三.
「こたびの戦には連れて行きましょうね。そなたがたくさんのことを学び、立派な巫になれるように」
あくる日、姫巫に追従することとなったヤナギは、年配の巫たちとともに高天原国の都より少し離れた邑を訪れていた。その集落へ姫巫が出向いた理由は、いたって単純だった。黄昏国の者を匿っているから。
姫巫は苛烈に邑を攻め立てた。事前に、邑へは視察に行くとだけ伝えていたらしい。丸腰の相手であるにも関わらず、高天原国が懐刀は容赦なかった。
「ああ……」
ヤナギは目の前で巻き起こる悲劇に、ただただ呆然と佇んでいた。他の巫たちのように術を練ることもできない。炎に炙られて行く邑には、悲鳴と泣き声、怒号が響く。
姫巫は口にした事象を全て具現化させる。彼女は逃げ惑う人々を尻目に、ヤナギへ微笑んだ。
「ごらん、これがわたくしの力。人知を超えし、神力」
ヤナギは燃え盛る炎と逃げ惑う人々をじっと見つめていた。
(姫巫様は、恐ろしくないのだろうか)
散り散りになっていく人の命は、決して甦ることのないものだ。それを彼女はいとも容易く散らして行く。決して、安らかな眠りは訪れないだろう。人の怨念は強いものだ。ヤナギは赤い唇で真象の力を揮う姫巫を案じた。
『嗚呼――――わたくしの後裔』
その時、ヤナギは生温い風を受けて目を瞑った。まるで抱き込むように、風はヤナギを包む。
ふっと、何かがヤナギの中に入り込んでくる。
「だ、誰……。何、これ……」
『まさか、こんなにも無防備でいるとは――愚かしい。しかし、それすら……愛しい』
混乱する。
姿はないのに、声がする。脳内に直接響く霞みがかったその声は、哄笑した。
「海若っ。そなた、何を――っ」
慌てたように姫巫がヤナギの手首を掴んで、呪いの詞を口にする。体中が焼け付く。ヤナギは悲鳴を上げた。
姫巫の頬を、尖った風が切る。彼女はそれに怯むことなく詞を続ける。ヤナギの中に入り込んだものは、その詞に動じず、ヤナギの意識を奪おうと牙を剥く。
「ヤナギ様?」
サコには一体何が起こっているのか、わからないようだった。幼い少女は、ヤナギと姫巫の顔を交互に見やり、おろおろしている。
『キョウカ――――。わたくしに支配権を渡せ』
キョウカ。その名を聞いた途端、ヤナギの抵抗する力が弱まった。ヤナギの本当の名。
何故、声の主は自分の真名を知っているのだろう。疑問がヤナギの心全てを満たす。
一瞬の隙を、海若は見逃さなかった。
かの神は、ヤナギの体の支配権を取った。
姫巫の手が強い力によって弾かれた。姫巫は月鏡剣を構え、ヤナギの首筋に据える。
ヤナギは口を弓形に歪めた。幼い子供が見せる表情ではない、嘲りの微笑。
『姫巫よ、わらわも少し、遊びたいのじゃ』
ヤナギの口より洩れ出た声は、彼女のものとは違った。
姫巫の瞳に怒りが浮かぶ。
「馬鹿な……っ。まだ、その幼子はそなたの器として選ばれておらぬっ」
『この者は申し子。そちも知っているだろう。生まれながらにして、わらわの器として選ばれた娘じゃ。兄の方は逃がしたが……この娘だけは決して逃がしはせぬぞ』
言い終え、ヤナギの体を借りた海若は人差し指で民家を差す。すると、民家が跡形もなく消失した。
姫巫もサコも、絶句した。
後方に控えている巫たちは、それを姫巫がやったと勘違いしているらしく、拍手が巻き起こる。
ヤナギは笑みを深くした。
『おお、姫巫や。そちに力を貸している時よりも強靭な力を操れる。やはり、申し子とは稀有な存在じゃ。……む』
ぴくりとヤナギは耳をそば立てる。そして、ゆったりとした動作で邑の中を歩き出した。慌てた様子で姫巫とサコもその後に続いた。
火柱の向こう側に、一人の少年が立っていた。整った面差しをした少年は、自分の邑が燃えている様を脱力した顔で眺めている。ヤナギは、少年に向かって手を伸ばす。
少年の耳が切り落とされる。彼は、その場に膝をつき、耳を押さえる。ヤナギは、にんまりと嗤った。
ヤナギの唇が動く。熱い風が周囲に吹き荒れる。ごろり、と少年の目玉が彼の掌に転げ落ちた。
少年は、思考が止まったような眼差しで、ヤナギを見た。猛る炎が、ヤナギと少年を遮った。
「海若! そなた……遊びが過ぎるぞ!」
あまりに凄惨過ぎるその行為に、姫巫は止めに入る。
「わたくしに戻れ」と姫巫は言う。
海若の体が傾ぐ。神は胸を押さえて荒い呼吸を繰り返し、姫巫を睨んだ。
『どうやら、まだこの娘はわらわを受け入れる力が備わっていないらしい……。良い、時を待って……再び、わらわは申し子を貰い受けようぞ』
ヤナギの体力が限界に達した。熱い空気がヤナギから抜け出し、姫巫の中へ宿る。
姫巫は、自らの手を握りしめ、緩める。
どさっという音とともに、サコは地面に腰を打ちつけた。魚さながら、口を開いたり閉じたりしている。腰を抜かしたのだ。
「…………サコ、このことに関して全てを秘めることができるか」
「…………はい」
唾を呑み込んで、サコは頷いた。
姫巫は海若の力によって、より悲惨さを増した邑を見回し、苦笑を洩らす。
「場所を移そうか」
そう言って、姫巫は腰を抜かしたサコの手を取り、颯爽とその場を立ち去った。
天幕内には、姫巫とサコの二人しかいない。姫巫が人払いをかけたためだ。意識を喪ったままのヤナギは、別の天幕で眠っている。彼女は、夜毎悲鳴を上げる。
「サコ、そなたはたしか、ヤナギの付き童をしていたね」
「ええ」
「たいそう、ヤナギと仲が良いとか」
「は、はい。ヤナギ様はとても優しい方です。だから、私は、あの方にずっとお仕えしたいと思っております」
頬を紅潮させ、サコは言った。その顔に、言葉に、嘘は一切なかった。
「ならば、頼みがある」と姫巫の瞳が真剣さを帯びる。
「…………人柱となってくれないか」
突然の頼みに、サコの動きが止まる。
姫巫は視線を落とした。
「先程、海若――ヤナギに乗り移ったものが言っていたのを覚えているか。時を待つ、と。かの神は、ヤナギの肉体が強くなり、自分を受け入れることのできる時節が来たら、必ず、ヤナギの体を器にし、自分の意のままに操る気だ」
「そんなこと、できるわけが――」
できるわけがない、と言い切れなかった。サコは見てしまった。ヤナギの中に滑り込んだ何かは、ヤナギの意識を退けて民家を塵と化し、少年の耳と目を抉って見せた。背筋に寒気が走る。
「海若の思惑どおりにしてしまうと、全ての国は滅びてしまうだろう。それはとても不味いことだ。……何、人柱となると言っても、そなたが死ぬわけではない。ただ、いつもヤナギのことを守る意思を持っていればいいだけ」
「意思?」
ああ、と姫巫は天幕の天井を見やる。
「あいにく、わたくしは常にヤナギのことを念頭に置いて行動はできないのでね。そなたに頼みたい」
サコは戸惑い気味に視線を彷徨わせ、小さく頷く。姫巫は目を細めた。
「ありがとう。……しかし、もしもそなたが、わたくしとの約束を破り、意思を弱めたりしてヤナギが海若に乗っ取られるようなことがあれば――どうなるか、わかるね」
怜悧な姫巫の眼差しを受けてサコは肩を震わせたが、気丈にも「はい」と歯切れよく返事をした。
姫巫は膝を打って腰を上げた。
「それでは、わたくしはヤナギの記憶を塗り替えてくる。……決して、今日のことはヤナギにも言わぬように。この戦場に来た記憶から抹消するから」
「かしこまりました」
サコは平伏した。
ヤナギは声をなくし、口許を両手で覆った。
「そんな……サコが……」
拯溟の花は揺らめき、何もない空間に舞う。一人だったヤナギの前に影ができる。それは人型となり、幼い少女の姿となった。彼女は何も言わずにヤナギを抱きしめた。
ヤナギは少女をきつく抱きしめた。涙が溢れる。
「サコ……そなたは、ずっと、私を……」
サコはずっと――そう、死んでもなおヤナギを守っていたのだ。彼女にヤナギを守る意思がある限り、ヤナギは海若に支配されない。
そして、ヤサカニの耳目を奪ったのはヤナギだった。全ての真実は刃となってヤナギの心に深く突き刺さる。
場の空気が歪む。サコは、ヤナギから身を離した。ヤナギとサコの前に、先代姫巫が姿を見せる。
『わたくしは後悔なぞしておらぬ』
姫巫は、死の目前に見せた老婆の姿でなく、若々しい娘の姿をしていた。彼女は絹のように滑らかな黒髪を肩に零し、強い意志の射した双眸をヤナギへ向ける。
『そなたを姫巫に据えたことにも、危険だとわかっていながら海若という神に力を貸していたことも。そうしなければ、いけなかった。何故だか、そなたは知っているはず』
「……高天原国が、本来なら既に滅びた国だから」
ヤナギの言に、姫巫は目を伏せた。ヤナギは、拳を握りしめ、なおも言い募る。
「神に縋らなければ、この国は均衡を崩し、滅びてしまうからよっ。 本当は、蜘蛛の廻廊だって亜空間にある高天原国と、地上の国々を繋ぐ一種の黄泉路……。姫巫様、もう止めましょう。こんな愚かな――縋るような生き方は……」
ヤナギは俯き、歯を食い縛った。目の奥が熱く、今にも涙が零れ落ちそうだ。憎悪と怨念と、妄執。負の感情がヤナギを取り巻く。
「高天原国は、死国。ふふっ、そうかもしれない。だが、守れ。ヤナギ、そなたにはわかるはずだ。どれだけわたくしたち、歴代の姫巫がこの国を愛し――」
「愛してなんかいない」
姫巫の言葉をヤナギは遮った。
「先代や、先々代が愛していたのは、自分たちを守ってくれる、力を与えて他国を圧倒してくれる神――海若。この高天原国を愛していたのではない!」
「ヤナギ……そなた……」
怒鳴るヤナギを、姫巫もサコも呆然と見ていた。
「嘘吐き」
ヤナギは姫巫を潤んだ瞳で睨みつけた。
「皆、嘘吐きだ」
瞬間、サコが怯んだ。ヤナギの憎悪や悲哀に圧されたのだろう。守りが緩んだ。
姫巫はサコに手を伸ばす。
「いけない! サコ、手を緩めるな!」
姫巫の叫びは一足遅かった。
場の空気が歪み、ぴしりと音がすると同時に熱い風が吹き込み、暗い海が流れ込んでくる。数多の白き手がヤナギを深海へ誘う。ヤナギの内側へ、海若が滑り込んだ。