は腰まである乱れたざんばら髪を肩の辺りで一つに縛るとヤナギの正面に腰を落とした。
「平気か」
淀みなき声がますます涙腺を刺激する。
屍の臭いが立ち込める路地裏で、見ず知らずの男に縋ってヤナギは思い切り泣いた。
青年は何も言わず、ただヤナギに袖を貸していた。
◆ ◆ ◆
夜は厳かに更け行く。
朝の日は、靄も空気も金色に染める。
ふと、ヤナギは目を数回瞬かせる。霞む目を手で擦った。
いつの間にか、都の外れにある藁葺き屋根の空き家にもたれかかっていた。
「…………?」
寝惚け眼で首をひねると右側に青年の横顔があったので、思わず小さく悲鳴を上げた。
彼はその反応に対して関心を持つでもなく、淡々と言葉を発した。
「目が覚めたのなら、どことなりとも逃げるといい。お前と会ったことは誰にも言わないでおくから」
その代わり、俺が追手を殺したと誰にも言うなよと青年は釘を刺してきた。
ヤナギはぐっと拳を握って答える。
「――逃げるわけには、いかない」
姫巫として在る以上、この国から逃げおおせることは出来ない。
「そなたが護衛官を殺したことは、決して口外しないと約束するわ」
ヤナギは、自分自身を奮い立たせて立ち上がった。
「自ら進んで、死地へ赴くというのか」
命を粗末にしていると解釈したのだろう。青年は声を低めてヤナギに問う。
ヤナギは口を一文字に引き結ぶ。
「逃げられない」
定めに抗える自由が、ヤナギには与えられていない。
この体は高天原国の傀儡なのだ。
ヤナギの心底にある悲鳴を絞め殺し、高天原国つ神は彼女を御殿へ戻らせようと見えない糸を引く。
足が勝手に王宮の方へ歩み出す。
「ありがとう、異国の人。そなたのおかげで一夜だけ、私は自由だった」
青年と二度と会うことはないだろうが、厚く礼を述べ、ヤナギは薄く笑んで彼に背を向ける。
「俺は……ハルセと言う」
何の前触れもなく、突如かけられた言葉。
ヤナギは顔だけ青年の方へ向けた。
青年――――ハルセはそれだけ告げ、たなびく髪を翻して朝靄の中に消えて行った。口許には笑みが浮かんでいた。
◆ ◆ ◆
まだ商人達も表に出ていない。喧騒とは無縁の大通りを一人歩く。
ヤナギを捜して今も王宮は騒然となっているだろう。
案の定、王宮の西門には大勢の兵がいた。ヤナギは生唾を呑んで彼らに近づく。
と、ヤナギと兵の間に背の高い少年が素早く体を入れた。
「あなたはどこまで、ムロを心配させるのですか!」
ムロの声は震えていた。
ムロ、と名を呼ぶ前に腕の中へ閉じ込められる。
「台王にはチズコが上手く取り繕っていますから、何も気に病むことはございません」
小声でムロはヤナギにそう告げた。
聞き返そうとしたが、すぐにムロは彼女から体を離す。
「皆の者、ヤナギ様はお帰りになられた! 安心して訓練に励め!」
そして、何事もなかったかのように兵に迅速な指示を出し、朝の訓練を始める。ムロは討伐軍に駆り出される時以外は、西門軍の副武官長を務めている。
兵士たちはムロの声に、各々の武器を手にして縦横美しく整列した。
「北門でチズコが待っています」
所在なさげに立ち尽くすヤナギに向かってムロが助け舟を出してくれた。
取り敢えず、北門――王宮の北に広がる梔子斎森の入り口――へと足取りを速めた。
途中、擦れ違う誰もがヤナギと目を合わせようとしない。
ヤナギが王宮から脱走したという話はもう広まっているらしい。
重々しい雰囲気に包まれた巫たちの離れを抜け、北門をくぐってすぐにある鏡月池まで辿り着いた。その池をしゃがんで覗く少女が一人。
チズコである。
何と声をかけたらいいかわからず黙っていると、チズコは立ち上がり、ヤナギを見やる。
「おてんば姫巫のお守りは大変です」
肩をすくめて言うチズコの瞳には、悪戯な輝きがあった。
「安心して下さい、ヤナギ様。台王には戦の直後で精神状況が安定してないと言ったら、あいつも納得しました。王子の口添えもあって、今回はお咎めなし」
「クルヌイ王子が?」
クルヌイは台王唯一の息子であり、王位継承権第一位の王子である。
まだ齢十四を迎えたばかりだ。
生まれつき体の弱かった王子は空気の良い地方で育てられていた。
最近ようやく体も丈夫になったらしく、ここ都へやって来た。
「はい。ちょうどわたくしが申し開きに赴いた時、台王のもとに彼もいたのです。王子に感謝して下さい。必死になってヤナギ様のことを庇っていた」
一度、冬と春の境の季節に王子が姫巫の社殿にやって来たことがあったが、その時、ヤナギと王子は会話らしい会話を交わさなかったはずだ。
なのに、王子はヤナギを助けようとしてくれたと言う。
「とても、心の真っ直ぐな方」
「穢れを知らないだけだと思います。あの無垢さが続くことやら」
厭味を言うチズコを無視して、ヤナギは梔子斎森へ足を踏み入れた。慌ててチズコが後に続く。
「ねえ、ヤナギ様」
少しだけ緊張した声でチズコはヤナギを呼んだ。いぶかしく思い、顔を傾ける。
「先程まで鏡月池が真っ赤に染まっていたのだけれど、心当たりはありますか」
びくりと背筋が震える。それを肯定と受け取ったチズコは、大袈裟に溜め息を吐く。
「どうしてこうも厄介事ばかり抱え込むのか。こんな調子だったらわたくしの身がいくらあっても足りない」
「あれは……」
「異国の民がやった」
的確なチズコの答えにヤナギは驚き入って言葉を失った。
「鏡月池に異国人が映っていました」
「お願い、あの人は私を救ってくれた。一夜だけでも姫巫の性より解放してくれた。台王に彼のことを言わないで、恩人なの。追手を殺したのは私だと言ってもいいから」
懸命に頼み込むヤナギを、チズコは目を細めて見つめた。
「言いませんとも。どうして、わたくしがそんな七面倒くさいことを報告しなければならないのですか。夜盗が殺したと詭弁を吐きますよ。護衛官たちは私腹を肥やすのに夢中ですから、武の腕が錆びている。今や夜盗にさえ殺される腑抜けでございますとでも付け加えましょうか」
華麗な毒舌に、思わず噴出す。
「そなたの口には、姫巫の口を持つ私も参る」
チズコは、どうもと片眉を上げる。
「事実を述べているだけですがね」
飄々と言うチズコは、ヤナギの横に並んだ。
二人が常闇洞泉を横切ろうとした時、周囲を霊魂が取り巻いた。
「やれやれ、これだからあまり俗世とは関わりたくないんです。こうして彷徨える光たちが寄ってくるのは現の匂いをわたくしたちが漂わせているからに違いない。王宮はひずみだらけです。大体、台王より文をもらったからと言って、一人で山を下るだなんて……無鉄砲もほどがある。貴女はわたくしに采女の役目を全うさせる気がないらしい」
霊魂のざわめきがいつもに増してうるさい。
それを忌々しげに半眼で見回しながら、チズコは愚痴を零した。
ヤナギは軽やかに口を開く。
『大丈夫、黄泉路の道は開いています。無念も怨みも、現の未練は私が引き受けましょう。そなたたちは安らかに眠る権利がある。ほら、常闇洞泉もそなたたちを案じて波立っている。行くといい、暗き道の果てには常世がある』
神の言葉は魂を浄化する。
光たちはヤナギとチズコの周りから離れて、常闇洞泉の滝壷へと向かう。
滝壷の裏側にある洞窟の先には常世があるという言い伝えもある。誰も生きてその洞窟より還ってきた者はいないので真実かは定かでない。
「行きましょう」
連なる光たちの行方を最後まで見守ってから、ヤナギたちは神杷山に続く楠の木を目指した。
浮世と神世を繋ぐ楔部分に当たる場所にある鏡月池の面が妖しく漣立ち、水底に黒い影が揺れた。
――――桐一葉落ちて天下の秋を知る――――