一.
火の手が幾分か緩む。
ヤナギが目を開けた瞬間、まるで外部から部屋一面が切り離されたような不安定さを、ヤサカニは感じた。熱風が髪を煽っていたはずなのに、今はぎんやりとした冷気が垂れ込めている。
(とにかく、ヤナギ様をお守りしなければ)
従順にヤサカニはヤナギを背に庇い、殺気の篭もった目をしたカガミの前に勇み立つ。
カガミの眼孔はヤナギへ向いている。ヤサカニは双剣を握り直し、床を蹴った。はっとしてカガミはヤサカニの刃を受け止める。余裕の感じられないカガミの守りに転じた剣はとても脆い。ヤサカニは力を込めた。カガミの顔が歪む。
カガミは舌打ちして横へずれた。
金属音が何度もぶつかり合う。ぎりぎりと身を絞るような音を立てて二人の剣は交叉する。
「キョウカ……! 意識をしっかり持て!」
カガミは打ち合いながらも、必死にヤナギを正気に戻そうとする。ヤサカニはヤナギを垣間見た。
自らの兄であるカガミの言葉も届いていないのか、ヤナギの目は虚ろなままだ。
何かが――神が彼女に乗り移ったのかもしれない。有り得る話だ。姫巫という戦女神を加護している神ならば、ヒト一人の体を乗っ取ることなど容易いだろう。しかし、それを案じてヤナギへ駆け寄ることはできない。カガミからヤナギを守ることが先決である。
カガミは、ヤナギを殺す気だ。間違いない。ヤサカニは、かつてカガミが仲間をも見捨てようとしていたことを思い浮かべ、唾を嚥下した。目的達成のためには、小さな犠牲を厭わない。そのことを彼に教え込んだのは、戦死するまで筆頭軍師を務め上げたヤサカニの父親だった。
ヤサカニは、よく思想の相違から父親と口論した。ヤサカニは小さな犠牲を払えば、のちのちそれが大きな火種になると思っていたし、その考えを曲げるつもりは毛頭なかった。
王位に値しない人間だからこそ、そのような言を吐けるのだと激昂した父親の厳格な形相を思い出し、ヤサカニは父と、眼前にいるカガミとを重ねた。
今なら、少しだけ理解できる。自分の命がなくなってしまったら、どうしようもないのだ。命の重みは皆一緒だと識者たちは説くが、それは違う。カガミとヤサカニの命の重みは、違う。カガミの代わりとなれる者は決して存在しないのだ。生まれ落ちた時より王となるべく定められた者――その者に誰がなり代われようか。地上の国々から戦に臨んでいる者たちは、誰しもカガミの名を口にする。
死ぬわけにはいかないのだ。カガミの命は、もう既に彼自身だけのものではない。何百……いや、何千の人のものでもある。
高天原国が姫巫を何より大切に扱っているのと同じだ。地下の国々の者たちも、国ではなく、カガミ自身を寄る辺にしている。
妹であるヤナギとて、小さき犠牲の一つだろう。胸の底では深く悲しむだろうが、カガミは迷わない。きっと、ヤサカニが引けばすぐにでもヤナギを殺す。
ヤナギが何の力も持っていない少女だったら、事態は変化したに違いない。いたいけな身よりなき少女であれば、カガミは黄昏国へ連れ帰り、大切に慈しみ妹姫をかわいがったろう。ヤサカニはカガミが高天原国に潜伏していた頃、彼が時折見せるヤナギに対する言動や行動がとても優しかったことを覚えている。珍しいこともあるものだと傍観していたが、まさか血を分けた兄妹だとは思いもしなかった。
カガミは、ヤナギのことをとても大切に思っているのは確かだ。しかし、それを差し引いても高天原国が懐刀である姫巫に沙汰を下さないのは今後、黄昏国を復興するに当たって障害になるのは必至である。姫巫がいれば、この戦は終息しない。
のちに、牙を剥くかもしれない火種を残す危険を孕む者の生存を、カガミが許すわけがなかった。
高い鈴の音に似た音がぶつかり合う。ヤサカニは髪を振り乱しながら、目と鼻の先にいるカガミを睨んだ。
「ヤナギ様は、殺させませんっ」
「――お前、まだ言うか!」
怒号を上げ、怒りに満ち満ちた顔でカガミは猛攻を仕かけてくる。どこにそれほどまでの力を温存していたのか疑問に思うくらい、彼は鮮やかにヤサカニを壁へ追いやる。溢れんばかりにふくらんだ気迫が、ヤサカニを劣勢へと押す。
そのまま壁を突き破らんばかりに渾身の力を込めた一撃を何とか受け止めた。手が痺れる。ヤサカニの右手から中剣が零れ落ちる。カガミは激しく打ち込んでくる。何とかもう一方の中剣で白刃を受け止めたが、もともと強度のある剣ではない。どちらかと言えば、ヤサカニの持つ技巧を生かせる造りをした剣なのだ。カガミの相次ぐ強打にずっと耐えきれるわけがない。
鉄で鍛えた剣であれば問題なかったのだが、鉄剣は高価過ぎてヤサカニにはとても手が届く代物ではなかった。
ヤサカニは右手を刀身に添えて、カガミの攻撃をじっと耐える。
きっと、この銅剣に亀裂が入った時が唯一の形勢逆転の機会だ。カガミはその時、己の勝利を確信して少しだけ隙を作るはず。もし、機会を逃す――もしくは機会自体訪れなかった場合、確実にヤサカニは死ぬ。
ヤサカニは、どうにかしてヤナギだけでも逃がせないかと様々な筋書きを脳内で構築する。
(力が欲しい。ヤナギ様を守れるだけの力が)
ヤサカニは切に思った。
自分は無力だ。
手負いの自分ではヤナギを守り通せない。かと言って、自分以外がカガミに相対せるかと言われれば、答えは否だ。
ヤサカニは歯軋りする。ぽっかり穴の空いた左眼孔が熱い。思わず掻き毟りたくなる。
(どんな代償も厭わない。楊様をお守りすることができるならば)
願いにも似た強い想いがヤサカニの全身に脈打つ。
それと同時に、閃光がヤサカニを包んだ。あまりの眩しさにヤサカニもカガミも目を瞑る。
『――良いだろう青草よ。ひとときのみ、我はそちに少しだけ力を貸そうぞ』
重々しく低い声がヤサカニの右耳に囁いた。それは偉大な父の如く、何事にも動じない安心感を覚える声だった。
左目に異物感が走る。鋭く走った痛みにヤサカニは片膝をつく。ヤサカニは恐る恐る左目に手をやって、当惑した。いつもなら平らな感触であるはずの左眼孔に、目玉がある。目を開けば、いつもに比べて格段に視野が広い。
閃光が収まり、目を開けたカガミもヤサカニの様子を見て驚愕の表情を象る。飛び上がらんばかりに驚いただろうに、彼はすぐに自分を取り戻して剣を構え直し、ヤサカニへ剣を向けた。不思議なことに、ヤサカニは彼の攻撃を難なく交わすことができる。
視えるのだ。幼い頃に見ていたのと同じ光景が。小さき神々の姿が視える。そして、瞬きする度、映り込むのは一瞬先に起こる未来の光景。
カガミの取ろうとしている行動全てが、ヤサカニには手に取るように読めた。
(勝機が見えた……っ)
唇を白くなるまで強く噛みしめるカガミを前にして、ヤサカニの両目に希望の光が宿った。